貴女の愛した二人の話し
はららご
プロローグ
空白。
そんな感覚があった。
全てが抜け落ちて無意味なものになる。
このまま倒れて動かなければ、身体の機能さえ忘れてしまいそうだ。
実際、半分程は既に手遅れな身体に動け、と命令を下す。
「…。」
確かに、頭は働いているはずなのに、指一つピクリともしない。
強く命じれば命じる程、身体は石のように固くなり、意識は脳みそではない、さらなる奥に吸い込まれていく。
瞬きも、呼吸も回数が減ってくる。
もしかすると、わざとそうなっているのかもしれないとぼんやりと思う。
なろうとしている。
空白以前に。
前提よりも真っ白に。
失ったものと見合う空白をつくろうとしている。
失ってしまったものが、歩く術に匹敵するものなら、足は機能を失う。
失ったものが、体内に血を巡らせて、血液を循環させていたものなら、血は固まる。
生きる理由だったのなら。
自分が失ったものは、自分にとってそのどれの機能も有していない。
正確には、全ての要素が含まれるのだが、何か機能を失う程度のものじゃない、と失ったものは、そのどれよりも大きいのだと、意味のない意地のようなものが程度を曖昧にしてしまう。
それは単に、失った事実を認めることが出来ない故の遠回りな否定かもしれなかった。
ただ、本当にそうなのだ。
自分が先にあり、後から与えられた機能とは違う。
自分よりも先にあった。
当たり前だった。
自分があと付けで良いくらい、そう思えるくらいのものだった。人だった。
それが無くて、自分だけが存在出来るわけがなくて。
自分は、彼女が見ていた夢であったとしても構わない。
むしろ、そうであって欲しかった。
彼女が消えたと同時に、有無を言わさず泡の様に消えれればどれほど良かったか。
それは叶わないまま、精神だけがシャボン玉の様に割れて今の惨状に至る。
確かに、自分の精神は彼女の中に存在していたのかもしれない。
彼女は自分のものにはならなかったけど、自分は確かに彼女のものだったのだろう。
そう考えると救われる。
今も、こうして息を吹き返す手段は彼女に関することを手繰り寄せるしかない。
少なくとも、彼女について考えることさえ出来れば、呼吸程度は難なく行える。
少しでも息をしたいと思える。
生きてたいと思える。
死人を死なせないことで自分は生きていける様だ。
彼女をよりどころにして、様々な機能を取り戻して行く。
ただ、血液が身体を循環し出したのか、それとも何かしらの感情の働きなのか、指、手首、首筋、唇、耳と熱を帯びて行く。
そして、まぶたに熱を感じると同時に、彼女を失ってから流すことのなかった涙が、ようやく溢れ出した。
すると、次は声を取り戻した。
言葉にならないような、ああやら、ううなどの産声に似た嘆きが次々と零れる。
泣いているのだと理解する。
ここまで来ると、次第に身体は修復されて、空白を埋めるように、大きく躍動する。
腰や膝が曲がり、腕には力が入り、両手は目を抑える。
上下左右、縦横無尽にバタバタと揺れる。
口は、噛み締めたいのか、叫びたいのか、どっちつかずのまま、半開きに震えている。
胸が痛み、発生源を掴もうとした時、加速する心臓の鼓動と共鳴するように、床に投げられていた携帯電話の音が、自分以外何もない空白の部屋に鳴り響いた。
この部屋に、自分以外の心臓の鼓動を招いた様に。
「…だれ…。」
鳴らないはずの携帯電話。
親からだろうか。
いや、親ならわざわざ電話じゃなくてメールで簡単に済ましてくる。
なら、余程の急用か。…倒れたとか。
もし、そうなら次々にドミノ倒しの様に自分の周りのものが倒れ始めている。
まぁ、その線はない。
