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ある日、ゆかりがレジを打っていると、一人の女性が現れた。
──似ている。源佐織に。
他に客の姿はない。
「あら、さおりん!? あんたどこほっつき歩いてたの!?」
普段見せない驚きの表情で、そう質問する。客は、はっとして聞き返した。
「妹のお友達ですか!?」
ゆかりは、確信した。かかった。
「──お姉様でしたか……すみません……あれから三ヶ月経ちましたね」
ゆかりは、沈痛な面持ちの仮面を被り、ポツリと呟く。
「姉の
客は、涙声でそう言った。
ゆかりが、目を逸らすと一匹のセアカゴケグモが、足下を這っていた。当たり前のような顔で、踏み潰す。誰も気付かない。
「あの、よろしければシフトが終わってから、お話を」
ゆかりは、提案する。唯は、肩を震わせながら、こくりと頷いた。
シフト明け、午前十一時。
二人は近くのファミリーレストランで、顔を付き合わせていた。
窓際の席に座り、ドリンクバーと食事を注文する。
「佐織さんは……痴漢に遭ってしまって」
唯は、さもありなんと言った表情で、ジンジャーエールを口にする。
「そういうタイプなんですよね、私達。扇情的な格好は避けるように心がけているのに……」
「ある種の虫の話ですが」
ゆかりが例え話を始めた。
「派手な模様の体表で、天敵に『私は毒を持っている』とアピールする虫がいます。虫と人を同列に見てはいけないと思いますが、派手な格好は逆に捕食者を遠ざけるものかと」
唯は質問する。
「なら往来でSM嬢の格好でもしろと?」
「極論ですがね。普通の性犯罪者は遊び慣れた女性はあまり狙いません。むしろ深窓の令嬢のようなか弱い獲物を襲うものです。抵抗する獲物を捩じ伏せる力があるならそもそもそんな卑劣な真似はしません」
ゆかりは、別人のように、饒舌に語る。
スマホを取り出し、画像フォルダを開く。表示されたのは、ひ弱な男が女学生を強姦する漫画だった。
唯はジンジャーエールを吹き出すのを堪えた。暫し絶句する。
「宮島さん……これ……」
あまりの変化に、夢でも見るかのような表情で、ゆかりを見つめる。目の前の女が、怪物に見え始めた。
「すみません、刺激が強すぎましたね」
「佐織も……まさか」
唯の声が湿り始めたのを、ゆかりは感じ取っていた。
周囲の喧騒が、遠ざかっていく。
「周りをご覧なさい、気付かれないように。あの女子高生達、親子連れ、一人で食事中の紳士淑女……皆人格を備えた肉の塊です。突然の理不尽な暴力に耐えられる"人間"がこの空間にいると思われますか?」
唯は、黙って首を横に振る。
「逆も然りです。社会性の未発達な若者、古い価値観に縛られ、怒りの衝動を抑えられない高齢者……。考えてみてください、切り裂きジャックの時代に暴力的ポルノやアニメがありましたか? そんな記録を見聞きしたことは? 近代的連続殺人はメディアの影響によるものではありません。もしそうなら映画監督や作家は全員処罰されている筈です。問題は空想と現実の境界が弱体化する事」
ゆかりの弁は止まらない。次第に、唯は何を聞いているのか、わからなくなってきた。
五分程講義の続くテーブルへ、食事が運ばれてきた。
「──食べなきゃ、駄目ですか」
唯は、青ざめていた。今にも、胃の中身を撒き散らしそうなほどに。
「時間ならありますし。幸いテイクアウト可能なお店なので……どうします?」
「私は……すみません、そうさせてください」
それを聞いて、ゆかりは、当たり前のような顔で、ほうれん草のパスタを食べ始める。持ち帰る気など無いらしい。
「失礼ですが、ひょっとしてヴィーガン? 宮島さん」
「特別な時は、お肉も食べます。宗教じみたヴィーガンではありません」
当たり前のような顔で、そう返す。
唯は(ところで佐織はどうなったのだろう)と思いながら、目の前の怪物を見つめていた。
店を出る際、足下に一匹の蜘蛛がいた。ゆかりは、気付かないふりをして踏み潰した。
蜘蛛は、仔を孕んだ雌蜘蛛であった。二人の人間は、それを知る
二人は、暫く無言で歩き、公園で、休憩を取ることにした。
ゆかりは、衰弱した様子の唯を、公園のベンチに座らせ、自販機で購入したペットボトルの蓋を開けて渡す。周囲に、人影は無い。
唯は、微塵の疑いもなくそれを受け取り、中身を口にする。
ゆかりが、レストランの続きを始める。
「公正世界仮説って、ご存じですか」
「こうせい……?」
「勧善懲悪、因果応報、そういったものに近い考えです。認知バイアスのようなものですね。『正義は必ず勝つ』とか『真面目にやれば報われる』とか、そういう下らない思い込みです」
「そんな……下らないって……」
「下らないでしょう? さっきの続きですよ。地味な格好の女性の方が、暴力の被害に遭う確率は高いんです。悪人は悪人を狙いません」
「宮島さん……あなたは何を……」
ゆかりは、最後に佐織を見た視線で、唯を見つめる。
唯の意識が遠のく。蜘蛛の巣に囚われたと気付いた時は、既に遅かった。
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