何故、そのような妖しの蛭が未だここに在るのか……老僧が続ける。


「この話の女のように、手放せない思いに囚われ苦しみ続ける衆生を救う為に御仏が遣わしたのだ、いわば仏の慈悲だ、と言いだした者が居たのです」


 それが、あの蛭を剥がせなかった高名な僧だった。徳のある人物と評判の者がそう言えば、皆もその言葉をありがたく受け入れた。

 知円ちえんが苦々し気に息を吐く。


「お分かりですかな。それはつまり、少なからぬ人に蛭を使い試した、ということです」


 身内である僧にではなく、苦界に喘ぐ民を救うと言う名目で無辜の人々に蛭を試し、苦しみを吸い、薬のように悲しみを癒すかのように見えたそれに「一服いっぷくひる」などと名付け、後生大事に仕舞い込んだ。


「なんとも気の悪い話だと思いませんか。そもそも、本来なら私ら僧のやるべき勤めを、物言わぬ蛭に肩代わりさせたんですよ」


 表立って高僧の行いに異を唱えられないながらも、思う所のある者も少なからず居たが、この異形を再び野に放つことには危うさを覚えていたのだろう。結局、高僧が亡くなった後も、蛭は僧たちによって管理されることになったのだ。

 それまで黙っていたりんの三日月に撓む目と唇が、ゆっくりと殊更に吊り上がった。


「一体、何を仰りたいのでしょう」


 樟脳のにおいに冷やりとしたものが滲む。知円がにこりと微笑み、


「それをお持ち帰りいただこうと思いましてな」

「持ち帰れ、と」


 意外そうなりんの言葉に、老僧が頷く。


「はい、確かにそう言いました……そちらは、いえ、敢えて一服蛭と呼びましょう、一服蛭はりんさんの片割れではないですか?」


 揺らぐ仄明かりがりんの面に揺れる。


「わたくしの、と言うよりも、わたくしの主の一部でございます」

「そうですか。何にせよ、あるべき処にお返し出来るようで安堵しました。これこそ御仏のお導きでしょう」


 にこにこと白湯を啜り出した老僧に、


「再びお聞きしてもよろしいでしょうか」

「何なりと」

「御坊は何故これをわたくしの片割れと思われたのでしょう」


 洞を思わせる昏い眼を、知円がゆったりと受け止める。


「彫るということは、魂の形を捉える事だと言ったでしょう。私には貴方と一服蛭の魂が、どうしても同じ形にしか見えない」


 ですから、貴方は本当はこれを取り戻しに、此処にいらしたのではと思ったのです……含みのない知円の言葉に、りんから立ち上っていた気配が散る。


「分かりました。それでは、ありがたく持ち帰らせていただきます」


 知円は、箱から取り出された大きな蛭とりんを交互に眺め、


「ああ、やはり……いつか貴方のお姿を彫ってみたいものですなあ」


 ほう、と息を吐く。りんは腰に下げていた竹筒に一服蛭を滑り込ませ、老僧に顔を向けた。


「ですが、よろしいのですか」

「何がですかな」

「わたくしがこれを連れ帰ってしまえば、御坊が困ったことになるのではございませんか」

「なんの。元の持ち主にお返しすることの何処に不都合がありましょう。誰ぞに文句を言われたら、『そんなことは忘れてしまった』で済ませればいいのです」


 知円はさっぱりとした面持ちで、


「本当のことを申すと、私は日々迷い続けていたのです……いっそ一服蛭に執着を吸って貰おうか、とね」


 忘我の境地に至れるかもしれないすべが、すぐそこに在る。縋りそうになったことは一度や二度ではない。鑿を投げ出し、経典を壁に叩きつけ、叫びをあげる。己の至らなさに滂沱する日々。


「ですがこの歳になると、それら全てが御仏のお心を知るに必要な道順なのでは、とも思えるのです。あの日私をここに放り込んだ我が師も、そう思われたのかもしれませんなあ」


 ですから、そのように目に毒なものは持ち主にお返ししてしまうのが良いでしょう……老僧はからからと笑った。


  *


 翌日、早朝。雨上がりの、木や草花の匂いが満ちた山寺の三門に影が二つ。


「大変お世話になりました」

「どういたしまして。気が向かれたら、またお寄りください」

「はい。それではお暇いたします」


 強い風が、樟脳のにおいを散らす。知円は思わず目を瞑り、次に目を開けた時には、既にりんの姿は消えていた。


「こんなに穏やかな心持ちは久方ぶりだ……さてさて、そう言えばあの方は断らなかったな」


 老僧は悪戯っぽく笑い、大きな伸びを一つして、板間に引き返すと鑿と槌を手に取った。



 数年後、一人の老僧が世を去った。仏師でもあった僧の残した見事な像の数々は、あちこちの寺に引き取られた。


 その中には、見た者を忘我に誘うかの如き玄奥な如来像と、時折樟脳がかおる龍体があったと言う。

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一服蛭―いっぷくひる― 遠部右喬 @SnowChildA

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