カスミとユイ
葦邑井戸
1話
屋外で練習している吹奏楽部の音色が唐突に止み、慌ただしい声が聞こえる。少し経つと、雨が窓を衝く音がしだした。
「……傘、あったっけ」
午後の空はやや曇っていた。校庭では運動部の生徒たちが、道具を片付けて走っている。時計を見ると、ちょうど六時を指していた。レコーダーからディスクを抜き出し、ケースにしまい、元あった位置に差し込む。電気を消して戸締りを終え、職員室に鍵を返す。一日一本映画を見る。それだけの「部活動」を終え、帰路に着く。
鞄の底に折り畳み傘が入っていた。開くと、骨の部分が少し引っかかったが、無事に広がった。手に微かな振動が伝わってくる。外に手を出すと、雨粒は思ったより大きい。跳ね返った水で靴下の先が濡れる。
所属している部活、映画研究会は部員が私一人の、部活としての体裁を保っているのか怪しい部活だ。担任のヒラジマ先生が顧問を務めており、去年で部員が皆卒業してしまったために、今年新入部員が入らなければ必然的に廃部になる予定だったらしい。そんな中、担当クラスにいて、部活にも所属せず、暇そうにしている私は先生にとって都合が良かったのだろう。誘われる、というより頼み込まれるように入部届を渡された。元々映画は好きだった。それに、DVDが揃っていることの物珍しさもあって入部した。何より昼休みに部室を使っていいことに助かっている。昼食を終えた後、一人で教室で昼休みを過ごすのは少しだけ居づらい。
「カスミちゃんってさ、真面目だよね」高校生になったばかりのおよそ一月前、知人にそう言われた。授業が終わり、それぞれが帰り支度をしていると、中学が同じだったクラスメイトに、同級生がアルバイトをしている喫茶店に行かないかと誘われた。声をかけてもらえることはありがたかったが、私はその誘いを断った。校則でアルバイトや寄り道が禁止されているので、多少の抵抗はあったが、それが誘いを断らせたわけではない。ただ、そのアルバイトをしている生徒とは面識がなかったし、自分のような社交性のない人間がその場に居合わせてもいたたまれないだろうと思い、そうしたのだ。しかし、彼女にはそれが一人で律儀に校則を守っているように見えたのだろう。
その「真面目」が称賛の類のものでないことは、私にも理解できた。コミュニティの空気を汲み取らずに、一人だけ校則を遵守しているのが彼女には偽善者らしく見えたのだろう。しかし実際にはそれほど堅物なわけでも規範に従順なわけでもなく、ただ興味がないのだ。ルールを破るという行為を楽しめるのは享楽的な人間の特権だ。誰かに見つかったらどうしよう、非難されたらどうしようと考えるのに疲れて、気が気ではなくなってしまう。結局、柵から出ないでいるのが私にとっては気楽なのだ。
気がついたら人と話すのが得意ではなくなっていた。誰かの癖や容姿に関して笑うことを楽しめない。その場にいない誰かの失敗を嘲ることに、歩調を合わせられない。否定してもらいたいのであろう自虐をされたときに言葉が出てこない。そのような会話に居合わせたとき、小石を飲み込まされているような居心地の悪さを感じていた。そんなやり取りが続くごとに、私は口数が減り、そこにいてもただ話を聞いているだけの存在になった。
思えば、私に声をかけてくれたのも皆を誘っている手前、私にも声をかけないといけないという建前だったのだろう。そんなことにも後日にようやく考えつく程鈍い私は、年が経つにつれ複雑になっていくコミュニケーションについていけず、高校に上がってから一ヶ月も経てばクラスで孤立していた。誰かに笑われたり疎まれることを気にし続けるよりは、現状の方がずっと心地が良かった。
*
コンコン、と控えめなノックの音が部室に響いた。私はその音に反応が遅れ、すぐには動けなかった。
「こんにちは。ここ、映画研究部で合ってますか?」
ドアが静かに開き、制服姿の女の子が顔をのぞかせた。
思っていたよりも近い距離に立っていて、一瞬息を飲む。
「あっ……えっと……そうです」
言葉が途切れ途切れになる。顧問のヒラジマ先生だと思い込んでいたせいで、完全に無防備だった。
「部活見学に来ました、一年のユイって言います」
そう言って、彼女は一歩部屋に入ってきた。背は私と同じくらい、髪は肩につかないくらいの長さで、結んではいない。制服は着崩しておらず、でもどこか柔らかい空気をまとっていた。
部室の棚やテレビをきょろきょろと見回しながら、彼女は言った。
「映研の人ですよね? 先輩、まだ来てないんですか?」
「あっ……私も、一年です……」
「そうなんだ!じゃあ敬語は必要ないかな?」
明るい口調。けれど、踏み込みすぎるような勢いはない。
その加減に少し安心する。
「だいっ……じょうぶです」
口に出した言葉が頼りなくて、あとから恥ずかしくなる。けれど、彼女は笑ったりしなかった。
「あっ、私も一年だから敬語使わなくて大丈夫だよ」
自分も敬語を使っていたことに気づいて、少し照れくさそうに笑う。私はただ、うなずくしかできなかった。
「他の部員の人はまだ来てないの?」
「……いないよ」
「いない?」
「私一人だから……部員」
「えーっ!一人だけなの!?」
驚きと一緒に放たれた声が、狭い部室の空気を変える。私は少し身を縮めてしまう。
「先生もそういうことは先に言ってくれたらよかったのに〜」
文句を言っているようで、怒っているわけではなかった。彼女の声には、ほんの少しだけ笑いが混じっていた。
それでも私は、不安だった。
彼女のような子が、この部室にいるのは、どこか場違いに見えた。
彼女の無邪気な明るさと、ここにある静けさが、あまりにも違いすぎた。
「今まで一人で頑張ってきたんだね……」
「いや……まあ……」
たいして何もしていない、という言葉を飲み込む。
否定するのも、肯定するのも難しくて、曖昧な声だけが喉から出た。
「じゃあ、これから二人で頑張ろうね!」
「え……?」
「入部したいって言ったら、迷惑かな?」
彼女は少しだけ首を傾けて、目を細めた。伺うようなその表情が、まぶしく見えた。
「……いいよ、別に」
「やった、ありがとう! えっと……お名前、聞いてもいい?」
「……カスミです」
「よろしくね、カスミちゃん!」
その声が響いたとき、私はまだ返す言葉を探していた。
この部室に、誰かがいる。
その事実が、私の中の何かをわずかにざわつかせた。
一人きりで守られていた空間が、ゆっくりと揺れる。
居場所を取られるような怖さ。知らない誰かと近づいてしまうことへの戸惑い。
でも、ほんの少しだけ、そうなってもいいのかもしれないと思ってしまった自分がいた。
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