量子魔法のパラダイムシフト ―物理学者、異世界で法則を解く―

@sikimu

量子の導く先で

「おかしいな……」


藤川真理は、モニター画面に映し出された波形を見つめながら眉をひそめた。量子もつれ状態の測定結果が、これまでの実験データから大きく外れている。彼が提唱した「多重量子もつれ理論」の検証実験として、今夜も深夜まで測定を続けていた。


研究所の地下実験室。最新鋭の量子測定装置が並ぶ中、真理は独り、データの解析に没頭していた。国立研究所量子物理学研究室の主任研究員として、量子もつれの新理論構築に取り組んで3年。量子情報の瞬間転送という夢の技術に、理論面から近づきつつあった。しかし今夜の実験データは、その理論すら覆すような異常な値を示していた。


「干渉パターンがこれほど乱れるなんて……」


画面上では、普段は規則正しく並ぶはずの干渉縞が歪な模様を描いている。まるで、観測している量子状態が別の何かの影響を受けているかのように。


「もう一度、測定し直すか」


真理は測定シーケンスを再起動した。真空チャンバー内で、高強度レーザーが非線形結晶に照射され、光子対を生成する。その量子もつれ状態を超伝導検出器で精密に測定し、データを収集する。学生時代から幾度となく繰り返してきた手順だ。


しかし、今夜は何かが違った。


「この振動……?」


実験装置から微かな振動が伝わってくる。普段は決して起きないはずの異常だ。真理が慌てて装置の緊急停止ボタンに手を伸ばした時、それは起きた。


目の前の空間が歪み始めたのだ。


「な…何だ、これは!?」


実験室の空気が渦を巻くように歪み、その中心がまるでブラックホールのように光を飲み込んでいく。真理は後ずさろうとしたが、既に体が宙に浮いているような感覚に襲われていた。測定装置のディスプレイには、量子もつれ状態の結合度が通常の何倍もの値を示している。


「重力場の異常? いや、これは明らかに時空の歪曲現象だ。まさか僕の理論が予測した量子トンネル効果の巨視的スケールでの発現!?」


物理学者としての冷静な観察眼が、目の前で起きている現象の異常性を捉えようとする。しかし、考察を深める間もなく、歪んだ空間が真理の体を飲み込んでいった。


最後に意識の中に残ったのは、研究所の蛍光灯の光と、測定装置のディスプレイに表示された異常な波形だった。


そして、全てが闇に溶けていった。


* * *


意識が戻った時、最初に感じたのは、空気の違いだった。


「ここは……?」


目を開くと、見慣れない青い空が広がっていた。研究所の天井であるはずの場所に、雲一つない碧空が広がっている。


体を起こそうとして、真理は地面の感触に違和感を覚えた。実験室の固い床ではなく、柔らかな草の感触。周囲を見回すと、見渡す限りの草原が広がっていた。


「まさか……」


物理学者としての直感が、この状況の異常性を告げていた。研究所の地下実験室にいたはずが、ここは明らかに屋外。しかも見覚えのない場所。


真理は白衣のポケットから、常に携帯している小型のノートとペンを取り出した。もう一方のポケットには、実験データを保存した携帯端末と、小型の測定器が入っている。どんな状況でも、まずはデータを記録する。それが研究者としての習性だった。


「現在時刻不明。場所は未知。周囲の大気圧は1気圧に近似。気温は約20度。重力加速度は……」真理は携帯測定器の値を確認しながら、記録を取っていく。


ペンを走らせながら、真理は状況を整理していく。実験中の異常な現象、空間の歪み、そして気を失うまでの経過。全てを客観的に記録していく。


「大気組成は地球と近似値か……」


呼吸に特に違和感はない。重力も地球とほぼ同じように感じられる。しかし、どこか微妙な違和感が残る。


真理が観察を続けていると、遠くから風に乗って、聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてきた。見上げた空には、見たこともない羽の形をした生き物が飛んでいく。


「ここは……地球ではない?」


その結論に至った瞬間、研究者としての好奇心が胸の内で大きく膨らんだ。恐怖や不安よりも先に、未知の環境を解明したいという衝動が湧き上がる。


「とすれば、まず生存の確保、そして環境の基礎データ収集か……」


真理は立ち上がり、周囲を見渡した。できるだけ高所に移動して地形を把握し、水源を探す。そこから行動を開始すべきだろう。

ポケットの中の実験データと観測機器が、この異常な状況の手がかりを握っているはずだ。特に、転移直前の量子もつれの異常な結合度は、何かの示唆を含んでいるかもしれない。しかし今は、より差し迫った課題に対処しなければならない。

ポケットの中の実験データと観測機器が、この異常な状況の手がかりを握っているはずだ。しかし今は、より差し迫った課題に対処しなければならない。


「さて、どちらに進むか……」


研究者としての冷静な判断と、人としての生存本能が、次の行動を決めようとしていた。未知の世界での研究が、今、始まろうとしていた。

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