《花喰らい》
橘紫綺
序章 黒い彼岸花
そこに、一輪の花が咲いていた。
何故そのような場所に花が咲いているのだろうかと、男は背筋を伸ばして膝を折り、ただただ静かに見下ろしていた。
抹香が漂うのは屋外だった。番屋の奥にある遺体安置所――本来はただの中庭なのだが、男にはそうとしか思えない場所だった。
剥き出しになった地面。その上に敷かれた筵。そのすぐ傍に膝を折り、男は涙の一つも零さずに、酷く静かな顔で見下ろしていた。
男の視線の先に横たわるのは、歳の離れた妹。
家事も繕い物もろくにできぬ不器用な兄を心配し、良い人ができるまでは見捨てられぬと、すっかり行き遅れてしまった妹。
明るく快活で気立てが良く、決して美人と言うわけではないが愛嬌のある笑顔が印象的だと周囲の者たちから褒められていた。
好いた男はいないのかと問えば、特にいないと苦笑いしていた顔を思い出す。
すっかり行き遅れではないかと呆れれば、兄様が心配でおちおち嫁いでいられないと頬を膨らませ。心配しなくてもいいと不満をぶつければ、長屋の女たちで二日程湯治に行ったときのことを持ち出され、ぐうの音も出なくさせられたことを思い出す。
兄様は顔は悪くないんだからもっと笑えと注文を付けられ、女心を理解しろと無理難題を吹っかけられ、自分のことよりも常に兄のために生きていた妹の姿を思い出す。
しっかりした妹だった。
自分より、余程しっかりした娘だった。
何が起きても大丈夫だと、心配すらしていなかった。
故に何も気が付かなかった。
いや、見ていなかった。
自分のせいで行き遅れてしまった妹のために少しでも金を貯めて、いざと言うときには盛大に送り出してやろうと、そればかりが頭を占め、用心棒家業に勤しんでいた。
結果が、これだった。
「なんでこんなことに……」
「お前がいなくなったら俺はどうすりゃいいんだよ!」
「こんなことになるなら、もっと早く好きだって言っておけば……」
男の傍には――妹の周りには、同じように横たわる八人の女たちがいた。取り縋り、泣き喚く人々がいた。後悔を打ち明ける人々がいた。怒りに呻く人々がいた。
番屋の中庭に、所狭しとずらりと並んでいたのは、同じ長屋に暮らしていた女たち。
どれもこれも見知った顔だった。今朝仕事に行くときにも普通に言葉を交わしていた。
危なくなったら逃げるんだよと言っていたのは、隣の細君だった。
用心棒ついでに、守った娘さんとの縁談まとめて来なよと、からかって来たのは向かいの細君。
お気を付けてと案じてくれたのは斜向かいの娘。
帰りにお醤油とお味噌お願いね。と笑って見送ってくれたのは妹。
いつものように夫や父親を見送っていた声を覚えていた。
いつものように朝っぱらから揉めていた
いつもと同じやり取りだった。故に、誰もが当然のように思っていた。
仕事が終わって帰って来れば、当たり前のように出迎えられるものだと。
それが、悪夢の如く打ち砕かれた。
誰もが半狂乱だった。起こったことを否定しようとしていた。
そんな中で、男だけがどこか他人事のように喧騒を聞き流し、ただジッと場違いな場所に咲いている《花》を見ていた。
それが『彼岸花』と呼ばれているものだと言うことは、物の名に疎い男でも知っていた。
ただ、男の中では彼岸花と言えば赤か、稀に白いものがあると言う認識だったが、男が見ている『それ』はそのどちらの色でもなかった。
黒だった。墨のように黒かった。花弁も茎も漆黒。完膚なきまでの黒だった。
それが一本、当然のように妹の体から生えていた。
故にこれは何かの冗談。ひいては縁起の悪い夢でも見ているのだろうと、男に思わせていた。
そうでなければおかしかった。
これだけはっきりと見えていると言うのに、家族を失い取り乱している人々の誰一人として、妹の体から――いや、女たちの胸から生えている一本の彼岸花の異常さに触れる者がいなかったのだから。
見えないわけがなかった。
見逃せるようなものでもなかった。
それでも、誰も《花》の存在に触れなかった。視線を向ける者もいなかった。
見て見ぬ振りをしているわけではない。
意識が欠片も花に向いてはいなかった。
何なのだろうかと、男は思う。
何が起きているのだろうかと、男は考える。
考えるまでもなく、一目瞭然なことは分かってはいるが、気持ちが全く付いて来なかった。
ただ寝ているだけのようにも見える妹は、二度と眼を覚ますことはない。
故に誰もが悲しみ、涙を流し言葉を掛ける。
だが、その誰にも男の見ている《花》が見えていなかった。
この《花》は一体何なのだろう……。
長屋の人々の声を遠くに聞きながら、男は考え続けていた。
時に口うるさく、時に頼もしかった妹が番屋の中庭から近くの寺へ運び出された後も、男は《花》を眺めていた。
そう。《花》は妹の体から生えていたとばかり思っていたが、普通に筵を突き破って地面から生えていた。
ここに妹は寝ていたのだと証明するかのように、ただただ静かに生えていた。
男は《花》の真正面で微動だにせずに眺め続けた。
夜が更け、灯りをともさぬ番屋の中庭が闇に閉ざされても、男はその場を離れなかった。
本来出て行けと言われてもおかしくない状況で男が追い出されなかったのは、一重に家族を失った悲しみが深過ぎたのだと配慮してもらったに過ぎない――と後に男は思ったが、このときの男は一切を気にしていなかった。
泣かぬ男の代わりとでも言わんばかりにポツリポツリと雨粒が落ちて来たとしても、程なく雨足が激しくなったとしても、男は身じろぎ一つせずに、闇夜に紛れぬ《花》を見ていた。
「お前は、何なのだ」
不意に男は問い掛けていた。
《花》に問い掛けたところで答えなど返って来る訳がない。
だが、男は一向に構わなかった。
「てっきり俺は、あいつから生えているとばかり思っていたが、一体いつからここに生えていたのだ?」
恐ろしく淡々とした声音で、恐ろしく静かな眼差しで、
「お前は、何なのだ」
男は問う。
「黒い彼岸花など聞いたことも見たこともない。そして何より、何故俺だけに見えるのだ。何か伝えたいことでもあるのか」
問えば、微かに《花》が揺れたような気がした。
雨が降り注いでも、花弁の一つも震わせることのなかった《花》が。
「そうか」と男は受け止めた。
「さぞや恨み言があるのだろう」
男が呟きながら静かに手を伸ばした――ときだった。
男の手が《花》に触れた瞬間、男は見た。
見慣れた長屋の井戸端。妹がいた。見知った娘がいた。細君たちが居た。
声は聞こえない。音も聞こえない。
だが、その笑った顔を見れば、苦笑いを浮かべた顔を見れば、何かしらの話題に花を咲かせていることは容易に知れた。
そのとき、妹が長屋の入り口を見た。釣られるように他の女たちも。
その顔が、ほぼ同時に引き攣って――殺戮が始まった。
黒い布で顔を隠した着流しの男たちが突如襲来し、その場にいた女たちを一刀の下に切り伏せて行ったのだ。
誰かを探していると言うわけではなかった。初めからそこにいる女たちを殺す目的で男たちがやって来たのだと言うことを男は察した。
そうか――と男は《花》を握り締めて呟いた。
既に映像は切れていた。
そうか――と、男はもう一度、呟いた。
その顔には怒りも悲しみも浮いていなかった。
ただただ静かに目を閉じて、男はパキリと《花》を手折った。
人の身を貫き生える黒い彼岸花を。
誰の目にも映らぬ彼岸の花を。
身を起こし、胸元に運ぶ。
手折った感触も、手に持つ感触もハッキリとしていた。
「此度のことは、俺のせいなのだな」
果たして男は、《花》の見せた映像で何を知ったものか。
恐ろしく淡々とした声音で呟くと、
「では、責務を果たそう」
そっと《花》を懐にしまい込み、男はゆらりと立ち上がると、まるで闇に溶け込むかのように姿を消した。
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