短編集:桜のある風景
黒澤伊織
第1話 桜蘂降る
中肉中背に黒縁眼鏡、写真で見たとおり、顔立ちは可もなく不可もないが、少々老けた印象か。一見、物静かで大人しそうではあるが、そういう人ほど神経質、あるいは怒ると手が付けられないなど、性格に難ありの可能性もある。向こうがこちらを気に入ったとしても、上手く行く可能性は良くて五分五分——。
それが今回の相手だと認識した瞬間、まるで生身のその人が、ゲームのキャラクターであるかのような、そんなデータじみた文字列で表されたのは、私が婚活というもの——結婚するための活動に慣れ切ってしまった証拠だった。
この数年で、私が会った男性は五十人以上。交際に至った人もいるにはいたが、互いに「この人ではないのではないか」という思いが募り、数ヶ月で別れてしまった。
それ以外は、思惑のすれ違いばかり。条件の食い違い、実際に会ってみての感覚の違い、好みの違い、どうしようもない生理的嫌悪感——もっとも、これは私側の理由であって、相手の理由は分からないままだ。分かったところで「合わなかった」、結局はそれだけなのだから、直す直さないの話でも、悪い悪くないの話でもない。婚活は就活と同じ。給与と待遇を鑑みて、どこまで妥協できるのか、それだけだ。
そんなことを言うと、冷たいだとか、高望みだとか、もう三十路も半ばを過ぎた女が身の程知らずだ、などと言われてしまうかもしれない。そんなことは分かっている。年齢に容姿、女に求められる基本的な価値は、婚活市場においても同じで——いや、いまは稼ぎも期待される分、条件は厳しいかもしれない——どれも並み以下の私を、望む人など現れない。
けれど、そのいない人を求めてさまよううちに、私は分からなくなってしまったのだ。どんな人が好きなのか、相手に何を求めているのか、あまつさえ、なぜ私は結婚したいのだろう、そんな根本的なことまでも。
こちらに気づいた相手に会釈し、互いに一通りの自己紹介を済ませると、私たちは予め決めた店へ歩き出した。軽食もある、落ち着いた雰囲気のコーヒー店。
ここを利用するのは——先月ぶりだ。そのときの相手は、何が気に入らなかったのか、コーヒー一杯すら頼まずに、ひたすら窓の外を眺めていた。同じことが以前にもあったため、私はその相手がそのときと同じ人なのではないかと疑いながらも、その無駄に思える時間を耐えた。私の何が悪かったのか、以前はひどく傷ついたことを思い返し、偉大なる時間と経験に感謝すらしながら。
今回の相手も、印象通り、そう多くは口を開かない質のようだった。けれど、ぽつり、ぽつりと出る言葉は礼儀正しく、育ちの良さを感じさせる。そういえば、荷物入れに置かれた彼の鞄からは、文庫本が覗いていた。趣味は読書——プロフィールにはそう記されていたかもしれない。
それが曖昧なのは、やはり経験から、プロフィールなど嘘ばかりだと、知っているせいだった。そう、それも就活におけるエントリーシートのように、嘘や美辞麗句を並べておけば間違いがない。
趣味は映画鑑賞と書いていて、数年に一度、大ヒット作を一本見ただけという人もいたし、美術館巡りが好きと書きながら、併設のカフェに通っているだけという人もいた。それに昔、名ばかりのテニス部に入っていた女友達が、趣味はテニス(だけど、最近忙しくてできません)だなんて、記入しているのも知っているし、かく言う私も、自炊をしているというだけで、趣味は料理と記入しているのだから、人のことは言えない。
そんなことを考える間にも、滞りなく逢瀬は進み、軽食を食べ、目の前のコーヒーを飲んでしまうと、私たちにはすることがなくなった。このデートも佳境を過ぎ、終盤にさしかかるというところか。
支払いはさせてくださいという相手に、自分の分は払いますからという、一連のやり取りをこなすと、私たちは店を出る。ここで解散でもいいのだけれど、さすがにそれは早すぎる。少し散歩しませんかという提案に、はいと頷き、歩き出す。そうしながら、この人はなしだなと、気持ちを切り捨て始めている。
今回も、こうなることは分かっていたような気がするのに、私は一体、何をしているのだろうと思いが込み上げる。婚活はもう辞めようと、何百回目かの決意が、頭の中で回り始める。
私はきっと、婚活を長く続けすぎたのだ。いや、これが婚活でなければ、長く続ければ続けるほど経験は増え、目標は近づいてくるはずだった。それなのに、この婚活というものに限っては、続ければ続けるほど、足掻けば足掻くほど、ずぶずぶと沼に飲まれるように、何をすべきか分からなくなる。どこへ向かえば良いのか、動機の根本さえ——何がここまで私を結婚に駆り立てるのかも分からずに、闇雲に進むしかなくなってしまう。
そんなことでは、求めている相手に辿り着くどころか、出会ってもそれと分かるはずがない。けれど、ならどうすればいいのか、分からない。ただ出会いを繰り返し、相手の合否を断じ、よく分からないままに切り捨てる。まるで何かの作業のように、そんな手順をこなし、目標に向かって努力しているかのように装っている、それがいまの私なのだ。
見合い結婚した両親を、私はこの頃、特に羨ましく思うことがあった。自分で結婚相手も選べない、不自由な時代だというのに、それに焦がれるときがあった。
年頃になったある日、私は母に一枚の釣書を渡される。そこには、父母や親戚縁者に吟味された、私と家族になるのにふさわしい人の写真が貼り付けられている。私はその夜から、余程のことがない限り、この人と結婚するのだと、どきどきしながらその日を迎え、そこで未来の夫と出会う。写真よりもずっと、本物のほうが優しそうね、なんて、母にそう囁かれて。
そうなれば、私も思い切れるかもしれない。誰でも良いのに、誰でも良くはない——そんな泥沼を易々と越え、結婚に飛び込めるのかもしれない。けれど、昔とは違い、いまは自由が尊ばれる時代だ。私が置かれているのは、この人との結婚を強制される場ではなく、けれど、そうして相手を選べてしまえば、私は断ることが自由だと思ってしまう。自由であることを尊ぶあまり、より自由を感じられる選択肢を選んでしまう——。
だから、私はやはり、この人のことも断るのだろう。本末転倒だ、そう分かってはいても、だから結婚できないのだ、そう後ろ指を指されても。
連れられるようにしばらく歩けば、目の前には、桜が綺麗なことで有名な公園があった。ここに連れてこられるのも、何度目か。けれど、残念ながら、いまは桜の時期じゃない。花は散り、青々とした葉が繁り始め——。
隣を歩く人が、何事か呟いた。その声は、まるで独り言のようで、聞こえないふりをするべきか迷いながらも、私は儀礼的に、何ですかと聞き返す。すると、その人は鞄に入っていた本を取り出した。小説——ではない。季語と、その俳句が収められた、歳時記であるらしい。
意外に思いながら、私は指し示された箇所を覗き込んだ。桜蘂ふる——そのままでは読めない漢字の横には「さくらしべ」、とそう記されている。
「この景色が見たくて」
柔らかな声がそう言った。
この景色。私は葉の出た桜を訝しげに見上げた。
「じゃなくて、こっち」
言われて地面に目を落とすと、そこには花びらではない、何かが落ちている。
「桜の花が散った後、その赤い蘂や萼が降ってきて、地面が赤く染まったように見える様子、だそうです」
言われてみれば、そこには赤が——紅葉のような赤さではなく、もっと落ち着いた、煉瓦色のような赤が、散策路を染めていた。何も知らなければ気にも留めないような、例え気づいたとしても、綺麗だなんて思わないような、そんな赤。けれど、私はその景色から目を離すことができずに、無言でそこに立ち尽くしていた。一人きりでなく、隣にいる人と二人で、まるで私もまた、この景色を求めてやってきたのだというように。
いまは、桜の時期じゃない——ついさっき思い浮かべたばかりの言葉を、私は胸の中で繰り返した。いまは桜の時期じゃない、だから桜の名所に行ったって仕方がない。葉桜なんて見るものじゃない、楽しめるのは花だけなのだから、それが散ってしまえばおしまいなのだ。
私は葉桜が好きではなかった。もっとも、それが好きだという人も稀だろうが、盛りを過ぎ、散り、見る価値もなくなってしまった桜を、どこか自分自身と重ねていたのだ。だからきっと、その価値を求めるあまり、婚活の中で迷子になってしまったのだ。誰かと出会うことよりも、自分の価値を確かめることを目的としてしまったときに。
けれど、桜は葉桜ではなかった。いや、これから葉桜になろうとも、いまは桜蘂降る季節——花の名残とこれからを思う季節。
「……先へ行ってみましょうか」
隣の人が、覗き込む。その微笑みに、この人はこんなに優しい顔をしていたっけ——いま初めて見たように、はっとする。我知らず頷き、歩き出すと、はらはらと風が蘂を降り散らす。
これが桜吹雪だったなら——さっきまでの私なら思ったに違いない。けれど、歩き出したいまは違う。
桜は、その花の時期だけ、突然現れるわけではない。誰もが見向きもしない季節もそこにあり、葉を茂らせ、落とし、あるいは冬枯れの姿で、変わらずそこにあり続けているのだ。
「あの、今更なんですけど、私——」
隣を歩く人を見上げながら、私は思い切って口を開く。桜の花の盛りではなく、桜蘂降る風景を見たいと言った人へ。これからの季節も、移り変わっていくものを、二人で見ることができたらいいと、そんな予感を胸に抱いて。
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