純愛。

姫路 りしゅう

純愛

 ずっと本当の愛を探していた。

 たぶん、生物として重要な何かが欠陥しているのだろう。

 私は幼いころからずっと、人を愛して、人から愛されるという感覚が理解できなかった。


 どれだけ言葉にしても。

 どれだけデートを重ねても。

 どれだけ情熱的なセックスをしても。


「でも、その瞬間は急に来た」


 ゆっくりと服を脱いで、下着姿になる。

 相対する男――私の恋人になるかもしれない男も同じように服を脱いだ。

 一人暮らしには似つかわしくない2LDKの私の家。その中で一番狭い部屋には、カーテン以外何もない。私たちはそこで、ゆっくりと見つめ合った。


「君は、いつだった?」

「俺は早かったよ。格闘技やってたから」

「あは。それは羨ましい」


 私が初めて人を殴ったのは、大学の卒業間際だった。

 当時の恋人にSMプレイをせがまれて――その時ようやく私の人生は始まった。

 恍惚とした表情を浮かべながら「もっと強く」と言われた私は、急にすべてに腹が立って、拳をぐっと握りしめた。

 愛なんてない。セックスなんて下らない。

 でもそれがわからない私が、一番しょうもない。

 溜まった鬱憤が恋人の腹に突き刺さる。

 両目がカッと見開かれて、体がくの字に折れ曲がる。口から透明な液体が零れて、腹がビクンと脈動する。

 その熱がすべて、私の拳を経由して、全身に染み渡った。


 それこそが、愛だった。


 私の鬱憤が、怒りが、やるせなさが、肉体を通して彼に伝わる。

 それを受け止めた彼のリアクションが、ぐるりと回って私に返ってくる。

 言葉もデートもセックスも不要だった。

 これが人を愛するということなんだ。

 私はその日、本当の愛を理解した。


「人を殴る、人に殴られる。蹴る。叩かれる。噛みつく。絞められる。暴力は体を使った最も原始的な愛情表現だ。俺は本気でそう思ってるし、どうやら君も同じらしい」

 私たちは、私たちが外れ値であることを知っている。

「でもね。私の前で同じことを言った男は今までもいた。あなたもその二の舞にならないといいけど」

「姫路さんは美人だからね。男が放っておかないのもわかるよ」

「外見なんて、愛には関係ないでしょう?」

「俺たちには、ね」

 彼の緩めた口から、諦めの感情が零れた。

 私はその真意を確かめるために、拳を握る。

 左足を前に半身になって、ゆっくりと左拳を彼の方に突き出した。

 彼もその意図を組んで、ファイティングポーズをとる。

 お互いの左拳がゆっくりと近づく。

 この拳の接触が、開戦の合図だ。


 ゴングの音は聞こえない。

 狭い部屋に、ただお互いの呼吸の音だけが響く。


 そして――


 ――拳が――――


 ――――触れ――


「っ!」


 たと同時に、彼が一歩踏み込んできた。視界の隅で右拳が振り被られているのを捉える。

 私は半ば反射で半歩に踏み出した。

 彼の驚いたような表情が目に入る。確かに普通人間は、近づかれたら離れるだろう。離れたところが彼の右拳のジャストミートポイント。身を引いた私の顔に、全力の右ストレートがぶつけられる計画だったんだと遅れて理解する。

 でも、私は普通じゃないし、これは愛だ。

 愛が近づいてくるのなら、私も当然近寄る。

 振り被られた彼の右手はそのまま私の顔のすぐ横で空を切った。空気の音が左耳を揺らす。気にせず目の前の左わき腹に拳を突き立てる。

 彼の呼吸が止まると同時に、左こめかみに強い衝撃を食らった。


 彼の空振った後の右ひじが顔に突き刺さっていた。


 視界が揺れる――衝撃が痛みに変わる――愛を感じる!


「あはっ、はははははははは!」


 ぐわりと視界が揺れ動いたけれど、関係ない。私は彼の両肩を掴んで体を持ち上げ、揺れた視界を振り払うかのように、がつんと頭突きを噛ました。

 額と額がぶつかり合う、鈍い愛の音が部屋に響く。一瞬彼の表情が痛みに歪んで、すぐに楽しそうな表情に変わった。

 きっと私も同じ顔をしているだろう。

 人と愛し合っているときの表情。

 ふわりと体が浮く。いつの間にか両腰を掴まれていた。

 地面という支えを失うと人間は本来の力の半分も発揮することができない。

 そのまま彼は後ろに倒れこむかのようなそぶりを見せる。頭から床に叩きつける気だ。

「させないよっ!」

 浮いたまま、彼の腹部に膝蹴りを放った。その衝撃で両腰を拘束していた腕の力が抜ける。もう一度、さらにもう一度蹴り上げて、最後は足の裏で彼の体を強く押した。

 しかし、脱出の瞬間に合わせて彼は私から。そのまま地面に落とされる。


 戦いの中で背中から地面に落ちるという行為が意味するのは、ひとつしかない。


「行くよ」


 ――マウントポジション。


 反射的に手で顔を覆いそうになって、慌てて肘で彼の膝をロックした。ハイマウントを取られることだけは防がなければならない。

 なんとか最悪だけは防ぐことは出来たが、もちろんその代償に、顔面ががら空きになる。


 愛。

 ――愛。

 ――――愛。


 重く、深く、愛が心に突き刺さる。

 頭の奥からガキと音が鳴り、しゃりしゃりとした感触が口の中に広がった。

 歯が折れたみたいだ。

 頬に愛情を受けながら、ころころと舌の上で転がす。

 彼がひときわ大きく右拳を振り上げた瞬間、私は口から血と一緒に歯を噴き出した。

 私の一部だったものが彼の額に突き刺さる。

「くっ」

 少しだけ顔を背けた隙を見逃さず、両足を持ち上げてマウントからの脱出を図った。

「甘い」

「どっちが」

 脱出は叶わなかったが、少しだけ彼の腰が浮いたところをめがけてフリーになった右手を突き出す。

 男性の急所があるところへ勢いよく。



 ――そこは駄目だろ

 不意に、脳裏に声が響いた。

 それは、いつかアプローチされた男性の声だった。

 私の愛を知り、自分も同類だと近付いてきた男。

 彼とも同じように愛し合おうとしたが、急所を攻撃した瞬間に言われたのだった。

「君との子どもができなくなったどうする」

 その言葉を聞いて、私は萎えてしまった。

 それは、本当の愛じゃない。

 子孫を残したいという気持ちはノイズだ。

 生物の本能という、ノイズだ。


 私が欲しいのは、本当の愛だけ。



「うおっ」

 しかし、新しい彼は違った。結局前と同じになるのではという一抹の不安を振り払ってくれた。

 私のその愛を咎めず、左手でガードをしながら後ろに飛び退く。


 私はそれに合わせるように体を跳ね上げて彼に飛びついた。

 ――逃げちゃいやよ。

 ――逃げたわけじゃないよ。

 視線が交差する。

 愛が絡まる。

 今までとは違う。

 本当の愛を感じる。


 私は彼の後頭部に腕を回して、顔を極限まで近づける。唇と唇を重ねて情熱的にキスをした。

 キス? いいや、多分違う。

 口を大きく開いて彼の唇を貪り――噛みちぎった。

 ぴちゃりと血が跳ねる。

 彼の味が口いっぱいに広がる。

 唾液と血が混じった恍惚的な愛の味。彼の口からぽたりと雫が零れ落ちる。

 コンマ数秒、意識がそちらに引っ張られた。

 ――瞬間、すぐ目の前まで顔が迫ってきていて、額に強い衝撃を受ける。ふらついたところで両肩を掴まれて、同じように唇を奪われた。

 私たちの唇は既に十分に濡れていて、ぬるぬるとした官能的な刺激と激しい痛みが脳を侵食していく。

 同じように唇を噛まれた直後に、私は右拳を彼の顎に突き上げた。

 脳を揺らした感触があった。私の暴力が、彼の脳を支配した。


 しかしそれと同時に、彼の右脚が私の左膝に突き刺さっていた

 曲がる方向が決まっている関節へ、過剰な愛を受けるとどうなるか。

 答えは簡単で――私はその痛みによって気を失った。


 折り重なるように、私たちは同時に地面に倒れこんだ。


 ずっと本当の愛を探していた。

 どれだけ言葉にしても、どれだけデートを重ねても、どれだけ情熱的なセックスをしても見つけられなかった。

 それには――言葉も、デートも、セックスも、必要じゃなかった。


 激しい痛みと、それを上回る満足感で目を覚ます。

 折り重なった私たちの血と汗が入り混じって、なんだかひとつの命になったみたいだった。


「おはよう」

「おはよ」


 私たちは見つめ合って――全身の痛みに唸った。

 本当の愛に、唸った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

純愛。 姫路 りしゅう @uselesstimegs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