三年間ありがとうございました

ひかり

三年間ありがとうございました

愛は呪いの一種だと、誰かが言った。




放課後の下足前は、キャッキャとはしゃぐ生徒たちの声がそこかしこから聞こえてくる。


五月の揺れる木漏れ日が音を吸い取ったように、どこか気怠い静けさを思わせる。


「結局よくわからないんだけど」


校門を通り過ぎたとき、おもむろに放った彼氏の言葉がその静けさを破った。


「何?」


足元の木漏れ日から目を上げて、私より15cmほど身長の高い彼を見上げる。


「好きな人と推しって、何が違うの?」


「んー」


ある種の究極の問いに、私は頭を捻って言葉を選ぶ。


「えっとね。推しのことはこっちが好きなだけで、別に私のことを好きじゃなくてもいいの。好きな人は違って、私のことを好きじゃなきゃ嫌」


こちらを振り返る彼と目が合う。


私のことを好きじゃなきゃ嫌。彼氏に言うには、ちょっと照れくさい言い方しちゃったな。


目を逸らす。


一周年記念を迎えても相変わらず彼女馬鹿な彼氏は、照れたように笑ってから、腕を組み、関心したように頷いた。


「その感情が両立するっていうのが、すごいっていうか、よくわからないんだよな」


「それがするんだよ」


したり顔で頷き、少し後ろめたくなる。


ごめん、彼氏。そんなわけない。


「さよーならぁ!!」


背後で聞こえた声にビクッと肩を震わせる。


混ざり合って単調になったはしゃぎ声から一筋、陶器を割るような声が飛び出した。さっき下足にいたギャルの一群だ。


それに答える、「さようなら」の優しい声が耳に届いた。


私ははっとして、ちらりと後ろを窺う。


下足前に立ってニコニコしている、ひょろっと背の高い数学の先生。


立ち姿がわかるだけで、きゅんっと心臓が跳ねる。


あの人が私の推し。


どんなに短い一言でも、あの人って分かっちゃうんだもんなあ。


前に歩き出しつつ、私は考える。


どんな短いフレーズでも、誰と話していても、あの人の声はあの人だとわかる。


独特の高さというか。


独自の周波数でも出ているのではないだろうか。


だからって変な声ってわけでもなくて、籠ったような掠れたような、とにかく優しい声。私は大好き。


「…子、莉子?」


「あっ、はい。何?」


「また自分の世界に行ってただろ」


「うん。ごめん」


彼氏をガン無視してしまっていたことの気づいて、推しから意識を離す。


「今週、進路面談あるだろ?どこ志望するか決めた?」


「う〜ん、今回も誤魔化す、かな。」


毎回毎回、私は進路面談の度にまだ決まってないです、を繰り返している。


やりたいことをぽつりぽつりと語っては、先生に大学名を言わせていく。


第一志望の大学は、あると言えばあるけど、私の成績で言うなんて恥ずかしい。


「そろそろ決めないとなあ」


はあ〜と両手を突き上げて伸びをする彼氏。つられて私も上を見る。


じりじりと、そこそこ暑い太陽の光が目に飛び込んできた。




彼氏のことは好きだ。


これが恋愛の好きなのかはわからないけれど、一緒にいたら安心するし、割と長く一緒にいる想像もできる。


お母さんも友達も、いい彼氏だねって言ってくれるし。別に別れる理由もないし。


それが理由ってわけでもない。尊敬してるし、ほんとちゃんと好き。


だからこれが正しい。




卒業証書と後輩からもらったカーネーションを小脇に抱えて、撮影会場と化したグラウンドを歩いていた。


まだ冷たい風が足元を吹き抜けて、ブレザーの袖を握り込む。


その人を見つけた瞬間、一気に体温が上がった。


私の推しはスーツ姿の保護者と話していた。


ニコニコ細めた目を見ると、まだ他人行儀だった一年の頃を思い出す。


好き。


まあ最初は、ただの一目惚れだったんだけど。


頼りなさそうに見えてしっかり大人なとことか、ああ見えてユーモアがあるところとか、授業中は丁寧な言葉遣いなのにたまに素に戻るとことか、声が優しいこととか、ずっと私の進路を応援してくれたこととか。大好きで。


私の成績が上がるなんてもう親ですら信じてなかったのに、いつも先生は私を信じてくれていた。


なんで?って聞きたかったな。聞いてもよかったのかな。


推し、だ。彼は私の推し。


元々の恋心を、無理矢理オタク心に変換した。


望みもない恋に命懸けるほど馬鹿じゃない。


だから私は今日、先生に呪いをかける。愛と呼ぶのも烏滸がましい、ささやかな呪いを。




「先生」


「お、千鳥」


振り返った先生が、くしゃっと笑う。


「先生」


卒業おめでとう、なんて言われたら言えなくなってしまいそうで、先生が口を開く前に言った。


「幸せになってね」


先生はあっけに取られたように口を開ける。


それから、はっ、と息を吐き出すように笑った。


「そういうの、僕のセリフなんだけどなあ」


手に握ったカーネーションの包装紙が、くしゃっと音を立てた。

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