第14話 シグリ記1
ウタガキの夜が終わって以後、シグリは、心の中で何かが静かに変わっていくのを感じていた。
それは風向きがわずかに変わるような、あるいは朝露の冷たさが一瞬遅れて肌に沁みるような、微細で確かな違和であった。
ナギがムラオサの館へ連れて行かれた少し後、村には早くも次の婚儀の話が広がり、誰もが祭の余韻よりも、次なる「役割」に目を向けていた。
シグリにも、すぐに嫁ぎ先が決まった。
長老の甥にあたるという男。
名のある家筋だと、母は喜びながら髪を結い上げた。
「良い家だぞ、長老の甥にあたる。名もある家筋だ」
そう言いながら、母は鏡の中のシグリの髪に櫛を通していた。
その手は確かに優しかったが、どこか機械的でもあった。
だが、シグリは知っていた。
その「甥」は、幼い頃から長老の傍らで育ち、女を見るたびに、その目を細めて値踏みするような視線を送っていたことを。
まるで長老と見まがうような眼差し。
笑みの奥に潜む、冷えた欲望の色――。
「まあ、初夜の相手は長老様だ。通り儀式じゃ」
母はさらりと笑いながら言った。
それはこの村で長く続いてきた「しきたり」だった。
嫁入りの夜、夫ではなく、まず長老がその身を開く。
その次には舅。
夫と結ばれるのは、その後だ。
それが「女になるための通過儀礼」として、半ば当然のように受け入れられていた。
けれどその晩、シグリは、食事に箸をつけることができなかった。
喉に通らぬまま冷えていく粥。
湯気の立たぬ膳を前に、ただ黙って、俯いていた。
部屋の隅では白の装束が用意されていた。
それは嫁入りの象徴ではなく、これから身にまとう「儀式の衣」として、そこに置かれていた。
婚礼の夜。
白の衣をまとったシグリは、静まり返った座敷の中、灯りも落とされた床の間にひとり、膝を折っていた。
薄布の下、肌の内側が冷えていくのを感じていた。
けれど、それが寒さのためなのか、それとも心が凍えているせいなのか、もう分からなかった。
襖の向こうで、わずかに足音がした。
それは決して急がず、むしろ愉しむような間合いを保ちながら、ゆっくりと近づいてくる。
「ふふ……綺麗になったのう、シグリ」
低く湿った声が、静けさを破って落ちた。
長老だった。
灯りがともされ、すうっと明かりが満ちてくる。
その光の中に現れた老いた男の顔は、どこか飢えた獣のようでもあった。
「お主のような女は、滅多におらぬ。ムラオサもナギとそなたで迷っておられたが、儂はそなたが好みだったからのう」
そう言いながら、長老の指先が帯にかかる。
まるで、古びた道具を扱うように無造作で、なんの情緒もなかった。
衣がほどかれる音が、やけに耳に残った。
その瞬間、シグリは小さく息を吸った。
それでも、声にはしなかった。
――叫んでも、誰も来ぬことは分かっていた。
やがて、男の影が覆いかぶさる。
その重みと共に、シグリはゆっくりと視線を天井へ向けた。
そこには何もなかった。
ただ、板の節がひとつ――じっとこちらを見下ろしていた。
その節を、シグリはずっと見つめていた。
痛みが走っても、唇は結ばれたまま。
涙も出なかった。
ただ、身体の奥底で何かが崩れていく音だけが、微かに響いていた。
本来――
初夜に長老との床を交わすのは、古くからのしきたりであった。
嫁いだ娘の清めとして、最初の夜だけ長老が肌を重ね、それをもって「嫁入りが認められた」とされる。
舅もまた、形式的に手を添えることはあった。
あくまで儀礼、形式――
そう聞かされ、シグリもまた、そう思い込もうとしていた。
だが、それは幻想だった。
長老は、シグリの身体を一度味わっただけでは飽き足らず、次の夜も、その次の夜も、事あるごとに呼びつけた。
「よい肌だ……嫁に出すのが惜しいほどだわ」
そう笑いながら、爪を立て、舌を這わせた。
それを追うようにして、舅もシグリの部屋に現れ始めた。
「おまえの夫はまだ若く、女の扱いも知らぬ。
わしが代わって教えてやろう……おまえの悦ばせ方をな」
その目は、息子と同じ――
女を“食べるもの”としか見ていない、飢えた男の目だった。
本来は、夫と結ばれるべきはずだったのに。
夫は――
ただ一度、シグリに触れようとした夜、
舅から言われた一言に立ち尽くした。
「わしの許しなく、あの女に手を出すな」
それ以降、夫はシグリに背を向け、次第に家を空けるようになった。
ある日、隣家の女中がぽつりと漏らした。
「最近、アソビメのところへ通っておるそうな」
シグリは、それを聞いても何も感じなかった。
怒りも、嫉妬も、悔しさも――とうに捨ててしまっていた。
ただひとつ残っていたのは、
己の身体が「誰のものでもない」と思えぬほど、
日に日に汚されてゆく実感だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます