掛谷正法

 溺れた男を助け出したのは掛谷正法だった。動きや立ち振る舞いからして明らかに『糸』の支配を受けていないが、アンリが目を疑った理由はそこではない。

 信じられなかったのは掛谷の行動だ。浮浪者を助けたところで金銭を得られるわけではないし、中年の男だから美味しい思いもできない。

 なのに、彼は汚い池にためらうことなく飛び込んだ。自分が溺れ死ぬ可能性だってあるのに、泥で汚れることも厭わず、みるからに不潔な浮浪者を助けた。

 そんなことをして何になるのか。助けた後に何かを要求するのだろうか。アンリは掛谷の次の行動を見守った。

 助けられた男は礼も言わずその場を立ちさった。当然だ。ただ徘徊する以上の役柄を与えてはいないのだから。そんな男に対して掛谷は

「気をつけろよ~」

 と、恨み言1つ言わず手を振って男の背中を見送るだけだった。

 その様子を見ていたアンリと目が合った掛谷はニカッと笑って近づいてきた。

「夏目じゃないか。こんな時間にどうした? 家出か?」

 歩いてくる掛谷のズボンの裾からは泥水ビチャビチャと垂れている。3メートルほどの距離になったところで

「おっと、ドブまみれだったな。臭ったらごめんな」

 と言って、立ち止まり、それ以上近づこうとしなかった。

「……」

 アンリは何も返せなかった。

「そういえば夏目はあまりお喋りが得意じゃなかったな」

 普段ならその通りだ。だが今は彼の行動に呆然としていただけだった。

 やがてアンリの頭の中に1つの疑問が浮かんだ。それを口にしようとして踏みとどまる。

 今までは掛谷と話す時でさえ吐き気を堪えるので精一杯だった。

 結弦や円香を相手にした時は、怒りの気持ちに任せて言葉をぶつけることができた。でも、今のアンリは自分でも不思議なほど心が落ち着いている。カードも、ナイフも置いてきてしまった。

 人間恐怖症乗り越える抜け道は塞がれている状態だ。この疑問を声にしたら吐いてしまうかもしれない。だけど、どうしても聞いてみたい。。

「どうして、あの人を助けたんですか?」

 その言葉はあっさりと口にすることができた。恐怖どころか吐き気すら感じない。

 掛谷は初めて聞いたアンリの声に目を丸くしたが、そのことには何も触れずに返答した。

「なんでそんなことを聞くんだ?」

「だって、危ないし、汚いのに貴方にメリットがないじゃないですか」

「あー……言われてみれば……そうだな」

「言われてみれば、って」

「確かに池に飛び込んで助けるのは危ないし汚い。事実、今の俺は臭い」

 泥まみれの自身を見て、掛谷は朗らかに笑った。

「だけど」

 その瞬間、さっきまでの笑顔が嘘のように掛谷は神妙な面持ちになる。

「誰かの笑顔が失われるって考えたら躊躇してられねえんだ、俺は」

「笑顔……ですか?」

「ああ。俺が手を差し伸べなかったばかりに、命が失われたり、誰かが悲しむ。そんなのをみるのが嫌なんだよ」

 掛谷は横目で池の方を見ながら言った。何か苦い過去を思い出して目をそらしたように見えた。

「だから、誰かの笑顔を守るために俺は俺のできることをする。どんなに危ないことだって、相手が誰だって関係ない」

 アンリは掛谷に出会った時のことを思い出した。

 その時のアンリは身代金目当てで誘拐されたていて、どことも分からな場所に閉じ込められていた。

 攫われた経験は何度もあった。その数だけ助けられてきた。 助けにきた人はみんな、アンリを見つけた瞬間に安堵の表情を見せるとアンリではなくアンリの両親の元に一目散に駆け寄った。「手柄を立てられた」「組織の面子を守れた」そんな気持ちが顔から滲み出ていた。

 だけど、彼は違った。監禁されていたアンリを見つけるなり、掛谷はこう言った。


 ──怖かったよな。もう、大丈夫だ。俺に任せろ。


 太陽のような笑顔だった。

 そんな言葉をかけられたのも、笑顔を向けられたのも初めてだった。

 その日からアンリは掛谷のことが気になり始めた。今までずっと、容姿が整っていたから、シチュエーションも相まって一目惚れをしたのだと思っていた。

 でも、それは違うとようやく分かった。

 容姿に惚れたなら「キャラクター・ブック・ストリング」で自分好みの人格に書き換えればよかった。理想の容姿を持った人間に理想の人格を与えられる力をアンリは持っている。

 なのに、それをしなかった。それどころか吐き気を我慢してまで生徒会という組織の力を借りたのだ。

 夏目アンリは掛谷正法の人柄に惹かれていたのだ。 あの笑顔も、あの言葉もアンリを安心させるためのものだった。あの時の掛谷にはなんの思惑もなく、ただアンリの笑顔を取り戻すために助けにきた。そのことにようやく気づけた。

 アンリが無事だった事実ではなく、無事だったアンリを見てくれていた。

 手柄を立てるための道具としてではなく、ただ純粋にアンリのことを見てくれた。

 誰かが悲しむ姿を見たくない。そんな美しい欲から生まれた、人生で初めて感じた純粋な善意に、裏のないまっすぐな笑顔に、夏目アンリは恋をしたのだ。

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