第4章|ハチミツノートの続き方
第10話 「この町を“好き”と言うこと」
文化祭まで、あと一週間。
校舎のあちこちで準備の音が響き、廊下には絵の具とダンボールのにおいが混じっていた。
その熱気の中で、葵はふとした静けさに出会っていた。
放課後の教室。
スイーツ班のメンバーが残っていたのは、葵と柊、沙良、そして大地の4人だけだった。
「……推薦、決まったんだ」
沙良がぽつりと口を開いた。
「管理栄養士の専門。隣町の。通える範囲だから、ここから通うよ」
「おめでとう」
葵が言うと、沙良はうれしそうに微笑んだ。
「でも、ちょっとだけ悩んだ。
この町でスイーツのこと考えたり、みんなとやった時間が濃かったから……。
なんか、置いてくみたいでさ」
葵は少しだけ目を細めて、言った。
「……置いてかないよ。思い出が残る場所って、そう簡単に離れない。
たとえば、食べたスイーツの味みたいに」
「それ……“この町の甘さ”じゃん」
沙良が笑う。
「……じゃあ俺は、苦さかな」
ぼそっと言ったのは、大地だった。
「家、継がなきゃいけないから。農業やるの、正直ちょっと……怖いんだよ。
親がやってきたことを、自分ができるかなんてわかんないし。
それに“町のために”って言葉、正直ちょっと重くてさ」
「……わかるよ」
葵はそっと言った。
「私も、ずっと悩んでた。
“町のため”って言葉に自分を縛りたくないのに、
誰よりもこの町を好きって思ってる。
でもそれって、言葉にするのがすごく難しくて……」
「だからこそ、ノートに書いてるんじゃない?」
と柊が静かに言った。
「町を“残る場所”として見るんじゃなくて、
“関わり続けられる場所”として見たらいいと思う。
好きな場所には、どんな形でも戻ってこれるし、
忘れない限り、どこにいたって“好き”って言っていい」
その言葉に、教室が静かになった。
カーテンが揺れて、夕焼けが床に長く伸びる。
「ねえ……“好き”って、未来へのパスポートなのかもね」
葵がぽつりとつぶやいた。
「どこに行くとしても、どんな道を選ぶとしても、
“好き”って言える場所がある人は、強い気がする」
誰ともなくうなずいた。
「じゃあ、明日の打ち合わせは風鈴屋で。
“好き”の味、もう一度確かめに行こう」
夕陽の中で笑い合う声は、どこかやさしく、そして力強かった。
それはまるで、蜂蜜の甘さに似ていた。
じんわりと広がって、消えない記憶になる、静かな甘さ。
そしてその日、葵はノートにこう記した。
《この町を“好き”って言える。
それは、私がどこに行くとしても変わらない。
だから今、ちゃんと伝えたい。ありがとうって。》
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