第8話 「あなたに届けたくて」
その日、葵は朝から台所に立っていた。
もう何度目かわからない試作。
レンゲの蜜を使った蜂蜜プリンに、ほんの少しだけ果樹園のすりおろし林檎を混ぜる。
果物の酸味と花の香り、そして甘さを、そっと重ねるように。
「……うまくいってよ」
小さくつぶやいて、ラップをかけたガラスカップを箱に詰めた。
向かう先は、町外れの古い木造の一軒家。
葵の祖母——ふみが一人で暮らしている家だった。
「ふーん、あんたがスイーツをねえ」
茶の間で出迎えてくれた祖母は、相変わらず口数が少ないが、どこかうれしそうだった。
畳の上に座り込み、湯のみを置いて、葵が取り出したプリンをまじまじと見つめた。
「蜂蜜……これ、レンゲかい?」
「うん。春のやつ。ほんのちょっとだけ林檎も入ってるよ。
その……ばあちゃんに、最初に食べてもらいたくて」
スプーンを手に取ったふみは、ゆっくりとひと口。
そして、ほんの少しだけ、目を細めて言った。
「……やさしいね」
その言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥に、何かがすうっと流れ込んできた。
——やさしい。
味のことかもしれない。でも、それだけじゃない気がした。
「ばあちゃん、昔、風邪引いたとき……お湯に蜂蜜入れてくれたでしょ。
あれ、すごく好きだった。
甘くて、あったかくて、でも、なんか泣きたくなる味だった」
「覚えてるさ。
……あんた、あのとき“これ飲むと心がぬくくなる”って言ってた」
「……うん。
私、それを思い出して、ずっと探してたのかも。
自分の作る味に、あのときみたいな“やさしさ”があるかどうか」
祖母は微笑みながら、もうひと口、静かにプリンをすくった。
「やさしい味ってのはね、相手を選ばないんだよ。
強く主張しないけど、いつまでも残る。
それができれば、いいもん作ったってことさ」
言葉が、染みた。
葵は目を伏せて、思わず両手をぎゅっと握った。
涙がこぼれそうになるのを、なんとかこらえながら言った。
「……ありがとう。ばあちゃん」
「ありがとを言うのは、食べたこっちのほうさ」
テーブルに並んだ小さなプリンが、春の光に照らされてきらりと光っていた。
まるで、それが“葵の心”の一部みたいに、静かで、やさしくて、確かな存在に見えた。
帰り道。
風が木々のあいだを通り抜けて、草のにおいを運んでくる。
葵は、スニーカーのつま先を見つめながら歩いていた。
心は、まだほんの少しだけ揺れていたけれど——もう、迷ってはいなかった。
“届けたい人の顔が浮かぶとき、スイーツには意味が宿る。”
ただ甘いだけじゃない。
その甘さに、名前があって、想いがあって、物語がある。
葵は、プロジェクトノートの次のページにこう書いた。
《やさしいね、って言ってもらえた。
それだけで、たぶん私はもう、ちゃんと作りたい理由を持ってる。》
春の匂いが、風に混じって、ふわりと漂った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます