黒猫との共同生活
玄関の時計は19時を示している。あと30分ほどで姉が帰ってくる時間だ。円香のことを話すかどうかはまだ決めていないが、どちらにせよ一度自室に連れて行った方がいいと、冷たいコンクリートの上で震える黒猫の姿を見て思った。
結弦は「ちょっと失礼」と断りを入れてから円香を抱えると、2階にある自室に向かった。ふさがっている両手の代わりに肘と足を使って自室のドアを開ける。そして、少し悩んだ末に円香をベッドの上にそっと置いた。
されるがままにベッドの上に座った高木家の小さなゲストは、勉強机と寝具しかない結弦の部屋をきょろきょろと見渡した。自室というより、ただ睡眠と勉強をするためだけの部屋みたいだと、円香は思った。
「随分と掃除が行き届いているのね。男の子の部屋ってもっと散らかっているのかと思った」
「今の時代に物議を醸しそうな偏見だけど、物が少ないだけだよ。それより夕飯はどうする? というか、どうしてた?」
「普段食べないわね。朝と昼だけ」
「じゃあ明日の朝ごはんは食べるか?」
「……そうね。いただこうかしら」
「了解。食材の買い出しに行こうくるけど、何かリクエストある?」
円香は肉球を顎に当てて考え始める。ドロップキックの件といい猫の姿でも仕草はどこか人間くさい。
「そうねぇ……」
円香の長考は続く。答えが返ってきそうにないので結弦は質問を変えた。
「好きな食べ物は?」
「カレー」
今度は即答だ。声が上ずっているあたり相当な好物らしい。しかし、そのあとすぐに何かに気づいた様子の円香はがっくしと肩を落とした。
「でも、食べられないのよね」
「まあ、朝食には重いよな」
「ううん。そうじゃないの。猫にとって香辛料は毒なのよ。あとタマネギもダメ」
「あー……」
そういえばテレビか何かで聞いたような気がする。こうしてその知識が活きる局面に遭遇したというのに言われるまで全く念頭になかった。
「……難儀な体質だな」
「そうね。もう慣れちゃったけど」
「他に食べられない物ってある?」
「そうねえ、普段気を付けているのはカフェインとチョコレートかしら。でも、私も全部を把握してるわけじゃないからネットで調べないと」
「ネットか……自分のパソコンを持ってないから姉さんに借りないとダメだな」
「別に、スマホで調べられるでしょう」
「ほう。アプリストアにもインターネットがあるんだ」
「……」
「……」
沈黙が流れる。結弦は純粋に質問の回答を待っているのだが円香は「この人、本気で言ってるの?」という呆れた視線を向けている。しばらく見つめあい、どうやら本気らしいことを受け止めた円香はため息を吐くと、
「スマホのロックを解除して机の上に置いてちょうだい」
と語気を強めて指示した。言われた通に置くと円香はひょいひょいとベッドの上から結弦の勉強机の上に移動して、器用に肉球を使ってタッチパネルを操作しはじめる。
「これ。このアプリでネットの情報を閲覧できるの」
カンカンと爪とタッチパネルのぶつかる音を立てて円香はブラウザアプリのマークを示した。
「このアプリ、"インターネット"って名前じゃないけど」
「高木君、水上を移動する道具の事なんて言う?」
「船」
「"船"に"水"とか"海"って単語含まれてる?」
「……ないな」
「それと同じ」
「なるほど。……で、どうやって調べるんだっけ」
「貸しなさい」
円香は結弦の腹を頭で小突いてスマホを奪い取ると「猫 与えてはいけないもの」と検索し、適当なWebサイトを一つ開いて結弦に見せた。
「アルコールは人間でも未成年の僕たちはダメだとして、エビとかカニもダメなのか……」
結弦はそのページに書かれた内容を1つ1つ確認し、手帳にリストアップしていく。ブドウ、生の貝類、アーモンド、それと本人からも聞いたタマネギ。ネギ類はタマネギでなくともニラやニンニクなど全般が猫にとっては毒になるらしい。
ページを最後まで閲覧し、メモ帳に書いたリストをざっと見てみる。
(多いな……)
というのが率直な感想だった。人間の時に食べても影響するのか、それとも猫になったときに初めて害を為すのかはわからないが、試してはいないのだろう。あまりにリスクが高い。
夜になると猫の姿になってしまうなんて聞く分にはコミカルな現象だが食事の時間すら注意を払わねば命に関わる。想像以上に重い弊害を抱えているのだと、結弦は認識を改めた。
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