春日丘市の出来事

和智

第1話 春日丘市の写りこみ男

 春日丘大学社会学部研究棟。三階の薄暗い廊下の突き当たり、「助手室」と書かれた扉の向こうから、チョークの擦れる音が絶え間なく聞こえていた。


「したがって、SNS上での噂の伝播速度は、従来の口承における拡散よりも9.7倍速い。これをメタ認知的共有論で解釈すると……」


 助手室の中では、春野考太はるのこうたが延々と独り言を呟きながら、すでに黒板の9割を埋め尽くした数式と図表の隙間に、さらに小さな文字で書き込みを続けていた。黒板の前には考太しかいない。


 彼は黒縁メガネの奥で目を輝かせながら、自分の理論に酔いしれていた。白衣のようなラボコートは粉だらけで、髪は寝癖のままだ。


「この場合、確率論的集合知性のエージェントベースモデルによれば……」


 ドアが勢いよく開いた。

「先生ー! 大変です!!」


 真倉抜江まくらぬけえが息を切らせて飛び込んできた。考太は振り向きもせず、式を書き続ける。

「何が大変なんだ? 私は今、SNS時代の噂理論の核心に迫っていてだな」


「それより見てください!これ!」


 抜江はスマホを考太の目の前に突き出した。画面には商店街で撮影された自撮り写真。抜江の背後に、黒い帽子を被った人物が写っている。


「春日丘写りこみ男です。この前も言いましたよね! でも先生は『写真の角度による光学的錯覚』って言ったじゃないですか。でも私の写真にも写ってるんです! 怖いです! でも興味深いです! でも怖いです!」


 抜江は一息に言い切ると、恐怖と興奮が入り混じった表情で体を縮こまらせて震え始めた。考太はようやくチョークを置き、眼鏡を直して写真を覗き込んだ。


「ふむ、これは明らかに説明がつく現象だな」


「え、本当ですか?」


「ああ。SNSプラットフォームにおける画像圧縮アルゴリズムと、人間の傍観者認知バイアスが作用した結果だ」


 考太は黒板の端に新たな式を書き始めた。

「まず、JPEG圧縮率をx、視認角度バイアスをy、そして集合的パレイドリア指数をzとすると」


 抜江の目はすでに泳ぎ始めていた。

「あの、先生、もっと簡単に……」


「簡単に言えば」

 考太は眼鏡を光らせた。


「人間の脳は無意識に背景にあるパターンを人型に認識しやすく、さらにSNSで『写りこみ男』という先入観が植え付けられることで、通常なら気にしない影や物体を『人』として誤認識する現象だ」


 彼は得意げに腕を組み、自説の正しさを誇示するかのように頷いた。


「それって、ただの思い込みってことですか?」


「そう! 高度な社会心理的思い込み現象だ!」


 そのとき、研究室のドアが再び勢いよく開いた。

「考太くん! 大変だーー!」


 速水はやみトレンが両手にスマホを持って飛び込んできた。

 彼は最新のファッションに身を包み、首からは三種類のワイヤレスイヤホンケースぶら下がっている。


「どうした、トレン? 今、重要な学術的説明の真っ最中で……」


「それどころじゃないよ! 俺の自撮りに写りこみ男が写ってる! しかも動いてる!」


 トレンは恐怖に目を見開いて、スマホの画面を二人に見せた。確かに彼の自撮り写真の背景に、黒い帽子の人影が写っている。


「ほら、この動画を見て!」


 トレンは別のスマホで撮影した動画を再生した。彼が駅前で自撮りをしている様子が映っている。そして確かに背景に黒い帽子の人影。


「これは!」

 考太は身を乗り出した。


「幽霊ですか!?」

 抜江が震える声で言った。


「いや、明らかに視覚的連続性における錯覚だな。光の反射角と……」


 トレンは眉をひそめてスマホを見直し、急に大声で叫んだ。

「これ俺のスマホケースの反射だ!」


 トレンが恥ずかしそうにスマホを裏返すと、ケースは光沢のある黒い素材で、確かに帽子を被った人のようなシルエットに見えなくもない。


「ごめん、パニくってた……」


 抜江はがっかりしたような、ほっとしたような複雑な表情を浮かべた。

「じゃあ写りこみ男は本当に思い込みなんですね」


「私の理論通りだ、社会的集合知性の誤認メカニズムの例と言えるだろう」


 そのとき、さらに別のスマホの通知音が鳴った。トレンのもう一台だ。


「あ、新しい投稿だ!」

 トレンはスワイプして目を見開いた。

「考太くん、これ見て!」


 そこには春日丘駅前の写真が表示されていた。そして写っていたのは黒い帽子を被り、考太とそっくりな格好をした男の後ろ姿。


「これは……」

 考太は言葉に詰まった。


 トレンが声を上げた。

「『#春日丘写りこみ男の正体は春野考太説』って既にハッシュタグができてる! バズってるよ!」


「ばかな! 私は昨日も今日も駅前には行っていない。理論的に不可能だ!」

 考太は顔を真っ赤にして反論した。


 抜江もスマホを覗き込んだ。

「でも、そっくりですよ! 白衣に黒縁メガネ、そして後ろ姿。完全に先生です!」


 考太は眼鏡を直し、冷静さを取り戻そうとした。


「こ、これこそまさに私の理論の証明だ。写りこみ男という概念が先行して、それに似た一般人の姿を誤認するという……」


 トレンのスマホがまた鳴った。

「うわ、もう100いいねついてる! 『理論オタク助手の二重生活』ってタイトルまでついてるよ!」


 抜江が突然叫んだ。

「もしかして先生、夜は影男として街をさまよってるんですか!? 昼は理論、夜は実践の……」



 考太は頭を抱えた。

「そんなわけあるか。これは明らかな誤認だ。科学的に証明してみせる!」


 考太は白衣のポケットから小さなノートを取り出し、早口で書き始めた。

「写りこみ男現象の科学的検証プロトコル:第一段階、自己位置証明実験。第二段階、画像解析による同一性否定。第三段階……」


 抜江とトレンは顔を見合わせた。


「先生、ますます怪しいです……」


「そうだよ、普通の人はこんな反応しないって」


 研究室のドアが再び開き、実地じっちみこが疲れた表情で入ってきた。

「考太、大変よ。市役所に『写りこみ男への対応』を求める苦情が15件も来てるの。しかも……」


 彼女は部屋の様子を見て首をかしげた。

「何やってるの、みんな?」


 考太は血相を変えて叫んだ。

「みこ、私は写りこみ男ではない! 科学的に証明するぞ!」


 みこは一瞬固まった後、深いため息をついた。

「また何かおかしなことにはまってるのね……」

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