気付けば室内も随分と暗さを帯びてきた。知円ちえんが灯明皿に火を灯し、頼りない光と火鉢の赤に仄浮かぶりんの向かいに腰を下ろす。


「りんさんはあちこちを巡ってらっしゃるとのこと。どうか世事に疎いこの愚僧に、旅の話をお聞かせ願えませんか」

「勿論でございます」


 都の大臣を襲った化け犬の話。姫君と鬼の恋物語。ある村に住む臍から花を生やした男。大きな鮒を丸飲みにした蛙。

 りんが旅の道中で集めたという話はどれも面白く、子供のように目を輝かせて聞き入っていた知円が、ほう、と息を漏らす。


「りんさんは話し上手ですな。こんなに愉快な心持ちになったのは、何時ぶりか」

「恐れ入ります。こういった話をいくつか知っておくと、商いがやり易くなるのです」

「ふふ、坊主も似たようなものです。どうです、いっそ仏門に入り、皆に説法を説いて回っては」

「御冗談を。失礼ながら知円様でも至れてらっしゃらないという仏様の深いお心が、わたくし如きに分かるとは思えません」

「ふむ、そうそう簡単に悟りを得られては、私ども坊主のやることが無くなってしまいますからな」


 知円はからからと笑い、りんのおもてをじっと見つめる。


「何か?」

「ああ、いえ……りんさんは、仏道をどう思われます」


 鋭い眼光と裏腹の穏やかな口調に、りんは少し考え、


「よく分かりません。正直に申しますと、考えたこともございません」

「ははは、まったく正直だ。ええ、でもね、それが当たり前です」


 知円は頷き、己の手に目を落とす。


「喜びも悲しみも、一時の波に過ぎません。真の安寧はその先にある。端的に言うと悟りとは、あらゆる執着を捨てること――私はそう思っております。他の僧も似たり寄ったりなのではないでしょうかな。出家して世俗の一切と縁を断つのは、その為です」

「成程」

「しかし、それでは都合が悪いように思えませんか」

「都合? 何故でございましょう」

「出家をしてまで只管に真理を求める心こそが執着ではないか、と」


 火鉢の炭が、ぱち、と小さな音を立てる。


「それすらも捨てることが悟りならば、御仏を彫る境地とは、何と遠くにあることか……己の全てを手放す忘我の域は、未だに観えません」


 りんが首を傾げる。


「大変興味深いお説ですが、なぜ御坊は、わたくしにそれをお聞かせ下さったのでしょう」


 飄々としながらも曖昧さを許さない声音に、老僧が顔を上げる。


「私は、全てを忘れる手立てを知っているのです。修行などと間怠いことをせずとも、忘我に至れるかもしれないものがここにはある」


 知円はそう言うと、小さく笑い、


「まったく、坊主や年寄りは話が長くていけませんな。まあ、私などそのどちらでもあるものですから、諦めてもうちょっと付き合ってください」


 部屋の隅の厨子ににじり寄り、念仏を唱えながら両開きの扉をゆっくりと開いた。やがて奥から何かを手に取り、再びりんの向かいに腰を落ち着ける。

 古びてはいるものの質の良い平包に包まれた、子犬ほどの大きさのそれを膝に乗せ、


「実はこの寺には名がないのです。始めは寺ですらなかったのかもしれません。なにせ、何処にも縁起が残っていないのですから。ただ、私ら僧はここを『忘俗寺』と呼んでおります」

「忘俗寺とは、風変りなお名でございますね」

「世俗を忘れる……いかにも坊主に相応しい名でしょう」


 知円が笑いながら頷き、平包を解いていくと、やがて桐の箱が姿を現した。

 箱面には、一言。


一服いっぷくひる


 と。


 客人に、知円がそっと箱を差し出す。


「その中には、一匹の蛭が収められてます」


 無言で箱を受け取り、表書きに目を落とすりんに、


「昔、麓の里が酷い水難に見舞われたそうです」


 多くの死者が出た。骸が見つかればまだよかった。天のする事と諦めもついたかもしれない。

 だが、まだ幼い子を流された女が。


「濁流に呑まれた、生死も定かではない我が子をずうっと探し続けたのです」


 ある日、女は子を探しに山に入った。水は高きから低きに流れる道理であれば、山中を探すことに意味などありはしない。だが、まだ探していないのは山の中しかない。

 夫が里人から報せを受けたのは、女が既に山に向かった後だった。

 子を失い、妻まで失う恐怖に夫が慌てて後を追うと、存外すぐにしっかりとした足取りで山を下る女と行き会った。

 子を失って以来見なくなった穏やかな顔つきの妻に、夫は胸を撫で下ろし、声を掛けると、


「どうやら女は、悲しみを忘れてしまっているようでした」


 子を失ったことは覚えている。だが、その時に感じた絶望や恐怖は一切忘れてしまい、自分が何故こんなに必死に山の中まで探していたのかを不思議がる。妻のあまりの変わりように、夫が立ち竦んでいると、女は夫に先立ち、さっさと山を下り始めた。

 そのうなじには、見たこともない大きな蛭が一匹。

 焼くも、刺すも、何をしても死ぬことのない蛭は、女に喰い付いたままだった。


「尋常ではない出来事に、男は妻を連れて大きな寺を訪れました。ですが、高名な僧が念じようが何をしようが、蛭は中々離れなかったそうです。結局、自然に剥がれ落ちるのを待ち、それが巡り巡ってここに収められたんですよ」


 蛭が落ちた女はその後、夫との間に再び子を生したそうだ。そして、二度と悲しむことは無かったと伝えられている。

 丸々と肥えた蛭は、一体、女から何を吸ったのか。


「もう、察してらっしゃるでしょう。それは、女の悲しみの心や苦しみ――執着を吸い取ったんですなあ」

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