第16話 盟ノ宣言(めいのせんげん)1
「ナギを、我が養女とする。
カムナ国との同盟を結ぶにあたり、オオキサキとして嫁がせる」
玉座から発せられたその言葉は、政の間に張り詰めていた空気を、ひと息で打ち砕いた。
誰もが、動けずにいた。
重臣たちは顔を見合わせたまま、しばし、時の流れが止まったかのようだった。
だが、やがてその意味を飲み込み、一人、また一人と膝を折る。
「ハハァ……」
「恐れ入りましてございます……」
重く、抑えた声が次々と漏れ、石の間に反響する。
玉座の脇、緋の座に静かに腰かけていたオオキサキは、動かない。
白い扇の縁から、わずかに覗いた眼差しだけが、ナギの姿を捉えていた。
目尻の紅が、ひときわ鋭く引かれている。
それは、怒りとも、蔑みともつかぬ、女の深い影を帯びていた。
「……フン」
短く吐き出された声は、場の誰にも届くことなく、扇の奥に沈んでいった。
彼女はそのまま、扇で顔を隠し、ゆるりと背をそらした。
ナギは、一歩前に進み、静かにひざを折る。
そして、深く頭を垂れた。
オオキミの言葉――それは、名を与えられ、立場を得たという表向きの栄誉でありながら、同時に、すべてを捨てねばならぬ宿命の宣告でもあった。
宣言ののち、日々は淡々と過ぎていった。
宴の支度、贈り物の準備、そして輿(こし)の整え――。
すべてが静かに、けれど確実に、ナギをカムナ国へと送り出すための装置として動いていた。
その流れの中で、ある夕暮れ時。
ナギは、御簾の奥に控えるオオキミへ、そっと申し出た。
「……ひとつ、願いがございます」
オオキミの視線が、細く動く。
その眼差しは、変わらず静かで、何ものにも揺るがぬ冷ややかさを保っていた。
「申してみよ」
「旅立つ前に……巫女の神殿へ参詣したく存じます。亡き友らの冥福を、心より祈りたく……」
その言葉の端に、かすかに震えが滲んだ。
しばしの沈黙。
オオキミは目を伏せるように、わずかにうなずいた。
「……よいだろう。ただし」
その声音が、すっと鋭さを増す。
「巫女どもとは、言葉を交わすな。あやつらは、人にあらざる存在……。この国に災いをもたらす、呪われた血の流れよ。信を置いてはならぬ。穢れを抱くに等しい」
ナギは、言葉を飲み込んだまま、深く頭を垂れた。
「……畏まりました」
その声の奥にあったのは、従順さでも恐れでもなかった。
ただ、静かに燃える、揺るぎない意志――
炎のように沈み込んだ、祈りの芯だけが、そこに残っていた。
その日の夕暮れ、薄紅に染まりゆく空の下、ナギは神殿へと向かった。
玉砂利の音が、草木のざわめきと溶け合う。
遠くに見える社の屋根は、幾年の風雨を耐えた鈍い色を帯び、夕陽に照らされて鈍く輝いていた。
神殿の奥、白き衣に身を包んだ巫女たちは、まるで彫像のように並び立っていた。
言葉もなく、笑みもなく、ただじっとナギを見つめるその瞳は、氷のように冷たかった。
ナギは、何も言わず、その視線を真正面から受け止めた。
そして、静かに目を閉じると、両の手を胸の前で合わせた。
(…シグリ。ホトハ……)
幼き日、川辺で戯れた笑い声。
風に揺れる髪。濡れた頬を照らす陽の光。
(……そして、サエ……)
心のままに彼女の面影が、闇のなかでひときわ鮮やかに浮かんだ。
誰にも救われず、蔑まれ、踏みにじられた魂。
それでも、ナギにとって彼女は、かけがえのない“同志”だった。
「……どうか、安らかに……」
その声は、口からではなく、胸の内から湧きあがる祈りだった。
言葉にならぬ想いが、静かに宙へと解き放たれていく。
沈黙のなか、巫女たちは動かなかった。
その冷たい瞳の奥に何を思ったのか――
ナギには、知る術がなかった。
ただ、ひとつだけ確かだったのは、この祈りは、自らの決意の証そのものであるということ。
日は移ろい、出立の前日。
空は澄み、春の光が宮殿の甍をやわらかく撫でていた。
ナギは、正装に身を包み、静かな足取りでオオキサキの居所を訪れた。
その背筋には揺らぎがなく、むしろ何かを締めくくる者のような、凛とした空気をまとっていた。
部屋には、香のかすかな香りが漂っていた。
扇を手にしたオオキサキが、ゆるやかに目を向ける。
その視線は氷を削るように鋭く、唇の端には、あざけるような笑みがうっすらと浮かんでいた。
「駒風情が――ようもまあ、ここまで成り上がったものじゃな」
吐き出すような声音。
そこに込められた感情は、憎しみか、蔑みか、それとも――嫉妬。
ナギは、揺れなかった。
ただ静かに膝を折り、深く頭を垂れたまま、答える。
「……すべては、オオキミ様の思し召しにございます」
「オオキミの、思し召し……? フッ。よくもそんな言葉を口にできるな」
扇がわずかに揺れ、オオキサキの目が射貫くように細められる。
「駒の分際で、オオキミをたぶらかし――子まで、孕みおって!」
声が震える。感情が、抑えきれぬ波となってあふれ出す。
「よいか! オオキミとの御子を成せるのは、このわらわと、わらわが良しとしたキサキたちのみじゃ!おまえのような、どこの誰とも知れぬ薄汚れた娘が、オオキミのお種を宿すなど、断じて許されぬ!」
その言葉のなかには、血を吐くような嫉妬と哀しみが入り混じっていた。
ナギは、一度だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
そして、声を荒らげることなく、ただひとつの言葉を返した。
「オオキサキさまの仰せ――ごもっともにございます」
そう言って、彼女は深々と頭を下げた。
その姿には、敗北も、反抗もなかった。
あるのはただ、すべてを受け止める覚悟のかたちだった。
その背に、静かな気高さが宿っていたことに、
オオキサキが気づいたかどうか――
それを知る者はいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます