どのようにして高木結弦は今を生きているのか
「自分の願いが家族を壊したんだって思ったら、何かが欲しいという感覚が湧かなくなってしまった。だから僕の仮説が正しいなら、僕にその力は効かない……そこで提案がある。僕が『キャラクター・ブック・ストリング』の代わりになるから、その力を手放すことはできないだろうか」
「はぁ? 何を言ってますの?」
「君がその力を求めたのは孤独を嫌ったからだ。その孤独の理由は人間恐怖症にあって、人間恐怖症の原因は君を利用して私欲を満たそうとする悪意の存在に怯えているからだ。だったら、欲を持てない僕を君が恐れる道理はない」
「欲がない……ですって?」
怒りに震わせ多声でアンリが言った。
「そうだ。僕ならその力で作った人形の代わりに孤独を──」
アンリは吐き捨てるように鼻で笑って結弦の言葉を遮った。自分が追い詰められている状況であることも忘れ、激しい怒りを込めて結弦を見る。
「だったら、貴方がこの力を取り上げようとしているのはなぜですか! 世界を元に戻したい、あるいは関副会長の力になりたいという欲を持っているからでしょう!」
アンリの荒い声が雷のように部屋中に響く。自分をだましておきながら欲がないなどと宣う姿がアンリの逆鱗に触れた。
「人は! 欲を満たそうとして行動を決定する生き物です! 欲がないというのなら、貴方は何をもとに行動しているというのですか!」
怒り狂うアンリの追求に結弦は
「役目だからだ」
と、淡泊に答えた。
「僕は欲の代わりに、"社会にとって少しでもマシな歯車になること"を自分の生き方として定め、それに沿って行動している」
着飾らずに淡々と事実を告げるような言い方にアンリは面を食らった。機械的な言動に不気味さすら感じる。
「その行動基準において、自分がすべきことだと考えたから僕はここにいる。それ以上の理由はない」
きっかけは姉の一言だった。
「ご飯を食べて。私をひとりにしないで」
母が死んだ後、抜け殻のようになっていた結弦に姉は泣いて縋ってそう言った。「ひとりにしないで」という頼みを断る理由がないことに気づいた。
結弦は5日ぶりに食事を口にした。
結弦は姉に頼まれた事実を「死んではいけない理由」として生きることにしたのだ。
ただ、それだけでは生きるための行動を取るには不十分だった。もっと具体的な行動指針が必要だ。
普通の人間は欲しいものを手に入れたり、失いたくないものを失わないための行動を選んでいる。だが、それを持てなくなってしまった結弦には代わりとなる行動指針が必要だった。
まず、普通の善良な人間のように振る舞うことを心がけた。"善良"はともかくとして”普通”が何か分からなくなってしまったから周囲の人間を観察して、可能な限り取り込んだ。今の結弦から出てくる反応は普通の人間の模倣に過ぎない。
生活における何気ない選択を迫られたときは複数の観点で見て最善を選ぶことを決めた。進路がいい例だ。結弦が桃園を選んだのは、特待を加味すれば最も学費が安く、最もレベルの高い学校だったからだ。最善がわからない時は、最も近くにいる人の行動を真似るようにした。
そして、最後に。頼まれたことに最善を尽くすこと。
結弦には自分のやりたいことがない。だから、困っている誰かが自分を頼ってきたのであれば、自分の役目なのだからしっかり果たせるようになろう。そう思うことにした。
こうして姉に「生きろ」と頼まれたことから始まり、今の結弦は失った欲望の代わりに自分の生き方を定義して、それに基づいて自分の体を動かして生きている。
「そんなことあるわけないでしょう!」
結弦の行動指針を聞いてもなおアンリは信じられなかった。絶対に『糸』を引っ掛ける隙があるはずだとアンリは右手から発動している力に意識を集中させる。
「信じられないなら思いつく限りのことを試してもらっても構わない。幸いにして君の力が証明してくれる」
結弦は胸に突き刺さる『糸』を指さした。
「廊下からナイフを拾ってきて刺してもいい。その傷が致命傷になったとしても『糸』の力で僕を支配できないことが欲のない証明になるはずだ……ああ、でも即死にならない場所が適切かな。死にたくないなんて思う前に死んでしまったら意味がないからね」
身じろぎ1つせず自分の命を差し出そうとする姿にアンリの気持ちが揺らぐ。確かに
「検証して僕を信じられる確証が得た後で良い。僕の代案に乗ってくれるのであれば『栞』を君の手で破いてくれ」
アンリは『糸』を失い高木結弦という代替品を手に入れた世界を想像した。自分はそんな世界で生きていけるのだろうかと考えて、答えはすぐに出た。
「いや……です……」
絞り出したようなか弱い声で結弦の提案を拒絶した。
想像した瞬間に耐え難い恐怖が押し寄せてきた。代替品になったとしても、元の世界に対して抱いている恐怖は拭いきれるものではなかった。
「貴方を信じられたとしても、わたくしは元の世界に戻るのが……怖い……」
「そうか」
結弦はアンリの右手首を掴んだ。アンリは「ヒッ」という悲鳴をあげ、理想の世界を奪われないようにアンリは左手で手袋の根本を抑えで抵抗する。その手を剝がそうと試みる結弦だったが、危機に晒されているせいかアンリの抑える力は釘で打ち込まれているのかと思うほどに強く簡単に離せそうになかった。
仕方がない、と結弦は次の行動を決定する。
「怪我をさせてしまったら、すまない」
結弦は『栞』顔の前に掲げる。
「実行」
眩い光が「栞」から放たれた。光源のそばにいたアンリは眩さに耐えきれず目を瞑った。
もう終わる。理想の世界が終わってしまう。そう思ったとき、カチャンと金属の落ちる音が響いた。
「やはり無理か」
と結弦は言った。
同時にアンリは『糸』から手応えを感じた。人格の上書きが発動した時の感覚だ。恐る恐る目を開けると、目の前にあったはずの『短剣』が結弦の手から消えていた。
視線を下に落とすと、『短剣』が結弦の足元で光の粒子を放出しながら『栞』の姿に戻りつつある様子が視界に映った。
「欲がないとは言ったけど明確に拒絶したいという欲を抱く瞬間がある」
その声は注意しないと気づかないほどではあるが、微かに震えていた。結弦の顔は青くなっており、額には脂汗が滲んでいる。
「ナイフを握るのが怖いんだ。父の心臓を突き刺したときの感覚が蘇ってしまってね、どうしてもこの感覚から『逃れたい』と思ってしまう」
結弦の意識が薄れていく。『糸』の力が結弦の心に芽生えた安堵を求める欲を頼りに結弦の人格を抑え込み「ただの人形」にする。人格の書き換えの第一段階が始まっていた。
「やはり、最初から僕の力では役目は果たせなかったなあ……」
その言葉を最後にプツリと、糸が切れたマリオネットのように結弦はその場に膝をついた。
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