子鹿のカテナ
あきれすけん
第1話 記憶
茜が初めて『喫茶カテナ』に行ったのは、小学生になったばかりの頃だった。「授業」というものに少しずつ慣れ始め、教室の後ろの棚に置いてある絵本や文字の大きな本を自分から読み始めていた頃。周りの子たちはおしゃれな上級生を見て感化されたのか、雑誌に載っている女の子が着ているような華やかなトップスや、ふわりと柔らかそうなスカートを履き始めていた。
もちろん当時の茜も例に洩れず、背伸びをしてひらりと裾が動くワンピースを着て、ピンクのきらきらで可愛いスニーカーを履いて、母に付いていってお出かけをしていた。
「お母さん、今日はお買い物でしょ?何買うの?」
茜がニコニコして母に話しかけると、母はにんまりと笑って、いたずらでもしそうな風に口角を上げた。
「うん、そう。でもそれだけじゃないのよ。茜に付いてきてほしいところがあって」
「いいけど、どこ?」
「着くまでの秘密」
ニカッと笑って「でも、怖いところじゃないよ」と茶目っ気たっぷりに話す母は、通勤する時に着るような白のカッターシャツと紺色のパンツを身に着けて、黒のシンプルなヒールパンプスを履いていた。茜の可愛い服と母のシンプルでかっこいい服が、なんともちぐはぐだったのを覚えている。
その日は母の運転で、朝から最寄りのショッピングセンターへ行った。お互い好きな服を何着か買い、お昼にフードコートでハンバーガーを食べる。半分くらい食べ終わったところで、動き回った疲労と満腹感で眠気に誘われた茜は、フードコートの席でグラグラと船を漕いでいた。椅子から体がコテンと落ちそうなほど揺れる体に母は慌てて茜を連れてフードコートを後にし、そのまま車へと戻っていった。
チャイルドシートに座らされた茜は、早く帰ってぐっすり寝たいと愚図る。しかし、今日はまだ帰ることができない。自分にコントロールできない状況に、茜はただただイラついていた。当時はそれが、茜にとって精いっぱいの自己主張だった。
「お母さん、もう眠たいよ。帰りたい」
「茜、たくさん食べてたもんね。寝てていいよ。少し顔見せて帰るだけだから、帰ったらお布団被ってたくさん寝ようね」
「うーん……」
その会話を最後に、車の中で流れるラジオを寝物語にして、茜は気を失うようにして寝てしまった。
「茜、着いたよー」
母の間延びした声で目を覚ました茜の頭に、ピーッ、ピーッと車のバック音がガンガンと頭に響いてきた。車をパーキングエリアに駐車しているのか、ゆっくりと体ごと後ろに下がっていっている感覚がうっすらあった。
寝ている間に来たから、ここがどこなのかもわからない。まだぼやける視界であたりを見回すと、建物が多く並び建つ場所に来たことだけは分かった。パーキングエリアの周りを囲うように、道路に面した場所以外は建物の壁に覆われている。パーキングエリアには母の車以外にも何台か車が停まっており、道路を走る車の音が騒がしい。茜の住んでいる住宅街の静けさとは大違いだった。
茜がぼうっとした頭で辺りを観察していると、母は運転席の背もたれを倒して後部座席に座る茜の方へ身を乗り出し、茜の髪を手櫛で整えるようにふわりと撫でつける。母のジャケットから香る消毒液の香りが、茜の鼻をふわりとくすぐった。
「目、覚めてきた?」
母はこちらを覗き込むようにして、緩く微笑んだ。
「うん、大丈夫。起きたよ」
「じゃあ、そろそろ行こうか」
茜が頷くと、母は背もたれを戻した。ルームミラーで自身の前髪を軽く整え、身支度を終えるとサッとシートベルトを外して車を降りる。茜も母に倣って、自分でも手櫛で髪を整えていると、母が荷物片手に後部座席を開けて茜を下ろしてくれた。
駐車場を出て、木々が桜の花で薄くピンク色に染まり始めた道端を眺めながら、母と手を繋いで並んで歩く。母は慣れた様子でパンプスをコツコツと鳴らしながらも、私の歩調に合わせてゆっくりと歩いていた。私ははぐれないように母の手をギュッと握り、スニーカーをザリザリと言わせながら歩いた。
コツコツ。ザリザリ。コツコツ。
隣を歩く母の足音は、茜の想像した大人の女性のそれで、茜は密かに憧れた。
しばらくすると、母は『吉田ビル』と書かれたグレーのタイルが貼られたビルの前で立ち止まった。茜は立ち止まった母を見上げて、ビルの方を指さした。
「ここ?」
「そうよ」
「へぇ…」
改めて観察すると、おばあちゃんが好きそうな洋服屋さんが窓際に下げられているのが見える。
当時の茜は、ここがどういうビルなのかは分からなかった。しかし、同い年の子が好んで来るような場所ではないということだけは直感的に分かる。茜は、周りの子がめったに来ないような場所に来たことへの優越感と、少しの好奇心をくすぐられていた。
鼻息をふんと鳴らした茜は、早速ビルに入るためにずんずんと自動ドアの方へ進もうとした。しかしすぐに、母とつないでいた手をクンッと引っ張られて、茜は足を止めた。
「茜、こっちこっち」
「えぇ?」
眉間にしわを寄せて、茜は母を見上げた。茜が母の指さす方に視線を向けると、自動ドアのすぐ左隣にある地下へと続く階段があった。オレンジや茶色のレンガで組んである階段は、どんどん影の中に伸びていて、少し怪しかった。茜はふと、当時見たアニメで悪者が使っていたアジトと同じような入り口だったことを思い出し、恐怖から体がガチガチに固まってしまった。
