不完全な僕ら

kanimaru。

第一話

 「そっか、孝一くんももう中二になるんだ。時の流れは速いもんだねえ」

 古びた、色の薄い診察室の中で角田先生が大げさにため息を吐いたのを見て、早瀬孝一は思わず苦笑した。

 毎年言ってるよなあ、それ。

 心中でそう呟いたが、口に出すことはしなかった。

「もう十四年も経ったんだ、孝一くんに初めて会った日から」

 角田先生は猫のように細い目をさらに細めながら孝一をじろじろと見た。その視線に多少そわそわして、孝一は古びたプラスチック製の丸椅子の上に置いた尻を軽くよじった。

 椅子のすぐ下にはこれまた古いロボットのおもちゃがあって、動いた椅子の脚にぶつかってこつん、と音を鳴らした。無機質な部屋の中のカラフルなおもちゃはやけに目立った。おもちゃはこれだけではなく光を放つボールとか、ピアノを模したおもちゃなどがいくつもあった。どれも、落ち着きのない子どもたちのためのものだと孝一は知っている。

 角田先生はなおも孝一をじろじろと見ながら嬉しそうに声を上ずらせた。

「身長もだいぶ伸びたよねえ。前はあんなに小さかったのに」

「そうですね」

 たしかに、と彼は思った。

 いつも見上げていたはずの角田先生は、いつの間にか見上げるように視線を上にやっていた。それを知った途端、身長が一年で十五センチも伸びたのだという事実が急に現実味を帯びたような気がする。

 でもいくら背が伸びたって、変わらないもんなんだよな。

 声には出さなかったが、孝一は皮肉るような目で自分の右手を見つめた。

 この場所にいるだけでそんな嫌味が思い付いてしまう。だから孝一はこの場所が、ここにいる自分自身が嫌いだった。

 憎しみを込めた視線を右手に向かわせる孝一に対して、角田先生は短い髪を耳から払いながら優しい声を放った。

「最近、なにか困っていることはない?」

「ないです」

 答えは淡白だった。だがまたもや、心中では嫌味を放っていた。

 強いて言うなら、こんなところに来なきゃいけないことかな。

 嫌味屋であるところは、彼の短所だった。そしてその短所はこと彼の身体にかかわる話になると極端に発揮された。

 孝一は身体障害者なのだ。

 左脳の欠陥による生まれつきの軽い右半身麻痺を持っており、生まれた時には歩くことはおろか、言葉を話すことすら難しいかもしれないと医者に言われたという。だが幸いにも言語機能は損なわれることはなかった。そして、懸命なリハビリによって、歩くことも走ることも(右足のかかとは地面につかず、いささか不器用な形ではあるが)できるようになった。右手はとても不器用で、指の一本一本を正確に動かすことも難しいが、よく観察しないと彼が身体障害者であることは見抜けないだろう。

 その程度の軽度障害であるから、孝一自身も幼少期は障害者であることなど気にしたこともなかった。今の孝一からすればありえないことであるが、幼稚園のお遊戯会などでは主役を務めるなど、目立ちたがり屋な性分を持ってさえいた。

 だが、長じるにつれて孝一の中で障害者であるということはどんどんとコンプレックスになっていった。

 小学生三年生の時はクラスで唯一縄跳びが一回も跳べず(不自由な右手では縄を回すことができなかったのだ)、小学五年生の時は女子も合わせたクラス全員の中で一番五十メートル走のタイムが遅かった。小学六年生の時の流行りのゲームは右手でボタンを押すことが困難でプレイできず、クラスの流行に乗り遅れた。

 なにか決定的な出来事があったわけではなく、そういった出来事がいくつも積み重なり、孝一の中のコンプレックスは大きくなっていった。

 孝一を特に苦しめたのは、周りの視線だった。

 孝一の障害は一目見て見抜けるようなものではない。つまり同級生からしてみれば孝一は、ただ単に「運動ができない子」なのだ。しかも、図抜けてだ。

 無垢で残酷な子どもたちは、縄跳びができない孝一を見て、「なんでこんな簡単なこともできないの」という視線を浴びせた。時には言葉にすることもあった。

馬鹿にされている。

声や視線を投げかける彼らにその意識はなかったかもしれないが、少なくとも孝一はそう感じた。このあたりで、孝一の中に存在していた目立ちたがり屋の部分は鳴りを潜めるようになった。

 そして孝一がもっとも恐れたのが障害者であることが周りにばれることだった。身体が不自由であることを憐れまれるのを極端に恐れた。彼は人生で一度だけ、当時の親友に自分の障害をカミングアウトしたことがある。その時の親友の目を、孝一は今でも忘れることができない。ついさっきまで笑いあっていた友人の、恐怖にも似た同情と憐憫の視線。それまで彼は、障害を持つということが他人からどう見えるのか、正確に把握していなかった。こんなにも恐ろしいことだなんて知らなかった。それ以来、その親友とは疎遠になり、中学校も別々になった。そして孝一は人からの同情を極端に恐れるようになった。だって、自分でどうしようもないことに対して同情されるのなんて、自分の存在を否定されるのと大して変わらないからだ。そのため、普段の彼はなるべく明るく振る舞い、運動が苦手なことなど気にしていないかのように行動した。障害など持っていないかのように行動した。だがその明るさとは裏腹に、歳を経るごとに孝一の劣等感は強まっていき、嫌味屋の気質も強まっていった。

 「じゃあ、今日の診察はこれで終わりだから。また来月ね」

 軽い口調の角田先生だったが、孝一の心はずしりと重かった。

 また来月、来なきゃいけないのか。

 ため息が出そうになるのをこらえ、ありがとうございましたと呟きながら診察室の扉を閉める。

 診察室から出て右に曲がって、受付の前に並べられたソファの一つに孝一は腰かけた。周りのソファには様々な障害を抱えた人々が親子で座っていて、子ども一人で来ているのはどうやら孝一だけのようだった。

 療育園と呼ばれるこの施設は、障害を持った子どもたちを対象にした支援施設だ。孝一はここで毎月リハビリと診察を受けていた。

 孝一はこの場所が嫌いだった。古いうえに陰気臭い場所で、おまけにリハビリにいい思い出はない。猫のえさのような匂いが充満していて、壁の塗装はところどころ剥がれ、大部分が黄ばんでいる。

 聞いた話によると、あまりの古さを見かねて、来年度新しい場所に施設がリニューアルされるらしい。

 リハビリが続くのは中学校を卒業するまでと決まっている。ちょうどあと二年だった。

 二年ってことは、あと二十四回もここに来なきゃいけないのか。

 数えるだけで気の遠くなるような思いがした。

 リハビリに意味を感じたことはない。もちろん大切なことだとはわかっているが、リハビリが劣等感を改善してくれるとはとても思えない。むしろここに来るたびに自分が障害者であることを思い出して、劣等感は深まるばかりだ。

 早くやめてえな。

 あと二年。中学校生活もあと二年。

 自然と、心は来月から始まる新学期へと向かっていく。

 征矢とは同じクラスがいいな。どう立ち回るのかも決めないと。球技大会と体育祭は、出来るだけ楽しんでるふりしよう。体育の授業も上手いことサボって、障害に勘付かれないようにしなきゃ。先生たちに障害のことで呼び出されたときの言い訳もなんか考えないとな。いつも通り、アレルギーってことにしとくか。

 シミのついた天井を見つめ、そんなことを考えながら受付に呼ばれるのを待った。だが、孝一を現実に戻したのは受付による呼び出しではなかった。

「あれ、孝一くん? 今日来てたんだ」

 ふいに呼ばれて身体がびくりと小さく反応した。横に座った母親ぐらいの年齢の女性はそんな孝一を見てクスクス笑った。笑うと皺が顔に広がったが、それでも若々しさを保っている美しい女性だった。

「なにか考えてたみたいね。邪魔しちゃった?」

「いやあ大したことじゃないんで――ああ健太くん、こんにちは」

 返答すると女性の奥に青年が見えて、孝一は挨拶した。

 健太と呼ばれた青年は青色の半袖シャツに黒の半ズボンという格好だった。露になった短い脚には毛の一つもなく、まるで赤ん坊の足のようだった。孝一のあいさつに対して健太はつり目をさらにつり上げてニコニコとした表情を作ったが、なにもしゃべらない。

 孝一は健太がなにも言わなかったことに対して反応しなかった。彼もまた障害を抱えていることを知っていたからだ。

 健太はダウン症を抱えている青年だった。孝一も詳しくは知らなかったが、軽度の知的障害を持っていることは知っていた。

 孝一と健太は、孝一が初めて療育園を訪れてからの関係だった。孝一は生まれたその年には療育園に通い始めていたから、知り合ってからもう十四年にもなる。

 歳は健太の方が四つ年上で、確か今年十八歳になるはずだ。

 健太は自己表現が苦手で、なかなか話すことはなかったが、孝一はこの青年が好きだった。

 いつもニコニコとしている様子に好感を持っていた。同時に羨ましくもあった。孝一にはこの場所にいながら笑顔を崩さずにいるなんてできそうにない。

「にしても孝一くん、背大きくなったねえ。私はもうとっくだけど、健太も抜かされちゃったね」

 健太の母親の真里さんは隣に座った孝一を見上げながら感嘆した。孝一は今日二度目の身長話に軽く微笑んだ。

「でも健太くん、大きいですよね」

「先月測ったら、百六十センチになってたわ」

 孝一は驚いた。ダウン症の男性の平均身長は百五十センチ程度だと聞いたことがある。百六十センチとなると、相当大きな部類なはずだ。

 嬉しそうに微笑む真里さんを見ると、子どもの成長を素直に喜んでいるのがわかる。

 親からすれば、子どもが障害者だろうと健常者だろうと、成長すれば嬉しいのだ。

 真里さんは言葉を重ねる。

「孝一くんは来月で中二だっけ」

 孝一は声を出さずに頷いた。その時近くのソファから唸るような叫び声が聞こえたが(感情の制御が難しい障害児が大声を上げるなど、この場所では日常茶飯事だ)、真里さんは無視した。健太は興味深そうにしげしげと叫び声の方を覗いていた。

「娘もそうなの。健太の妹ね。手のかからない子なんだけど、だからこそ頼りすぎちゃってね」

 真里さんは申し訳なさそうに俯いた。

 妹がいるというのは初耳だったが、なんとなく妹の人柄は察することが出来た。兄弟に障害者がいると、子どもはしっかり者に育ちやすいというのは通説だ。親が兄妹にかかりきりだから、自分でどうにかしなければならないという気持ちになりやすいのだろう。

 俯く真里さんに対して孝一はなんと返せばよいのか分からず、答えに窮した。

 気まずい沈黙になりそうだ。

 覚悟した孝一を救ってくれたのは健太だった。

 健太が真里さんの服の袖を何度か引っ張ったのだ。真里さんの顔が健太の方へと向く。

「どうしたの? ――ああ、トイレ? 行ってきていいわよ。うん、ここで待ってるから」

 真里さんの言葉を受けて、健太はすっと立ち上がり、確かな足取りでトイレへと向かっていった。

 健太は一言も喋っていなかったが、真里さんにはなにが言いたいのか分かったようだ。母親の凄さをまじまじと見た気がして、思わず舌を巻いた。だが、真里さんは困ったように頭を掻いて苦笑していた。心なしか、さっきよりも皺が増えたように見えた。

「お家だとよく喋るんだけどね。外だとまったくと言っていいぐらい喋らないの。もうちょっと社交的になってほしいものだけど、なかなか難しいのよ。孝一くんは健太と何度か喋っているもんね?」

 孝一は記憶を辿った。そして無言で頷く。

 確かに何度か会話はしたことがある。明瞭な発音ではなかったが、意思ははっきりしていたことを覚えている。

 すると、真里さんはなにか微笑ましいものでも見るような顔で、嬉しそうに囁いた。

「健太が家族以外の人と話すなんて、なかなかないのよ。私が見た中では、角田先生と孝一くんぐらいかしら。よっぽど孝一くんのことが好きなのね」

 そう言われるとなんだか気恥ずかしくて、照れを隠そうと鼻を掻いた。あまり良い形とは言えない鼻頭がわかりやすく揺れた。

 その時、受付が孝一の名を呼んだ。

 孝一は真里さんに挨拶を済ませると受付に向かった。そして会計を済まして(会計と言っても保険が下りて無料だ)古びて動きが鈍くなった自動ドアをくぐって療育園を後にした。

 外は抜けるような青空だった。三月の春風が孝一の頬を撫でた。

 一度大きく息を吸う。

 療育園を出ただけで、空気が軽くなった気がする。重苦しいだけだった空気が、今や味すらするように思える。

 今月も、どうにか乗り切った。

 途端に心の中はその思いでいっぱいになり、にわかに胸に安心が広がっていくのを感じながら、帰路へとついた。




 クラス替え直後の教室の空気は、どこか地に足がついていなくて息が浅くなる。まるで山の上みたいだと孝一は感じた。

 緊張と安堵が入り混じったため息が渦巻いている教室内では、再会を喜ぶ嬌声がやけに目立って、孝一は思わず自分の席で顔をしかめた。孝一は女子の甲高い声が苦手だった。そんな彼の背中を、バチンという衝撃が伝った。

「痛っ。誰だよ」

 思わず小さく声が洩れたが、誰の仕業かはよくわかっていた。こんなことを孝一にするのは一人しかいないのだ。

「征矢てめえ、それやめろっていつも言ってるだろ」

 文句を垂れつつも、嬉しそうにしている親友の顔を見るとそれ以上の言葉は出てきそうになかった。

「いいだろ。なんせ感動の再会だぜ」

「最後に会ったの二週間前とかだろ。大げさなんだよ」

「いや、もう二度と会えないかもと思って心配してたんだ。終業式が今生の別れになるかもと思ってな」

 いかにもまじめくさった顔でおかしなことを言うので、孝一はにわかに広がる笑みを抑えることが出来なかった。

「もしクラスが違ったって、二度と会えないわけじゃないだろ。来年同じクラスになることだってあるし、一緒に遊べないってわけでもないんだから」

 征矢は孝一の言葉を受けてにっこりと笑った。にかっ、と音が鳴りそうなぐらい明るい笑顔だった。

「クラスが違っても遊んでくれるって聞けて安心したよ」

 照れ隠しのようにけっ、と笑い飛ばしながら、つくづくこいつは変な男だ、と訝しんだ。

なんでもってこいつは、俺なんかと仲良くしているんだろう。

 征矢は去年、入学してすぐにできた友達だった。孝一とははっきり真逆の人間で、運動が誰よりも得意でなおかつ明るい男だった。更にはなかなか顔がよく、去年のバレンタインデーの日には一度にチョコを四つも五つももらうようなモテ男だった。だがどういう訳か、彼女を作ろうとはしなかった。あまりの鉄壁ぶりに、五つ年上の彼女がいるとかいう噂が、まことしやかにささやかれていた。むろんそんなのはデマだと、孝一は本人から聞いている。

 眉毛まで伸ばしたサラサラの黒髪は彼の清潔さを物語っていて、同じような髪型をした同級生たちとの背伸び感とは一線を画している。教員からの信頼は篤く、今日だって学級委員に選ばれたばかりだ。

 しかし征矢には妙に達観した、老成した部分があり、孝一とはうまがあった。

 彼の仲間たちが馬鹿話に話を咲かせている間に、彼はよく遠い目をした。宇宙の外側まで見透かしてしまうのではと思うほど透き通った目だ。

 いつかその瞳の正体を聞こうと思っているが、そういう目をする時の征矢にはある種独特の雰囲気があって、それはまるで美しいガラス細工のような神秘さを彼にもたらせていた。わざわざそれを破壊しようと気には、孝一はなかなかなれなかった。

 その時、二人のもとにやけにでかい声が響いた。声の主の想像はだいたいついていた。声の方を向くと、やはりそこには潔く頭を丸刈りにしたいかにも野球少年といった感じの少年がいた。去年も二人と同じクラスだった、野球部の宇佐美だ。宇佐美はくりくりとした大きな目を輝かせながら、二人に向かって叫んだ。

「早瀬も征矢も、今年もおんなじクラスだなあ! よろしくう!」

 大勢の男子生徒の中から興奮して叫ぶ宇佐美を、孝一は苦々しく見つめていた。

 そんなに大声出さなくたって聞こえてるよ。

 内心でそう毒づく。

 やっぱり苦手だ、と感じる。

 宇佐美が嫌なやつという訳ではない。むしろ根明で素直ないい奴だ。だがいい奴であるがゆえに配慮が足りず、周りの人間を傷つけることがたまにある。孝一は体育の時に宇佐美にぶつけられる視線が、半ばトラウマのようになっていることを思い出した。

 そんなことを考えている人間がいるなんて露ほども思ってもいない宇佐美は、なおも大声で、ほとんど怒鳴りつけるように征矢に呼びかけた。

「考えてみたけど、このクラス、体育祭は案外いいところまで行けるかもしれないぞ!」

 にこやかに微笑む征矢の隣で、体育祭、と聞いて孝一の心はズンと重くなった。体育祭は、この世で一番嫌いなイベントだった。

 そんな孝一をよそに、宇佐美はなおもバカでかい声で続けた。

「俺もいるし、征矢もいる。女子には佐々木さんだっているしな」

 佐々木さん、と言った宇佐美の声が妙に上ずっていた。だがもはや孝一はそんな些細なことは気にならなかった。下のほうに重りが付いたみたいに苦しくなった心臓の相手をするので手いっぱいだったのだ。

 まったくなんでこういう連中は、いつも自分が戦力として頭数に入っているイベントの話しかしないのだろう。

 その数に入らない、いわば「お荷物」の人間の苦悩を考えたことはないのだろうか。

 無数に出てくる不満の数々に、孝一は自分が情けなく思えてきてしまって、それがなんともいえぬほど悲しかった。

 宇佐美に悪気がないことなど、百も承知なのだ。それなのに文句を垂れることしかできない自分に嫌気が差す。

 これ以上ネガティヴになりたくなくて、孝一は意識的に話をそらす。

「佐々木って誰?」

 小声での耳打ちに、征矢はああ、と答えてぐるりと首を回した。そして四人で一つになった女子のグループを見つけると、あれだよ、とでも言うように顎で指した。明らかに周りの女子たちとは違った雰囲気を纏っている。自分に対する自信のようなものが強く見える。あいつらが今年の一軍か、なんてことを思った。積極的にかかわりたくはない、とも思った。元々、声の大きい女は苦手なのだ。征矢が口を開く。視線は孝一の方に向けたままで、まるで佐々木の方を見ないようにしているようなそぶりだった。

「あの左から二番目のやつ。あれが佐々木。可愛くて、そんでもって陸上部のエースらしい。でも、つい最近陸上部を辞めたんだってさ」

 さすが征矢は、顔が広いだけあって情報通だ。一年を共にした孝一が名前すら知らなかった女のことをよく知っている。

 孝一は佐々木に悟られないように、遠慮がちにその顔を盗み見た。なかなか悪趣味だと自分でも思うが、思春期の男なんてそんなもんだと、自分に言い聞かせれば罪悪感は薄れた。

 佐々木と呼ばれた少女は、征矢の言う通り、確かに整った顔をしていた。この年代の少女はどこかあどけなさが残りがちだが、彼女はまったくそうではなく、大人びた雰囲気を全身から醸し出していた。高校生、いや大学生と言われても違和感がないぐらいだ。長い天然のまつ毛に挟まれた瞳は満月のような光を放っていて、その下にある鼻と唇は調和のとれた主張の激しすぎない存在感をしていた。肩まで伸びた黒髪は艶やかな輝きを存分に放っている。今では死語だが、大和なでしこという言葉がぴったりと当てはまるような気がする。

 ついさっき、宇佐美の佐々木を呼ぶ声が上ずっていたのを思い出す。きっと佐々木に惚れているのだろう。

 いかにも青春じゃないか、と他人事のように心中で呟くと、孝一は目線を彼女からそらそうとした。だが、その瞬間、はっきりと目が合ってしまった。彼女は大声で話す周りの友人たちの会話から外れて、きゅっと口を結んで、真っ直ぐに孝一を見つめていた。

 心臓がドクン、と大きく跳ねた。すぐに目をそらそうとしたが、なぜだか彼女の目線を振り切ることが出来なかった。

 この間にも心臓の音はどんどんと大きくなっていく。まるでテレビドラマのワンシーンみたいに、音が外に洩れ出てしまうのではないかと思ったほどだ。

 別に恋とかではない。もっと本能的な、畏怖にも似た緊張だった。理由は分からない。だが、確かな怯えが、毛の薄い心臓を逆なでしている。

 彼女の目は、夜に見かけた猫のような、鋭い光を放っていた。まるで秘密を全て見透かしているとでも言いたげな、静かな眼光。

 気づけば、にわかに不安になっていた。そして、自分自身を納得させるように、言葉をいくつも並べる。

 彼女はなにか知っているのだろうか。いや、そんなはずはない。俺の秘密は、征矢にだって明かしていないんだ。それをなんで、つい数分前まで名前も知らなかった女が知っているというんだ。

 しかし落ち着くどころか、不安は増大していく。自分自身に追い詰められ、冷や汗が止まらなくなる。ワイシャツの下のタンクトップはぐっしょりと濡れていた。

 ピンチを救ったのは、新クラスの担任である黒川先生だった。先生がはっきりとした低い声で、孝一の名前を呼んだのだ。

「早瀬。ちょっといいか」

 声に反応することで、孝一はやっと目を彼女から外すことが出来た。ほっと胸をなでおろして、一息つく。そしてできるだけの感謝を込めて言う。

「はい」

 端的な答えに対して、先生は手招きをするジェスチャーをして孝一を廊下へと呼びだした。

 孝一はなるべく目立たないように、そっと教室から出た。新学年のこの時期に先生に個人的になんの話をされるのか、さすがにもうよくわかっていた。

 廊下で孝一を待っていた黒川先生は、なにやら資料を抱えていた。

 黒川先生はまだ三十代の前半という若い男の先生だった。担当科目は数学で、授業は分かりやすいと評判だ。それにルックスも悪くなく、女子生徒の間ではひそかに人気があるという話を聞いたことがある。

 黒川先生はくしゃくしゃに伸びた髪を掻きながら資料に目を落とし、慎重に口を開いた。いささか緊張しているようですらあった。それだけで、障害者の生徒を持つことに慣れていないと気づくことが出来た。

「早瀬は――あー、その、身体障害を持っているんだったな。それが一体どういうものなのか、今一度説明してくれるか?」

障害、と言った声はどこか上ずっていた。

 それを見て、またか、とため息を内心で吐く。

 勝手に気まずくならないでほしいものだ、と孝一は思う。

 自分が障害者だなんて話は別にしたくない。自分の弱点を嬉々として語りたがるような変人なんて世界中を探したってなかなかみつからないはずだ。現に今、必死になって障害者であることを隠して生活している。それでも必要があるから仕方なく打ち明けているのに、それで勝手に気まずくなられたって困るのだ。

 その時、ふいに角田先生の顔を思い出した。あの人であれば、気まずい思いなんかさせないはずだ。もちろん彼女は障害者を専門とする医者であるから、ただの教師である黒川先生と比べるのはお門違いだけれど。

 孝一の頭の中ではそんな言葉を繰り返し吐いていたが、口から出てきた言葉は驚くほど滑らかだった。きっと生まれてから今まで、同じ説明を何度も繰り返してきた成果だ。

「孔脳症と言って、生まれつき左脳の一部が欠損しています。脳は反対側の半身をつかさどっているから、僕の場合は右半身が不自由です。具体的に言うと、靴紐を結んだりするのが苦手です。あとは、左右で別々の動きをするのが難しいです」

 孝一の言葉を受けて、黒川先生は熱心にメモを取っていた。安心して胸を撫で下ろした。評判通り、悪い先生じゃなさそうだ。

 ひとしきりメモが終わってから、先生は顔を上げてこちらを向いた。そして、周りに誰もいないというのに、こそこそ話をするように声を小さくした。

「体育や家庭科の先生に、成績を配慮してもらうよう言っておいた方がいいか?」

 その言葉に、さっき消え去ったはずの胸の重みが再発した。毎年胸を悩ませる、ジレンマの登場だ。

 成績に配慮してもらえば、クラスメイト達は違和感に気づくだろう。本来は二や一をとってもおかしくない実技成績なのに、不思議なほど三に収まるのだから。そうやってクラスメイト達に白い目で見られるのは嫌だった。だが、成績が取れないのはもっと嫌だった。数字として「できない」ことをはっきりと通告されてしまえば、自分の身体に対して特大の嫌悪感が湧くことはすでに実証済みだった。

 孝一は数秒、考え込むように黙ったあと、口を開いた。発音はしっかりとしていたが、消え入るような声だった。

「……お願いします」

 黒川先生はしばらく孝一を眺めていたが、孝一は決して先生と目を合わせようとはしなかった。そして、やがて先生は言った。

「分かった。じゃあ先生方にそう伝えておく。もう教室に戻っていいぞ」

 孝一は軽く先生に会釈したあと、教室の喧騒へと戻っていた。

 みんな新しい級友と話すのに夢中で、孝一が教室から消えたことなど誰も気にしていなさそうだった。

 その中で、唯一征矢は訝しむように孝一を見ていた。

「なにを話してたんだよ?」

 すると孝一は征矢の目を見ることなく、さも本当にそうであったかのように、さりげなく嘘を吐いた。

 彼の人生の中で、間違いなく一番年季物の嘘だ。

「アレルギーの話だよ」




 四月も終わりかけて、クラスからよそよそしさが消え始めた頃、孝一は動物のえさの匂いのする療育園の中にあるリハビリ室で、小机を挟んで佐藤先生と向き合っていた。児童用の椅子は、小柄な佐藤先生はともかく、立派に背が伸びた孝一にはいささか小さいように思えた。

 佐藤先生は、孝一のリハビリを担当する療育園の職員だった。銀ぶちメガネをかけ、白髪まじりの髪を後ろで結えた初老の女性。体格はとても小柄だが、声は凛としており、有無を言わせぬ意思を感じる。彼女もまた、孝一が生まれてからの関係だから、孝一のリハビリを担当して今年で十四年になる。

「指先を使う訓練ですよ。左手は使わないように」

 優しく、諭すような言い方で佐藤先生は目の前に銀色のボードを置いた。

 ボードには飛び出た突起が等間隔でいくつもあり、突起はちょうどボタン穴分ぐらいの太さをしていた。

 そして佐藤先生は古臭い棚を開いて、赤色のボタンが大量に入った箱をボードの脇に置いた。ボタンの穴のサイズはボードの突起にぴったりだった。

 さすがにリハビリも十四年目だ。器具を見ただけで、どんな内容なのか孝一はすぐに分かった。だが同時に、気落ちせずにはいられなかった。

「またこれですか」

 その声色はまるで曇天のようにどんよりと重く、湿度を十分すぎるほど持っていた。

 しかし、答える佐藤先生の声は凛としていて、抜けるような青空を思わせた。

「孝一くんが苦手な訓練だからね。できるようになって貰わないと」

 その言い方に、気持ちがさらに曇っていくのを抑えらない。気分とは絵の具のようなもので、一度ぶちまけてしまえば二度と消えてくれない。消えない代わりに、上塗りするように思いが溢れる。

 できるようになってもらわないと、って別にできなくてもいいのに。

 こんなことしなきゃいけないくらいなら、一生できないままでいいのに。

「一応、やり方を説明しておこうか?」

 佐藤先生の言葉にはかぶりを振った。幾度となくやってきたリハビリだ。今さら説明など不要だった。

「オーケー、じゃあ始めよう」

 佐藤先生の言葉に呼応するように、孝一の右手が動き始めた。右手はたどたどしくボタンをつかみ、ボードの突起に穴を通そうとする。だが、不自由な右手は細かくボタンに触れることが出来ない。穴に通すつもりが、ボタンを持つ手が穴をふさいでしまって通せない。

 ああ、くそ。

 思わず唇を噛む。こり、と口の中で音が鳴る。

 なんでこんなことすらまともにできないんだ、俺は。

 左手が使えればなんてことないのに、と叫びそうになるのをなんとかこらえる。そんなことは言うだけ虚しいとよく知っている。

 そしてなんとかボタンの一つを突起に通すことが出来た。だがしかしそれで終わりではない。ボードの突起を全て埋め終えるまでこの作業は終わらないのだ。突起はおそらくまだ二十個以上ある。孝一は早くも投げ出したい気分に駆られて、佐藤先生の顔を見上げる。だが佐藤先生は目も合わせようとしてくれず、タイム計測用のストップウォッチをじろじろと見つめていた。

 どうやら助けてはくれなそうだと察して、黙って作業へと戻った。間違えて突起が指に刺さってしまい、鈍い痛みが走る。

「痛っ」

 情けない声が洩れて、孝一の気分はさらに沈んだ。上塗りを重ねすぎて、脳内を染め上げる絵の具はすでにどす黒く変色している。

 冷静に考えて、バカバカしい作業だ。無意義にもほどがある。

 この間にも同級生たちは有意義な時間を過ごしていると思うと、やるせない気持ちに駆られずにはいられなかった。

 ああ、こんなこと、いつまでやらなくちゃいけないんだろう。

 あと二年という月日が、永遠にも思えた。

 途方に暮れながら、孝一は黙々と作業を繰り返した。

 そうして十分弱も経ったというところで、ようやくすべての突起にボタンを刺し終えた。

 ふう、と一息ついて椅子に深く座りなおした孝一に、佐藤先生は声をかけた。

「まだ終わってないよ。ボタン、抜かなきゃいけないんだから」

 さも当然、と言わんばかりの佐藤先生を、思わず睨みつける。そしてささやかな抵抗として、胸の中で毒を吐く。

 この、鬼め。

 これがどれだけ辛い作業かなんてわからないくせに。

 そう吐いた途端、女々しいことを考えてしまう自分が恥ずかしくなった。そしてそれ以降はなにも言わずに、黙々とボタンを抜いた。




 ボード以外のものも含めてかれこれ一時間ほどリハビリをさせられ、孝一はぐったりと疲れていた。普段使わない右手は久しぶりの運動で悲鳴を上げ、半ば攣りそうになっていた。そんな状態で診察室に呼ばれ、おまけに中にいた角田先生はいつものようにニコニコしていたものだから、孝一の心は冬の親指みたいにささくれ立っていた。

「どう? 久しぶりのリハビリは」

「きついですね」

 今もっとも聞かれたくない質問をされたが、素直にそう答えた。角田先生には人を素直にさせる不思議な魅力があると、ずっと前から感じていた。

 孝一の言葉を聞いて、なおもにこやかなまま、角田先生は言葉を継いだ。

「その様子じゃ、家でリハビリしてないね」

 孝一はぎくりとした。家にもあの銀のボードとボタンはあったが、使用したのはこれまでの人生で一度だけだ。それも左手で、一分足らずで全て挿し終えたのをよく覚えている。他にも靴ひもを結べるようになるための器具なんかがあったが、どれももれなく箪笥の肥やしになっているはずだ。

「………」

 角田先生は答えない様子をイエスと取ったようだが、孝一を責めるようなことは言わなかった。その代わり、同情の言葉もかけず、次の話題へと移っていった。

 それがありがたかった。健常者である人に説教されても、同情されても、湧いてくる感情は虚しさと怒りだけだ。

「また、来月ね」

「はい。ありがとうございました」

 いくつか世間話をしたあとに(療育園は利用者が少ないゆえに、一人一人の対応時間に余裕があるのだ)二人はそんな会話をして、孝一は診察室を後にした。

 診察室を出て右に曲がって、孝一はいつも座っているソファを目で探した。

 するとその時、奇妙な人物の姿を見つけた。奇妙と言っても、身なりや振る舞いが奇妙なのではなく、この場所で見るのが奇妙という意味だ。

 彼女が誰なのか認識した瞬間、孝一の心臓は大声を上げ始めた。

 彼女は行儀よく座っていて、スマホをいじるとかそういうことはせず、ただ虚空を見つめていた。そして次の瞬間、目が合った。

 大きく美しい目が、鋭く孝一を見つめた。その瞳の、全てを看破するような底光りが孝一を捉えて離さない。

 孝一は息もできなくなっていた。ただ、頭の中でいくつもの言葉がぐるぐると回っていた。

 なんで、こいつが。

 こんなところにいるのはなぜだ。

 なにも問題を抱えているようには見えない。なのに。

 そんなことよりもなによりも、まさか、バレてしまうのか。

孝一の脳裏に、いつかの親友の視線がよぎる。ぶるり、と心臓ごと全身が震えたような気がした。

 だめだ。バレてしまえば一巻の終わりだ。バレてしまえばこれから、好奇と同情の視線に耐えなくてはならなくなる。

 でも、それにしても、なんで。

 疑問と恐怖が入り混じった息が洩れた時、足が勝手に動き出して、逃げるように走った。

 どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。悪手だと、冷静に考えればわかっていた。

 でもとにかくその場にいれなくなって、どうにか彼女にバレませんようにと願いながら走った。

 駐車場に飛び出て、右足を引きずるような不器用な走り方でなおも走った。療育園から姿が完全に見えなくなるまで走って、膝に手をついて息を整えた。

 四月とはいえ、最高気温は二十度を超えている。額についた汗を拭いながら、考える。

 あれはいったいなにだったんだ。

 他人の空似なんだろうか。というか、そうであってほしい。

 だがそうでないことを確信していた。

 ちょうど二週間前の、クラス替え直後の彼女の視線を思い出す

 全てを見透かしているとでも言いたげな、猫のような眼光。

 それがさっきの女ときっぱりと被った。やはりあいつなんだと冷静に確信すると、ふいに恐怖が襲ってきた。

 あいつがみんなにバラすのではないか。

 俺があんな場所にいたということを。

 俺が障害者だということを。

 クラスメイト達の憐れむ目を想像すると耐えられない。この場で発狂してしまいそうだった。

 だがしかし。

 今はまだそうなると決まったわけではない。

 ほとんど祈るように空を見つめていた。雲間の一つもない、もはや美しいほどの曇天。

 今はただ、あの一軍女子がおしゃべりじゃないことを祈るだけ。それ以外、なにもできないのだから。

 ただ、賭けるしかないのだ。

 佐々木が、おしゃべりでないという望みに。




 全く最悪だ。

 孝一は体操服に着替えながら、胸中で毒づいた。

 今日の体育は跳び箱の授業らしかった。数ある体育の種目の中で、最も嫌いと言っても過言ではない種目だ。それに、そのあとには裁縫の授業が控えている。極めつけには放課後は療育園に行かなくてはならない。この世で嫌いなものが三つも続くのだ。

 それになんだか、最近は学校の居心地が悪い。些細な視線や、自分とは全く関係のない笑い声にも反応してしまうようになっていた。

 原因は明白だった。

 あの日、療育園で佐々木に出くわしたからだ。

 もしかしたら、もうみんなに俺が障害者であることがバレているのではないか。

 そう考えたら気が気でなかった。

 みんな知っていて、陰で俺のことを馬鹿にしているんじゃないか。

 冷静に考えればそうでないことなど明白なのに、必要以上に怯えてしまっていた。

まったくバカらしいことだと孝一は我ながら思う。しかし、あの出来事をまったく無視できるほど、彼の心は強くない。

「おい、早くいこうぜ」

 征矢がそう呼びかけた。沈んだ心を悟られないようわざとらしく大声で答える。

「すぐ準備するっての! 待ってろって」

 これでいいんだ。

 明るく振る舞っておけば、怪しまれることもない。

 孝一は自分自身にそう言い聞かせて、靴紐が結ばれたままの靴を無理やり履いた。

 そして小走りで征矢に追いついて、二人は並んで歩いた。二人の教室から体育館までは、それなりに距離がある。

 孝一の着替えが遅くなったせいもあり、クラスメイトの集団は随分と先を歩いていた。征矢はつまらなさそうに鼻を鳴らす。

「跳び箱かー、やだよな、つまんないし」

「それな」

答えながら、孝一は心の中で言葉を吐く。

 まあ俺は、つまんないからじゃなくて跳べないからなんだけど。

 中学生にもなって、一段も跳び箱が跳べない人間などなかなかいない。

 そういう意味では、希少性が高いのかもな、俺。

 そんな皮肉を心中で飛ばしていると、征矢が言葉を投げてきた。

「孝一、去年なに段まで飛んだ?」

「あー、たしか六段だったかな」

 征矢の顔を見ずに嘘を吐いた。にわかに足取りが早くなる。

「六段かー、もうちょい頑張れよ」

 征矢の言葉に、うるせ、と小突く。

 小突きながら孝一は、我ながらいい塩梅だ、と密かに自画自賛した。むろん、六段という数字についてだ。

 孝一が他のみんなよりも運動ができないのは周知であるから、この手の嘘を吐く時には、いかに平均の下をうまく突くかが肝心なのだ。普段の飄々とした態度と、数字のすり合わせも大事である。

 それらを鑑みた結果出した数字が六段だ。実際、征矢は孝一の想定通りの反応をしてくれた。

 秘密を抱えて生きているからこういう嘘は自然に上手くなっていった。

 そのあと、取るに足らないような会話をいくつか挟んだあと、二人は体育館についた。まだ授業は始まっていなかったが、クラスメイト達は遊び半分で跳び箱を跳び、床に敷かれたマットレスに飛び込んで授業の開始を待っていた。

