アトミーニャ・スカイストマの贖罪

黒月一

プロローグ

「戦争が終わったら、人を助けてみろ」


 罪悪感と涙に塗れていた私に上官が注いだ言葉は、酷く抽象的だった。






 リアリシキ大陸、ミゲラ公国。

 首都のロンダにある喫茶店の窓際で、アトミーニャ・スカイストマはこの国の地図を眺めていた。


 彼女の目の前のコーヒーは、ほのかな香ばしさを湯気と共に立ち上がらせており、その向こうに見える外の風景は、人で賑わっている。


 軍を退役したときにくすねた漆黒の軍外套を椅子の背もたれに掛け、灰色のセーターとジーパンをあらわにしている彼女は「ふむ」と唸る。

 銀色の結ばれた長髪と、宝石のような輝きを放つ淡い緑の瞳を持つ彼女は、その美麗さも合わせて、周囲の人間の目を惹きつけていた。


 違う席に座っている他の客はもちろん、日々様々な容姿の人間を目にしてきた店員でさえ、彼女の姿をこっそりと覗いては、その美貌に見惚れていた。


「あの……」


「はいっ!!」


 気づかれないようにアトミーニャの周りをずっとうろうろしていた女の店員が、彼女の一声でそのような元気のある返事をした。

 彼女のその美貌は、同性でさえ虜にしてしまったらしい。


「ここって、今から歩けば何分かかりますか?」


 アトミーニャは地図の一箇所を指で示した。

 彼女が指を差した場所はロンダ郊外にある、これといった特産品もない普通の町だった。


「えっと……ここからなら、歩いて四時間ぐらいですね!」


「そうですか。ありがとうございます」


 アトミーニャは店員にそのように伝えると、コーヒーの傍らに置いていた鉛筆で、店員に示した一点に『中心街から歩いて四時間』と書き加えた。


「あの……そこで何かあるんですか?」


 女の店員はこれで彼女との距離が縮まればいいなと淡い期待を抱きながら、アトミーニャにそのように話しかけた。


「いいえ。闇市に行くだけです」


 彼女の口から出てきた予想外の単語に、女の店員は首をかしげた。


「闇市……ですか? 何をしに?」


 闇市というのは基本的に盗品ばかりが安値で売られている場所であり、世間一般の認識では、金がない人間が行く場所というイメージが強い。


 しかし、闇市へ行く必要があるほど、アトミーニャが金に困っている様子は見られない。

 服装を見てもそうだが、この喫茶店でコーヒーを飲む余裕がある点においても、なおさら彼女が闇市へ行く理由が店員にはわからない。


「人助けができそうだなぁ、と」


 そう言ってほんの少し表情筋を緩ませたアトミーニャの顔は、店員の思考を停止させるには充分すぎるほどの可愛らしさを持っていた。


「あ、ぁ、人……助けですか?」


「えぇ、闇市にだったら困っている人も沢山いると思ったので」


 確かに、闇市には不自由な生活を送っている人間が多くいる。

 盗品や食品が正規のものより安く売られている性質上、様々な事情を抱えた人間がやってくるのだ。

 人助けをするならうってつけの場所ではある。


 だが


「あの……やめておいたほうがいいんじゃないですか?」


「……? どうしてですか?」


「ほら……治安が悪いじゃないですか、そういうところは」


 様々な事情を抱えた人間がやってくるということは、治安はすこぶる悪くなる。


 そもそも、盗品を売り出している店が大半を占める闇市において、治安が良いなんてことは絶対的にありえないのだ。

 窃盗や暴行はもちろん、強姦や殺人なんかも平気で横行している。


 そんな環境に、アトミーニャのような人間が赴いたらどうなるのか。


 間違いなくロクな目には遭わないだろう。窃盗だけで済めばまだマシで、もしかすると路地裏に引き込まれてそのまま……なんてこともありうる。

 絶対に行かせるべきじゃない。店員はすぐにそんな結論へ行き着いた。


「行かないでくださいよ?」


「でも」


「危険ですから!!」


 店員がそう叫んで、周りの視線が彼女に集中する。


「貴方のような美人が行ったらすぐに乱暴されますよ!?」


 近くの男性客が咳払いをする。

 目の前ではアトミーニャが苦笑いを浮かべており、店員は自分がどんなことをしてしまったかを認識すると、途端に恥ずかしさと申し訳なさが脳内を支配して、すぐに頭を下げた。


「すみません……」


「大丈夫です。それに、私は元軍人ですから。心配は無用です」


 アトミーニャがそう言うと、店員もその場に居づらくなったのか店の奥へと引っ込んだので、アトミーニャは目の前のコーヒーを飲み干すと、会計を済ませ、喫茶店の外へと出た。

 漆黒の軍外套越しでも身体が震えるほど外気は冷たく、吐いた息が白息として空中へ消えていく。


「人助けをしたとして……私は、許されるのだろうか」


 アトミーニャは水彩画のような水色の空を見上げて、そのように呟いた。

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