第3章
家庭教師の依頼人
待ち合わせ場所として指定されたロータリーは学院の正門側に位置する。
ロータリーでは送迎を待つ生徒たちがおしゃべりをしたり、携帯をいじって時間を潰している。そんな中で一人だけ、まるで銅像のように背筋をまっすぐに伸ばし、ピクリとも動かないメイド服姿の女性がいた。
明らかに周りの風景から浮いているメイドの横顔に視線を向けていると、彼女はこちらの方を見てきた。結弦と目が合うと、彼女はこちらに向かって歩き出す。全く急いでいるようには見えない歩き方なのに、走っているのと変わらないぐらいの速さで近づいてきた。
「お待ちしておりました。生徒会副会長様ですね?」
とメイドは尋ねる。
「あなたが依頼人ですか?」
「いいえ。依頼主は私の主人でございます。代理として参りました、牧野と申します。以後お見知り置きを」
牧野と名乗ったメイドは自己紹介をして腰を45度に折り曲げた。お手本のように丁寧な所作だが、完璧すぎるせいなのか無機質さを感じる。
「1、2、3。お辞儀はもういいですかね」
牧野は小さな声で数えてから頭を上げた。
「そう言うのって声に出しちゃダメじゃないですか?」
「メイドジョークでございます」
牧野の表情は僅かたりとも笑っていなかった。結弦は愛想笑いをした。
「それでは高木様。こちらへ」
牧野はすぐそばに止めてあった黒い車のドアを開けて、結弦に中に入るように促した。
足元のスペースの広さや、座ったときに背中から感じる背もたれの質感で、車に詳しくない結弦でもこの車が高級品であることは理解できた。 多分、姉の車の倍以上の値段はするだろう、と特に根拠もなく思った。
「それでは参りましょう。ジョニーさん、お願いします。」
と言って牧野が助手席に座る。運転席には紺色のスーツに身を包んだ白髪の老紳士が座っていた。
「あいよ、つゆだく一丁ね」
「お願いします」
「いったん待ちましょうか」
流してはいけない気がして、結弦はハンドルにかけられたジョニーの腕を掴んだ。
「あの……そういう挨拶をする決まりなんですか?」
「ごめんねお客さん。お冷ははセルフなんだ」
「いや、頼んでないですけど……」
会話が成立しないので牧野の方を見る。
「ジョニーさんはこのような方でございます」
「このような方というのは、つまり……」
「少し変わった方ではございますが、ご安心ください。運転技術は一流です」
「まあ、そういう事なら」
「ご自身のことを牛丼屋の店員と思い込んでいるだけでございます」
「本当に大丈夫なんですか?」
安心できる要素が見当たらない。
「ご不安でしたら私が運転をいたしましょうか?」
結弦が考えこんでいると、牧野がそのような提案をしてきた。
「すみません。その方がいいと思います」
実際のところ牧野はジョニーの運転でここまで来たのだろうから、心配はないのかもしれないが自身を牛丼屋の店員だと思っている精神状態の人間に運転をさせていいとは思えなかった。
「承知いたしました。ジョニーさん。私が変わります」
「休憩入りまーす」
今度は微妙に成立している会話を交わした牧野とジョニーは同時にドアを開け、席を入れ替えた。」
「牧野さんは運転得意なんですか?」
牧野はかなり若く、結弦と大して年が変わらないように見える。見た目の年齢だけならどれだけ高くても結弦より2つ上と言ったところだ。つまり、運転免許を取ったばかりでもおかしくはない。
「はい。運転手界のブラックジャックと呼ばれております」
「それ、無免許ってことじゃないですよね?」
「……」
「……」
「それでは出発いたします」
「待ちましょうか」
結局、ジョニーの運転で依頼主の家に向かうことになった。というより、免許を持っている人間が彼しかいないのでそうせざるを得なかったのである。
ジョニーは牧野の言う通りかなり高い運転技術を持っていた。発する言葉が牛丼屋の店員のセリフだった
