"世直し"はじめました!
黒澤鯖太
プロローグ
桃園学院には数多くの都市伝説が存在する。
「トイレの花子さん」という高校生が耳にするには少々遅すぎる怪談から、「恋が成就するパワースポット」のような恋愛に関わるもの、ひどいものだと「ライオンが放し飼いにされている」とか「校舎がロボットに変形する」などといった荒唐無稽なものまで多種多様である。
高等部からの編入生である結弦はこの1年間、数え切れないほどの都市伝説を耳にしてきたが、その中に「年に数人、校内で遭難者が出る」というものがあった。
大袈裟だ、というのが結弦がこの話に対する率直な感想だった。
確かに桃園学院は広い。幼稚園から大学までの一貫校だから、全ての校舎と大学関係の設備を収める敷地面積はちょっとした町より広いかもしれない。
しかし、遭難するには道が整理されすぎだ。道に迷ったことは何度かあるものの、遭難というほど大袈裟な事態には陥っていない。多少道を外れたとしてもちゃんと目印と案内板を見ていれば的地までたどり着けるようになっている。
案内の整備がされていなかった時代の話か、桃園学院の広大な敷地面積を面白おかしく誇張した冗談だろう、と思っていた。
ついさっきまでは。
「なるほど、これが遭難ってやつか」
西の山に沈みかけている太陽を見て結弦は呟く。橙色の光がまぶしい。放課後、2時間も敷地内を歩き回った末に得た結論だった。
原因はいくつか考えられる。
きっかけは近道をしようとしたことで、根本的な原因は雨が降っていたことだった。結弦は普段は自転車通学だが雨の日はバスを使う。ただし、金銭的事情から登校時のみだ。帰りは徒歩である。徒歩であろうと自転車であろうと、進む道は同じなのだが今日に限っては普段使っていない道が目についたのだ。
それは自転車では絶対に通れない道。そして、方角と頭の中にある地図を照合する限りでは近道だ。
その近道を進んだ結果がこれである。選択肢の多さが仇になった。急がば回れという言葉が身にしみた。
周囲は知らない建物ばかり。幼稚園から通っていれば馴染はあったのかもしれないが、建物の素性すら分からない。下手に動くより野宿を真剣に検討した方がいいようにすら思える。
そんな考えが浮かんだ時、どこからか水の落ちる音が聞こえてきた。雨が降り始めたわけではない。音の感じからして近くに滝があるようだ。
「え? 滝?」
自分の耳を疑った。2年目にして知った衝撃の事実だが、この学校は敷地内に滝があるらしい。
結弦は少し逡巡した末に、滝を探してみることにした。どうせ暗くなる前に学校の敷地内を出られそうにない。これも何かの縁だと思うことにしたのである。
滝を頼りに幾つかの階段と坂を降りながら道を進むと、3メートルほどの滝にたどり着いた。滝壺には小石を敷き詰めてできた足場があり、滝を間近で観察できるようになっている。水の勢いは自然にあるものと比べると弱いが、立派な滝である。
学校の敷地内に本当に滝があったことにも驚いたが、もう1つ驚いたことがあった。先客がいたのである。
黒髪を腰まで伸ばした女子生徒だ。彼女は滝のふもとの足場の先端に立ち、艶やかな黒髪を風になびかせ、空を見上げている。
もしかしたら、門までの道のりを知っているかもしれない。そう思った結弦は少女の背中に向かって歩きはじめると、砂利の擦れる音に反応して少女が無言で振り向いた。その時、一瞬だけ彼女の体の奥に石碑のようなものが見えた。高さは少女の胸元ぐらいで、不思議な幾何学模様が描かれている。
一瞬だけ石碑の方に目をやった後、少女と目があった。その瞬間、結弦の動きが止まった。なぜかは分からないが、吸い込まれそうな少女の黒い瞳から目を逸らせなくて、体の自由が効かない。声を出すこともできなかった。
金縛りのような硬直状態はそこから10秒ほど続いた。その間、少女は身じろぎ一つしなかった。
「すみません。高等部の校舎にはどうやって行けばいいかわかりますか?」
「……」
返答はない。少女は眉ひとつ動かさなかった。再び沈黙が流れる。この時初めて少女が身につけている衣服が桃園学院高等部の制服だと気づいた。
「実は迷子になってしまって」
「……」
結弦は自分が来ている制服を手を広げて見せてみる。ナンパだと誤解されている可能性を危惧してのことだったが、状況は変わらなかった。
もしかしたら、この少女も自分と同じように迷子になったのかもしれない。そんな可能性が脳裏をよぎる。
などと考えていたその時、ポンっというコルク栓を抜いたような音とともに 目の前にいた少女が一瞬で姿を消した。
正確には少女の体だけが消えていた。身につけていた制服は持ち主が消えた瞬間だけ宙に浮かび、重力に従って地面へと落ちた。
状況を飲み込めず、持ち主の消えた制服を眺めていると制服がもぞもぞと動き出した。ゆっくりと制服に近づくとスカートの中からひょこっと黒猫が顔を出した。
黒猫は小さな体をブルブルっと震わせると、結弦を一瞥した。その吸い込まれそうな黒い瞳に、先ほどの少女の面影を感じた。
「あっ」
黒猫はその場をそそくさと立ち去った。その背中を呆然と見つめた結弦は何の気なしに脱ぎ捨てられた制服に近寄り手を当ててみる。
「温かい……」
しっかりと残っていた少し湿り気のある温かみが、さっきまでこれを身につけていた人物の存在を物語っている。どうやらさっきまで見えていた少女の姿は幻覚ではなかったらしい。
桃園学院には女子生徒に化けた猫が通っている。
桃園学院の新たな都市伝説誕生の瞬間だった。
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