第一章:星を宿す野良猫と森の焚き火
星を宿す野良猫と森の焚き火
夜露が葉先で粒となって震え、滴り落ちる音が静寂を縫うように響く深夜の森。古木の影は月明かりに長く伸び、まるで地面に這う黒い蛇のように蠢いていた。
大地からは幾千年の記憶を宿した苔と湿土の香りが立ちのぼり、それに混じって腐葉土の甘酸っぱい匂いが鼻腔の奥深くまで染み込んでくる。
葉ずれの音は森の囁きのようで、時折遠くで聞こえる梟の鳴き声は、どこか警告めいた響きを帯びていた。
草の匂いが湿り気を帯び、足裏に冷たい夜露が染み込んでくる。
風が湿った土の息吹を運んでくる。焚き火の煙が、ほのかに甘い木の香りとともに喉の奥をくすぐり、舌先にかすかな苦みを残していく。
『ここは……知らない匂いだ』
鼻をくんくんと動かしながら、猫は朽ちた切り株の陰から、濡れた草の中を足音も立てずに抜け出した。足裏に感じる湿った草葉の滑る感触、時折踏みしめる落ち葉のパリッという小さな音。
頭上では、月光を透過した葉が複雑な影絵を地面に投げかけ、風が吹くたびにその模様は生き物のように踊り狂う。静まり返った森の奥から、小さな火の明かりが夜闇を押し返すように揺れている。
その揺らめく光は、まるで迷子になった火の精霊が安らぎを求めて踊っているかのようだった。
その焚き火の周りには、三つの影がいた。
まだ若く、どこか頼りないが、それでも精一杯に火を囲み、冒険者としての長い夜を越えようとしている――そんな人間たち。
彼らの装備は軽装で、鞘に収まった剣でさえ不安げに揺れ、着ている鎧は擦り切れた革のものばかり。火の光に照らされた彼らの表情には、冒険への憧れと不安が織り交ざった複雑な光が宿っていた。
焚き火の薪がパチパチと弾ける音が、彼らの緊張した沈黙を埋めていく。
『ふむ、見慣れぬ生き物たちだ。少々面白そうではないか』
猫はゆっくりと近づいた。
青みがかった月明かりが猫の毛並みを朧げな銀色に染め上げる。草がカサリと鳴るたびに、火のそばの三人がピクリと身を強張らせた。
風が止んだ瞬間の静寂に、猫の肉球が湿った地面を踏む、ほとんど聞こえないような微かな音だけが針のように突き刺さる。
「……な、なんか来たぞ!」
薄茶色の短髪の少年が、腰に下げた短剣に手をかけた。その指先は微かに震え、喉が緊張でごくりと鳴る音まで聞こえてくる。彼の息は白く細く漏れ、冷たい夜気に溶けていく。
「魔獣か!? ルーナ、杖構えて!」
がっしりとした体格の赤毛の青年が立ち上がり、腰の剣を半分だけ抜いた。その動きは勢いがあるものの、剣を引っ掛けて鞘ごと転がしそうになる。額に浮かんだ汗が火の光に照らされて光り、彼の荒い息遣いが夜気を震わせた。
「ちょ、ちょっと待って、見て……あれ、猫じゃない?」
長い白銀の髪を三つ編みにした少女が、背負っていた杖を手に取りながら言った。杖の先端の宝石が月光を受けて深い青色に輝き、彼女の手のひらに冷たい感触を伝える。しかし緊張から思わず舌を噛んでしまい、頬を赤く染めながら猫に目を凝らした。
焚き火の向こうで、青みがかったグレーの毛並みに、白い靴下のような足。そして額には、小さく白く輝く星のような模様――まるで夜空の一部が宿ったかのように。猫の瞳は、古代の琥珀を思わせる深い金色。その視線は森の闇をも見透かすように静かに光り、焚き火の揺らめきを瞳の奥に映している。
『なんだなんだ、騒がしいな。挨拶ひとつまともにできぬとは』
猫はしなやかに焚き火のそばまで歩くと、まるで長旅から帰り着いた領主のように堂々と腰を下ろし、自分の前足をぺろりと舐め始めた。その所作ひとつひとつに、生まれながらの気品が滲み出ている。舌の温かい感触が毛並みを整え、猫は内心で人間たちの慌てぶりに小さな愉悦を感じていた。
「……なんか、堂々としてない?」
短髪の少年――レンが剣から手を離し、首を傾げた。彼の声には警戒心が薄れ、代わりに純粋な好奇心が満ちていた。
「うん。なんだろう……気品というか、威厳? まるで貴族の飼い猫みたいだ」
赤毛の青年――ガイが座り直し、火に薪を一本くべた。薪から立ち上る煙の匂いが濃くなり、飛び散る火の粉が一瞬、猫の瞳を鮮やかに照らし出す。その金色の瞳に映る焚き火は、何か深い叡智を秘めているように輝いていた。
