第9話 受胎ノ契(じゅたいのちぎり)

 その夜、月は薄雲に覆われ、まるで誰かの吐息のように淡く揺れていた。


 寝所の帳(とばり)の内では、香が深く焚かれ、静かに、甘く、沈んでいる。


 ナギは、身支度を終えてそっと中へ入った。

 肌には、すでに紅は一切ない。


 オオキミの命により、艶やかな色を塗ることは、すでに止められていたのだ。


 けれども――

 そのありのままの素肌は、かえって美しさを際立たせていた。


 装わずとも、艶は滲み、まなざしに力があった。


 寝台に半身を預けたタケル・オオキミは、目を伏せたまま静かに言った。


 「……そなたは、紅など付けずとも美しい」


 声は淡々としていたが、その奥に、かすかな熱が宿っていた。


 それは褒め言葉というより、静かな観察のようでもあり――


 ナギは胸の奥がわずかに波立つのを感じた。



しばしの沈黙を経て、ナギはふと口を開いた。


 「オオキミは……お優しゅうございます」


 タケルは目を伏せたまま、鼻先で小さく笑った。


 「余が? ……まさか」


 ナギは、首をゆっくりと横に振る。


 「いいえ。ナズナのような子に、手を差し伸べる方など……そう多くはございませぬ。


 オオキミともなれば、見捨てたとて誰にも咎められますまい」


 タケルは、少しだけ視線を上げた。


 「……初めてナズナを見たときの姿を見たらな。あれを、見捨てるなどできるものではない」


 声にわずかな熱が混じる。

 それは威厳でも命令でもなく、ほんのひとときの“人”としての響き。


 ナギは、静かにその言葉を胸に沁み込ませるように聞いていた。


 「……やはり、お優しい」


 その言葉はもう、憐憫ではなく、どこか誇らしげな響きを帯びていた。



 ふと、ナギの身体が傾き、自然とタケルに寄り添った。


 肩が、ぬくもりを帯びて触れる。


 そのわずかな距離の縮まりに、タケルは微かに目を細めた。


 ――何かを図るようでもなく、ただ受け入れるように。


 ナギの指先がそっと動き、頬にかかる彼の髪を払いのけた。

 そしてそのまま、柔らかに唇を近づけ、そっと頬に口づけを落とす。


 「……なぜ、こんなことを」


 タケルの声は、戸惑いに似た低さを帯びていた。


 だがナギは答えず、再び唇を重ねた。

 今度は頬ではなく、真正面――

 唇と唇が、たしかに触れ合った。


 それは、媚びでも従属でもない。

 自らの意志で選び取った接触だった。


 その夜、ふたりは、初めて真に交わった。


 淫らに飾られた肌ではなく、素のままの身体と心。


 そして、“見つめ合う”という行為が、何より深く交差していた。


 重ねられる手のひら。

 応えるように震える指先。

 目と目が、何度も何度も、想いを確認し合う。


 熱が高まるにつれ、ナギの身体がゆっくりと弓なりに反った。


 タケルの手が、唇が、胸元から腰へ、腰から腿へ――

 やわらかに、けれどたしかに辿っていく。


 息が漏れるたび、ナギのまなざしは熱を帯びていった。


 かつてムラオサに奪われたあの夜々とは違う。

 じわじわと、溶かすような快感が、芯の奥から静かに迫ってくる。


 タケルがゆるやかに動きを止めると、ナギの身体は小さく震えた。


 肩がかすかに揺れ、閉じたまぶたの端から、静かに涙がこぼれ落ちる。


 それは、苦しみや哀しみの色を含んではいなかった。

 ただ、自分の内から湧き上がる何かが、どうしようもなく溢れただけだった。


 布の中で、小さく、かすかな余韻が残る。


 ナギは、ようやく自分の身体が戻ってきた気がした。

 それは、かつての“誰かに使われる器”ではない、

 ひとつの命が、初めてその尊厳を取り戻す瞬間でもあった。



 「余としたことが……」


 タケルが、ぽつりと呟いた。


 声には、微かな照れと、それを打ち消すような自嘲が滲んでいる。


 ナギは、まだ言葉を持たず、ただ肩で呼吸を繰り返していた。


 夜風が帳をかすかに揺らす。

 その風の中に、ふたりの熱だけが、まだ静かに残っていた。


 二ヶ月ほど過ぎたある朝――


 ナギは、胸のあたりに違和感を覚えて目を覚ました。


 喉の奥にわずかな吐き気、そして、身体の芯に鈍いだるさ。


 ふと脇腹を撫でるように手をやり、息を呑む。


 ――月のものが、来ていない。


 ナギは、静かに、ゆっくりと膝を抱えた。

 その内側に、なにか芽吹くような感覚があった。

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