誰そ彼
@makaz
第1話
藍の空が朱に染まっていくのをわたしは無心で眺めている。頬を冷たすぎる風が撫でた。日中は春が近いと感じられるようになってきたが、それでも日が落ちればまだまだ寒い。ポケットから携帯電話を取り出してキャメラを起動する。朱の空を切り取る。メールアプリを起動して、撮った写真を添付し一言だけ打ち込んで西の空へ送信。送信できませんでした、とはね返ってくる。俯いてポッケに手を突っ込んで、落とした視線の先にあった石を蹴る。平らなアスファルトは障害となるものがなく、蹴った力の分だけ転がって転がって転がって、運動エネルギーが摩擦や空気抵抗等などでなくなるとやがて止まった。烏が阿呆と鳴いた。うるせぇ。口の中で叫ぶと、夜になったということもあってかそれとも別の理由なのかわからないがとにかく腹が鳴った。今晩は何を食べようかと夜空に向かって独りごちる。
背後で空気が揺れた気がしてゆっくりと慎重に振り返る。朱は消え闇が迫っていた。誰もいない。何もいない。嫌な汗がこめかみをつ、と流れた。手の甲で拭い、ふぅと一つ息を吐いた。緊張しているとわたしは認識した。
月のない空は瞬く間に漆黒の闇となっていた。気温が一気に下がったと肌が訴える。肩が震え、思わず抱きしめた。わざと、帰ろうと声に出して呟くと、ねぇ、と返ってきて飛び上がりそうになり、ひゅっと息が漏れた。誰もいない。何もいない。はずだった。でも、目の前には華奢で髪の長い暗闇にぼんやり光るような色白の女がいた。影が薄い。いや、陽は落ちているから影は見えない。印象として影が薄い。幸も薄そうだ。心なしか色も薄い気がした。
なにか御用? と訊ねると、女の人は口角をあげて、たぶん微笑んだ。そのことに肩の強張りがわずかに緩む。もう一度、なにか御用と。女の人は声を落として、表情を消して言った。写真を撮ってくれませんか。なんでやねん。会って早々正体もわからないのにどんな頼みだよと心の裡でツッコミながら、でもなんだかおかしくてしかたなくて、それに何故か断れない雰囲気もあり、いいわよと気楽に頷いた。写真機はありますのん? と訊くと首を振ってこちらを指差した。わたしの衣嚢に向く指が細くしなやかで、紅く塗られた爪が目に留まり、妙に艶めかしくとても美麗だった。携帯電話を取り出すと、女はうれしそうに目を細めた。その顔はとても幼く見えた。学生さんだろうかと思うと同時に、女が寒空なのに半袖のワンピース姿であることにいまさら気付いた。違和を感じながらも、撮るよ、とキャメラを構えると、女は髪を耳にかけて、小首をかしげるとほころんだ。幼く華奢に見えた女が、今度は婀娜ぽくなり肉感的で、わたしは息苦しさを感じ落ち着かなくなった。それを振り払うように、釦を押す。ぱしゃ。ぱしゃ。二枚続けて撮った。すぐに画像が保存される。それを見せてやると、艶然と笑いうれしそうに燥いだ。
女にもう一枚とお強請りされたので、もちろんと快く答えた。やにわに構えると、首を振りあっちでと不意に手を引かれた。そのひやりとした手に一瞬びっくりしたが、なぜか気持ちよかった。畦道を暗い方へ暗い方へと進む。どこまでいくのかと尋ねると、もう少しよと手を強く握られた。生唾を飲み込み、手を握り返した。飲んだ唾の音がやたら大きく響いた。女は長い髪をいつの間にか馬の尾のように後ろで一つに縛っていた。すらりと伸びた白い首が目の前にあり、首筋に張り付いた髪の毛と青い血管までもがよく見えた。うなじから匂い立つようだ。気付くと歩く速度があがっていて走り出しそうなほどになっていた。息が少しづつ早くなる。はぁはぁ。頭がくらくらしてきた。空気が薄くなった気がする。まだなのと声をかけると、漸く立ち止まり、ここよと言った。暗くてよくわからないが川のせせらぎが聞こえた。此処はどこなのだろう。見回してみても闇が広がるだけで元居た場所も見えなくなっていた。遠くで鳥の鳴き声が不気味に響いて、わたしは怖気をふるった。
女の顔も存在までも暗闇でよくわからなくなっていた。囁くような声の方に半歩近づき耳を傾けた。耳に吐息がかかる。ねぇ。雷に打たれたように脳髄から背骨に電気が走る。ねぇ、一緒に撮ろう。どこか気怠く舌足らずな声に目眩を覚えた。女の吐息から、首すじから、匂い立つかほりが鼻腔を刺激する。いつか嗅いだ名も知らない花の甘いあまいかほりのよう。顔を寄せてきたので、かほりが濃くなり熟した淫らな果実のように錯覚し、女の息づかいが暗闇のせいか耳の中でやたらと反響していた。フラッシュを焚いて撮影すると、横目に見えた女の顔は皺だらけの老媼だった。肌が泡立ちほんの少し慄いた。萎れた女はそれでも見目麗しく艷やかで、こちらをチラリと見た翡翠の瞳は赤子のような濁りのない輝きを放っていた。
まるで泡沫の夢を見ているようで、川のせせらぎはいつの間にか聞こえなくなっていた。濃密なかほりと昏い闇、白い肌、紅い爪。すべては幻のよう。誰もいない、音のない、寂しい静けさが抱き締めてくる世界にわたしは、いた。
誰そ彼 @makaz
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