回想電車
琳堂 凛
回想電車
新入社会人の憂鬱が染み付いた四月のある朝。三鷹駅のホームで、私は彼女に出会った。
都心へのアクセスの良さと緑豊かな環境に惹かれてこの街を選んだものの、現実は容赦なかった。入社して一ヶ月も経たないうちから、上司からの叱責は日常となり、些細なミスの連続で自信を失っていた。
そんな月曜の朝、5番線ホームのベンチで電車を待っていた時のことだ。
青々とした空模様をぼんやりと眺めながら「このまま帰省してしまおうか」などと考えていると、ふらふらと目の前を横切る女性が目に入った。
栗色のロングヘアが春風になびき、茶縁の眼鏡が愛らしい印象を与える。白地に淡い色合いの花柄が散りばめられたロングスカートがよく似合っていた。
そんな小柄な女性が、スマートフォンと時刻表を交互に見ながら、明らかに迷っていた。行き交う人々に声をかけようとしては躊躇う姿に、普段なら見て見ぬふりをするところを、その日に限って声をかけた。
「あの、何かお困りですか?」
振り返った彼女は、不意を突かれたようにビクッと肩を震わせ、踵を引っ掛けて転んでしまった。半ば呆れながらも駆け寄ると、外れかけた眼鏡の奥から覗く瞳に、思わず見惚れてしまう。長いまつ毛を添えた透き通るような茶色の瞳は、どこか儚げに見えた。
赤面し俯く彼女をなんとか立たせ話を聞くと、立川行きの電車に乗りたいとのことだった。
「それなら……」と線路を跨いだ向こう側のホームを指差すと、彼女はペコペコと頭を下げ、手帳を落としたことにも気付かないまま階段へと消えていってしまった。
パステルカラーの表紙に、小さな花のチャームがついた手帳を抱えたまま放置される私。スーツ姿の大男がそんな物を片手に持っているものだから、周囲の人間は物珍しげな視線を向けてきたが、私は彼女が走り去っていった方をしばらく眺めていた。
すでに電車の時間が迫っており、それを逃せば新人の義務である定時前出社が危うい。また会えた時にでも返そうと思い、ひとまずカバンの中にしまってその日は出勤した。
——翌週、また彼女は5番線ホームに現れた。
先週と同じく、スマートフォンと時刻表を交互に見ながら、右往左往していた。
その姿を見て、カバンに入れたままだった手帳のことを思い出す。激務に追われて、すっかり忘れてしまっていた。すぐに取り出し手渡そうと声をかけるも、彼女は私のことを覚えていなかった。
まあ、初対面の人間の記憶なんてその程度のものだろう。私自身も他人に対してあまり興味が湧かない口だ、大して気にしなかった。
だが手帳を目にした彼女は、目を丸くして手帳を見るばかり。どうやら手帳が自分の物だという自覚すらないようだった。訝しみながらも手帳を受け取りページをめくると、ようやく思い出したらしい。安堵の表情を浮かべると、礼を言ってきた。
そして、彼女は言った。
「立川行きの電車は、ここで合ってますか?」と。
「いや……ですからここは新宿行きのホームで……」
どこまで物忘れが激しいのだと呆れながらも、先週もそうしたように線路越しの3番線ホームを指差した。
彼女はその先を見るが、その横顔はひどく悲しそうに見えた。そしてすぐに頭を下げ、パタパタと走り去っていく。
——さらに翌週。
さすがに三週続けて同じことは起こるまいと思っていると、やはり彼女はやって来た。彼女が利用するはずの立川行き3番線ホームではなく、新宿行きの5番線ホームにだ。
もはやここまでくると私に気があり、故意にやっているのかとさえ邪推してしまう。そして案の定、彼女は私のことを覚えていなかった。
ただ、その日の行動はこれまでと異なるものだった。慌ててパラパラと手帳をめくり記載されている内容を読むと、表情を明るくして言ってきた。
「ええと……5番線の人、ですよね? 以前、手帳を拾ってくれた。いつも線路を教えてくれてありがとうございます」
5番線の人などとは、まるでホラー映画に登場する通り魔のような呼び方だ。訳が分からなかったが、その後に彼女が語った内容で全て理解した。
彼女はその日に起きたことを記憶に留めておけないという、非常に珍しい病を患っていた。
だから、その日の出来事や思ったことを毎日手帳に書き留め、翌日それを見返すという毎日を過ごしているらしい。
その告白は、私の心に深く刺さった。毎日記憶が消えていくという現実を、彼女はどんな思いで受け入れているのだろう。そんな彼女を一瞬でも『忘れっぽい』などと小馬鹿にした自分が、途端に醜悪な人間に思えた。
彼女曰く、手帳を紛失した日は体調が芳しくなく、代わりの物に記入することができずに寝込んでしまったらしい。記入ができなければ前日の出来事を知る術はない。だから私と二回目に会った時はあのような反応だったのだろう。
立川市には著名な脳外科医が務めている大病院があるらしく、そこで週に一度の治療に通うために引っ越してきたのだそうだ。
そこまで事情を聞いたところでその日は電車が到着し、別れることとなった。
翌週からの朝は、特別なものになった。
彼女はまず手帳を確認して、先週のおさらいをしてから雑談に入る。文字で読むのと生で聞くのは勝手が違うらしく、何度も同じ話をするのに、毎回新鮮な反応を見せてくれる。
上司の理不尽な叱責も、彼女に話すことで笑い話に変わっていった。子供のように無邪気に笑う彼女と、その温かな空気に私も少しずつ救われていった。
ただ、それでも理解できないことが一つだけあった。それは、彼女が毎回ホームを間違え5番線にやって来ること。それこそ手帳に『立川行きは3番線』と明記すれば済む話だ。
気になった私は、いつものように雑談する最中、質問してみた。
「ずっと気になってたんですが……立川市の病院に通っているのに、どうしていつも新宿方面のホームに来るんですか?」
「えっ、いや、それは、ええと……その……」
彼女はほのかに頬を赤らめ俯く。同時に、アナウンス音が駅構内に響き渡った。
『——まもなく、3番線に中央線快速電車、立川、八王子方面行きが参ります。危ないですので——」
「……あっ、もう電車が! 失礼します!」
すると、彼女は突然思い出したように慌てて3番線のホームへと走っていく。
別に友人というわけでもなく、ましてや恋人でもない。おそらく彼女は、私のことを通院前の雑談相手くらいにしか思っていないのかもしれない。なにより、手帳がなければ私のことなど覚えてさえいない。そう思うと、少し胸が苦しかった。
私も当初は、そんな気楽な関係が心地よかった。朝の数分間、互いの素性も知らないまま、ただ何気ない会話を交わす。その時間が、重圧に押しつぶされそうな毎日を支えてくれていた。だが気付けば、彼女に惹かれている自分がいた。
だが七月に入りジリジリと気温が上がってくると、彼女は突然姿を見せなくなった。
特別な感情が芽生え始め、まずは友人として距離を縮めようと考えていた矢先だった。
寂しさを感じながらも、きっと治療に専念しているのだろうと思っていた。そう、少し経てば治療が上手くいって、また5番線に姿を見せてくれると信じていた。
後に、それは楽観的すぎたと思い知ることになる。
——猛暑も本格化してきた、八月のある朝。
滴る汗を拭いながら、私はいつものように5番線ホームで電車を待っていた。蝉の鳴き声がやたらとうるさかったのをよく覚えている。
その日の週末には、夏季休暇を迎える。交際相手もいなければ特に予定もため、何をしたものかとぼんやりと考えていた。
すると、目の前に和服姿の初老の女性がふらりと現れ、見覚えのある手帳を差し出した。
そして、伏し目がちな様子でこういった。
「——5番線のお方、ですね?」
