夜の呪いを解ける堕天使へ。
@natuya
夏夜と恒星。
暴力的なほどに煌めく星と、その星々から隠れるような控えめな月が、眼下で存在を主張していた。
こんなにも綺麗な景色が広がっているだなんて、もはや皮肉としか思えない。実際は真逆で、この世界なんて残忍で残虐で残酷なのだから。どこまでも無邪気で、だからこそ変えようが無い。
「いつまでビビってんだよ、ゴミが。おまえなんかが死んだとして、どうせ誰も悲しまねーって。むしろ世界中のみんなが喜ぶんじゃねーか?」
まるで毒薬みたいなその言葉を聴いた俺は、全てを投げ出してこの世界に引導を渡してやりたくなる。
だから飛ぶんだ。
恐怖を怒りで押し込んで。
理不尽を自分自身の意志だなんて言い聞かせて。
「そんなに迷ってるんなら背中押してやろーか?」
クラスの王様的立ち位置のやつが、面白可笑しそうに吐き捨てる。
その歪みきった笑顔を思わずぶん殴りたくなるけど、ここで暴れたところで突き落とされるのが関の山だ。いちいち抵抗なんかするよりも、大人しく飛込競技の真似事でもして、この場をやり過ごすのが懸命だろう。
「……はぁ、分かったよ。飛べばいいんでしょ、飛べば」
「やけに反抗的な返事だな。自分の立場、分かってねーのか?別に俺は、おまえを無理矢理突き落としたっていいんだぜ?プールみたいな生易しい場所にじゃなくて、かったいコンクリートの上に、だけどな。ははは!」
「ははっ、やっちまえ!」
「いいね、ははは!」
取り巻きたちの濁った笑い声が、夏の星空に響き渡る。
その悪意の塊みたいな笑い声から意識を逸らすように、俺は再び視線を下に落としてみる。
綺麗な夏の夜空を反射した水面が、俺を呑み込むべく今か今かと待ち構えていた。
俺は今、学校の屋内プールの屋根の上に立たされている。そこは本来ガラス張りとなっていたのだろうが、人ひとりがすっぽり入るぐらいの大穴がいくつか空いていた。恐らく野球部の練習の影響なのだろう。その景色はまるでマシンガンにでも撃ち抜かれたかのようで、いい加減直せよ、なんて現実逃避気味に思う。
「……自分のタイミングで飛ぶ……うっ!」
答えかけた俺は、突然バランスを崩す。
一瞬遅れて、背中を物理的に押されたのだと状況を俯瞰的に理解した。たぶん、クラスの王様的立ち位置であるあいつの仕業だろう。本当にムカつくやつだ。こんな人間がのうのうと生きているという事実も、この世界に対しての絶望と失望に拍車をかける。
とはいえ、どれだけ心の中で彼を罵倒しようと、重力という圧倒的な仕組みには当然逆らえるはずもなく、俺の身体はやけにゆっくりと傾いていき、ついには大穴から落下してしまう。
下方の水面が視界いっぱいに迫る中、俺は偽りの夜空を飛びながら願う。
辛い時間をスキップする能力がほしいと。そんな能力がこの身に宿ってくれれば、まるでYouTubeの広告を飛ばすように、人生の好きなところだけを切り抜くことが出来るのだ。どれだけ幸せでストレスのない生き方だろうか?
もう一度願う。
来世、もしくは生まれ変わりみたいな概念が、この最低最悪な世界にも存在しているのなら。まるでヒーローショーのクライマックスみたいな展開が待ち受けてくれているのなら。
次は、しくじらない。
宙に舞った身体が、冷たい夜空を突き破る。
その衝撃で、俺は何も分からなくなった。
※ ※
その夢に対する第一印象は、典型的な夢だなぁ、という間の抜けたものだった。
理由は極単純で、俺はふと気付くと、お互い思春期を迎えて以来ろくに話すらしていない彼女の自宅前に立っていたからだ。現実では、逆立ちしたって足を運ぶはずの無い場所である。
それでも間違い無く、一点の曇りも無く、彼女は俺という存在を形作る一部だった。たとえ、大して会話を交わさなくなったしても、この心情だけは捨てがたかった。
それにしても、夢を夢だと自覚出来たのは、今まで十六年間人間をやってきて初めての体験だった。いわゆる明晰夢というやつなのだろう。そしてこの現象に見舞われると、自分の意のままに夢の世界を操れるらしい。
俺は試しに右手の人差し指に力を入れてみた。しかし、脳からの命令が神経のどこかで遮断されているのか、意思に反してピクリとも動かない。しばらくの間、未練がましくあれやこれやと試していたけど、そのうち面倒くさくなって諦めた。
思考停止で突っ立っていると、ふいに右手が勝手に動いた。俺の意思には従わないくせに、と心の中で毒づく。
その右手は、まるで闇夜に浮かぶ魔王城のような雰囲気を醸し出す彼女の自宅のインターフォンを、何の躊躇いもなく押す。
ピンポーンという無駄に明るくて場違いな音を響かせた後、一分程度で応答があった。
『……どちら様ですか?こんな夜分に』
網目状のスピーカーから、か細い声が流れ出る。得体の知れない何かに怯える態度をどうにかひた隠そうとしているかのような、すぐに強がりだと分かる声音だった。
「俺……いや、僕だよ、僕」
口が勝手に開き、彼女へ返答する。
なんだよ、その詐欺みたいな口上は。
『ボクボク詐欺か!……ていうか、本当に久しぶりだね、暮遠。こんな夜中にどうしたの?』
声だけで誰か分かってくれた彼女に、どこか嬉しくなってしまう。
呑気に浸っている俺を他所に、夢の中の俺は勝手に言葉を放つ。妙に芝居がかっており、かなりのむず痒さを与えてくる口調で。
「まずは、突っ込んでくれてありがとう。本題っていうのは……インターフォン越しじゃ風情が無いから、面と向かって話しがしたいな。ちょっと悪いけど、今外に出てこられるかな?」
『まぁ、いいけどさ』
プツッという切断音が鳴り、インターフォンが遮断された。
玄関灯が数瞬の点滅の後に光を発し、扉がゆっくりと開け放たれる。
「やぁ、君が彼の光?」
やはり芝居がかった態度で、夢の中の俺は意味の分からないことをほざく。
その言葉の意味を解き明かそうとしばらく思考してみたけど、まぁどうせ夢だし意味不明なのは仕方ない、と己の猜疑心を投げやり気味で納得させる。夢なんて所詮夢で、深く考えたところで何の役にも立たないだろう。それならまだ、果てしなくつまらない学校の授業の予習でもしていた方がいくらか有意義に思える。しようとはまったくならないけど。
玄関灯の明かりに照らされた彼女は、怪訝そうに小首を傾げる。
「彼?光?なんのこと?」
彼女が疑問を抱くのも仕方ない。夢の中の俺が放った言葉は、唐突すぎる上にまったく脈絡が無い。夢の主である俺自身も分からないことを、彼女に読み解けというのも酷だろう。
「いや、大した意味はないよ。ただの……敵情視察、威力偵察ってやつさ」
「敵情視察?威力偵察?暮遠から見た私って、敵の戦闘機みたいなもの?」
彼女は眼を点にして訊ねる。
「……うーん、答えづらい質問だね。保留ってことでいいかな?いずれ教えてあげるからさ」
「……話がないのなら、もう寝ていい?いい加減こんな時間だし、明日も学校だよ?暮遠も早くお家に帰って寝た方がいいよ」
「……僕に消えろと?」
また勝手に口が開く。そこから、低くて脅しつけるかのような声が、彼女に向けて放たれた。
一瞬だけ億劫そうに目を細めた彼女は、何かに気付いたかのように目を見張る。
「今日の暮遠は……いや、君はちょっと……どころじゃないぐらいおかしいよ」
「そう?例えばどの辺が?参考にしたいから、教えてくれるかな?」
「参考……か」
深く考え込むように俯いた彼女は、突然パッと顔を上げて頷きながら答える。
「その喋り方とか。普段の暮遠は、そんなドラマやアニメみたいな口調じゃないでしょ?もっと皮肉っぽいっていうか……投げやりな感じがする」
ただの夢に過ぎないというのに、少し考え込んでしまう。
客観的に見たら、俺ってそんなふうな喋り方をしていたのか。なんだか少し恥ずかしくなる。合唱コンクールでの自分の姿を、親しい誰かに見られたような気分だ。俺に親しいと呼べる人間なんて、これっぽっちも居ないけど。
「へぇ、分かった。教えてくれてありがとう」
お礼を述べた夢の中の俺は、彼女に背を向けて歩き出した。
「ねぇ、暮遠。君って……もしかして……」
躊躇うように口を噤んだ彼女に対して、夢の中の俺は無理矢理口角を上げる。
自分自身の表情を客観的に見ることなんて鏡でも無ければ無理だけど、なんとなく感覚で分かった。
ひしゃげた空き缶のように歪んだ笑顔だったと思う。現実の俺が絶対に浮かべることのない、自信に満ち溢れていて限りなく不敵な。
彼女の戸惑った表情を最後に、カーテンコールが引かれるように視界の上から黒く染っていった。
※ ※
カーテンの隙間から漏れ出る朝日を鬱陶しく感じながら、今日という日を否定するようにゆっくりと起き上がる。ふと枕元に目をやると、そこに投げ出された現国の教科書の表紙にでかでかと、さらに鬱陶しい文字が書き殴られていた。
『おまえの願いを叶えてやる』
その文字について、俺は全く身に覚えがない。そもそも、教科書に落書きをするなんて酔狂なことを思い付くほど、俺はユーモアの溢れる人間ではないのだ。
とりあえず、教科書を通学鞄の中へと突っ込んだ。
「おい、暮遠!朝飯はまだか!」
自室と二階の廊下を隔てる扉の向こう側から、粗野で乱暴な怒鳴り声が聞こえた。
うるせーよクソジジイ、と思いはしたものの、言える訳もない。言ってしまったら最後、しばらく学校に足を運べなくなるほど痛めつけられるのは目に見えていたからだ。だからといって、今部屋の外に出たとしても難癖を付けられることだろう。
だとしたら、もはや無視一択だ。
学生服に着替えて通学鞄を抱えた俺は、窓から外に出る。その後一番低くなっている屋根の端へと移動し、下へ飛び降りた。
地面を覆っているコンクリートが容赦なく俺の足を痺れさせるけど、あのクソ親父に痛めつけられるよりかは幾分マシだ。この痺れなんか目じゃないぐらいの痛みを、あの「クソジジイ」は容赦なく与えてくるのだ。もはやあいつに対しては、良心を失くしたロボットとしか認識していない。
「よぉ、暮遠。またあのクソジジイ、キレてんのかよ?」
玄関前を走り抜けようとした俺に、ちょうど玄関から出てきた兄貴が笑い混じりで訊ねる。
高江昂夜。ふたつ上の兄貴で、いわゆる不良と呼ばれる存在だ。俺とは真逆の恵まれた体格で、だらしなく着崩した学生服と眩しいほど濃い金髪、そして咥えているタバコが彼のいつものトレードマークだった。
俺と兄貴とあの「クソジジイ」。この三人で、もう十年近く暮らしている。
ちなみに、母親の存在は知らないことにしている。そうでもしないと心がいくつあっても足りないし、もし自覚してしまえば心理的に押し潰されてしまうのは明白だった。そんな思考が出来るという時点でもう自覚してしまっているのだろうけど、図らずも俺の特技は現実逃避だ。見るに堪えない現実から目を逸らすことに関しては、誰にも負ける気がしない。何の自慢にもならないし、なんなら欠点でしかないけど。
「いい加減死ねばいいのにな。アル中のくせに無駄に元気だしよ」
昂夜が紫煙混じりに愚痴る。
俺と兄貴は、性格と趣味、交友関係の広さやあらゆる好みなど、考え付く要素のその全てが真逆で生きているが、意外と仲は悪くない。荒々しい性格をしていると巷では有名な彼だが、俺とは一度たりとも、殴り合いすらしたことがないのだ。
ちなみに昂夜は、うちの「クソジジイ」から手を出されたことなんて一度もない。「クソジジイ」の暴力は俺だけに向き、またその理由も俺は知っている。
ひとつ確かなのは、親父の動機が限りなく正論だということだ。
「で、もう大丈夫なのかよ?あんな派手な格好で帰ってきてよ」
俺の心を見透かすように不躾な視線を向けた昂夜は、笑い混じりに訊ねる。
それが昂夜のデフォルトだった。彼は人と接する時、口元には薄ら笑いを浮かべ、それとは対照的に何かを深く勘ぐるような全く笑っていない眼を相手に向ける。今更どうこう言うつもりも資格もないけど、少し気味が悪いので出来れば控えてほしい。
「派手な格好?なんのこと?」
とりあえず惚ける。自分がいじめられているだなんて、自ら宣言したい人間などそうはいないだろう。いるとしたら、そいつはたぶん自分を襲う悲劇に酔っている。
勘ぐりを深くするように、昂夜は目を細めて訊ねる。
「……はぁ?おまえ昨夜、全身ボロボロになって帰ってきたじゃねーか」
さすが夜型人間。帰りを見られていたらしい。
「喧嘩でもしたのか?」
「……喧嘩?どういう意味?」
昂夜は俺の右頬を指さす。
「その頬だよ。殴られた跡が綺麗についてんじゃねーか。それにその拳。人を殴った時じゃないとならない腫れ方だ」
さすが不良だ。その推理は、自らの経験から導き出したものだろう。
昂夜に言われて初めて、俺は自らの身体に生じている異変に気付く。
頬が痺れにも似た痛みを訴えかけてくるけど、正直それはいつものことなので、何ら疑問も抱かない。
問題は拳の方だった。
基本、いじめという愚行は多対一で行われる。それは単純に、数による優位性を保って安全圏から対象を傷つけるためだろう。そして、その優位性はほぼほぼ覆ることはない。格闘技でも極めていない限り、数という要素は絶対的で、その場では圧倒的な正義にもなり得るからだ。
それでも何故か、俺の拳には抗った跡が残っていた。
「別に。俺だって、殴り返すぐらいはするよ」
惚けて言い返す。
「軟弱なおまえがか?笑えるな」
「ガタイなんて関係ない」
「で、勝ったのか?」
期待なんて欠片も抱いていなさそうに、昂夜は訊ねる。
「知らない。記憶がないんだよ」
そう。記憶がないのだ。俺の記憶、というか自我みたいなものは、プールに映った夜空を突き破った時点で綺麗さっぱり消失している。
「はははっ!カッコつけた中学生みてーなこと言ってんじゃねーよ!」
「しょうがないでしょ。本当なんだから。でもたぶん、殴り返したってことは、やられっぱなしではなかったってことじゃない?」
しばらく腹を抱えて高笑いしていた昂夜は、そのせいで瞳から溢れた涙を拭う。
「ははっ、そうかそうか。だったらいい!ボコボコにやられるのは、それが弟だったとしても嫌だからな!」
「なんでそんなに偉そうなんだよ……」
呆れる俺を尻目に、昂夜はスマートフォンを確認して嘲笑う。
「そろそろ行かねーと遅刻になっちまうんじゃねーか?」
「そうだね。そして、兄貴もね」
昂夜は俺と同じ高校に通っている。つまり、今の俺が遅刻するということは、彼も遅刻するというのと同義だ。
「あんなの行っても意味ねーだろ。なにが数学だよ。クソ喰らえだ」
タバコとともに吐き捨てた昂夜の言葉には、正直全面的に肯定出来る。たしかにこれから生きていく中で、因数分解やら二次方程式やらを活用する機会が訪れるとは到底思えない。それでも、上手に生きるために俺は行動しているのだ。それが少し窮屈なのは、古今東西の学生からしたら当たり前なのだろうけど。
「おい、暮遠っ!朝飯作れって言ってるだろーが!」
世界一嫌悪している怒声に、俺は思わず振り向いてしまう。
怒りの形相を浮かべた「クソ親父」が二階の窓から身を乗り出していた。
「やべっ、殺されるっ」
「暮遠!おまえもなかなか大変だな!」
脱兎のごとく走り出した俺を、昂夜が笑い混じりで茶化す。相変わらず呑気なやつだ。
結局のところ、昂夜は俺の理解者であると共に「傍観者」でもある。このクソみたいな状況を面白可笑しく見届けるだけの、いわばコメディ映画の視聴者だ。つまり、俺を助けてくれるなんていう希望的観測を抱くだけ、負けの決まっているギャンブルに手を出すようなもので。
辿り着く先が同じ地獄だと分かっていても、俺は走るしかない。立ち止まっていては、親父に今すぐ比喩表現抜きで殺されてしまう。
ほんの少しだけの延命をするために、俺はひたすら足を動かした。
※ ※
この世界には、人間としての地位やら権威やらを採点する、眼に見えないレベルみたいなものが存在している。グラフや表なんかでは表せないのにも関わらず、誰もが直感的に理解している、そんなレベルが。
それは普遍的かつ絶対的なもので、まるで神様みたいな存在だ。
その内訳も様々で、容姿はもちろんの事、学力、性格、運動神経、そして一番重要なコミュ力、その全てが採点基準だ。誰もこの方式には逆らえない。ほとんどの人間は、関わる人だとか相手に対する接し方だとかをその暗黙の了解に沿って決めている。
5を最高レベルだとしたら、俺はせいぜい1.5程度だろう。容姿はパッとしなく学力もそこそこ、自覚があるけど性格も悪い。特に、コミュ力に至っては壊滅的だ。そもそも俺は、人付き合い自体を放り投げている。わざわざ分かり合えないやつらと言葉を交わしたところで、人間という生き物への失望が深海に沈んでいくかのように、暗く深くなっていくだけだ。
とはいえ、俺のそんなスタンスなんてフル無視して、学校という場所はそのレベルが顕著に表される場だ。例えば、友人の多さだとか異性にモテるだとか。
いじめられる、とかだ。
自分がどの立ち位置に収まっているのかなんて、みんながみんな誰かに言われずとも理解しているだろう。
この学校では、ただひとりを除いて。
何の意味もない思考を、教室の扉の前に到着したことで断ち切った。いつの間にか、正門を通り越して教室まで歩いていたらしい。俺、大丈夫か?
いつも通り無駄に仰々しい覚悟を決めて、俺は教室の扉を開ける。
その瞬間、喧騒が止み、窒息しそうなほどの重苦しい雰囲気が教室内を支配する。
何かがおかしい。普段なら、教室に入ってきた俺のことなんて見えていないかのように無視するか、クラスの王様的存在とその取り巻きたちが、妙な言いがかりをつけて暴力を振るってくるのだ。その二択以外の展開を、俺は体験したことがない。言ってて虚しくなるけど、本当にそうなのだからしょうがないだろう。
違和感を感じた俺は、教室内を隅々見渡してしまった。昨夜、俺をプールに突き落とした連中がよそよそしく目を逸らしていくのを見て、ただでさえ混乱している思考が空中分解を起こしてしまった。脳がフリーズして考えるのも億劫に感じ、投げやり気味に無視を決め込む。
そして、棒立ちしていた俺をさらに意外な展開が待ち構えていた。まさに、悪天候の天気予報が外れたような。
「よぉ、暮遠。相変わらずシケた面してんな」
その馴れ馴れしい声に、思わずそいつの顔を見つめてしまった。
そこには、屈託無く笑う夜嘉大地が居た。
このクラスの王様的存在、夜嘉大地。
いつもの大地は、このタイミングで俺の身体に拳のひとつでも飛ばすようなやつだった。もちろん、周りは傍観するか加わるかのどちらかだ。まぁつまり、俺は彼とその取り巻きたちにいじめられている。理由は単純で、たぶん「レベル」の影響だろう。
しかし、今日の大地は笑顔を向けてくるだけだ。
抱いた違和感を、率直に訊ねる。
「……どういうつもり?」
大地は屈託の無い笑顔を崩さない。普段との変わりように、もはや違和感を通り越して恐怖を抱いてしまう。
「いい加減、おまえとも仲良くしようかなと思ってよ。今まで酷いことばっかりして悪かったな」
その謝罪に呆気に取られたのは、おそらく俺だけではないだろう。その証拠に、この教室にいる全員が固唾を飲んでこちらを凝視しているのだから。
唐突の謝罪に多少気圧されながらも、俺はどうにか言葉を絞り出す。
「う、うん。分かった」
「そうか、そうか。許してくれるか!ありがとよ!」
俺の肩をバシバシ叩いた大地は、仲の良い友人たち(取り巻きとも言うが)の輪の中へと戻っていく。
「……おい、大地。いいのかよ?」
「あぁ、いい加減酷すぎたからな、以前の俺らは。これからは、あいつとも仲良くしよーぜ」
「なにか企んでるのか?」
「まさか。俺の純粋な気持ちからだ」
そんな会話が薄ら聞こえてきた。
俺は、それから昼休みに至るまで、地獄だったはずの教室で苦行を受けないという、ある意味イレギュラー的な体験をしたのだった。
夜嘉大地。彼は、誰もが認めるレベル5だ。
その容姿は限りなく整っていて、高校生というのにも関わらず危険な大人っぽさを感じさせる。表面的に見れば快活で嫌味なところなんてまったくなく、平穏な学生生活を送る上で一番大切なコミュ力も、彼は豊富に持ち合わせている。
男子には親しみを向けられ、女子からは好意を向けられる、そんな存在。
まぁ俺にとっては、悪意そのものなのだけど。
大地は、そのレベルみたいな基準を誰よりも理解していて、まるでその管理者のように振る舞う。その徹底ぶりと人を選ぶ態度には、巨大なハクトウワシのようなイメージを抱く。頭部は純白で気高いイメージだが、胴体の深い黒のような表裏を隠している。
まるでレベルの体現者だ。そして俺は、そんな大地の存在全てがとてつもなく嫌いだった。理由は至極単純で、その黒い部分の捌け口が俺という存在だからだ。彼を含めた世界の全てから、黒く染められていくように感じさせられる。
さっさとくたばりたくなるぐらいに。
「暮遠、昼飯一緒に食おーぜ!」
昼休みだった。
もはや恐怖を覚えるほど快活に、大地は提案する。
「ごめん。昼飯は食う場所、決めてるんだ」
「……そっか。まぁ、いいや。楽しみは……」
後半は声が小さすぎて聞こえなかった。
「ごめん」
「……おう!いいよ、いいよ」
大地はそう言って、友人たちの元へ戻る。
特に気にすることなく、俺は教室を出て屋上へと向かう。
しばらく廊下を歩き、校舎の端の階段を登り始める。
屋上は、この学校で唯一心が休まる場所だ。そこは侵入禁止となっていて、階段の途中で高い鉄格子が教師らの「絶対に通さない」という意思を遂行するかのようにその先を封鎖し、それに備え付けられた扉は南京錠でロックされている。しかし、俺はそこへの入り方を知っていた。かなり前にわざわざ調べたのだ。薄暗い自室でGoogleを使い検索していた際の、自分の惨めさを思い出してなんだか悲しくなった。
そのヘドロのような思考を払い落とすため、階段を心持ち思い切り踏みつけながら進む。先を塞ぐ鉄格子の前に立ち、ポケットからクリップふたつとラジオペンチを取り出す。いわゆるピッキングというやつだ。この逃げ場のない地獄から抜け出したいと切に願ってきた俺は、せめて形だけでもその手段を探していたのかもしれない。
だが、結局その道具たちの出番はなかった。理由は単純で、南京錠が既に外されていたから。
警戒心を抱きつつも階段を登り、屋上と屋内を隔てる扉を開け放った。
この時もいちいち覚悟を決めて。癖になっているのだ。扉を開ける、あるいは新しい空間へと移動する際に、仰々しい覚悟を決めるということが。
屋上に足を踏み入れた俺は、鬱陶しい夏の太陽に辟易して目を瞑る。数秒間、虚無の視界を楽しみ目を開けた俺は、ようやく先客が居ることに気付いた。
鉄柵にもたれかかっていた蛍は、怪訝そうにゆっくりと振り返る。いつも天使のような笑顔を浮かべている、俺の光がそこには居た。
「あなざ……いや、暮遠か。びっくりした」
不自然に言い直した蛍は、大して驚いていないように呟く。
その躊躇うような言葉の真意は当然気になるけど、まぁいちいち聞き返すほどでもないだろう。
「あの後、大丈夫だった?」
こてんと小首を傾げた蛍は、懸念と疑念が綯い交ぜになったような表情を浮かべる。
あの後、とはいつだ?そもそも俺と蛍は、最近接点を持っていないはずだった。正確に言ってしまえば、一応夢の中で会話を交わしてはいる。しかし、所詮夢は夢だ。それをカウントしてしまうと、もはや訳の分からないことになる。
俺は、まるで思考をミキサーにでもかけられたかのような錯覚に陥る。
「何のこと?」
率直に訊ねてみた。
「何って……いや、なんでもないよ」
目を見張った蛍は、少し経ってその目を伏せる。
すぐに察した。何かを悟った蛍は、それを隠し通そうとしている。彼女も俺と同じで嘘が下手なのだろう。隠そうとする浮き足立った感情が、わざとらしいほど表情に出ている。
しかしそれを追求したところで、蛍は口を割らないだろう。いちいち隠したということは、そこに強い意志があるからだ。彼女は意味のない隠しごとをするような、軽薄な人間じゃない。
これ以上、疑問を重ねることを諦めた俺は、話を逸らすように訊ねた。
「なんでここに居るんだよ?どうやって入った?南京錠はロックされていたはずだ」
「教えてあげない……ていうのもちょっと可哀想だから、ヒントだけね」
悪戯っぽい笑顔を浮かべて、蛍は囁く。
そんな笑顔は、正直蛍には似合わない。彼女はどちらかというと、へにゃっとした柔い笑顔やまるで天使のような穏やかな表情が似合うのだ。
「この学校には、私の『協力者』が居るんだよ。まぁ特に何かしてくれるわけでもないんだけど、こういうことに関しては多少融通を効かせてもらってるんだ」
安息地へ足を踏み入れるための、本来の道具だろう。小さな鍵を宝物のようにポケットから取り出した蛍は、控え目な笑顔を見せる。
それだ。そういう笑顔が、蛍のデフォルトなんだ。
「へぇ、俺もほしいぐらいだ。『協力者』って誰なの?」
「言っても分からないかも」
「誤魔化すなよ。気になるだろ」
胸に手を当てた蛍は、ゆっくりと噛み締めるように答える。
「何も失くしたくないから、大事なもの全部を目の届くところに置きたがる人。酷く臆病で、だからこそ優しい人だよ」
誰のことだ?そもそも、そんな哲学的な考えを他人へと披露するような人間、この学校に存在するのだろうか?
「……それにしても、いい逃げ場所だよね、ここ。こんなところ見つけちゃったら、教室に戻ろうだなんて思えないな。暮遠はなんでここに?」
話を逸らすように、蛍は訊く。
「大体君と同じ理由」
「ふーん。解放されたくせに?」
その責めるような口調とは裏腹に、どこまでも優しい顔で蛍は呟く。
「やつらに一方的に謝られたからといって、俺がそれを許してあげる筋合いはないと思うけど」
「そうだね。でも、嬉しいことじゃん」
柔い笑顔を浮かべた蛍は、どこまでも光のようで。
俺の勝手な考えだが、人は同じ境遇の人間がその劣悪な環境から脱却してしまうと、醜い嫉妬を抱えて再び自分と同じ立ち位置へ蹴落そうとするのだ。
しかし、蛍は違う。端的に言えば、人の幸せを心から喜べるようなやつだ。
「といっても、まだ解放された確証なんてない。むしろ大地の気まぐれっていう可能性の方が高いんじゃね?」
「まぁ、そこは暮遠の頑張り次第じゃない?」
「……ははっ、そうかな?」
なんで俺がやつらと仲良くするために頑張らなければいけないんだよ。正直、全員死ねばいい。
そんな罵倒が頭の中を渦巻いていたものの、俺は結局、蛍に曖昧な笑顔を向けることしか出来なかった。心地良い光を遮るようで、妙な罪悪感を抱いたから。
「私もそれなりに頑張っているしさ。暮遠も……いや、やっぱりなんでもないや」
やはり、蛍は優しい。その先を言わないだけでも、彼女の人間性が色濃く表されていた。
そんな蛍にアドバイスするように、俺は言った。
「君の頑張りというやつは逆効果じゃないか?誰だって嫌いなやつから、仲良くしよう、なんて雰囲気を出されたら気に食わないものだよ。今の俺みたいに」
「そうだね。でも、そうしないとなにも始まらないじゃん」
その言葉通り、蛍は精一杯足掻いている。ただ、彼女の抱く圧倒的な性善説が、逆に協調性というものを失わせていた。彼女は人の悪口を言えない。その場の流れで陰口を叩く、もしくは同調するという行為は大切な人付き合いのうちのひとつだろう。それが出来ないと「空気が読めないやつ」という烙印を押されてしまうのは必然だ。
でもだからこそ、俺は蛍をこの世界唯一の光みたいに見えてしまうのだ。
「そういえばさ、暮遠はなんでいじめられなくなったのかな?それどころか、あの大地に親しみを向けられるだなんて。急展開すぎない?」
蛍の疑問は全くその通りで、なんなら俺が聞きたいぐらいだ。
「さぁ。自分でもよく分からない。ただ……」
「ただ……?」
少し考える。昨夜の体験を蛍に話していいのかを。
「昨日さ……俺、あいつらに学校のプールの屋上から突き落とされたんだよ」
結局、俺は口にしていた。
「プール?!あそこってかなり高いでしょ?身体の方は大丈夫なの?」
「無駄に頑丈だからな、俺の身体は。普段から痛めつけられてるからかも」
「……なに、その皮肉。笑えないんだけどー」
と言いつつ、蛍は笑ってくれる。
「とまぁそんなこんなんで、そこから自宅に帰った記憶がないんだよ。だから、その間になにかあったんじゃないかって」
「なるほどねぇ。記憶がない、か」
「君はそんな体験したことある?」
「ある訳ないでしょ。むしろ体験したいね。……こんな終わってる世界なんて、忘れてしまいたい」
その言葉とは真逆の表情を、蛍は浮かべた。
それと同時に、けたたましいチャイムが鳴り響いた。いや、それはチャイムと言うよりも、もはやサイレンだった。恐ろしい天変地異の前触れのような。
「じゃあ、そろそろ教室、戻ろっか。暮遠が先に行って」
「なんでだよ?一緒に行けばいいんじゃ……」
「私と一緒に居たってみんなに知られたら、またいじめられちゃうかもしれないでしょ?」
俺の言葉を断ち切るように、蛍は言い放つ。
その言い草が果てしなく気に食わない。何故かは知らないけど、とにかく腹が立った。
「そんなこと知るか。ほら、戻ろう」
「……分かった。ふふっ」
蛍は、やはり天使が取り憑いているかのように笑った。
※ ※
いじめが和らいだことでほんの少しだけマシになった学校から帰宅した俺は、玄関扉を開け放ち、リビングに漂う紫煙と濃いアルコールの匂いに顔を顰めた。
「おう、暮遠。今帰ったのか?」
玄関扉を開けた音で気付いたのか、自室から顔だけ出した昂夜が若干呂律の回っていない口調で訊く。彼の部屋からは、多人数が騒ぎ散らかす声が響いていた。
「あぁ、それよりなに?この匂い。さすがに親父にバレるんじゃない?」