依頼主の家は桃園学院から車で十分ほどの場所にあった。わざわざ御付きのメイドが高級車で迎えにきたことから想像はしていたが、「豪邸」と呼ぶのにふさわしい立派な洋館だ。
洋館の中にに入り、最初に待ち受けていたのは玄関ホールとでも呼ぶべき広い空間だ。ここだけで高木家が収まってしまいそうである。玄関ホールの広さ、敷き詰められた絨毯や壁、インテリアからあふれ出る高級感に結弦は少々圧倒されていた。
本当に家なのかすら疑わしい。美術館のエントランスだと説明された方がまだしっくりくる。
「高木様。こちらです」
気圧されている結弦を呼び、牧野は玄関ホールの右側にあった通路へと案内した。通路は遠近法が働くど長い。廊下の壁の両側にはホテルの通路のごとく似たような作りの扉が等間隔に設置されていた。
玄関ホールの入り口が点に見えるぐらい廊下を進んだあたりで牧野は立ち止まった。
「こちらがお嬢様のお部屋になります」
結弦はこのとき初めて依頼人が女子生徒であることを知る。牧野はドアをノックして部屋の主人へと呼びかけた。
「お嬢様。生徒会の方をお連れいたしました」
「……」
部屋の中から返事は返ってこない。これが平常運転なのか牧野は気にすることなく主人の部屋のドアを開けた。
学校の教室が二つ入るぐらいの広さの部屋だ。その最奥に設置された机に向かって座る少女の横顔が見える。
少女はほっそりとした指でページを押さえながら文庫本を読み耽っていた。扉が開き、ノックされても続けているあたりよほど集中しているのだろう。
「お嬢様」
牧野は少女の三メートルほど手前まで歩き横顔に向かって呼びかける。金髪の少女は本のページを開いたまま牧野の方に向き直った。
少女の碧眼が結弦の顔をしっかりと捉える。結弦が会釈をすると、少女はなぜか目を見開いて顔を青くした。
「こちらが生徒会副会長の高木結弦様です。お嬢様の依頼を受けてお越しくださいました」
牧野に紹介された結弦はにこやかな笑みを作り挨拶をする。
「高木です。勉強の依頼ということで間違いないかな……えっと」
名前を呼ぼうとして依頼された手紙には差出人の名前が書かれていなかったことを思い出す。呼び方に戸惑っている結弦の様子を察して牧野が助け舟を出してくれた。
「高木様。こちらが夏目アンリお嬢様でございます」
「ありがとうございます。えっと、夏目さん。よろしくお願いします」
「あ……あ……のっ」
アンリはこわばらせた顔で声をだす。初めて聞くアンリの声は消え入りそうなか細い声だった。ぼそぼそと口は動いているのだが、距離があることもあって結弦は内容を聞き取れなかった。
「すまない良く聞こえなかった」
結弦がの言葉にこたえ、アンリは結弦との方を見たが視線がぶつかってすぐに目を逸らした。それから、何度もこっちを見ては目を逸らしてを繰り返し、落ち着かない様子を見せる。
このままでは埒が明かないと考えた結弦はアンリに近寄る。すると、アンリの顔色がさらに悪くなった。
「顔色がすぐれないが大丈夫か」
結弦の問いにアンリは首を縦に振った。全く大丈夫ではなさそうなアンリは机の引き出しから数枚の紙を取り出すと、それを床に置き結弦の方へ滑らせた。
明後日の方向に飛んで行った紙を拾い、その内容を見てみると桃園学院で各学年4月の終わりに行われる実力テストの結果だった。英語と国語はまずまずの成績だが数学と理科は壊滅的である。
「数学と理科を教えればいい、ということであってるかな」
アンリは首を縦に振る。
「了解した」
結弦は一瞬考えて、比較的得意である理科の勉強か始めることにした。
「では理科のーー」
ゆっくりアンリの元に歩み寄りながら、提案する。 だが、その言葉は最後まで言い切られることはなかった。
なぜなら。
「オえええええッ」
突如アンリの口から吐き出された吐瀉物を、結弦は顔一面に浴びたからである。
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