胸騒ぎ
生徒会室に日没まで待つ。すると円香が猫になる。円香は結弦の自転車のカゴに入って二人で高木家に帰る。結弦は円香を置いて夕飯と明日の朝食を買いに行く。
諸々の家事を済ませた後は、自室に戻って勉強する。その後ろのベッドでは円香がタブレットを使って参考書を黙読する。
時折、何気ない話題が浮かべば互いに視線を交えないまま雑談を交わす。難しい問題にあたれば解法を議論する。
猫と人間が雑談や議論を交わす異様な光景であるが、結弦は生徒会副会長になってから約二ヶ月間繰り返してきた。もはや日常と言って差し支えない。
今日も結弦はその日常を繰り返す。
そして。この日常は今日が最後になるかもしれない。
「この光景もこれで最後か」
家事を終えて自室に戻ってきた結弦がベッドの上で勉強する円香を見て言った。
「どうかしらね」
一年間自分を苦しめてきた呪いから解き放たれるかもしれないというのに、当の本人は浮かれた様子はなく平然としていた。
「少しは浮かれてもいいと思うが、いつも通りだな」
「期待していないのよ。時期が偶然同じだったというだけで、本当に呪いが解けるかはわからないわ」
円香は肉球でタブレットの画面をスライドさせる。
「まあ、過度に期待して消沈するよりはそのスタンスの方がいいのかもね」
結弦も自分の椅子で今日の復習に取り掛かる。
「高木くんは私の猫化が解けたら嬉しい?」
円香が尋ねた。
「寄り道したり、一人分多くご飯を作ったりせずに済むって考えたら嬉しいかしら」
結弦はペンの動きを止めずに円香の問いに答える。
「別に。なんとも感じないよ。僕が君の食事を作るのは君が望んだからだ。その役目が終わるという認識は持つかもしれないが、喜びも悲しみも感じない」
結弦は淡白に答えた。それから一拍の間を開けて「もちろん、君が猫化の苦しみから解放されることを祝福する気持ちはあるけど」と付け加えた。
翌朝。結弦が目を覚ますと円香の寝顔が目に入った。頼んだことは一度もなかったので当然ではあるが、この2ヶ月間、円香は結弦の布団に入り込むことをついぞやめはしなかった。
円香を起こさないように、掛け布団を円香の体から剥がさないように特に注意しながら布団から抜け出す。この布団からの脱出も手慣れたものだ。
リビングに降りた時、ガレージにあるはずの姉の車がないことに気づいた。姉の部屋も観てみると誰もいない。すでに出勤しているようだ。
朝食も摂らずモーニングルーティンであるコーヒーすら淹れていないということは、よほど急ぎの案件があったのだろうか。
壁掛け時計は朝の五時を示していた。
円香と2人で朝食を食べ、外に出ると天気は生憎の雨だった。平日に雨が降ったのは円香の猫化に遭遇したあの日以来で。円香との最後の登校はバス通学になった。
結弦が使うバスは普段の通学路から少し外れた道を通る。したがって、少し歩くことになるわけだが、その道中の交差点で珍しい人物に遭遇した。
「掛谷」
結弦は背後から呼びかける。
振り向いた掛谷の顔はいつもより人相が悪く見えた。言い方を変えれば眠そうである。
「また野暮用ってやつか」
「そんなところだ」
声に元気がない。千鶴との一件を引きずっているのか、それとも本当に寝不足なのかは汲み取れなかった。
「いつもより眠そうだが、それも野暮用のせいか」
「いや、これは別件だな」
「じゃあ、蜂須賀の件か」
「そっちでもねえよ。まあ、なんていうか……なんて言ったらいいんだろうな」
掛谷が返事がはっきりしなうちに信号が青に変わった。掛谷は頬をペシペシと叩くといつもの溌剌とした声で「悪い。俺、急ぐわ。じゃあな」と言って立ち去った。
バスは定刻より10分ほど遅れてやってきた。ちょうど2人掛けの席が一つ空いていたので円香が窓側に座る形で腰をかける。
バスが動き出すと、結弦はバス通学中の時間潰しに持ってきた単語帳を取り出した。結弦が円香を横目で見ると彼女もタブレットを取り出して本を読みはじめていた。
「その姿でタブレットを使っているのは珍しいな」
「あまり得意じゃないのよね。電子書籍って。ページを捲れるなら紙の方がいいわ」
「僕は電子版を使ったことないからわからないけど、やっぱり目が疲れるのか」
「目が疲れると言うより、レイアウトが見づらいのよね」
論より証拠と言わんばかりに円香は自分のタブレットの画面を見せる。表示されていた書籍は横書きの本だった。真っ先に目についたのは一文字だけ改行されている見出しだった。致命的とまでは言わないが、確かに違和感がある。
「レイアウトを決めた後に、文字サイズを変更したような崩れ方だな」
「そう言うことなんでしょうね。紙媒体を前提にデザインしたレイアウトを電子媒体の画面サイズに移したせいで崩れてるのだと思うわ」
電子書籍談義に花を咲かせて15分。結弦はバスの様子に違和感を抱いた。
朝の通勤時間だというのに一度も降車ボタンの音を聞いていないのである。
それどころか一度も停車していない。結弦の記憶と感覚が正しければ既に駅前の停留所を通過しているはずだ。乗客の入れ替わりが一度も起きていないと言うのは考えづらい。
現在地を知るために車両の前方にある電光掲示板を見てみたが、電光掲示板は点灯していなかった。妙なタイミングで故障しているものだ、と思う前にまた別の違和感が結弦を襲う。
話し声がひとつも聞こえないのである。中腰に立ち上がって見える後頭部はどれひとつとして動く素振りすら見せない。
通路越しに座っていたサラリーマンの顔色を見る。時間潰しに携帯電話を操作してもいいものなのに、両手を太ももに置いて、背筋を伸ばして座っていた。その隣の席に座っているサラリーマンも同様だった。
そこまでなら、そういう気質かと思えたのだが、2人からはよくできたマネキンかと思うほどに生気が感じられなかった。
違和感が胸騒ぎに変わった。
「高木くん」
円香が不安げな声で話しかける。
「このバス……本当に学校に向かうバスであってる?」
言われて結弦は窓の外を見る。数えるほどしか使っていないバスだが結弦は確信を持って言えた。
「違うな」
即座に降車ボタンを押す。『次、止まります』という機械的な音声が流れた。
降車ボタンを押したはいいが、次のバス停で素直に止まってくれか怪しい。そう判断した結弦は
「運転手さんに聞いてくるよ」
と言って席を立ち、転ばないように気をつけながら運転席へ向かう。
「すみません」
「……」
話しかけても運転手は返事を返さない。ポールを支えにして運転手の顔を覗き込むと、生気のない顔をしていた。
結弦は円香の隣の席に戻ると、報告を聞く前に円香が口を開いた。
「止まりそうにないのね」
「ああ」
「そうだろうと思ったわ」
「運転手に聞いて見たけど、反応なしだ。これは、まさかと思うが」
「世界樹の力が絡んでいる。そう思っていいでしょうね」
円香は手で口を覆った。
「とりあえずバスから降りないと。私達に反応して止めたということは、バス停で待っている人たちには反応するのかもしれないけど……期待しないほうがいいわね」
そう言って円香は周囲を見渡す。
「あれを使いましょう」
円香が指差したのは非常ブレーキだった。赤字に白文字で「非常ブレーキ」と書かれたラベルが天井に貼られており、そのすぐ下に真っ赤なボタンがある。
結弦はすぐさま非常ブレーキボタンのある席まで歩き、躊躇うことなくボタンを押した。
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