結弦の料理教室

 土曜日。夏目家の厨房でアンリの料理練習が始まった。

「で、何を作りたいんだ?」

「えっと……その、ハンバーグを……」

 もじもじと両手で示したのは台所の上に並ぶ食材。ひき肉、玉ねぎ、卵、パン粉とハンバーグに使う素材は一通り並んでいる。

「掛谷の好物だな」

「よく食べていらしたので」

「悪くない選択だと思う」

「でしょう? ただ、玉ねぎのみじん切りが上手にできませんの。コツを教えていただきたくて」

「分かった。なら今から買出しに行こう。既にみじん切りにされたやつが売られてる」

「なんでですか」

 流れるように厨房から出ようとする結弦をアンリは包丁で引き留めた。

「危ないって。料理で絶対やっちゃいけない包丁の使い方だぞ、それ」

「なぜみじん切りのコツを知りたいというのに既製品を買いに行くのですか、と聞いているのです」

「それは普段から使っているからな。僕は料理の時包丁は使わない」

「包丁は使わないって……さすがに食材をいただいたときは使うでしょう?」

「姉さんにお願いしている」

「……本当にお料理できますの?」

「食材と調味料をあわせて火をかければそれは立派な料理だよ。少なくとも、生活する分には十分だ」

「そういうものでしょうか」

「そういうものだよ」

「ですが、もう玉ねぎを買ってしまいましたし……」

 アンリは横目で台所の上の食材を見る。微塵切りを教わるという目的を諦めていないようである。

「分かった。夏目さんの意思を尊重した方がよさそうだ」

 というと結弦は携帯電話を取り出してポチポチと操作を始める。

「先生?」

「これを参考にするといい」

 といって、結弦が差し出した携帯電話の画面に映っていたのは料理講座の動画だった。最近動画サイトと言う概念を知ったばかりに結弦としては良い案のつもりだったがアンリの表情は暗かった。

「わたくし……既に別の動画で練習しましたわ。でも、上手にできなくて」

「なら、僕が直すべきところを指摘する」

「……できますの? 包丁を使ったことないのでしょう?」

「使ったことがないとは言っていない。普段使わないだけだ。手本は見せられないけど、改善点を指摘するぐらいはできる」

「本当ですか?」

「ああ。良いコーチが良い選手とは限らないというやつだ」

「そういうものですの?」

「そういうものだ」

 なんだか腑に落ちないアンリだったが、指導はしてもらえるとのことなので、これ以上の追求はしないことにした。



 トントントン、と玉ねぎを刻む小気味の良い音が厨房内を伝播する。普段あれだけ刃物を持ってるくせにアンリが玉ねぎを刻む手つきは危なっかしい。自身を不器用だと言ったのは本当らしく、玉ねぎの破片があちこちに飛んだり、何度も指を切ったりしていた。

 玉ねぎのみじん切りが終わった後は、肉を捏ねる、フライパンで焼く、といった手が埋まる作業がある。つまり、アンリは包丁を持てなくなり、近くにいると人間恐怖症によって吐いてしまう。何かしら指示をするにしても結弦は安全距離を保たねばならない。

 ここからが鬼門だった。

 玉ねぎを微塵切りにしたらフライパンで飴色になるまで炒めるわけだが、アンリは火から下ろすタイミングがわからずにオロオロしてしまい、最終的に玉ねぎを焦がした。「そろそろだぞ」と安全圏から呼び出しても、初めて火を扱うことで慌てふためいているアンリの耳には届かず、フライパンから煙が上がり始めた段階で結弦がコンロの火を止める羽目になった。当然、結弦は安全距離踏み越えたのでゲロを浴びた。

 結局、微塵切りからやり直しになったのだが、また黒焦げにされては困るので玉ねぎを炒めないレシピを選んだ。

 アンリは卵を割るのも下手だった。力加減がうまくできないようで、殻にヒビを入れる段階で卵をペシャンコにしてしまった。うまくヒビを入れるだけにとどめたかと思えば、中身を落とす段階で殻を粉々にしてしまい、生卵から一つ一つ殻を取り出すことになった。

 卵を割ることができたら微塵切りにした玉ねぎ、卵、パン粉、牛乳、塩胡椒をひき肉と混ぜ合わせる。いわゆるタネを作る工程だ。

 流石に混ぜること自体は苦戦しなかった。十分混ぜ合わせられたことを確認し、結弦は次のステップに移る。

 結弦はアンリに包丁を持つように指示し、近くで手本を見られるようにしてから説明を始めた。

「このタネを一個分の大きさに分けて成型する。弁当に入れることを考えたら四等分にして焼くのが妥当かな」

 そう言って結弦はタネを四分割すると、そのうちの一個を手に取り形を整える手本を見せた。

「それをそのまま火にかけるのですね?

「ああ。だが、火にかける前にタネから空気を抜く作業と、真ん中にくぼみを入れる作業が残っている」

「空気……? 窪み……?」

 料理の経験もなければ理系音痴のアンリは「なんで?」と言った顔で首を傾げる。

「この状態のタネには小さな空洞があり、空気が残っている。このまま火にかけると、その空気が膨張し空洞が広がる。結果、ハンバーグの形が崩れる」

「はぁ……なる……ほど」

「くぼみを入れるのは火の通りを均一にするためだ。肉には加熱すると縮む性質がある。ハンバーグのタネの場合、外側から内側に向かって縮む。すると、真ん中にその皺寄せが行き、真ん中だけが膨らんでしまう。これを避けるためにあらかじめくぼみを入れる」

「なんだか、料理を教わりに来たのに理科の授業みたいですわね……」

「料理は科学の結晶だからな。レシピを見ながら作る分には科学的知識を知らなくても済むが、調理過程には多くの科学現象が関わっている。レシピをより美味しく、誰にでもできるものに仕立て上げる際には、意識的にしろ無意識的にしろ先人達の科学的な取り組みが……」

 結弦はゲンナリした表情のアンリを見て無理やり話を止める。

「これは僕の師匠の受け売りだなんだが、少し語りすぎたな。さっさと手本を見せるとしよう」

 そう言って、ボウルから取り出したタネをキャッチボールの要領で反対の手に向かって叩きつける。これを何度か繰り返し、小判型に成形した。

「じゃあ、やってみよう」

 アンリはこくりと頷くよ、タネを手に取る。そして、覚悟を決めるように手の上に乗ったタネをじっと見つめた。

 そして。

「行きます!」

 パァン!という勢いのいい音ともにハンバーグの種が結弦の顔面を直撃した。

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