無花果の花

ごくま

無花果の花

 ネロが目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。青みがかった無機質な白い天井、さらにそれに輪をかけるように無機質なLED照明。彼は手術を終えてベッドに横たわっているのだった。これから向かう火星の過酷な環境に耐えうる肉体を得るための手術である。人類の火星進出が動き出したこの時代、ネロは開拓団の一員として活動するために必要となる適合手術を受けたのである。

 「よう、気分はどうだい?」

 隣のベッドから聞こえる声はネロの幼馴染、メアのものだった。彼らが寝かされている大部屋にはベッドが10台あり、全てのベッドにネロと同じ手術を受けた者たちがいる。彼らは貧しい環境に生まれ、廃棄物処理などの劣悪な労働環境で働いていた者ばかりである。

 「ああ……最高、かな」

 ネロは火星開拓団の話を聞いた時、迷いなくその危険な旅に参加することを決めた。メアも同じだ。地球でいくらキツい仕事をこなしたところで、暮らしが豊かになることは決してなかった。体が動かなくなれば職を奪われ、路頭に迷うのがオチである。彼らの親と同じように。

 それならばいっそ火星の土地を開拓し、その土地で農作物を作るなり、何らかの資源を採掘すれば一気に豊かな生活を手に入れられる可能性がある。保証はないが、火星開拓を主導する国際組織が、何の収穫も見込めない土地を選ぶとは思えなかった。

 ネロたちはその希望に人生を賭け、後戻りのできない手術を受けたのだ。

 火星にはすでに人が活動するために必要な一定の環境が作られてはいるが、まだまだ生身の人間が自由に活動するには不十分である。不自由な作業服と、重い生命維持装置がなければ、火星の過酷な環境下で活動することはできない。それを克服し、より円滑に開拓活動ができるように人体を改造する手術を受けるのが、火星開拓団に参加する条件なのである。

 やがて火星へと旅立つ日が来た。開拓団を乗せたロケットの中、ネロは期待と不安を胸に、遠ざかる青い地球を見ていた。

 「本当によかったのか」

 出発前の検診を終え、待合室で顔を合わせたメアの声が甦る。

 「エリのためでもあるんだ。俺が成功すれば、あいつを火星に迎えて豊かな生活をさせてやれる」

 ネロには妹がいた。まだ幼いエリは施設で暮らしている。兄が火星へ行くと聞いて、泣きながら引き留めようとした。ネロなりに火星へ行く理由を説明したが、幼いエリが本当に納得してくれたかはわからない。しかし幼いながら兄の決意を感じ取ったのか、最後にはネロの火星行きを承諾したのだった。

 長いような短いような眠りから覚めたとき、ネロが見たのは再び、見知らぬ天井であった。火星に到着した着陸船の天井である。着陸船はすでに宇宙ポートに隣接したドームに収容されていた。ハッチから外に出ると、思ったより地球に似た風景が広がっていた。ドームの透明な隔壁越しに見える火星の空は青く、大地には苔のような緑があちこちに繁茂していた。しかし高い木はなく、生き物の動きもない。低くなだらかな丘陵地帯が見渡す限りどこまでも続いている。

 ネロたちはいくつかのチームに分かれ、それぞれが指定された居住区に移動した。同じチームにメアがいた。

 「腐れ縁だな」

 メアが笑って肩を叩いた。

 翌日から、組織が用意した簡単な機械と資材を使って、ネロたちは火星の大地を切り拓いていった。大木や巨石があるわけではなく、元々平坦な土地のため、小型の耕運機のような機械で地表を耕していく作業の繰り返しだ。少しずつではあるが、その範囲は着実に拡がっていった。

 食事をとりながら、ネロは地球のエリに送るメールを書いていた。このメールがいつ頃、どのような形で地球まで届けられるのかは知らないが、ネロは火星での暮らしなどを端末のキーボードで綴った。与えられる食事はいつも同じ、何かの果実のようなものだ。不思議と飽きることはないが、毎回同じものを食べていると、美味いとか不味いとかいった感覚も忘れてしまう。

 メアが部屋に入ってきた。

 「よう、可愛い妹にメールか。いい兄貴だな」

 「ほめても妹はやらんぞ」

 「俺に幼女趣味はないんでな」

 「もう幼女じゃないさ」

 「そうか、確かにな。地球を出てからもう何年経ったのか……」

 メアにはメールを書く相手がいない。彼の両親は危険な廃棄物の毒に侵され、地球を出る前に亡くなっていた。それが開拓団に志願したメアの動機だった。

 彼も食事の途中だったのか、手にはネロと同じ果実を持っている。かじりかけのそれを見せて、メアが聞いた。

 「なあ、これ、美味いか?」

 「もうそんな感覚はわからんよ」

 「俺もだ。イチジクの味も忘れちまった」

 「イチジク?」

 「この実、どこかイチジクに似てると思わないか」

 ネロは自分の手にある実を改めて観察してみた。言われてみれば、確かにイチジクに似ていなくもない。しかし本物のイチジクがどんなものだったのか、正確には思い出せなかった。おそらくこのイチジクのようなものにも、適合手術を受けた人間に最適化された栄養が含まれているのだろうと思った。

 「知ってるか、日本ではイチジクに『花の無い果実』という意味の文字を当てるらしい」

 「お前の祖父は日本人だったな」

 「ああ。しかし実際にはこの実の中に無数の小さな花をつけるんだ。外からは見えない花をな」

 「じゃあイチジクは実というより“花を食べてる”ってことになるのか」

 「そういうことになるな。それと、イチジクは不老長寿の実とも言われるらしい」

 「不老長寿か……この実を食べて不老長寿になれるなら、火星開拓も捗るんだがな」

 「毎日これを食べさせられるってのは、そういう洒落か」

 「そうかもな」

 そんな会話をしていたメアが、ある日突然いなくなった。移動用のビークルは無くなっていない。つまり徒歩でどこかへ行ってしまったということである。このあたりに、足を滑らせて落ちるような穴や崖はない。どこまでも見渡せる平坦な土地である。ネロはできるかぎり行方を捜したが、1週間を過ぎてもメアは見つからなかった。

 メアの捜索を諦めて、再び作業を開始したネロたちだったが、メンバーの1人が再び行方不明となった。そうして2人、3人と、次々とメンバーが消えていき、ネロたちのチームは当初の人数の半分になってしまった。

 この行方不明事件は他のチームでも起きていた。開拓団のメンバーはたびたび会合を開いてはこの事件の真相について話し合ったが、何の進展もないまま時間が過ぎていった。

 最初の行方不明者であるメアが消えてからおよそ1カ月が過ぎた頃、最初に整備された区画の隅で見慣れない植物の芽が生えているのが見つかった。地球から持ち込まれた植物ではあり得ない。地球の植物を持ち込む計画などないし、万が一ロケットや資材に紛れ込んでいたとしても火星の環境で発芽するはずがないのだ。開拓団の者達は皆、この奇妙な植物の芽よりも行方不明者の問題を優先すべきだと考えていた。しかしネロはこの植物と行方不明者を結びつけずにはいられなかった。そして自らのおぞましい想像に終止符を打つべく、植物の根元を掘り返してみることにしたのである。

 開拓団のメンバーがパニックを起こさないよう、ネロは夜が更けるのを待ってから"発掘"を試みることにした。考えてみれば行方不明者が姿を消すのは決まって夜だった。なぜ自分は今までそのことに気づかなかったのだろう。就寝前までドーム内にいた者が、朝になって消えたことが判明する。ならば彼らがどこかへ消えるのは夜しかない。自分だけではない、開拓団の誰一人としてそのことに言及する者はいなかった。

 そんなことを考えているうちに、ネロはいつの間にか眠ってしまった。次の日の夜も、その次の夜も、今夜こそ植物の根元を掘り返そうと考えるのだが、気がつくと朝が来ていた。そして初めて、日没を過ぎると起きていられないことに気づいた。おそらく手術のせいだろう。あるいはあのイチジクに似た果実に何か細工がしてあるのかもしれない。そこに思い至った頃、開拓団のメンバーは火星に着いた時の3分の1になっていた。ネロ達が耕した土地には、あの植物が無数に茎を伸ばし、大きな赤い葉を広げて日光を浴びている。行方不明者のことについて、もう誰も口にする者はいなかった。まるで何一つ問題が起きていないかのように、彼らは淡々と作業をこなしていった。

 実際、何一つ問題はないのかもしれない。全ては計画通りなのかもしれない。そんなことを考えながら、ネロは誰もいなくなったドームの中から一面に広がる“農場”を見つめていた。今ならあの植物の根元を掘り返しても、誰も咎める者はいない。仮に誰かがいたとしても、咎める者はなかったかもしれない。ネロ自身の中に、それをさせまいとする“何か”が確かにあったのだ。

 ネロは、意を決して土を掘り返してみた。ちょうど人がひとり埋まるほどの穴が出来上がった頃、辺りが真っ暗なことに気づいた。火星の夜を見たのは、これが初めてだった。そしてこれが最後になるのだろう。なぜ穴を掘っていたのだろう。どうして今夜に限って、目を覚ましたままでいられるのだろう。睡魔に襲われて朦朧とする頭の中でぼんやりと考える。目の前にぽっかり空いた穴が、優しいベッドのように見えた。ネロがゆっくりと穴の中に横たわると、夜空に満天の星が輝いているのが見えた。ひときわ青く光るのは地球だろうか。それとも遥か遠くの恒星だろうか。使い慣れた小型耕運機が静かに動き出し、ネロの体にそっと火星の土をかぶせていった。火星の土の重みを体に感じながら、ネロは深い眠りについた。


 その家は、赤い大きな葉を茂らせた樹のそばに建っていた。幹の太さは1mほどで、高さは10mに届く大きな樹である。その根元で、ロッキングチェアに体を預けた老婆が本を読んでいた。ふくよかな体がかすかに揺らいでいる。

 6歳くらいの少女が、老婆の近くに駆け寄ってきた。

 「おばあちゃん、イチジクのパイができたから呼んできてってママが」

 「そう、美味しくできたかしらね」

 老婆はゆっくり立ち上がり、チェアに本を置いて樹を見上げた。

 「おばあちゃんはいつもこの樹のそばにいるね」

 「そうね、私はこの樹が大好きだから……」

 エリが火星に来た時、ここはまばらに樹の生える殺風景な土地だった。エリが来る前にはもっとたくさんの樹が生えていたらしいが、ほとんどが枯れてしまったという話を先住者から聞いた。

 まばらに生える樹の中に、不思議とエリの目を引く一本の樹があった。兄の功績により優先的に移住権を得たエリは、兄が命を懸けて開拓したこの土地に住もうと決めていたものの、初めての環境に少なからず不安を抱えてもいた。

 しかしその樹を見た瞬間、エリには兄の苦難に満ちた人生がありありと想像できた。実際にはこの火星で見ることの叶わなかった兄の姿が、新しい環境で最後まで生き抜いてみようという勇気をエリに与えたのだった。

 「この樹は私のお兄さんが一生懸命この土地を耕して育ててくれた樹なのよ」

 「へぇー、そうなの」

 「ふふ……たぶんね。でも私はそう信じてるわ」

 孫娘に手を引かれて、エリは幸せな笑みを浮かべながら小さな家に入っていった。家の中からは家族の楽しそうな声が聞こえてくる。その小さな家を何十年も見守ってきた樹は、赤い葉をやさしく風に揺らめかせていた。


おわり

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