「いいんだよ。今日はあいつ、残業だとか何とか言ってたからな。それに、あの臆病な親父だ。たとえ目の前で騒いだとしても、何も言ってこねーだろ」
親父を見下すように、昂夜は吐き捨てた。
たしかに、昂夜なら何も言われないだろう。彼には、あの親父に目の敵にされる理由がないのだから。もし俺が昂夜の立場だったら、顔が変形して判別が付かなくなるほど殴られる自信がある。セルフ整形だ。仕上がり最悪な。
余計な思考はさておき、俺は質問を再開した。
「だから友達を呼んだってわけ?」
「そうそう。俺はおまえと違って、人生を謳歌しているんだよ」
皮肉げに笑った昂夜に、俺は何も返せない。その言葉は紛れもない事実だったからだ。彼はたまにこういう態度をとる。まるでもがき苦しむ虫を眺めて楽しむ小学生のような。そして、その露悪的な態度は、俺という存在を完全に舐め切っている証拠だった。
まぁ今更ガタガタ言うのも面倒なだけなので、適当に流す。
「なんでもいいけどさ、うるさくしないでよ」
「いちいち言われなくても分かってるっての」
「酒の缶もちゃんと片付けてよ。後で『クソジジイ』に文句言われるのは俺なんだから」
「おまえは俺のオカンかよ!やるっての」
昂夜が部屋に引っ込むのを尻目に、俺は二階に上がって自室に入り、作業台へと向かう。
趣味というやつだった。人を殺す妄想でもしていないとこの世界でやってられないというのは当然として、しかし俺は妄想だけで留まらなかった。
一階から漏れ出る喧騒をbgm代わりとして、俺は配線を繋げていく。
※ ※ 心地良い安眠から俺を覚醒させたのは、思いっきりぶち当てられた拳だった。
「おい、この役立たず!てめぇのせいで、今日朝飯抜きだったじゃねーか!しかも、リビングが散らかっていて、タバコの匂いがするのはどういうことだ!殺されたいのか、おまえ!」
キチガイみたいに怒鳴り散らかしながら、親父は何度も拳を叩きつけてくる。
そのあまりの勢いに、俺は腕を前に掲げてガードすることしか出来ない。下手に抵抗したところで、力では敵わないことを知っていたからだ。
しばらくの間、丸まったヤスデのように防御姿勢を取っていた俺だったが、それに反して隕石のような拳は数分ほど経っても収まる気配はない。そろそろ腕の感覚がなくなってきた。
そのうち精神的にも身体的にも限界を迎えた俺は、あの日のように願う。ただただここから逃げ出したい一心で。
スキップしたいと。俺を取り巻く全てから。
そんな願いを抱いた時だった。急速に意識が遠のいたのは。まるで幽体離脱でもしているかのように、意識が身体から離れていく感覚に陥る。それは、まさしく救世主だった。
情け容赦ない拳を浴びながら、俺は再び安眠につくことが出来た。
※ ※
変な夢を見ていたような気がする。
そして目覚めた今、その内容はすっかり忘れてしまった。
しばらく目を閉じながら思い出そうと足掻いてみたけど、頭に霞みがかったかのように全くピンとこない。そのうち、思い出せないのなら大した夢じゃないのだろう、と諦めた俺は、無駄に重い瞼をこじ開ける。
光を受け入れ始めた俺の両目が一番最初に映したのは、顔を覗き込んでくる昂夜の笑顔だった。まったく嬉しくない目覚めだ。
「今、何時?」
俺は、身を捩りつつベッドから降りて立ち上がろうとするも、身体中に走る電流のような痛みの影響で再び倒れ込んだ。
「五時だ。夕方のな」
相変わらずの酷薄な笑みを湛えた昂夜が、どこかバカにするかのように答える。
「まさか……なんの冗談?」
「そんなアホらしい冗談なんか言うかよ」
思わず頭を抱えてしまう。そして、抱えるために上げた腕すらも痛いのがさらに困惑を深めていく。
「念の為、病院に行った方がいいかもな。その腕、下手したら折れてんじゃねーか?まぁ、行ったところで親父と鉢合うかもしれんが」
「親父?病院?」
「……あぁ?まさか覚えてないとか言うなよな。あいつ、昨日の夜……いや、もう今日か。……ともかく、緊急搬送されたじゃねーか。しかも背中に矢が突き刺さったとか、何時代だよ!」
その言葉に、ピンとくる。
俺は、また時を飛んだのだ。記憶がないという事実が、その証拠になり得る。
「背中に矢が刺さった?どういう状況?」
とりあえず、惚けた質問をしてみた。
「人生をスキップ出来る」という絵空事のような能力が、あの悪夢のような夜を経て俺の身体に備え付けられてしまったとして。当然、誰かに言える訳もない。特に昂夜なんかに相談でもしようものなら、本格的に頭が狂ったと誤解されてしまうだろう。
いや、もしかしなくても、俺の頭はとち狂ってしまったのかもしれない。でも、それでも良かった。なんなら、その方が良かった。この地獄を生きる上で、正気を保ったままだなんていう拷問はもううんざりだ。
億劫そうに、昂夜は口を開く。
「いや、俺も爆睡中だったんだよ。そしたら、おまえの部屋から凄い物音がしてな。それで駆けつけたって感じだ。で、扉を開けて腰を抜かしそうになったぜ。なんていっても、おまえは立ち去ろうとする親父にボウガンなんか向けて、躊躇いもなくぶっぱなしたんだからな」
何のドラマの話だ、と思わず突っ込みそうになる。それはまるで現実離れしたミステリー小説のように、欠片も想像し難い現実だ。
「それ、本当の話?」
「こんな下らない嘘をつく意味なんてねーだろうが」
たしかに、それはそうだ。嘘をついたところで、昂夜にこれといったメリットは存在しない。けれど俺は、彼の言葉を勘ぐってしまう。
たとえ、武器を手にしていたとして。親父相手にいくらそれを活用して優位に立っていようと、今まで植え付けられた恐怖とトラウマはそう簡単に克服出来るはずがないのだ。それに俺と親父の間には、まるで底が見えないほど深く暗い渓谷のような確執が存在していて、その渓谷を刻んだのは俺自身だ。
「まったく。おまえ、面白いことしてくれんじゃねーか。まぁ救急隊員とか警察とかを誤魔化すのは大変だったけどな。家の中、見られるわけにはいかなかったしよ。倒れた親父をどうにか家の外に運び出して、後は身に覚えがないってはぐらかしたんだぞ。おまえもおまえで、警察やら救急隊員やらが来たらすぐに逃げやがって」
「本当にごめん」
身に覚えのないことではあるけど、一応謝罪はしておく。
「あとな、俺が言うのもなんだけど、机の上の物騒なものはあまり置きっぱなしにしない方がいいぜ」
そのアドバイスには、素直に従うことにした。
這う這うの体で立ち上がった俺は、机の上に散らばった部品や工具類、そして「武器」を使っていないクローゼットの中に突っ込んだ。
「で、一体何があった?本当に記憶がないわけじゃないだろ?」
有無を言わさない口調で、昂夜は訊ねる。
「いや、本当にその通りで、記憶なんて綺麗さっぱりないんだけど」
「おいおい、その誤魔化しはもう通用しねーぞ。そんな面白いこと、独り占めしようとすんなよ」
「おま……いや、兄貴にとっての生きる基準みたいなものは、面白いかそうでないかしか、レパートリーないの?」
言い放って後に察した。言葉選びをミスったと。これじゃあ、まるで昂夜の心の一番柔い部分を抉っているみたいだ。
予想通りその言葉は、昂夜にとって特大の地雷だったらしい。それを真正面から堂々と踏み付けてしまった。
まるで仇敵に向けるような視線で、昂夜は俺を鋭く射抜く。
しばらくの間、重苦しい雰囲気が六畳間に横たわる。
「わ、悪い。今の質問、忘れてくれ」
結局、俺が折れる。でないと……まぁ何も起こらないっちゃ起こらないけど。昂夜の性格的に、俺をどうこうしようとは思わないだろう。悪い意味でそういうやつなのだ、彼は。
「……そうか、分かればいいんだよ。思わず殺しちまうところだったじゃねーか。おまえが、親父にやったように」
自分よりも小さい何かを弄ぶような笑顔を、昂夜は浮かべた。
それにしても、現実味のない話だ。
思わず、思考の坩堝にハマってしまう。
俺が人生を、まるでYouTubeの広告みたく飛ばしていることが本当に事実なのだとしたら。それは今まで耐えてきた地獄が報われたと言っても決して過言ではないのだ。だって、これから先一切苦しまずに済むのだから。ただただ、絶望を思い出してスキップすればいいだけなのだから。
この能力の発現の原因が、俺が普段から受けているいじめやら何やらだとしたら多少皮肉な気もするけど。
本当に久しぶりに、清々しく感じる。
「俺はいい弟を持ったよ、マジで。おまえには飽きることがないからな。いつまでも、そんなおまえでいてくれよ」
その意味深な昂夜の言葉は、ニュアンス的には皮肉るようだけど、何かを期待しているかのような印象も孕んでいた。
その声を聞いて、俺はようやく現実へと帰還する。
「なんだよ、それ……。まったく嬉しくないんだけど」
「はは、珍しく褒めてやってんだよ。ありがたく受け取っとけ」
やはりどこまでいっても、昂夜はただの傍観者だった。
昨夜殴られまくった腕が、ズキズキと痛みを発した。
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