コミュニケーション天国

キリ

オバケ

「ついてこないで」

大きな声が出て、廊下にぐわりと反響する。刃物で殺される前の怪獣の鳴き声みたい。スミレは足を止めて、泣きそうな顔で私に言った。

「私、オバケじゃないです。萌香先輩の……後輩です」

「違うでしょ」

「違いません」

「オバケだよ」

「苗字もあります」

「だって……こんな人間いたら」

スミレの顔が、変な歪み方をした。私は、だめだ、と頭を振った。理由を言い直そう。スミレがもし人間だとしたら、人にかけるにはあまりにも酷かったから。でもスミレの苗字なんて聞きたくない。卒業の日に、なんで聞かなきゃいけないんだ。息を吸う。春なのに肺が冷たく震えた。

「だって、部員じゃないでしょ」

「部員じゃないです。でも……オバケじゃないです」

「……ついてこないで。気味が悪いから」

スミレの声も私の声も色相環の上の同じ苦しみの色を宿していた。なぜかわからなかった。でも私は、もう前を向いて、いつもの自習室に行こうとした。

「もえか、せんぱい」

スミレは私の背後で泣いている。でも私は置いていくのだ。あれが人間なわけがない。振り向いたらきっと、煙か何かになって消えている。最後に触れたスミレの手だって、人間の温度ではなかった。体の内側から冷やされているような冷え方。あれの正体を私はなんとなく知っている。成仏ができなかったのに可視化されているだけの魂なのだ。

そのとき、ピー、と機械のビープ音が聞こえた。

怖くなって咄嗟に振り向く。と、そこには、激しい砂埃が立っていた。

……砂漠だった。私の、砂漠だ。私の、庭。砂埃。日差し。でも冷たくて寒くて痛い。

ビープ音は続く。モールス信号みたいだ。でも長音の長さが一定ではなくて。違う。私の知ってるやつじゃない。ビープ音が小さくなって、砂埃が、弱まるのを感じた。

「……スミレ?」

ピー。砂の、小さな嵐のヴェールの向こうに、スミレと同じ大きさの塊がいる。ひゅー、ごー、と、砂嵐がまだ鳴っていた。

「スミレ」

ピ・ピー。私はたまらず、その塊に駆け寄った。細かく重い砂が絡んで、私の足を止めようとする。でも私は止まらなかった。

スミレ。スミレなの?その核に、今まで私は近づけなかった。許されていない気がしていたから。

「スミレ」

……それは、確かにスミレだった。でも、私が知っているスミレではなかった。胴体は重そうな、鉄塊を繋ぎ合わせられたものに置きかわっていた。この世にある全ての色の配線たちがスミレの体(だったもの)を包んでいた。顔の左半分は傷だらけで目の上が膿んでいたけど辛うじて彼女の顔と認識できた。顔の右半分は黒いスクリーンに覆われていた。バチバチ、と音がして、煙が出る。

「ねえ、なんなの、スミレ」

ピンクの配線の継ぎ目からは火花が散っていた。たぶんそれがスミレの血だった。色は残らないし、留まらない。ただカタカタと私の中に転写されていくだけの火花。

「なんなのよ!」

この世はデジタル砂漠なのだ。電波と砂糖のオアシスに出会う日もある。この子の苗字なんて分からなくたって……

私は、震える左手を右手で掴んで落ち着かせながら、スミレのまだ死んでいないだけの頬に手を伸ばした。

……冷たさに息が詰まるのと同時に、私が触れた部分から、ぱたぱたと、滑らかなスクリーンのタイルの被覆で埋まっていく。それは美しく、CG映画の一幕のような残酷さも備えた悲しい画だった。

「萌香先輩」

私は黙っていた。黙っているのが正解だと思ったから。

ついにスミレの顔は、ほとんど黒いスクリーンに覆われてしまった。目だったところのほのかな凹みと、鼻だったところの丸みが、すべすべの黒に覆われてしまって、ひとつの無機質な展示物みたい。

ただ毒を持っているタコみたいな青紫の唇だけが、私に向けて言葉を紡いだ。

「萌香先輩」

それしか言わないのか、と苛立ちを覚えた。そうか、スミレは結局幽霊ではなかった、幽霊と言うよりかはやはりオバケという言葉の型の中に収まる、プログラムド・オバケだった。決まったことしか言えないのだ。私は、自分の中で燃える何かを押さえ込もうとした。苦しくて、それを心の中で叩き潰して抑圧して、その印に、売買の証明にレシートを貰うみたいに、その唇に自分のそれを重ねた。


唇で感じる唇が、冷たくあたしの真ん中にどろりと傷を残して、背筋に嫌な震えが走った。それはある意味では快感かもしれなかった。


私が唇を離した瞬間に、スミレの唇はUVレジンみたいにツルツルに硬化してしまった。中国語?の音声が、スミレだった鉄塊の後ろに付いていたらしいスピーカーから流れて、30秒くらいすると、胴体の真ん中の部品が発火して、配線は焼きちぎれ、スミレの体はばらばらに崩れていった。

「……スミレ」

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コミュニケーション天国 キリ @tyoutyouhujin

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