その言葉を聞いた瞬間、真夏の猛暑はひんやりと冷え、蝉の鳴き声は一段とやかましくなった。
「娘の手帳に、あなたのことが書いてあったものですから。……娘は先週、脳腫瘍でこの世を去りました。遺品を整理していたら、大切そうに保管されていたこの手帳を見つけて、それで——」
途中から、彼女の母親であろう女性の話は耳に入ってこなかった。鈍器で殴られたような衝撃を覚え、ただただ放心していた。
そんな私に、女性は「迷ったのですけれど、娘の思いが綴ってあります。あなたには読んでいただきたくて」と告げると、淑やかに一礼して去っていった。
その日はそのまま体調不良と嘘をつき、会社を休んだ。そしてすぐに自宅に引き返し、着替えもしないまま、震える手で手帳を開いた。
日記形式の手帳には、彼女が記したメモがびっしりと書いてあった。
診療の予約時間に、病院の住所。料理の献立に、試聴するテレビ番組の放送時間。
そして、日にち毎に分かれているページの後半には、彼女が胸の内にしまい込んでいた思いが鮮明に書き綴られていた。
『4月○日
今日、優しい人に会った。転んでしまったのに、手を差し伸べてくれた。明日も会えたらいいな。でも、明日には今日のことを忘れてしまう。だから、この手帳に記しておこう。彼の優しい声だけは、きっと覚えていられる気がする』
『4月○日
また、彼に会えた。でも、先週のことは覚えてないだなんて言えなかった。手帳さえ落としていなければよかったのに。きっと私のこと、変な人だと思うはず。でも不思議と、優しく接してくれる。この温かさだけは、明日も覚えていますように』
『5月○日
毎週のように、彼と会ってる。仕事の愚痴を聞いてくれる。私の病気のことを聞いても、気にしないでいてくれる。毎日記憶が消えても、彼のことを思い出すのが楽しみになってきた。手帳を開くたびに、温かい気持ちでいっぱいになる』
『6月○日
今日も、5番線で迷子のふりをした。本当は3番線だって手帳を見たら分かるのに。でも、会いたかった。毎朝、彼に会えるこの時間が、今の私の幸せ。病気のことを忘れられる、大切な時間』
『6月○日
病院で先生に、症状が悪化してると言われた。今朝の幸せな気分が台無し。口がうまく動かせなかったけど、ちゃんと彼と喋れたかな』
『7月○日
また、彼の名前を聞けなかった。怖い。名前を知ってしまったら、もっと好きになってしまう気がする。好きになったら、忘れることが怖くなる。でも、前に進まないと。来週は、絶対名前を聞こう。頑張れ、私』
ページをめくるたび、涙が溢れた。
自分がどうしようもなく愚かで、憎い。彼女の葛藤も、苦悩も、恐怖も、全く理解していなかった。
無邪気な笑顔に夢中になるばかりで、なにも見えていなかったんじゃないか。
最後に記入されたページには、小さな押し花の栞が挟まれていた。
胸ポケットからボールペンを取り出すし、涙で滲む文字の下に、続きを書き綴った。
君のことが好きです。この先も、絶対に忘れない。
天野 遥人
枯れた押し花は、涙で濡れても再生しない。鮮やかな色を取り戻すわけでもない。
ただ、彼女との思い出だけは、これからも色褪せることはないだろう。
手帳には、彼女が眠る墓地の住所が記載されたメモが挟まっていた。これで、夏季休暇中の予定は決まった。
窓の外では、いつもと変わらない三鷹の街並みが、夏の陽射しに照らされている。緑豊かな並木道を、彼女も毎日歩いていたのだろうか。
記憶が消えても、想いが消えることはない。
彼女とかけがえのない時間を過ごしたこの街で、私はこれからも生きていく。
それが、彼女との最後の約束になった。
回想電車 琳堂 凛 @tyura-tyura
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