「ちょっと王様みたいな顔してない? なんだかずっと昔から生きてきた感じがする……」
白銀の髪の少女――ルーナがおそるおそる手を伸ばし、猫に近づこうとしたが、その威厳に圧倒されて途中で止まってしまった。彼女の指先は、まるで聖なるものに触れるかのように、微かに震えていた。
『当然のことだ。おまえたちのような青二才とは格が違うのだからな』
猫は尾をゆっくりと振り、背筋を伸ばした。焚き火の温もりが毛並みに反射して、その姿をさらに神々しく見せている。人間たちの不安と希望が入り混じった表情を、猫は冷静に観察していた。この若い冒険者たちの心の内を読み取ることなど、造作もないことだった。
三人は顔を見合わせて、緊張が解けたように笑った。
夜の恐怖はほどけ、焚き火の夜は一転して、穏やかな温もりに包まれる。夜風が運ぶ森の囁きも、今はもう脅威ではなく、静かな子守唄のように聞こえ始めていた。木々の間から覗く星々も、より優しい光で森を見守っているようだった。
「ねぇ、この猫、名前つけようよ。こんな特別な子、ただの野良猫じゃないと思うな」
ルーナが言った。彼女は火に温められた小さなスープ鍋をかき混ぜながら、猫を見つめていた。鍋から立ち上る湯気が顔に当たって、ほんのり温かい。その目には、魔法使いの卵らしい直感が光っていた。
「ええ? 勝手に? いや、でも……たしかに気になるかも。普通の猫とは全然違う気がする」
レンが猫に干し肉の切れ端を差し出した。肉の塩辛い匂いが夜気に混じる。その手は、もう震えていなかった。
「うーん、額に星がついてるし、"ステラ"とかどう? 星の導き手みたいな感じで」
ガイが言うと、他の二人も顔を見合わせて頷いた。彼の声には、冒険者らしい名付けへの誇らしさが混じっていた。
『……勝手に名をつけるとは、なんとも図々しい。だが、まあよい』
猫は一瞬だけ呆れたような表情を見せたが、すぐにぷいと顔を背けて、火のあたたかさを独り占めするように丸くなった。
しかし、差し出された干し肉の匂いに食欲を刺激され、こっそりと爪で引き寄せる。肉の旨味が口の中に広がり、久しぶりの人間の食べ物の味に、猫は内心で満足していた。この人間たちへの興味が、少しずつ芽生え始めている。
火を囲む彼らの会話は、猫の耳に流れ込んでくる。
「明日こそ、城下町のギルドに登録できるといいね。三度目なんだから」
レンが肩をすくめながら言った。彼の声には、失敗への不安と希望が入り混じっていた。
「ああ、三度目の正直だ。昨日の試験は運が悪かっただけだろ? 今度こそ、きっとうまくいく」
ガイは胸を張って言ったが、その声の奥には微かな不安が潜んでいた。
「ルーナの火の玉が本棚に当たっちゃったからね……あれがなければ……」
ルーナは赤くなって俯いた。彼女の白い指が杖を強く握りしめる。
「うっ、そ、それは……魔力の調整が難しかっただけで……」
「でも、レンの地図の読み間違えもあったじゃん。あそこまで道を外れるなんて才能だよ」
ルーナが意地悪そうな笑みを浮かべ返した。
「地図が間違ってたんだ!ていうか、ガイの剣術の見本も散々だったし……あの木の人形、救いようがないくらい切り刻んじゃったもんね」
短髪の少年レンと赤毛の青年ガイもまた、互いを責め合いながら笑い合う。彼らの声に混じって、焚き火の薪が崩れる音、風に揺れる木々のざわめき、遠くで鳴く夜鳥の声が夜の交響曲を奏でていた。その音色は、どこか懐かしく、猫の耳にも心地よく響いた。
『なんとも危なっかしい連中だが……悪くはない』
猫の瞳に、わずかな温かさが宿った。この若い冒険者たちの純粋さと、お互いを思いやる気持ちが、猫の古い心に久しく忘れていた感情を呼び起こしていた。明日、彼らと城下町に向かうという考えが、猫の心の中でゆっくりと形になっていく。もしかすると、この出会いは偶然ではないのかもしれない。
星空の下、焚き火を囲んだ一夜の出会いが、誰も想像もしなかった冒険の始まりだとは、まだ誰も知らない。猫の額の星が、夜空の星々に呼応するように、一瞬だけ神秘的に輝いた気がした。その光は、運命の歯車が静かに回り始めたことを告げているようだった。
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