少年の声

 蒼は、あてがわれた自室へ戻ると、ベッドに仰向けになり、目を瞑った。


 心が乱れるといつもそうするように、重ねた両手で頸動脈をゆっくりと圧迫していく。そうすれば、どんなときでも気持ちが落ち着くことを、蒼は知っている。


 ど、ど、ど。

 喉仏が心臓のように脈打っている。親指のつけ根から伝わるその鼓動が、蒼の意識を支配していく。

 瞼の裏に光の模様がゆらめく。

 それと、闇が。


 ややあって、呼吸と平静を取り戻した蒼は、上体を起こし、室内をゆっくり見回した。段ボール、本の束、繋がっていないパソコン。そして、さっき取ってきた延長コードが目にとまる。


 そもそも、兄があんなことを言うから、あの二千万を見てしまったのだ。蒼は、そのときのやりとりを思い返す。


 ――コンセント、遠くて。延長コードほしいんだけど。

 ――あ、前に使ってたやつ、クローゼットにあるかも。探してみ? 無かったら新しいの買いな。


 兄は「捨てたかもなあ、どうだっけな……」と首をかしげながら煙草に火をつけ、キッチンの換気扇を回した。

 ごおお、という音が咆哮のように響く。


 長身で体格のいい兄は、蒼とはまったく似ていない。Tシャツ越しでもわかる厚い胸板。腕には筋肉がくっきりと浮き出ている。蒼の視線に気づいたのか、兄は赤いパッケージを軽く振った。


 ――なに、お前も吸いたいの?

 ――え、ううん。

 ――俺、その歳なら、もう吸ってたけどなあ。


 返事に困っている蒼をよそに、兄は咥え煙草で、蒼の部屋を覗いて「荷物はこれで全部?」と、訊いた。


 ――うん。

 ――ふうん。意外と少ないな。いるものあったら、引き出しの「生活費」遠慮なく使えよ。


 そう言って、兄はなにも食べずに出かけていった。

 そのとき、蒼はその背中を見送りながら、キッチンの清潔さについて「使っていないからだな」と、納得したのだった。


 そこまで思い返した蒼は、大きく息を吐き、思考を断ち切るように、ベッドから勢いよく降りた。

 ぎっ、と木枠が鳴る。


 ――ほんとうに、クローゼットを探せだなんてよく言えたもんだ。


 それは、蒼にとって、疑問というより愚痴だった。けろっと存在を忘れるにしては、二千万は大金すぎる。勘弁してほしい。心臓にわるい。寿命が縮む。


 そんな恨み言を呟きながら、蒼は窓際のコンセントに延長コードを勢いよく突っ込んだ。逆端は、パソコンのプラグまであと数センチ届かなかった。

 買い物に行くことは決定してしまった。つまり――蒼は、あの引き出しを開けるしかない。


 兄から「生活費」がそこにある、とは聞いていた。

 キッチンの食器棚の一番下。気が進まなくて後回しにしていたけれど、仕方がない。

 引き出しを覗くと、中には札と小銭が乱雑に放り込まれていた。総額は三十万ほどで、おそらく補充が面倒だから多めに置いてあるのだろう。

 この現金の出所だって怪しい、と蒼には思える。


 ――しょうがない、よな。


 この中野でも、必要なものは揃うだろうけれど、蒼は、もっと遠くへ行かなければならない気がした。


 中央線で一駅の新宿まで出るか。さらに、乗り換えて――。山手線に乗るのはどうだろうか。その考えは、蒼の心を動かした。


 二日前、東京駅まで迎えにきた兄と一緒に、蒼は、はじめて山手線に乗った。そのとき、近くをぐるぐると回っているだけのその仕組みが、とてもいいと思った。

 例えば眠ってしまっても、遥か遠くに連れ去られる心配がない。おなじ景色の繰り返しは、安心感がある。

 その閉じた環に、今、蒼は強く惹かれた。


 気ばかりが急くのを抑え、洗面台の鏡の前で、蒼は、シャツの襟元を注意深く整えた。自分で絞めた赤い痕が見えないように。

 つい動揺して、いつもと違う箇所になってしまったようだ。気をつけなければ――。


 シャツの下にある痕は隠れているだけで、消えたわけではない。

 けれど、他人からは見えない。

 隠れている分には、自分からも見えない。


 蒼はマンションを出ると、駅までの道を駆けた。そうしないと、胸のざわめきが膨らんでしまいそうだった。


 ひたすらまっすぐ行けば、最寄りの中野駅に着く。春休みのせいか、家族連れの姿が多い。その脇を駆け抜ける蒼の前に、交番が現れた。

 視線を逸らしながら、蒼は脇道へと走り込む。あの大金が頭をよぎったから――。


 兄のことを、蒼はほとんど知らない。

 物心ついた頃には、もう兄は実家を出ていた。十五も歳が離れているのは、父親が違うからだ。


 兄を連れて再婚した母は、蒼を産んだあと、蒼の父とも別れた。今は三度目の結婚を控えて有頂天になっている。


 大人たち――母と、会ったこともない父と、兄と、母の恋人とのあいだでどんな話し合いがあったのか、蒼は知らない。結果だけを、母が言った。


「中学校から都会暮らしなんて、いいじゃない。ね? 蒼も楽しみでしょ」

 

 深夜、母は蒼の首を絞めにくる。ごくたまに。幼いころは夢かと思っていたが、もうそうではないことを蒼は知っている。

 朝になると、いつも通りの母で、蒼は「狐につままれたようで、さっぱりわけがわからない」と感じていた。


 一年に一度くらいのことで、当の母にも他人にも、蒼はその話をしたことはない。いつものように蓋をする。

 そもそも、会話の少ない家族関係だった。

 東京に出たあと、兄が何をしているのか、そういうことも共有されない――。


 夕方の中野駅の構内は混んでいた。蒼は、息を切らしながら、改札の列に並んだ。早く電車に乗ってしまいたかった。

 蒼の前に、紺色のリュックの女の子が、素早く割りこんできた。その子は切符も入れず、前の人にぴたりとくっついて、自動改札を抜けていく。


「あ……」蒼の口から反射的に声が漏れたが、女の子は振り返ることなく、するりと人混みに溶け込んだ。

 不正乗車。

 脳内にそんな四文字が浮かんだが、それよりも、一瞬目にした女の子の腕に、蒼は気を取られていた。


 折れそうに細い、むきだしの腕。

 そこに、赤い痕が見えたような気がしたのは、蒼の気のせいだったろうか――。

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