第2話 「風鈴屋のカウンターで」

放課後の風鈴屋は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

窓際のカウンターにはやわらかい陽が差し込み、木の床には斜めの光が伸びている。


「いらっしゃい、葵ちゃん。昨日の桜蜜、どうだった?」


カウンターの奥でグラスを拭いていたさやかが、笑顔で迎えた。

エプロンの胸元には、さりげなく「風鈴屋」と刺繍されている。


「すごくおいしかったです。冷やしたヨーグルトにかけただけで、香りが全然ちがってて。

母も、“あんた、こんな蜂蜜どこで買ったの?”ってびっくりしてました」


「それはよかった」

さやかはふわりと笑うと、棚から小さな試飲スプーンと瓶を取り出した。


「今日は時間ある? いくつか違う種類、味見してみる?」


「……いいんですか?」


「もちろん。どうぞ、カウンターへ」


葵はおそるおそる腰を下ろした。

このカウンターは町の大人たちの“聖域”のような気がしていたからだ。


まず差し出されたのは栗の蜂蜜。

スプーンの先から、濃い琥珀色のとろりとした蜜が垂れる。


「これ……見た目からして全然違う」


「舌の奥で苦味が残ると思うよ。ビター系スイーツや黒パンと合うの」


ひと口含むと、まるで焚き火のような、落ち葉のような香ばしさが口に広がった。


「……これ、本当に蜂蜜ですか?」


「でしょ? みんな驚く。

でも、これもちゃんと“町の秋”の味なんだよ」


葵は思わず唸った。

自分が知っていた“蜂蜜”は、スーパーのプラスチック容器に入った、ただの甘味料だった。


目の前で、蜂蜜が季節になり、風景になっている。


「……なんか、蜂蜜って、“人”の味がする気がします」


そのとき、背後から声がした。


「いい表現だな。それ、杉山のおじさんもきっと喜ぶ」


振り返ると、カウンターの奥に立っていたのは健一だった。

少し無精ひげを残した、やわらかな眼差しの男性。

風鈴屋の共同運営者であり、町のクラフトビール事業を起こした張本人。


「君が、文化祭で蜂蜜スイーツやるって高校生?」


「はい。日ノ杜高校の葵っていいます」


「健一。俺も、ここ出身。で、一度町を出て、戻ってきた側の人間だ」


健一は、栗蜜の瓶を指さした。


「これ、実は去年の秋の“失敗作”。糖度の調整に失敗して、発酵しかけてさ。

でも杉山さんが“パンに合うだろ”って瓶詰めして、逆に人気になった」


「……失敗が人気に?」


「味って、正しさじゃないんだよな。

誰かの“好き”って気持ちの数だけ、正解がある。

町の仕事って、たぶんそういうことなんじゃないかな」


葵は、手元のノートに何かを書きたくなった。

でも、うまく言葉が浮かばなくて、代わりに質問を口にした。


「健一さんは、どうしてこの町に戻ってきたんですか?」


その問いに、健一は少しだけ目を細めて、言った。


「町のこと、好きだったけど、見えてなかったんだよ。

でも離れて、働いて、疲れて……それでふと、風鈴屋の音が、耳に残ってた。

“あ、戻んなきゃ”って思った。

理由なんて、あとから付いてくる」


その言葉に、葵は胸の奥で何かが静かに揺れるのを感じた。


彼らは、特別な人じゃない。

でも、それでも町を動かしている。


「私も、なにか……始めてみたいです。

本気で、町の“味”を作ってみたい」


健一とさやかは顔を見合わせ、にっこり笑った。


「それじゃあ、“味仲間”だね」

「歓迎するよ。君の“町のスイーツ”、楽しみにしてる」


その夜、葵は風鈴屋の軒先で、ほんの小さな風鈴の音を聞いた。

遠くて、優しくて、でも確かに届く音だった。


——この町には、まだまだ知らない“甘さ”がある。


彼女は、ノートの次のページをそっと開いた。

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