歯医者に行く父

モの人

1

町は穏やかな季節の陽気に包まれていた。花の香りが風に乗り、人々は静かな日常を楽しんでいた。あの日、父は「歯医者に行く」と言い残して家を出た。私は軽く手を振り、玄関の扉が静かに閉まるのを見送った。それが父を見た最後の時間になった。


あの日の午後、アナウンスが響いた。「熊が出没しました。外出は控え、安全な場所へ避難してください。」町はざわついたが、夕方には「熊は退けられ、危険は去りました」と告げられて、住民は胸を撫で下ろした。


だが、父は戻らなかった。家族はあらゆる手段で捜索したが、手がかりは何も得られなかった。わからないまま時が過ぎ、私は心に空洞を抱えたまま成長した。


15歳になった今でも、父の失踪は私の中で色褪せていない。「歯医者に行く」と出ていった後ろ姿だけが、鮮やかに記憶に残っていた。なぜ戻らなかったのか。何があったのか。疑問と焦りは歳月とともに膨らんでいった。


そしてある日、再びアナウンスが流れた。「熊が出没しました。外出を控えてください。」


心臓が跳ねた。あの日と同じ警告。偶然とは思えなかった。私は真相を確かめねばならないと居ても立っても居られなくなり、気づけば足が動いていた。


避難する人々と逆方向に、町の広場へ向かって走った。恐怖はあったが、それ以上に無知でいることへの焦りが私を突き動かしていた。


そして私は、巨大な影と鉢合わせた。全身を貫く圧。これが……熊?その存在感は私の想像を遥かに超えていた。鋭い眼光と屈強な体躯――戦いに磨かれた獣だった。


熊が鋭い爪を振り上げた刹那、風を裂く音がした。攻撃は逸れ、私の前に男が立ちはだかった。無骨な侍の姿。その背に、私は見覚えがあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る