まともに連絡はとってないが、前やりとりした時は、特に問題なかった。
…だが、何だ。この気持ちは。
家族の安否について考えたら、ひとつの事実がハッキリしてしまった。
…さほど、悲しくない。悲しいけど、喪失感が、今以上にはならない。
酷い人間かもしれないけど、それは事実だった。
裏を返せば、家族よりも大切なものがあるってことだ。
あったってことだ。
…家族。
今、彼女がいなくなったことで、世界から取り残されているのは自分だけではない。
彼女の家族もだ。
両親はもちろん、そして…夫…と、娘。
彼女は結婚していて、夫と娘がいる。思い出す度に、口の中の苦い汁を噛み締める。
目を細めてしか、直視出来ないその事実が頭を後方へと引っ張る。
彼女と、その家族との様子はあまりハッキリとは思い浮かばない。
特に、夫の方は意識して避けていたからだろうか。
顔もおぼろげだ。
あやふやにすることで、ダメージを抑えているのだろう。
夫は、まぁ、仕事だったりであまり見かけなかったが、娘は記憶にある。
それも、ハッキリと思い出せる。
彼女の家に遊びに行くたびに、その姿を見かけたからだろうか。
あまり、見ないようにしていたが、かえってそれが異物感を醸し出しハッキリと記憶させているのだろう。
ずっと、その子のことは、不機嫌な瞳で見ていた。
彼女の側にいるものだから、ずっと。
彼女の側にずっといる点では、夫よりも、その立場が羨ましく思う。
あと、何かとあちら側も、こちらに変わった目を向けていた気もする。
きっと、自分のせいなのだろう。
意味もわからず、不機嫌な目を向けていては、あちらも無視は出来ない。
彼女がいなくなった今、自分は彼女の娘にどのような視線を向けるのだろう。
泣き疲れて、考えて、今すぐ楽になりたい頭を、鳴り続ける携帯電話の音が邪魔をする。
適当にはぐらかしていれば止むと思ったのに…。
仕方なく、手に取り、どこからの電話かも確認せず、もしもしと、覇気のない声で応える。
『…もしもし、生石さんのお宅で、間違いないでしょうか?』
相手は男性だった。
その声に思わず眉間にしわを寄せる。
苦い汁が溢れ出す。
知っている声。
彼女の夫からの電話だった。
その内容を聞いて、生きていくんだなと思った。
彼女のいない世界で、彼女の残したものが消えない限り、自分はそれと共に。
車の窓から見た外の世界は、大雨だった。
窓に水滴が当たっては弾かれて、合わさって、力なく下へと流れ落ちて行く。
窓の外にあるのは、きっといつもと変わらない日常なのだろうけど、窓が、雨粒が、それを直視することを拒む。
目を閉じて新たに壁をつくってしまえば、二度と、その日常と直面する必要がなくなるのだろう。
耳が、常にノイズのように流れ込んでくる雨音を一滴残らず、掬い上げようとするように休んでくれない。
外側からの刺激でも何でも良い。
とにかく頭の中を何かで埋め尽くして、現実から逃げたかった。
どんなに雨が、空白を埋めようと、決して埋まらなくなった私の世界から逃げてしまいたかった。
どんなにこの雨が激しくなろうと、快晴になり、虹が架かろうと、私の母は戻ってこない。
数時間後には、雨が止む予報らしいけれど、むしろ降り続けるこの雨が私と母を繋ぐ最後のものかもしれなかった。
ならば、ずっと降り続けて欲しい。
そうすれば、ここから一歩も動かずに、葬式に向かう必要もなくなる、そんな気がする。
父が用意を済ませ、車に乗り込んでくるまでの間、私だけの空間がひろがり続ける。
世界に、私だけになった様だ。
たとえ、私以外に、悲しみに暮れる誰かがいようにも、この雨が止むまでは、その泣き声ひとつ聞こえないだろう。
実際、母が亡くなって私以外に涙に暮れる人はいるのだろうか?
父はもちろん悲しんでいる。祖父母だって同じで、それでもパッと思い浮かぶのがそれくらいしかいない。
家族という枠組みから離れたところで、悲しんでいる誰かの姿は見つからない。
これから向かう葬式だって、出席している殆どの人間は、父の方の関係者で、生前、母と繋がりがある人間は本当にひとりとしていないかもしれない。
それくらい母の人間関係は希薄だった。
唯一思い出すのは、あの瞳。
私が顔を向ける度に、何か言いたいように細めて見つめてくる不器用な瞳。
理由はわからないが、私のことが苦手なんだなってわかる歪んだ表情。
ただ、子供が苦手なだけかもしれないし、何か他の理由があるのかもしれない。
それでも、子供相手にはもう少し取り繕えと思ってしまう程、何かこちらに思うところがあるのがありありと伝わってきた。
それに加え、母の唯一の友人であるという事実が、私にその女性を意識させた。
私の知らない私のことすら知っていそうな、どこか日常から孤立して存在して見えるその女性が、ずっと頭の上に瘤ができたように、気になっていた。
その女性が来る度に、その女性から何かを探ろうと視線を注いだ。
きっと相手からしたら気が気じゃなかっただろう。
それでも、ずっと母に会いに来てたので、それくらい母の事が好きなんだなって思って、どこか嬉しくなった。
確か、名字も珍しかった。特に読み方が。
…なんだったか。
「お待たせ。」
バタンと扉の開く音と共に、思考が中断され父が車内に入ってくる。
「…もう、行くの?」
「あぁ、どうした?忘れ物は大丈夫だろう?」
「…そう、だけど。」
黙り込む。
もう少し、ここにいたかった。
少なくとも、あの女性の名字を思い出せるまでは。
俯いて、膝の上に重ねた手に目をやると、一筋の光が差し込んでいた。
どうやら、雨が止みはじめているようだった。
微かに視界が揺らいで、エンジン音と共に車が動き始める。
その流れに抗う様に、窓に付いたままの水滴をじっと見つめる。
私の思考と、そこに残っている誰かの残骸を、ひとつひとつ確かめる様に。
そのまま、ぼうっと見つめ続けた。
絶対に、これから向かう先と同じ方向にだけは向きたくはなかった。
「…ちょっと、良いか?」
一つ目の信号に差し掛かったところで、ずっと黙っていた父が声を掛けてきた。
車の中での親子の何気ない会話。
それだけなはずで、今までも何回も繰り返してきたことのはずなのに、今は私の周りの空気の些細な変化だけで、胸の中に雨雲の様な黒い渦が出来上がるのを感じる。
頼むから、これ以上動かさないで欲しい。
今までと同じことなんて、したくない。
だって、目の前には、窓の外以外に目を向けてしまえば、そこには今までと同じものなんてないんだから。
「…ごめん、眠いから寝る。…着いたら起こして。」
「…そうか。」
「…うん。」
私の中の今までと同じを崩さない様に、出来るだけ何気ない返事を意識して、頷いた後、静かに目を閉じた。
目を閉じても、微かに瞼の中に残った明るさに、生きてるんだなって感じて、現実が見えて悔しくなった。
でも、すぐに現実からは離れて夢へと意識が傾いて行く。
葬式の場所に着くまでに見た夢の中には、母とあの女性がいた。
いつも通りの風景だった。
また、この風景を見るために、何か出来ないかな、あたたかいなって、熱をほんのり帯びた石を持ち上げる様に、ぼんやりと考えた。
出来るだけ夢から覚めないように、四肢の力を脱いて、椅子に深くもたれかかる。
夢と現実の境目をなくすように、敢えて景色をおぼろげにさせながら、天井の明かりを眺める。
もう一回夢の中で眠れるように、徐々に余分なものを剥がしていく。
完全に夢に溶け切ろうとしている私に、誰かが近づいて来た。
母だった。
母は何かをこちらへ喋っているが、声は聞こえず、口の動きからしか内容が読み取れない。
4文字か5文字くらいの短い言葉を繰り返し投げかけてきている。
まさか、ふざけんな、とか、ゆるさん、とかじゃないだろう。
目の前の母が幽霊なのだったら、恨みのひとつやふたつはあって然るべきなのだろうけど、目の前の母は、いつも通りの母だ。
少し申し訳なさそうな顔から、何か頼みごとをしてきた時の母を思い出す。
…そうか。何か頼んでるんだ。
なんだろう。
遺品の片付け?父のこと?私の健康?
どれも合っていて、どれも違うような気がする。
きょとんとした顔で、母を見つめ返すと、伝わってないとわかったのか、あきらめた顔で私の頭を撫でて来た。
そして、そのまま頭を動かして、無理やり私の視点を調整してきた。
母が向かせたのは、窓際で。
カーテンが開かれた窓には青すぎる空、快晴がひろがっていて、その中心では、あの女性が窓の外を眺めていた。
母の行動の意図を探ろうと、いつもの様に、女性を見つめると、ゆっくりと振り向いた。
…その目は、快晴には似合わない涙で濡れていて、そこに母を失って以来、はじめて、私以外の孤独な姿を見た。
その涙を見て、夢から覚めるという確信が訪れて同時に、ようやく母の言葉が胸に届いた。
よろしくね、って。
「ん…もう着いた?」
まぶたの下に感じる熱を誤魔化すように眠っていた目をこすりながら、運転席の父に問う。
「おはよう。あと少しで着くから、涙拭いとけよ?」
「…なみだ?…出てない。」
「出てる出てる、別に泣いても良いんだけどな…母さんいなくなってから、お前泣いてなかっただろう。」
「これは、違くて…私のじゃ…。」
まぶたの下の熱の正体くらい自分でもわかってる。
ただ、それはさっきの夢の通りなら、私の涙ではなくて。
…そうだ、あの女性だ。
あの女性について聞かないと。
「…あの人も来てるかな…。」
「あの人?」
「…あの、お母さんの友達の、えっと…。」
「あぁ!…うん、どうだろうなぁ…。」
最初の返事はハッキリとしていたのに、重要な部分については曖昧にはぐらかされた。
「…多分、参列の欄にはなかったけど。俺が名前忘れてるだけか?」
「…だと、良いね。」
「そうだ、な。」
車の揺れによる錯覚か、父の肩が何かにつまずくように縦に跳ねた気がした。
何か、変なこと言っただろうか?
訝しむような眼差しでいると、バックミラーに映ったのか、父が振り返る。
「そんなに仲良かったっけと思って。」
どうやら、私が誰かに希望的観測を持つのが珍しかったみたいだ。
「…そりゃあ…仲良く…は、ない。」
仲良い訳が無い。
どちらも互いの何かが突っかかって、意識せざるを得なかっただけで、それは決して良いものではなく常に背後を気にしなければならないような居心地の悪ささえ感じた。
そもそも自分がつくりあげてきた人間関係以外の、親の親戚という因縁めいたものと仲良くやっていけるような人間なんているのだろうか。
じゃあ、何故、私はあの女性に会いたいみたいなことを言ったのだろう。
夢の中で母にまかされたから?
そうだろうけど、それだけじゃ何かしら反抗的な感情が芽生えたはず。
…多分、母が残した唯一のものだからだろう。
その中身が何であれ、ほとんど何も残さなかった母が残した完璧に母由来のみで出来たものは、それくらいしかない。
だったら、それが何であれ、私はそれと共に生きていきたい。
それを逃せば、いつか母が幻になってしまいそうで。
きっと母の死を乗り越えた先にあるのは、窓の外にある快晴のような清々しさなのだろうけど、快晴がひろがる前にあった雨を私はいつまでも覚えていたいと思うのだ。
快晴は素晴らしいけれど、あまりにも青すぎて、距離さえ掴めない。
目の端さえ続く青に嗅覚さえ持っていかれて、漂白されたように何も匂わない。
青空は私目掛けて落ちてこない。
雨は私目掛けて降ってくる。
音と匂いと温度と共に。
私にとって母は青空じゃない。
届かないものじゃない。
声も、匂いも、体温も全部届いてた。
あたたかくて、鬱陶しくて、印象なんてチグハグで。
母を思い出と共に雨の中に閉じ込めて、滴が弾かれる度に母を思い出したい。
私だけじゃ、母を覚えておくにはあまりにも力不足で。
やっぱり誰かが必要だ。
これから先、雨でも快晴でも、曇りでさえも歩いていかなければならない人生に、何もかもに母を見るような私以外の誰かが必要だった。
そして、その誰かは今向かっている先にはいない。
なら、
「…仲良くは、ないけど、多分あの人にも私が必要だから…。」
反省してる。後悔してる。
後ろ向きなものが芋づる式に出てくる。
何故、断らなかったのか。
半ばやけくそに承認してしまったその願いに伴うこれからの疲労と責任に思わず首を振ってしまいたくなる。
あの日からずっと快晴が続いている。
彼女の葬式に行かなかったあの日から。
空にさえ置いていかれた気になって、雲のひとつやふたつ探してみる。
痛いほどの青空が、自分の目から入り込み内側から頭痛と、気怠さを飛行機雲のように押し出してくる。
どこかへ行けと言うのか。
たとえ、どんなに自分を内側から押したところで、新天地になど飛んでいくつもりはない。
帰って良いのなら、今すぐにでも自宅の布団へと不時着したかった。
「っはぁー…。」
大きなため息と共に、膝に手を付き屈む。
ただ、立っているだけなのに、どんどん体力というか気力が削がれていく。
人がすれ違う度に、自分から気を奪っているのではないかと、引きつった笑みで呆れ果てる。
奪われる程のものが残っていればの話しだが。
あの娘がここに来てしまったら、自分には何も残らないだろう。
無理無理と言えば、逃してくれないだろうか。
まぁ、歳だし。
まったく健康に気を遣ってこなかったのに、今まで特に不自由なく育ってきた。
今なら、それが全部自分のおかげじゃなかったことが、わかる。
彼女ばかり見て、自分のことなんて何一つ見てこなかったから、自分の歳とか健康とか存在しない世界で生きてきたのだ。
じゃあ、これからは食べ物、飲み物その他諸々、気を遣って生きていかなければならないのか。
…嫌だなって思う。
好きなものだけで生きていきたいとか、そういう思考以前に、そこまでして生きたくないなって。
そもそも、今さら気を遣ったところで遅いのではないか。
もう今年で四十だ。
これだけ生きていれば、本来なら、何かを失ったところで、乗り換えられるような、言い方が正しいかはわからないが予備のようなものが当たり前に存在しているのだろうか。
今回は物ではなく人、決して軽く扱って良いものではないが。
もしかすると自分も、一時的な喪失感に襲われているだけで、案外周りと変わらないのかもしれない。
これから先、上手くやっていけるかもしれない。
「…嫌だ。」
自然と口から言葉がこぼれた。
それが嫌だ。
上手くやっていけるかもしれない事実が嫌だ。
沈んでいる感覚から浮かび上がろうとして、中途半端に前向きになりたくないと拒む。
上手くいっている未来を考えると、何かが込み上げて、吐くものなどないのに、どこか気持ち悪くなる。
落ち着かない。
酔いを覚ますためみたいに、足もと一点をずっと見つめる。
カランッ
「…!?」
近くから、突然何かの転げる音がした。
内に意識を向けていたのに突然の物音に意識を戻す。
「…カラス……。」
少し向こうで一羽のカラスが、ゴミを引っくり返し、餌になるものを探していた。
待ち人がもう着いてしまったのかと、一瞬焦った。
ただでさえ、気分が優れないのに、更に深く潜ろうとしていたこの状況で出会うのは避けたかった。
カラスが音をたてなければ、そのまま同仕様もないことで頭を巡らせていただろう。
強制的に意識を外に戻らされたことで、空気の纏わりつく先程とは別の不快感が込み上がる。
相変わらずの晴天が、地面に落ちたゴミを輝かしく照らしている。
宝石にも見えるゴミの固まりを、カラスは何を欲しているのか、くちばしを器用に使い、拾い、どかし、繰り返し、地面とにらめっこを交わしている。
そこら中に散らばっている欠片など気にもとめないで、ただひたすら、意中の物を探している。
見方によれば、どこか馬鹿馬鹿しくさえ見える。
一心不乱に一つの物を求める。
自分も傍から見たら、あんなふうに見えていたのだろうか。
…見つからないよ。
心の中でカラスに語りかける。
自分だって、そうやって手に入らなかったんだから。
カラスを見ていると、彼女がいた日々が、彼女と過ごした日々が過去のものになっていくのを感じる。
自分を俯瞰して見れるものが現れたことで、重荷が無くなっていく。
留まっていたいような、いっそのこと全て持っていって欲しいような、寂しさと誇らしさが混ざった変な感覚が込み上げてくる。
このまま預ければ、吹っ切れるだろうに、やはり胸に影が差して踏みとどまってしまう。
カラスを見ているのさえ重くなり、再び足もとに目を向ける。
空には雲ひとつ見えなかったはずなのに、いつの間にか近付いた雲が太陽を隠したのか、視界が暗く感じる。
だが、直ぐに近付いていたのは雲ではないことに気付く。
視界の端で、もうひとりの影が揺れていた。
それは自分が視線を向けるよりはやく、語りかけてきた。
「生石さん…えっと、生石日月(おうしこ ひつき)さん、ですよね?」
「…!」
そこにはひとりの少女が立っていた。重そうなリュックを背負い、片手にはキャリーバッグ。
十代半ばの良く知っている顔が、彼女に似ている顔がこちらを訝しげに見つめていた。
…来てしまった。
逃げられないとわかった。
散々、年齢がどうとか言い訳を考えていたのに、こちらをじっと見つめてくる目からは逃さないという圧を感じる。
言い訳ばかり頭から逃げて行く。
空気を吸って応える。
「…そう。…確か、皆美ちゃんだっけ…?」
額を拭う。
「はい。石橋 皆美(いしばし みなみ)です。…これから日月さんの家でお世話になります。」
…そう。自分には理解出来ないが、この娘は、自分の家でこれから生活する。
そう願って来た。
…妻を亡くし、ひとりになった父親を残して。
「…うん。よろしく。」
「…よろしくお願いします。」
風が吹いて、彼女に似た栗色の髪が揺れる。
それと同時に先程のカラスが鳴いてどこかへ羽ばたいて行く。
目当ての物は見つからなかったのか、何も咥えず青空へと向かって行く。
どこへ行くのか少し気になったが、今は、これからは目の前の少女を見つめなければならない。
カラスは二人の間に、鈍くも光らないふたつの羽を残し、去っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます