第12話 「はちみつ色のノート」

春、卒業式の朝。

桜の蕾はまだ硬いけれど、空気の匂いには春の気配が混ざっていた。


葵は制服の襟を整えながら、カバンに一冊のノートをそっとしまった。

その表紙には、手描きのミツバチのイラストと、金色の文字でこう記されていた。


『ハチミツノート』

——日ノ杜高校スイーツプロジェクト記録


ページには、企画のはじまりから、試作メモ、言い合った日、笑った日、悩んだ夜……

すべてが手書きで残されていた。

その最後のページには、たったひとつの短いメッセージ。


「この町が、もっと甘くなりますように」

──風を閉じ込めたスイーツとともに


そしてノートは、その日の夕方、風鈴屋のカウンターの片隅にそっと置かれた。


「……これ、葵ちゃんが?」


さやかがページをめくると、懐かしい言葉や写真の数々がこぼれ出すようにあふれていた。

その隣で健一がふっと笑う。


「いいノートだな。彼女たちの時間が全部つまってる」


「ここに“味”があるって、ほんとに思う」


さやかはそのノートの上に、

今日限定の“風を閉じ込めたプリン”の試作品をそっと置いた。


桜蜜のやさしい香りが、カウンターの上で春の予感を漂わせていた。


その頃、駅のホームでは、制服姿の葵たちが並んでいた。


「なんかさ、卒業って実感ないね」

花音が空を見上げながら言う。


「うん。でも、“続いていく感じ”はある」

沙良がほほえむ。


「未来って、途中からも始まるんだよね」

大地が言った。


葵は、ひとつ深呼吸してから、小さく笑った。


「ノートは、風鈴屋に置いてきた。

あのカウンターに、“はじまり”を残してきたつもり」


「……そっか。なら、安心だね」

柊が言う。


汽車のドアが開く。

別れの時間。けれど、それは終わりではなかった。


「また来るよ、日ノ杜」


葵は、窓から見える町の景色に手を振った。

商店街、果樹園、駅前通り、そして風鈴屋。


——ぜんぶ、蜂蜜のようにやさしい記憶になっていた。


そして数日後。


風鈴屋のカウンターで、1年生の穂乃香がノートを読みながら言った。


「この一冊が、次の私たちの“レシピ”になる気がします」


「“甘さ”って、受け取るものだけじゃなくて、

ちゃんと“作っていける”ものなんだね」

佑真が言う。


さやかはその言葉に、深くうなずいた。


「そうだね。

この町には、まだまだ“つくりたい甘さ”が、たくさんある」


風が吹いた。

カウンターの風鈴が、ちりん、と鳴った。


その音が、春の訪れと、物語の続きの始まりを告げていた。

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