第24話 サヌカ記1
――かつて乙女だった頃、
サヌカは、普通の乙女だった。
ムラの名家に生まれ、穏やかで静かな少女であったという。
頬にかかる髪を指で払う癖があり、笑うとその目元が月のように柔らかくなると、母がよく言っていた。
十五の年、サヌカはウタガキの儀に参加した。
淡く、たしかな恋をしていた。
そのオノコもまたサヌカを選び、月の下、二人は初めて肌を重ねた。
肌を重ねる――それがどんなことかを、サヌカは知らなかった。
ただ、信じていた。
これが「結ばれる」ということだと。
だが、それは、儚い夢にすぎなかった。
その数日後。
婚姻の話が進もうとしていたある夜、神殿から呼び出しがあった。
「長老様の床に入れ」
それは、形式。
――儀式。
神に仕える者として必要なことだと、母は言った。
「一度だけなのだから、耐えなさい」
けれど、そこにあったのは神事などではなかった。
長老は老いながらも、執拗で、ねちっこかった。
サヌカの身体を舐めるように眺め、肌の白さをしつこく称賛し、そして、彼女の抵抗をあざ笑った。
それは、信じた愛を裏切る行為だった。
ただの通過儀礼ではない。
サヌカの内側にあった、乙女としての尊厳が、じわじわと踏みにじられていった。
それでも、サヌカは口を噤んだ。
……そのうち、すべてが終わると信じたかった。
だが、終わらなかった。
長老は、気に入ったと告げた。
「婚礼の後も、余のもとへ通え」と。
その言葉は、サヌカのすべてを打ち砕いた。
――私は、彼と結ばれることすら許されないのか。
その夜、サヌカは泣きながら、恋しいオノコのもとへ駆け込んだ。
そして、決意する。
「一緒に逃げよう」
月のない晩を選んだ。
サヌカは、婚礼の支度のために与えられた新しい襦袢に、塩と握り飯を包んだ布を忍ばせた。
わずかな金も、母の鏡台から失敬した。
それが、母からの最後の贈り物だと信じたかった。
想い人――カガルとは、神殿裏の細道で落ち合った。
彼は、サヌカの手を強く握り、何も言わなかった。
その沈黙が、すべてを語っていた。
逃げて、二日。
山を越え、川を渡った。
冷え込んだ夜、カガルが自分の羽織をサヌカの肩に掛けてくれたとき、
彼の体温に包まれて、サヌカは思った。
――このまま死んでもいい、と。
けれど、運命はあまりにも無慈悲だった。
三日目の朝。
木立の陰でひととき休んでいたところへ、追っ手が現れた。
サヌカを見つけた長老の家来たちは、問答無用で彼女の腕を掴み、カガルには槍を向けた。
「やめて……この人は何もしていないの!」
サヌカが叫んでも、彼らは聞く耳を持たなかった。
カガルは、必死に抵抗した。
だが、一人の力ではどうにもならなかった。
刺された。
一突き。
二突き。
血の色が、サヌカの目に焼きついた。
「カガル……!」
名を呼んだ時、彼の身体はゆっくりと崩れ落ち、もう動かなかった。
サヌカは叫んだ。
喉が裂けるほど泣いた。
だが、家来たちは容赦なかった。
泣き叫ぶ彼女を縄で縛り、地面に引きずり倒した。
――それが、すべての終わりだった。
その夜、サヌカは神殿に連れてこられた。
言い渡されたのは、巫女への転落。
「これより、神に仕える身となれ。男に心を移した罪、カミの怒りを鎮めねばなるまい」
まるで、血を流したのが自分のせいだと告げられたようだった。
それでも、サヌカは反抗しなかった。
反抗すら、もう出来なかった。
墨の香りが鼻を刺す。
鉄と血の匂いが混ざり合い、吐き気を催すような空気が漂っていた。
裸身のまま伏せた身体に、針が触れる。
「……ッ」
最初の一刺しで、息が止まりかけた。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
針は細かく、容赦なく、皮膚に呪のような文様を刻み込んでいく。
痛みは、灼けるようだった。
ただの痛みではない。
骨に染み、魂を焼くような、絶え間ない責め苦。
「……っあ、あ……」
声は自然に漏れる。止めようがなかった。
しかし、誰も気に留めない。
黙々と、無言の巫女たちは作業を続ける。
どれほどの時が経ったのか。
最初のうちは、朝と夜の区別もついていた。
だが、やがて時間の感覚は、痛みに塗り潰されていった。
背を、肩を、腕を、腰を。
身体のすみずみにまで、刺青は拡がっていく。
どこまで彫られているのかも分からない。
意識が遠のくたびに、サヌカは死を思った。
――今度こそ、死ねるかもしれない。
だが、その度に、激痛が引き戻す。
また針が走り、肌を裂く感触で目が覚める。
「……まだ……終わらないのか……」
何度、そう思ったか分からない。
眠りも夢もなく、ただひたすらに、痛みと麻痺の間を彷徨う。
気づけば、唇が乾ききり、声すら出なかった。
汗なのか血なのか分からぬ液が、肌を伝う。
巫女の一人が、短くつぶやいた。
「……三日目に入る」
その言葉を聞いた時、サヌカは戦慄した。
――まだ、三日なのか。
痛みは、既に永遠のように続いている気がしていた。
だが、巫女たちの手は止まらない。
何度か意識を手放した。
そのたびに、針が肉を突き破る感触に、無理やり目覚めさせられる。
──殺してほしい。
そう願った瞬間もあった。
けれど、誰もサヌカを殺してはくれなかった。
刺青は、彼女が生きたままでなければ完成しないのだ。
幾夜が過ぎたのか。
ある瞬間、気がつくと、巫女たちの手は止まっていた。
「……生きている」
誰かがそうつぶやくのが、かすかに聞こえた。
サヌカは、微かに笑った。
笑ったのは、自分が生き残ったことへの安堵ではなかった。
むしろ、死にきれなかったことへの皮肉だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます