冬
第19話 変態
十二月に入ると社内はクリスマス・年末商戦に向け一気に慌ただしくなり始めた。
乾いた落ち葉を巻き上げていた秋の風はどこかへと消え失せ、重く分厚い灰色の雲と、乾燥した空気が冬の訪れを告げる。
出社するのも億劫になるほど寒すぎる。一人で寝るにはあまりに寒い冬、隣にあったはずの熱が恋しい。
今だに私に怒っているらしい彼女は相変わらずで、依然態度は軟化しない。まるで氷の女王様のようだ。
機嫌を取るためにあらゆる手段でアプローチしてみたものの反応は薄く、ことごとく失敗した。
諦めるな、三ツ矢香織。お前ならできる。
自分自身を懸命に鼓舞して、今日も離席した彼女を追いかけた。
「……あのさぁ、いつまで怒ってんの。いい加減許してくれてもよくない?」
廊下を歩く瀬野さんの横顔を見つめる。
ちらりと私を見る瞳は冷え切っていて鋭く、その視線だけで私の心は容赦なく切り刻まれるような心地だった。
「怒ってないわよ」
嘘つけ。今までこんなことなかった。喧嘩をしてもすぐに仲直りできたはずだった。
「……私、なんか気に障ることした? ちゃんと謝りたいから、理由を教えて欲しい」
「別に」
すいすい進んでいってしまう彼女の背をただ追って歩く。
瀬野さんの性格を今まで関わってきた中で知っていた気でいたけど、彼女は本音を隠すのがとても上手だ。
心を裏読みするのが苦手な私は、気持ちを隠されてしまうと急に目隠しされたような気分になる。
「……香織」
「え?」
突然名前を呼ばれて、はっとして顔を上げる。考え事をしてぼうっとしていた。
「どこまでついてくるつもり? 変態」
気付けばトイレの個室の中まで追いかけてしまっていて、瀬野さんは目を細めて私を見た。
「あ……ごめん」
「……早く出てって」
肩を押されて後ずさると、バタンと音を立ててドアが閉じられる。
やっぱりだめか。
私はため息をついて、項垂れた。
***
いつもだったらランチは外に食べに行くのだが、早く女王様に機嫌を直して欲しい私はここぞとばかりにコンビニでおにぎりを買って、休憩室まで瀬野さんを追いかけた。
こうなったらもうなりふり構って居られない。行動あるのみ。ひたすら許しを乞うしか、残された道はない。
窓際の席、お弁当箱をランチトートから取り出した瀬野さんの向かい側に、ガサリとわざとらしい音を立ててコンビニのビニール袋を置く。
怪訝そうな顔で彼女は私を見上げた。
「……香織ってさあ」
「なに?」
「しつこいってよく言われない?」
私はおにぎりの包装紙を剥きながら、呆れ顔の瀬野さんを見る。
「そう? あんたにしか言われたことない」
特にセックスの最中とか。
含みを持たせて言うと、私の言いたいことに気付いたのかテーブルの下でガツンと足を蹴られた。痛い。
「はぁ……もういいわ。……それより、そんなので足りるの? お弁当ぐらい、自分で作ればいいのに」
「昼ぐらい美味しいご飯が食べたい」
「ふーん。……コンビニのおにぎりって美味しいの?」
「自分で握るよりはね」
瀬野さんの綺麗に纏まったお弁当を眺める。いいなあ、美味しそう。
そりゃあこいつモテるわ。モテない方がおかしい。この顔で、この身体で、この家事スキルだもん。男が放っておくはずがない。
今更ながらどうしてこいつが私を相手にしようと思ったのかわからない。
それほどまでに女から見てもこいつは完璧だった。彼氏がいないのが本気で信じられない。
ここまで差があると、遊ばれて飽きて捨てられたんだとしても、何も不思議には思えないな……。
気が滅入りそうになったところで、スマホが震えた。ポケットからスマホを引っ張り出すと、メッセージは母親からだった。
思わず溜息をつくと、綺麗に焼けた卵焼きを頬張りながら瀬野さんがじっと私を見た。
「……どうしたの?」
「ん? あぁ、母親から。妹の結婚式、もう少しなんだよね。……はぁ、なんかあっという間だな」
結婚式はクリスマスの直前だった。前泊しないと間に合わないから前乗りして実家に帰るつもりで居て、結婚式が終わってからは実家に泊まらずに東京に戻ってくる予定でいる。
「ふーん……姉妹がいるっていいわね。香織、泣いちゃうんじゃない?」
項垂れた私の様子に瀬野さんは柔らかく微笑んだ。さっきまでの刺々しさはない。たったそれだけのことだが私の心は少しだけ軽くなる。
「……姉と妹っていう関係性が変わるわけじゃないのに、不思議と寂しい。上手く言葉にできないけど……別々の人生を歩んでいくんだなって、思い知らされるみたいで」
「そりゃあ、家族とは言え、別々の人間だからねぇ。香織は複雑かもしれないけど、ご両親は喜んでるでしょ。子供の花嫁姿、親なら誰だって想像するだろうし」
花嫁姿か。あんたを諦めきれずにいる間は、私はそんな姿、親に見せてはあげられそうにない。
でも、優の結婚で気は楽になったかも。
何か言われたら、「優が結婚したんだし私はいいでしょ、もう期待しないで」って逃げられる気がする。
「ま、代わりに親孝行してもらったって思えばいいか……。優、子供欲しいって言ってたし、早く産んでもらって、親の気を逸らしてもらおう」
「香織は子供欲しくないの?」
「子供? 考えたこともないよ。私には無理、無理」
あんたはどうなの、とは、恐ろしくて聞けなかった。
二つ目のおにぎりに手を伸ばしたところで、ふいに視線を感じて顔を上げた。
「そういえば……香織さぁ、最近黒崎さんと仲良いのね。この間、飲みに行ったって聞いた」
黒崎くん? 突然意外な名前を出されて驚いた。
「あーそうだね、あんたがいない間に色々あってさ……懐かれた。いい子だよね、身体がデカいから怖そうに見えるけど、意外と話しやすくて。この間一緒にバッティングセンター行ってきたんだけど、黒崎くん、甲子園出たこともあるらしいよ」
「ふーん……」
「ま、あんたはあーいうタイプ好きじゃなさそうだけど」
「香織に私の好きなタイプなんてわかるの?」
「定職に就かない、低収入のヒモ男でしょ」
ガツンともう一撃。脛を蹴り上げられて私は声を立てて笑った。
そう、こういうのだよ。
こういうやりとりが、一緒にいて心地いい理由なんだ。
やっぱり、元に戻りたい。諦めることなんて、まだできそうにない。
瀬野さんが食事を終えたタイミングで、
「コーヒー飲む? 買ってくるよ」
と顔色を窺いつつ聞いた。
すると彼女は、お弁当箱をトートバッグにしまいながら複雑そうな顔を見せた。
「……なんか、香織にそんなふうに機嫌取られると、調子が狂うんだけど」
気まずそうなため息を肯定の意味と判断して、私は席を立った。
コーヒーが抽出されるのをただ眺める。
これぐらいで機嫌を直してくれるなら安いものだけど、今回ばかりは一筋縄ではいかないような気がしている。
あの日、瀬野さんは私に歩み寄ろうとしてくれたんじゃないだろうか。でも私が怯えて拒絶した。だから彼女も私から距離をとった。
きっと――それが答えだ。
席に戻ると、瀬野さんは頬杖をついて窓の外を眺めていた。
なんだろう、この感じ。彼女の横顔を見つめていると胸の奥がぎゅっと切なくなる。
白い首筋に視線を滑らせる。あのなめらかな肌に唇を押し付けることができたのは、もうどのくらい前のことだろう。
ジリジリと焼き尽くすような欲求を初めて自覚して慌てて視線を逸らした。
認めたくないけど認めざるを得ない。
私が彼女に、欲情しているってこと。
それは愛からくる熱なのか。熱から派生した愛なのか。
本当は全てがまやかしで、愛ですらないのかも?
もう自分でもよくわからなくなっていた。
コーヒーを手渡すと、瀬野さんは「ありがとう」と小さく呟いた。
社内はとても慌ただしく、日々は風のように駆け抜けていく。
クリスマスに向けアクセル全開で精力的に働く社員たちを横目に、私は彼女がクリスマスを誰と過ごすのかが気がかりでそればかり考えていた。
無情にも時は過ぎ、時間が経てば経つほどに、今まで彼女と過ごしてきた夜の全ては幻だったのではないかとすら思うようになった。
あの夜からもう一ヶ月が経とうとしている。触れ合いのない日常は、心に隙間風が吹いたように虚しい。
ふと近付いた時、彼女の香水の匂いを感知するだけで私の心臓は面白いくらい跳ね上がり、意識を持っていかれる瞬間が何度もあった。
惹かれている。どうしようもなく。だけど彼女は、もう私を見ようともしない。
いっそ振られてしまえば諦めがつくのかもしれないと思いながらも、期待感を捨てきれない私ははあまりにも往生際が悪くて——滑稽だ。
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