蝶は、名を告げない 前半
少し前ならば、エリやレンカに相談していただろう。けれど「ムラサキが誰かわからない」と言われたときの空気を思い出すと、胸が冷たく痛む。あの優しいクラスメイトたちでさえ、彼女を知らないなんて……。教室の温かさとは裏腹に、心が深い淵へ落ちていくような感覚が拭えない。
軽く濡れたアスファルトを踏みしめながら、ナツキは歩き始める。昼間の雨のせいで路面は湿り気を帯び、街灯の灯りがぼんやり反射していた。夕暮れに染まることなく灰色のまま沈んでゆく空が、不穏な暗さを増している。声を出せないのに胸の中で叫びを上げたい思いが込み上がり、呼吸だけがやけに荒くなる。彼女は鞄をぎゅっと握りしめ、唇を震わせた。
——どうすれば、ムラサキに会える?
——彼女がもし『存在しない』というのなら、この想いは一体何なのか?
——自分は本当におかしくなってしまっただけなのか?
考えが堂々巡りし、視線が定まらない。そんなとき、不意に脳裏をかすめるのは九尾の狐の面影だった。山奥の神域で出会い、「どう在りたいかは自分で決めろ」と告げた、あの妖狐。人とも神ともつかぬ存在が、なにか真実を知っているのではないかと思えた。……そう、彼女には超常的な力や知恵があるはずだ。もしムラサキが普通の人間ではないというのなら、九尾の狐が何かを知る可能性は高い。
ひやりとした風が頬を撫で、ナツキは覚悟を決めるように背筋を伸ばした。もう逃げるわけにはいかない。自分の肉体が変異し、声が出せなくなった原因の一端はあの山にある。ならば今度こそ、しっかりと問いかけなければならない——「ムラサキはどこにいる?」、そして「何が真実なのか」
学校から一度帰宅するのももどかしく、ナツキはそのままバスに乗って山の方向へ向かおうと考えた。薄暗い街の中、時刻表を確認すると、夕刻のバスはかなり本数が少ない。地元の商店街をかすめるようにバス停へたどり着くと、灰色の雲間からちらりと夕日は覗いていたが、光がすぐに差し込むわけでもなく、道端にはじっとりした影が伸びている。僅かな人影を見送りながら、ナツキは息を呑んだ。
——あの山へ行けば、また不可思議な出来事が起こるかもしれない。
——それでも、先へ進まなければ、すべてが曖昧なままだ。
身体が男から女へ完全に再構築されたあの日を思い出す。施設での非道な扱いや声を失った苦しみ……どれも大きな恐怖として刻まれているが、もう同じ轍を踏むわけにはいかない。自分が元の男子に戻れないのだとしても、声が出ないままだとしても、ムラサキの存在だけは、はっきりさせなければ心が折れてしまいそうだった。
山へ向かうバスが来るまで十数分。周囲に人はおらず、車の通りも少ない道に一人だけ立つ。風が肌寒く、制服の上から震えを抑え込むように腕をこすった。ノートを開き、自分自身を鼓舞するように小さく書きつける。
(大丈夫、こわくない)
それはまるでおまじないであった。声が出せないかわりに書く言葉が、乾いた心へ染み渡る。やがてバスの大きな車体がきしむように停まると、ナツキはためらわず乗り込んだ。運転手に小銭を支払い、揺れる座席に腰を下ろす。車内にほとんど乗客はおらず、窓の外へと闇が流れてゆくばかり。通学路から外れた先へ向かうにつれ、家々の灯りもまばらになり、山肌がうっすらと見え隠れし始めた。
ひどく心細い。だが同時に、どこか呼び寄せられるような予感もする。あの九尾の狐に会えば、全てが明らかになるかもしれない——そうであってくれなければ、自分の存在意義が崩れてしまいそうだ。バスがカーブを曲がるたび、車内の蛍光灯が揺れてナツキの髪をちらつかせる。声を出せない自分が、こんな薄暗い山奥へ向かう無謀さは理解している。だが、もう引き返せない。心臓が小刻みに鼓動するのを感じながら、ナツキはじっと座席に身を委ねた。
山裾のバス停で降り立つと、そこは肌を刺すような冷気が漂い、さきほどまでの街中とは別世界に近い静寂があった。手元のスマートフォンを確認しても、電波がかろうじて立つ程度。夜陰に包まれた集落の奥に、禁足地と呼ばれる霧の多い山道が続いている。かつて蝶の鱗粉を吸い込んだあの入口へ、ナツキは向かおうとしていた。
すれ違う人など一人もいない。古びた街灯が点々と道を照らしているが、明かりは心許ない。何度も足を縺れさせながら奥へ進むたび、風が木々を揺らし、葉ずれの音がどこか不気味に響く。やがて朽ち果てた鳥居が薄ぼんやりと見え、ナツキの背筋に冷たいものが走った。この場所に入り込んだせいで、自分はあの奇妙な変容を余儀なくされたのだ。だが、同じ力ならば、彼女の疑問に答えてくれるかもしれない。
灰色の空を覆う鉛色の雲の下、ナツキは深い息をつきながら山道を進んでいた。いつもの山と同じはずなのに、景色がやけに見覚えのないものに思える。木々は黙したままそびえ、冷たい風が葉の梢を震わせている。ナツキは声を失ったまま、けれど喉の奥には焦げ付くような感覚がこびりついて離れない。
ナツキは必死に足を動かす。通い慣れた山道のはずが、いまはまるで闇の中を探るように不安が募るばかりだった。
「どうして、ムラサキの姿がどこにもないの……」
日記にも確かに書いたはずの出来事。修学旅行で隣にいたことや、一緒に湯船に浸かった思い出。声が出せない自分に筆談ノートを通じて語りかけてくれたやさしいまなざし――すべてが夢幻だったとでも言わんばかりに、彼女の痕跡が周囲から消えてしまった。その衝撃が、ナツキの中に鋭い棘となって残り続けている。
研究施設の人間が言うには「誰もいないのに一人で話している姿」が映っていたという。だが、ナツキの記憶にはムラサキが確かに存在する。その矛盾は自分を狂気へ誘う罠なのか、それとも別の何か……。
両親でさえ半信半疑。クラスメイトのエリもレンカも「知らない」と口をそろえる。頼みの綱だった烏丸先生でさえ、その名に覚えがないようだ。もし本当に「ムラサキ」という人物がいないなら、ナツキの思い出は一体何なのか。あまりに理不尽すぎる疑問が、声を奪われた喉を再び締め付ける。
そんなとき、脳裏に閃いたのは九尾の狐の存在だった。かつて禁足地と呼ばれる山奥に足を踏み入れたとき、ナツキに示唆的な言葉を投げかけた妖狐。「身体が変わったからといって、魂まで変わるわけではない」――その言葉が強烈に胸に残っている。もしかしたら、九尾の狐ならば、この不可解な事態の手掛かりを知っているかもしれない。
無我夢中で山を登り、霧の立ちこめる林の奥へ向かう。足元はぬかるみが酷く、踏むたびに靴の裏に泥がまとわりつく。しだいに普段の登山道から外れ、誰も入らないような密やかな獣道へ迷い込む頃には、背後を振り返っても遠く霞んで木立しか見えなかった。
やがて、ぼんやりと光が見える。狐火とも思えるその幽かな揺らめきが、林の奥に漂っているようだった。胸の奥に緊張が走るが、ナツキはノートを抱きしめるようにしながら光へ近づいた。
風が止み、静寂があたりを支配する。葉擦れの音さえ聞こえない奇妙な空間。光のほうへ足を踏み出すと、そこには無人の社(やしろ)のような小さな建物があった。古い苔むした石段が続き、朽ちかけた鳥居をくぐると、柵に囲まれた祠の先でしなやかな黄金色の尻尾が揺れている。先端が九つに分かれた狐――妖狐が、さも当然のようにそこに座していた。
「久方ぶりだな、人の子」
声というより、頭蓋を振動させるように伝わる言葉。ナツキは声を出せない自分を思い出し、咄嗟にノートを開きかける。しかし、狐はまるでその行為すら見通しているかのように、からかうような瞳を細めて見つめてくる。
ナツキはぎこちなくページをめくり、「どうしても聞きたいことがある」と書きつけた。そして一気に、「ムラサキはどこに行ったのか、映像に姿が映らないのはなぜなのか」と矢継ぎ早に筆を走らせる。もどかしさと不安が鉛のように胸を重くし、呼吸が苦しくなる。
「ムラサキ……人の世に溶けている蝶か。おまえに取り憑いたようなものだな」
妖狐の言葉に、ナツキは動揺して目を見開く。蝶、という単語に思わず息が詰まる。もともと自分が黒い蝶の鱗粉を吸い込んだことが変容の始まりだった。しかし、ムラサキが蝶とはどういうことか――そんな想像すら、いままではしたことがなかった。
ノートに「ムラサキは本当に存在しているよね?」と縋るように書いて見せる。返答を待つ間、背筋に冷たい汗が伝った。もしも妖狐が「おまえの妄想だ」と言ったらどうしよう――そんな一抹の恐怖が脳裏をかすめる。
だが、妖狐は興味深げに瞳を細めると、口元をにやりと歪めて答える。
「存在しているとも。だが、人の世界に溶けこむ姿を保つために相応の力を費やしておったのだろう。無理もあるまい。蝶が人の形を取るなど、本来長くは続かぬ。おまえが探しているのは、山の奥深くに身を隠した蝶だ。行くか?」
その問いは挑発にも似た響きを含んでいた。ナツキはノートを握る手が強張るのを感じながらも、「行く」と書き込む。なぜなら、もう後戻りはできない。このままでは自分が正気かどうかさえ分からなくなるから。
妖狐は黄金色の尻尾を揺らしながら、少しだけ首をかしげる。それは人間ならば微笑にあたる仕草だったかもしれない。
「ならば導いてやろう。この先の谷へ降りろ。深い木々の狭間に清水が湧く岩場がある。その奥に蝶はいる」
深い木々の狭間。禁足地のさらに奥なのだろうか。ナツキは筆を置き、そっと顔を上げる。狐火の揺らめきがその姿を淡く照らし、妖艶とも言える気配が立ち昇っていた。
それでも妖狐は手出しをするつもりはないようだ。ただ、その場に佇む存在自体が神秘の象徴なのだと伝えるかのように、悠然と尻尾を振っている。ナツキは震える足を叱咤し、言われたとおり谷へ向かう覚悟を固めた。
別れ際、ふと妖狐の瞳がぎらりと光る。
「これから先、おまえは自分の望みを問われるだろう。『どう在りたいか』を決めるのはおまえだ」
それはかつて聞いた言葉と同じ響き。ナツキの胸の奥で何かが軋むように痛む。自分は本当に、いまでもあの頃の「男子」ナツキなのか、それとも違う存在なのか。答えはまだ出せずにいる。
何より、今はとにかくムラサキを探さなければ。そう思って足を踏み出した瞬間、妙に心が軽くなるような気がした。逃げてばかりではいられない。声が出せなくても、身体が変わってしまっても、自分が行くと決めたのだから。
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