「ここ、本当に行っていいところ?」
気付くと茜は、震える口元で母にそんなことを訊ねていた。今思えば、行ってはいけないような場所に母が茜を連れていくわけないと分かるのだが、当時の茜は、それはそれは真剣な顔をして訊ねた。
すると母は、きょとんとして首を傾げた後、緩く微笑んで茜の頭を撫でる。
「大丈夫。怖いところじゃないから」
「本当に? 悪者のアジトじゃない?」
茜は堪らず母に確認すると、「なにそれ?」と今度は呆れたように眉間にしわを寄せられてしまった。
「ここ、茜が赤ちゃんの頃に一回だけ来たことあるのよ。それでも今、何ともないでしょ? だから大丈夫」
そこまで言うと母は「行くよー」と茜に声をかけて、するりと手を離してから、先にレンガの階段をコツコツとひとりで降り始めてしまった。
ここで一人が取り残されてもどうしようもない。寝ている間に着いてしまった場所だから、帰り方なんて分かるわけがない。茜はもう、腹を括るしかなかった。
「お母さん、待ってよ!」
茜は母の後を追って、レンガの階段を一段ずつ降りた。
コツコツと軽快な母の履いたヒールの音と、ザリ、ザリとテンポの悪い茜のスニーカーの音が薄く反響する。茜が心の中で「早く帰りたい」と喚いたとしても、その声が母に届くわけもなかった。
茜は途中で母に追いついて、母の手をギュッと握ったまま薄暗く気味の悪い階段を降り切ると、突き当って右手側に、洋風のドアが現れた。
ドアの中央上あたりに窓があるが、すりガラスになっていて中の様子はあまり分からず、オレンジ色の明かりだけが透けている。
扉の横には、レンガ張りの壁に『喫茶カテナ』と書かれた看板が貼ってあった。少しくすんだ文字がこの場所の歴史を表しているみたいで、当時の茜は先ほどまでの恐怖よりも、少しだけ興奮が勝っていた。
この怪しい場所、お店だったのか。
茜がまじまじと看板を眺めていると、母は空いた方の手でドアノブをグイッと手前に引いた。母の頭上は、真鍮のドアベルがカランカランと鳴っている。
「ほら、入るよ」
そう言った母は、手をつないだまま一歩だけ入って見せて、茜の方を振り返る。茜はきゅっと口元を結び、母の手を強く握りなおして、一緒に扉をくぐった。
細い小道のような通路を通って、店の中へ進む。茜の間を進む母が重そうな扉をギィと音を立てて開くと、母が小さな声で「こんにちは」と呟いた。なんだろうと、茜が母の後ろからひょっこりと顔を出してみると、真っ黒な目が茜の方をじっと見ていた。
「ヒッ」
茜は小さく声を漏らした。視線の主は、子鹿の剥製だった。壁に掛けるようなインテリアとしての物ではなく、小さな子鹿がまるまる一頭、ガラスの箱で保管されている。おしゃれなインテリアとして飾っているというより、博物館のように設置されているような清潔感と、生々しさがあった。
茜を射抜いていた作り物の目はきらきらと輝き、まるで生きているかのような、謎の生命力を感じる。茜は、母の手を両手で握りなおした。
茜の異変に気付いた母は、空いた方の手で茜の頭をゆっくりと撫で「大丈夫よ。鹿さん、怖くないから」と言って宥める。しかし茜としては、いったい何が大丈夫なのか分からず、カタカタと小さく震えるしかできなかった。仕方なく母は茜の方に向き直り、自身の体で茜の視線を鹿の剥製から逸らした。そしてカニ歩きのように二人で横に歩き、ホール内へと進んだ。
「茜、もう出てきていいよ」
「もう、いない?」
「ちょっと離れたから大丈夫」
茜はうつむきながら、そっと母から離れる。茜が離れたことを確認した母は、茜を小鹿の剥製から離れた方に立たせ、自分も振り向いてカウンターの方へと向きなおった。手は、まだしっかりと繋いでいる。
「こんにちはー。暁君いる?」
母は目の前のカウンターに向かって、声を投げかけた。ドアベルの音にも気づかない程奥まったところに目的の人物はいるらしく、くぐもった声で「はーい、ちょっと待ってー」と聞こえてきた。そしてすぐにゴソゴソ、ガタッという音とともに、パタパタと足音が近づいてくる。そしてカウンターの中から、一人の男性が背中を丸くして「お待たせ」と手を合わせながらやってきた。
「いらっしゃいませ。久しぶりだね、ゆりちゃん」
「暁君。久しぶり」
「茜ちゃんも大きくなったね。そりゃあ俺も歳取るわけだ」
男性はスラックスの太もも辺りをパンパンと叩き、スッと背筋を伸ばして茜たちの方に立ち直って微笑んだ。
「ゆり」とは、茜の母のあだ名である。本名は「小百合」という。茜は母の下の名前をそれほど聞いたことがなかったため、自分の母を指す不思議な響きに茫然としていた。
しかし茫然としている理由はそれだけではない。
作り物のようにゆるりと微笑んだ男性は、ドラマかアニメで見たバーテンダーのような恰好をしていて、茜の父よりも背が高かった。すらりとした体型で手足も長く、ふわりとしたくせ毛が印象的な、華のある人だった。
「覚えてないかもしれないけど、ほら。お母さんの従兄妹の、暁君だよ」
母は「まあ流石に覚えてないかー」と言って笑っていた。
子鹿のカテナ あきれすけん @aKiless_0064
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