 孝一は征矢のものの隣にタオルと水筒を置き、壁に背中をつけてクラスメイト達の動きを観察する。背中がひんやりと冷たかった。

 するとその時ちょうどチャイムが鳴って、授業が始まった。

 前回から跳び箱の授業に入っているから、いちいち集合して挨拶をしたりはせず、みんなそのまま跳び箱を跳び続けていた。

 どん、と踏切台を踏む同級生たちの音が、他人事のように孝一の耳に届いていた。

 その時、体育の小堀先生が孝一を呼んだ。

「早瀬、ちょっといいか」

 呼ばれた用はだいたい見当がついていたから、孝一は小走りで先生のもとに駆け寄った。みんなに見られる前に、早く話を終わらせたかった。

 小堀先生は背が高く、肩幅も広い。いかにもスポーツマンといった体格だ。顔は丸く目が細く、坊主頭であったから生徒の間では、「地蔵」とか「大仏」なんてあだ名をつけられて呼ばれていた。

 まだ五月だというのに半袖で、ウェアの胸部分には赤文字の、走り書きのような文体で「JAPAN」と書かれていた。どうやら先生は高校時代バスケットの全日本選手であったらしく、授業の時はいつも自慢げに当時のジャージやウェアを着ていた。それが滑稽だと生徒に笑われていることを、きっと本人は知らない。

 小堀先生は大きな身体を孝一に寄せて囁いた。あまりの大きさに、孝一は半歩のけぞった。

「早瀬はこの授業に参加できるのか? もし無理なら見学でもいいんだぞ」

「大丈夫です。やります」

 孝一は早口で答えた。一刻も早く解放されないと、みんなに怪しまれてしまう。小堀先生は少し観察するように孝一を見た。威圧感のある視線に孝一は内心少し緊張したが、表情は穏やかなまま固めておく。小堀先生はやがてねぎらうように口を開いた。

「そうか。まあ、評価は上手くやっておくから安心してくれ」

 その言葉に、ありがとうございます、と告げながらも少しばかり胸が痛むのを感じずにはいられなかった。

 できないのをうまく誤魔化すために、この授業で跳び箱を跳ぶつもりはなかった。

 それなのに評価を甘くしてもらうだなんて、いくら障害を持っているからとはいえ、いいのだろうかという気持ちになる。

 だが、見学をするという選択肢はなかった。これを見学してしまえば、他の科目だって見学することになる。

 そうすれば、みんなから怪しまれる原因になる。

 変な視線を向けられる原因になる。

 それだけは避けたかった。

 クラスメイト達の中に戻ると、征矢は既に跳び箱を跳んでテストの練習をしていた。

 先生と話していたことを誰にも指摘されずにほっと一息吐きながら、先ほどと同じ位置に背中を預け、軽やかに跳び箱を跳ぶ同級生達を眺める。

 どうしたらあんな風に跳べるのだろうか。

 涼しい顔をして七段、八段と飛び越えていく同級生たちを見て、羨望よりも先に疑問が湧いてきた。

 自分と比較しようとしたが、悲しくなるだけだから辞めた。

 そもそも身体が不自由なのだ。健常者と比べたって仕方がない。

 そんな言い訳が湧いては消えてを繰り返して、心はどんどんと虚しさを帯びていく。

 すると跳び終えて近づいてきた征矢が、不思議そうに、しかし大して気にしていなさそうに声を上げた。

「孝一、跳ばねえの?」

「何回か跳んでるよ、お前がちょうど見てないだけ」

 流れるように嘘を吐いた。征矢は納得したようだった。

「タイミングが悪いってことね」

「そ。まあ苦手だから、上手いことサボってるよ」

「そーいうことね、大仏に目をつけられないようにしろよ」

「わかってるわかってる」

 俺はもうちょっと跳んでから休むわ、と言い残し、征矢はまた跳び箱に並ぶ列へと戻っていった。

 なにとか切り抜けられたことに安堵しながら、孝一は跳び箱へと目をやる。一人、また一人と身軽に、まるでバッタのように台形の壁を越えていく。

 随分と遠い景色のように感じる。すぐそばにいるはずなのに、一生届くことない光景に思えて仕方ない。

 見ているだけで、萎んでいく気持ちを抑えることはできなくなる。思いがこぼれだす。

 どうして人並みすら満足にできないのだろう。

 どうして障害者なんだろう。

 そう思わずにはいられなかった。

 ちょうど、征矢の番がやってきた。

 なんとなく、征矢に視線を送る。

 征矢はまるで体操選手のように勢いよく助走をつけて、踏切板を踏みつけた。ばん、と小気味よい音が体育館中に響く。

 そして跳び箱に手をつけたかつけていないかという瞬間、まっすぐになっていた征矢の身体が空中で一回転した。おお、というざわめきが広がる。地蔵先生ですら見惚れていた。

 まるで曲芸のような技のあと、勢いを殺して完璧に着地してみせた。

 次々に軽い歓声が湧いて、どこからともなく拍手が生まれた。

 征矢は照れくさそうに笑っていた。

 その様子を見ながら孝一は、もしも、と想像してしまう。

 もしも、俺の身体が五体満足だったら。

 障害なんか持たず、真っ当に生きていたら。

 ああやって拍手を受けることも出来たのかな。

 こんなところで傍観しているのではなく、征矢の隣で肩を叩けたのかな。

 いやしくもそんなことを考えてしまう。それが情けなくて仕方なくて、臓器が丸ごと一つ抜けたみたいに、体内に妙な空洞が生まれるのを感じる。

 いつの間にか、目の奥が熱くなっていた。

 ああ、虚しい。

 できないということが、こんなにも辛いだなんて。

 知っていたはずなのに、いつもいつも、毎回思い知る。

「できない」ことの理由がこれだけ圧倒的にあることが、自分の存在価値を惑わすということを。

 歪んだ視界で体育館の電子時計を見る。針が歪んで、どちらが長身かわからなくなりながらも、時間を読み取る。

 あと三十分。

 授業が終わるまでのその時間が、永遠のように感じられた。




 今日何度目だろう、最悪だと思ったのは。

 孝一はあまりのことにめまいすら感じていた。

 すっかり肩を落としている孝一とは対照的に、隣に座っている宇佐美は喜びを隠しきれないといった風に、唇をプルプルと震えさせていた。

 二人がそんな状態になっているのには共通の理由がある。

 佐々木だ。

 家庭科の授業で三人は同じ班になったのだ。

 横に長い白色の無機質なテーブルを挟んで正面に佐々木、右には宇佐美という、考えうる限り最悪の組み合わせだ。

 しかも授業内容は裁縫。最大級の苦手科目だ。

 地獄の状況に気落ちする孝一に構うことなく、宇佐美は佐々木に話しかけた。彼にとって裁縫など今はどうでも良いようで、机に置かれた裁縫セットを開こうともしない。

 声は嬉々としていて、授業中だということを忘れているのではというほど大きかった。

「俺、裁縫苦手なんだよなあ。佐々木さんはそういうの得意そうだけど」

 対して佐々木は、目を大きく開いてとんでもない、という顔をした。そして身振り手振りを交えながら抑揚のついた声で答えた。

「全然だよ! むしろ苦手。細かい作業とかほんとむり」

 まいった、とでも言うように眉を八の字にした佐々木を見て、孝一は思わず裁縫セットに掛けていた手を止め、声を出しそうになってしまった。

 本当にこれは佐々木なのか?

 あの静かな眼光を向ける人間と、目の前の彼女は同一人物なのか?

 本気で疑ってしまうほど、自らの知っている佐々木と、今目の前にいる表情豊かな女子はかけ離れていた。

 頭の中で、時々遠い目をする征矢と、目の前の少女の姿が重なった。

 征矢になにか秘密があるように、彼女にもなにか秘密があるんだろうか。

 療育園で彼女に会った時のことを思い出す。

 そういえば佐々木はなんであんなところにいたのだろうか。

 陸上部でエースを張っていたということだから、身体的に問題があるようにはとても思えない。

 なら、なんで。

 そう思った瞬間、孝一の目が彼女と合った。まるで示し合わせたみたいなタイミングに思わずどきりとするが、動揺する気持ちを表に出さないよう、まっすぐと見つめ返す。

 やはり、違う、と感じる。

他のクラスメイトに向ける視線とは全く違う、冷たい光がその瞳には宿っている。

 月光のような、温度の低い光。

 びくり、と震えたい気持ちをなんとか堪え、平気な顔をして針を持とうとした。

 だが、未だに佐々木から目が離せずにいた。佐々木もまた、孝一から目を離そうとしない。

 まただ。

 孝一はデジャヴを感じた。

 例の、すべてを見透かすような目が孝一を射抜く。心臓は凍ってしまいそうだった。

 ――私、全部知ってるよ。

 今にもそう言われてしまうのではないかと思うと気が気でなかった。

 その時、呑気な声が耳元に響いた。宇佐美だ。

「どうしたんだよ二人とも見つめ合って。なんかあった?」

 例のくりくりとした目が佐々木の方を向くと、佐々木はにっこりと笑った。それでようやく、孝一は解放された。孝一は生まれて初めて、宇佐美に感謝した。

「なんでもない。てか、早く裁縫進めないとだよ。居残りさせられちゃう」

 弾むように言ったあと、佐々木は自分の裁縫道具を開いて、針山に針を刺した。

 孝一もなにも言わずに同じようにした。だが、頭では違うことを考えていた。

 この授業をどう切り抜けるかだ。

 いつものように適当に喋りながら上手くサボることもできるが、佐々木の前でそれは危険な気がしてならなかった。

 じゃあ、やるしかないのか。

 途端に心に暗雲が立ち込めてくる。

 できないことをやることほど、孝一にとって嫌いなことはなかった。

 しかも、苦手なのではなく、「できない」のだ。

 それがどれだけ心を縛り付けるか。

 さっきの体育を思い出す。

 あんな惨めな気持ちになるのは、一日に一度で十分だ。

 動けないでいる孝一の視界に、坊主頭がひょっこりと顔を出した。大きな目が、訝しげにこちらを覗いている。

「なにしてんだ、早瀬。早くしないと居残りになるぞ。お前ただでさえ不器用なんだからさ」

 孝一は平気な顔をした。

「ちょっとぼうっとしてただけ。すぐ始めるよ」

 さっきとは打って変わって、宇佐美を恨む気持ちがふつふつと湧いてくるのを感じながら、糸を左手で持ち、針山に刺した針の穴に通した。そして通した先で、糸を左手のみで器用に玉結びした。

 左手一本で片付くことなら大抵のことはできるから、ここまでは問題ない。

 問題はここからなのだ。

 今日の授業内容は四つ穴ボタンを布に縫い付けるというものだった。

 一般的に言えば易しい難易度だが、孝一にしてみれば無理難題に等しい。

左手で針を持つとしたら、右手で布とボタンを押さえつけなくてはならない。それも、ボタンの穴をふさがないようにして。

 文字にしてみるだけでも、できる気がまったくしてこない。思わずため息が出そうになる。手を動かす代わりに、ふと、周りに視線をやる。

 前にいる佐々木は黙々と作業を始めていて、隣にいる宇佐美もぶつぶつと文句を言いながら手を動かしている。

 なんだかんだ、二人ともできているのだ。苦手だなんだと言っても、結局はできる。まったく不可能なのとは訳が違う。

 そう思うだけで、孝一の心はどんどんと暗くなっていく。

 やっているふりをしてもよいが、結局終わらずに居残りになって周囲の目を引くのも嫌だった。とはいえ、いっそ誰かにやってもらおう、という考えはまったく浮かばなかった。

 昔から人を頼るのが苦手だった。明確な弱みがあり、それを隠したいと強く願っているからか、「頼る」という行為をなるべく遠ざけていた。できないことがあっても、いつもふざけて誤魔化すか、目立たないようになるべく気配を消すかのどちらかだ。

 今も孝一は誰にも力を借りようとせずに、仕方なく手を動かし始めた。

 だが、やはりボタンを持つことが出来ない。ボタンは、不器用な右手には小さすぎた。ボタンは指から滑り落ちて、からから、と音を立てて家庭科室の床を転がった。幸い誰も気づいておらず、急いでそれを拾う。

 そしてなにもなかったかのように丸椅子に座りなおし、一つ息をついて、今度は落とさないようにと慎重にボタンを掴もうとする。しかし、またもやボタンは、まるで自由意志を持っているかのような動きで、指から抜け落ちた。

 しかもボタンはころころ転がって、孝一が作業している机の真下に入ってしまった。

 孝一は仕方なく席を立ち、しゃがみ込んだ。その時、宇佐美が顔をしかめた。そして非難する。

「さっきからなにやってんだよ早瀬。からからうるせえって」

 惨めだ。

 孝一は宇佐美の言葉を聞いて、ほぼ反射で、そう思った。

 無様にも机の下に手を伸ばしてボタンを拾って、それを同級生に咎められる。

 なんて惨めなんだろう。

 なにが悲しくてこんなことをしなくちゃいけないのだろう。俺は別に、なにも悪いことなんかしていないはずなのに。

 全部この右手のせいだ。この右半身のせいだ。

 その声が、大勢の虫みたいに心の中で湧き出る。声は、うるさい上に不快だった。

 無視の大群と格闘しながら、手を伸ばしてやっとボタンを掴み、ぬるりと起き上がって座った。

 宇佐美には軽く、「悪い悪い」と声をかけた。

 内心は穏やかでなかったが、努めて声を明るくした。

 横目でちらりと佐々木を見る。どうやらボタンの縫い付けに集中しているようで、こちらのことは一切気にかけていないようだった。それだけが唯一の救いだった。

 もう一度集中し直して、慎重にボタンを掴んだ。そしてようやく、穴をふさぐことなく持つことに成功した。

 よし。

 心中で呟きつつ、もう一度集中を高める。これはまだスタートラインに過ぎないのだ。

 慎重にボタンに糸を通そうとする。だが、糸の先が震えているせいで、なかなか通ってくれない。

 何度チャレンジしても、紐先が芋虫のようにぐにゃりと形を変えるだけだ。

 孝一はもともと気の長い方ではない。イライラして集中が切れかかったその時、右手からボタンが滑り落ちた。

 もはや暗澹たる思いだった。

 思わず声を出したくなるのを堪えながらもう一度ボタンを拾う。幸い机の上に落ちたから、目立つことなく拾えた。宇佐美は作業に集中し始めたようで、孝一を見ていなかった。

 安心したのも束の間、宇佐美の手元を見て絶望した。孝一がボタンを持つのに苦戦している間に、宇佐美は既にボタンを布に縫い付けるところまで行っていた。

 決して器用ではない宇佐美でさえそんなところまで進んでいるのに、俺はいったいなにをやってるんだ。

 そう思ってしまった瞬間、無気力が全身を支配してきた。

 やっていることが全部無意味に思えた。この場の誰よりも真面目に取り組んでいるのに、誰よりも上手くいかない。

 虚しくて虚しくて仕方がない。

 もういいかな。

 そう思うと、ボタンを手放し、針を手放した。

 すると途端に、心臓から重りが取り外されたような気がした。

 気持ちがふっと楽になる。視界がクリアになる。

 そうだ。

 できないことなんかやったってしょうがない。

 しかも俺の「できない」は、どうしようもないものなのだ。

 それをどうにかしようだなんて、とんだ時間のムダじゃないか。

 どれだけ言葉を並べても、虚しさは湧いてこなかった。

 今はただ、この無気力に浸っていたかった。

 ぼうっと周りを見渡してみる。

 クラスメイト達が夢中になってボタンを縫い付けているのがバカバカしく見える。

 微笑すら浮かんできそうになったその時、月のような目が孝一を捉えた。佐々木だ。

 思わずぎょっとしたが、顔には出さないようにした。代わりに、ほとんど睨むように、挑戦的な目を返した。

 だが、佐々木は反応しない。 

 ただ、まっすぐに孝一を見つめていた。

 手を止め、他になにもすることなく、いつもの目で孝一を見ていた。

 ――全部、わかってるから。

 そう言いたげな佐々木に、心の底まで見透かされた気持ちになった。不快だった。

 自分の卑しさまで見られた気になって、怒鳴りたくなる。だがすんでのところでそれを堪えて、代わりに心の中で佐々木に向かって言葉を吐いた。

 わかってるよ、全部。

 こんなの言い訳だって。

 ダサいことやってるって、わかってるよ。

 でもじゃあ、どうすれば良いって言うんだよ。

 届くはずのない言葉をいくつも並べると、またも虚しさが心にはびこり始める。

 なにやってんだろ、俺。

 そんな思いがよぎると、もう止まらなかった。まるで津波のように、苦しさは孝一を襲う。

 やがて苦しさは肥大し、飛躍し、まるで変態でもするかのように大きく形を変えた。

 そして、その形は結局、まるで決まりきった進化の結果みたいに、いつもの形へと姿を変えていた。

 全部、この不自由な身体が悪いんだ。

 その結論にたどり着くと、自身の障害を自覚してからこれまで、ずっと避けてきた言葉をついに心の内で溢した。

 それはさざ波のようにいくつも現れて、冷たく、辛く、心に触れていく。

 別に他になにもいらないから。

 特別な才能とか、容姿とか。

 そんなの全部いらないから。

 ただただ。

 普通に生まれたかったなぁ。

 その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったが、孝一の耳には届いていなかった。

 孝一はただ、すすり泣く心の声を聞いていた。




 はぁ。

 ため息が洩れ出るのを防ぐことはもはや、跳び箱を跳ぶよりも難しかった。リハビリ室の佐藤先生は一瞬こちらをちらりと見たが、すぐに視線を持っていたボードに戻した。

「またボタンですか」

 孝一の声は明らかに辟易していた。

 なんの罪もない赤色のボタンが、生涯の敵のように見える。

 きっと宮本武蔵は佐々木小次郎のことを、シャーロックホームズならばモリアーティ教授のことを、今のような目をして見つめていたのだろう、なんて大袈裟なことを思いすらした。

 ボタンを目にするのは今日二度目だ。あの悪夢のような家庭科の授業以来、実に三時間ぶりだ。

 嫌がる孝一をよそに、佐藤先生の声は相変わらず容赦なかった。 

「ええ。孝一くん、まだ苦手でしょ。できるようにならないと」

「無理なもんは無理でしょう」

 孝一は苛立ちから、反抗するように声を洩らしてた。

 この人に俺のなにがわかるっていうんだ。

 苦手なんてもんじゃない、不可能なんだから。

 心の声は素直だった。顔にそれが出ているのも自分でよく分かっていた。

 今度はちらりではなく、佐藤先生がまっすぐ孝一の目を見た。佐々木のそれとはまた違った鋭い視線が孝一を矢のように射抜いている。

 しかし眼光とは違って、佐藤先生の声は優しかった。

「無理じゃない。できないことはやらせない。この施設の方針よ。孝一くんならできると思ってやらせているの」

 励ましの言葉はなんの意味もなさなかった。むしろそれは孝一を卑屈にさせただけだった。

 自嘲するようにから、と笑う。

「じゃあ買いかぶりですよ。今日の授業だって、ボタンを持つことすらままならなかったんだから」

 それを聞くと佐藤先生はなるほど、という顔をした。そしておもむろにボードをしまい始めた。

「じゃあ他のリハビリにする?」

 孝一は頭を振った。そういうことじゃないのだ、と思う。

 今はただなにもせずにいたいのだ。

 こんなところ来なきゃ良かった。

 そう強く後悔したが、もう遅い。

 来たところで惨めになるだけだと分かっているのに、生来の真面目な性格がサボることを許さなかった。今になって自分を恨んだ。来なきゃ、あれ以上惨めになることなかったのに。

そんなことを思いながらも、口だけはきっぱりと動いた。

「いや、やります」

 ここでもまた、真面目な性格が災いした。

 心から帰ってしまいたかったのに、そうは言えなかった。

 孝一は中途半端な自分を心底恨んだ。だが、一度言った言葉は取り消せない。

「偉いね。じゃあ、やろっか」

 十四歳にもなって小学生にかけるみたいな言葉をかけられて、ますます自分が惨めになるのを感じる。途端に心スペースが狭くなっていく。

 だが、佐藤先生はそんなことに気づくはずもなく、一度しまいかけたボードをもう一度取り出して、孝一に差し出した。そして凛とした声で言う。

「さあ、始めて」

 暗澹たる気持ちをなんとか無視しながら、孝一は作業に集中しようとした。

 だが、何度やっても上手くいかない。

 何度やってみても、ボタンを上手く掴めなかった

 見ているだけでもイライラするに違いない。

 自分でそう思うほどの不出来さだった。

 結果的に、ぱち、とボタンが机に落ちる音を何度も聞かなくてはならなかった。いちいち落としたボタンを自ら拾わなくてはならないのは、屈辱でもあり苦痛だった。

 ようやくボタンを掴んだと思ったら、今度は突起に指が当たって入らない。

 鈍い痛みが指先に走る。もうほとんど泣きそうになっているのをなんとかこらえるように、目元に力を込める。

 佐藤先生がそれを目敏く観察している。それが心をさらに追い込んでくる。そして思う。

 こんな醜態、誰にも見せたくないのに。

 心は追い込まれていたが、手を止めようとは思えなかった。あくまで気にしていないふりをしていたかった。

 そしてようやく一つ、ボタンを穴に通すことに成功した。

 だが、次がなかなか続かない。結局、二十数個の穴全てにボタンを通し終えるまでにかなりの時間がかかってしまった。間違いなく、今までの全記録の中で最長の時間をかけたと自覚していた。穴がすべて赤色を帯びたのを目視すると、佐藤先生が言った。

「お疲れさま。今日はもう終わりでいいよ」

 まだボタンを抜く作業が終わっていないのに、佐藤先生はそう言った。

 気を遣ってくれたのだ、と察する。

 気を遣われる自分が情けなくて、なおさら泣きそうになった。だがなにより情けなかったのは、ほっとしている自分がいることだった。

せめて、「まだやります」とでもいえる気概があれば。

孝一は我ながら、そう思わずにはいられない。だが思うだけで、行動には移せそうにない。なんと情けないことか、とむしろ清々しくなる。

 あれもこれも全部、こんな身体のせいだ。

 またもや、そう思わずにはいられなかった。しかもそれは間違っていない、一端の真実なのだ。だって障害者でなければそもそもこんなリハビリをすることないのだから。その事実がまた、心を重くしていた。

 身体が無気力になっていくのがわかる。この場で寝転がってしまいたかった。冷たい、塗装のはがれた床に身体を預けてしまいたかった。

 だがなんとかその気持ちを押さえつけ、小さく礼を言ってからリハビリ室をあとにした。そしていつものソファに座って、角田先生からの呼び出しを待った。一刻も早く帰りたかったが、診察をすっぽかすわけにはいかなかった。

 願いが通じたのか、ほとんど待つことなく、孝一は診察室に呼ばれた。

 ソファから立ち上がり、角田先生の待つ二番診察室のドアを二回ノックした。

「はーい」

 角田先生はすぐに反応した。相変わらず、無邪気な少女みたいな声だった。

 古くなって錆びついたドアは滑りが悪く、力を入れなければ開かなかった。

 角田先生はいつものように、回すとぎしぎしと音がする回転式の椅子に座っていた。

 角田先生はニコニコと笑っていた。先生は肩まで伸びた自分の髪をくるくると触って遊んでいた。相変わらず仕草が若い人だった。

「どう? 最近は」

 先生の言葉に、感情を必死に押し殺して、「 特になにもないです」と答えた。だが、別に嘘を言ったわけではない。

 体育に、裁縫。

 誰もが送る、中学生の日常を過ごしているだけだから。

「そう」

 角田先生も特になにも気にしていないようで、いつもの微笑みを携えて小柄な身体をボロボロの椅子に預けていた。

 それがありがたかった。追及されていたら、心は今より悲惨な状態になっていたことだろう。

 その時、先生は孝一を値踏みするような目でじろりと見た。なぜそんなことをされているのかよくわからず、身体がそわそわとするのを抑えなくてはならなかった。

 そして先生は孝一から目を離さないまま、口を開いた。やけに優しい声色だった。

「孝一くんは健太くんと面識があるんだよね?」

「え? あー、はい」

 唐突に出てきた名前に、驚かないわけにはいかなかった。なんで急に健太くんなんだろう。

 脳裏に小柄な健太くんの姿が浮かぶ。つり目を細めて笑ういつもの姿だ。

 ますますわからなくなった。だって、角田先生から健太くんの名前が出たことなんて今まで一度もなかったことなのだ。

 角田先生の顔を覗く。だが、先生は満足そうに頷くだけで、なにも言ってくれない。

 気になって仕方なくて、早口になりそうなのを抑えつつ口を開いた。

「なんで健太くんなんですか? 健太くんから名前が出たんですか? それとも真里さんから?」

 すると先生はまるで海外映画のワンシーンみたいに、首をかしげて顎に手を当てた。

「鋭いね、孝一くん。でも正解か不正解かというと、まあ不正解かな」

 煮え切らない答えに多少苛立つ。どうせ言うのなら、早くはっきりと言ってほしい。

 先生はそれを察したのか、クスクスと笑った。

「まあイライラしないで。すぐに意味はわかるよ」

 そして、角田先生はぱん、ぱん、と手のひらを二度叩いた。乾いた室内の空気に音がよく響いた。

「さあ、入って」

 なにをしているのか、よくわからなかった。テレビ番組の真似事にしか思えなかったのだ。

 しかし疑問は口に出さず、黙って体をひねる。色あせたドアが視界に入る。

 ドアは徐々に開いた。この診察室のドアが錆びついて動きが鈍いことを知らないのか、ずいぶんゆっくりとドアは開いた。

 そしてドアの向こうに現れた人物を見て、孝一は思わず息を呑んだ。

 次に、現実を疑った。夢だと言われた方が、まだ納得いく。知っている人物とは別人だと言われれば、更に納得いく。

だが、どこからどう見ても、人違いではない。その確信があった。こんなに整った容姿を持つ人間が、二人も三人もいるはずがない。

艶やかに光る瞳、長いまつ毛。肩まで伸びた美しい黒髪は、死語になってしまった言葉に似合う。

 間違いない、あのクラスメイト、佐々木だ。

 すぐに心が衝撃のような、妙に納得してしまうような、矛盾した気持ちでいっぱいになった。その感情はないまぜになると、まるで気体みたいに、すぐに霧散した。

 現れた彼女はまったくと言っていいほど感情が見えなかった上に、その目は決して孝一を見ようとはしていなかった。

 対して孝一はというと、分かりやすく戸惑っていた。佐々木がなにを思っているのか知りたくて、その無表情の奥を覗こうとしたが、まさかじろじろと見るわけにもいかず、中途半端に視線が泳いでいた。

 そしてそれを、面白いものを見た、とでも言うように、笑みを瞳の奥に携えて角田先生が見ている。

 なにがなんだかわからない状況に、戸惑いが湧く。一応、夢だと疑ってみる。だが、誰にも見られないように軽く左足をつねってみても立派に痛む。どうやら夢ではなさそうだった。

 孝一と佐々木を見比べながら、角田先生は子どもに言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。

「孝一くんはこの子のことを知っているよね?」

 頷く。知っているもなにも、クラスメイトだ。しかし、この子、という呼び方は解せなかった。まさか診察室に入れるような間柄で、名前を知らないとは思えない。

「じゃあ、この子にお兄ちゃんがいるのは知ってる?」

 また、この子だ、と思いながら頭を振った。

そんなことまでは知らない。だってそもそもまともに話したことすらないんだから。

 するとその時、頭の中になにかつっかかるものを感じた。

 なんでこんな話になるんだ?

 少し考える。そして、佐々木が診察室に入ってくる前の角田先生の言葉を思い出す。

 ――孝一くんは健太くんと面識があるんだよね?

 なんで角田先生は、あんなことを聞いたんだろう。

 言われたその時も思ったことだったが、今改めてそう思った。

 するとその時、脳内にある考えが浮かんだ。天啓と言うほど大げさではないが、間違いなく、なにの前触れもなく、思考もなく、降って出てきた考えだった。

 そして一人、ああそういうことか、と納得する。

 なかなかに衝撃的な考えだったが、これ以上ないほど納得のいく考えだった。全く違うと思っていたパズルのピースが、思いがけずはまったみたいな感覚に陥る。

 これで全ての辻褄が合う。先生の言葉も、佐々木が前にもここにいた理由も。

 全部納得がいく。

 確信を持って言う。思いがけず、力強い声になる。

「健太くんが、佐々木のお兄ちゃんなんですね?」

 すると先生はにっこり笑った。その笑顔は真里さんが健太くんの成長を嬉しそうに語る時のものによく似ていた。

「その通り。さすがに鋭いね、孝一くん」

 褒められたが、別に嬉しくはなかった。喜ぶよりも先に、疑問で頭がいっぱいだった。

「でもなんで、佐々木がここに呼ばれたんですか?」

 佐々木をちらりと見る。その表情はどこまでも無だった。

 答えたのは角田先生だ。

「それにはプライベートな事情があるんだ。話してもいい?」

 問われた佐々木はなにも言わない。表情も変えない。ただ、あいまいに頷いた。あまりの反応の薄さに、学校で見かけるあの表情豊かな少女と同一人物だとはとても思えない、と孝一は思った。

 先生は一息置いてから口を開いた。

「今、健太くんとこの子のお母さんが病気で入院しててね。でも、お父さんは仕事をしないわけにもいかない。だから、健太くんの面倒をこの子が見なくちゃいけなくなっているんだ」

 孝一は驚いた。健太くんとのお母さんといえば、あの人のよい真里さんだ。真里さんが、病気なんて。

 心配になって、脳裏に真里さんの顔が浮かぶ。今思えば、佐々木の顔は真里さんにどこか似ていた。

「それでこの子は、生活が縛られるようになっちゃってね。それで私に相談してくれたんだ」

 そういえば征矢が、佐々木は陸上部のエースだったのに、部活を辞めたと言っていた。もしかして、これが原因なのだろうか。

 しかしそれにしても、話の方向がわからなかった。

 佐々木が健太くんの面倒を見るようになったことと、自分が関係しているとは思えない。もちろん、同情する境遇ではあるのだが。

 すると、角田先生は更に続けた。まるでお使いでも頼むような気楽さで、とんでもないことを口走った。

「そこでね。孝一くんに、健太くんの面倒を見るのを手伝って欲しいんだ」

 孝一は思わず耳を疑って、目を見開く。

 なんだって? 孝一くんが、手伝う?

 孝一の顔に、素直に戸惑いの色が浮かんだ。角田先生はそれを感じ取ったのか、間を開けず、しかしゆったりとした口調で言葉を継いだ。

「もちろん、私のアイディアだよ。孝一くんに必要なことだと思ったんだ」

 言われても、納得できなかった。そもそも、必要なことってなんなんだ。ダウン症の青年の面倒を見ることが、なぜ自分の人生に必要なのかまったくわからない。

 だが、反論する気にはならなかった。議論して、こんなところに長くいたくはなかった。つまるところ、早く帰りたいのだ。こんなところ、いても気持ちがふさぎ込む一方なんだから、なるべく長引かせたくなかった。

「やってくれるかい? 孝一くん」

 孝一は迷った。面倒臭いと言えば面倒臭い。そもそも、受ける義理も特にない。

 断ってしまおうかと思ったその時、悪魔のような考えが浮かんだ。

 健太を見ていれば、少しは劣等感が解消されるのではないか。

自分より重い障害を持った人を見ていれば、少しはこの暗い気持ちが晴れるのではないか。

 下劣な考えだった。でも、素晴らしい考えのように思えた。とにかく今は、解放されたかった。自分を締め付ける不自由から、解放されたくて仕方なかった。

 そして、気づくと言っていた。

「やります」

 角田先生は微笑んだ。佐々木はようやく表情を変えた。ほんの少しだけ、驚いたように目を開いたのだ。

「ありがとう、孝一くん。孝一くんにとっても、必ずプラスになることだと思うよ。いい決断だよ」

 褒められて、少し後ろめたい気持ちになったが、振り払った。

 良いことをするのだから、なんの問題もないはずだ。

 そう言い聞かせる。罪悪感は一瞬全身を包んだが、波のようにすぐに引いて薄れていった。

「じゃあ、あとは二人で話し合ってね」

 角田先生はそう言うと、時計をチラリと見た。そして続けた。

「ちょっと早いけど、もう診察は終わりにしようか。お疲れ、孝一くん。改めて、ありがとね」

 佐々木は角田先生に向かってありがとうございます、と小さく呟いていそいそと診察室をあとにした。孝一もまたそれに続いて、礼をして診察室から出た。

 孝一は診察室をあとにすると、いつものソファに腰掛けた。佐々木も隣に座った。

 まじかよ。

 孝一は心中で頭を抱えた。今まで一言だって話したことがないのだ。それがこんなところで二人きりだなんて、気まずくって仕方なかった。

 案の定、二人の間では沈黙が流れた。孝一はそれをなるべく気にしないように振る舞ったが、内心はそわそわしていて、とても落ち着くことはできなかった。

 沈黙を破ったのは佐々木だった。

「……内緒にしててくれる?」

 呟くように、独り言のように、孝一に言った。

 孝一はなんのことだかわからず、「え」なんて間抜けな返事をした。

「お兄ちゃんのこと、みんなに内緒にしてて欲しいの」

 佐々木が続けた。その目は虚空を見つめていて、決して孝一の方を見ようとしない。

 だが目を見ずとも、孝一は納得する。

「言ってないんだ、みんなに」

 思わず、口をついてそんな言葉が出た。

「言えないよ、なかなか」

 まだ、その目は宙を捉えている。

 落ち着き払った彼女の様子は、学校のそれとはまるで別人だった。裁縫の授業を思い出す。あの時の彼女は、もっと表情豊かで、「天真爛漫」と表現するのがぴったりだった。でも今目の前にいる彼女は全てが平坦で、出来の悪い人形みたいに無表情だった。

「学校で見るより、ずっと落ち着いてるんだね」

 思い切って聞いた。デリカシーのない奴だと思われたかもしれない。だが、別にそれでも良かった。もし嫌われたとして、手伝いの話が無くなるのならそれはそれでいい。

 だが、彼女はやはり表情を変えなかった。そして、まるでわかりきったことだというように、平坦な声のままで言った。

「まあ、友達もいない場所なのにぎゃあぎゃあ騒いだって意味ないしね」

 孝一はその答えに少しだけ面食らった。そしてつい本音を洩らした。

「ずいぶん、冷たいね」

 一瞬間が空いた。自らも意図せずに出た言葉だったから、怒らせたかと思って少し焦った。しかしどうやら違うようで、すぐに温度のない言葉が放たれた。

「早瀬くんもでしょ。私たち、同類なんだよ」

 孝一はさらに驚いた。同類、という大仰な言い方をされるなんて思わなかった。それに、早瀬くんもでしょ、と彼女は言い切った。それは孝一のことを、冷たい人間だと言ったようなものだ。自分でもある程度冷めている自覚はあったが、いざ人に言われるとやはり驚いてしまう。

 ついつい、孝一は気になって聞いた。

「どうして、そう思ったのさ」

 すると、佐々木は首をくるりと左に向けて、初めて孝一のことを見た。美しい瞳に見つめられて、思わず心臓が早鐘を打つのを抑えられなかった。

 そして、佐々木はこぶりな唇を開いて言った。

「ほら、似てる」

 なにを言っているのか、訳がわからなかった。 

 ただ、自分を見つめる瞳が微笑んだらしいということだけはわかった。

 その微笑みは見たことのないほど冷たくて、でも綺麗だった。まるで高級な硝子細工みたいだった。触れたくて、でも触れたら壊れてしまいそうなほど、儚くて、美しかった。

 しかし彼女自身は、自分の美しさにはまるで興味がなさそうだった。それよりも、眼前の男に向けた視線を離さずにいることの方がよっぽど重要だと思っていそうですらあった。彼女は滑らかに話し始める。

「普通に生きられたらどれだけ良いだろう。ただ平凡を望んでいるだけなのに、なんでできないんだろう。どれだけ頑張っても、なんで平均にすらなれないんだろう」

 厭世的な響きを持った言葉に、孝一は驚き、困惑した。

 なぜなら佐々木の言葉は、生まれてから今までずっと、孝一が思い続けてきた言葉だったのだ。ほんのついさっきですら、だ。

 そして、頭の中に思いが湧き出て来る。

 なんで、こいつが。 

 容姿も、能力も全部持っているこいつが。

 孝一は半ば恨むような、半ば困惑したような目を佐々木に向けたが、佐々木はそんなことすべてお見通しだとでも言うように、酷くつまらなさそうに言った。

「なんでこいつが、って思った? 答えは単純だよ。私も佐々木と同じ、変えられない重荷を背負っているから」

 暗い瞳が光った。その光が孝一を捕まえて離さない。

「佐々木は心が読めるのか?」

 彼女の瞳の独特な光に魅了された孝一の口からかろうじて出てきた言葉は愚にもつかないものだった。しかし、彼女は目を離さないし、その光も色を変えない。

「佐々木にもできるはずだよ。私の思考を読むぐらいならね」

 佐々木と私は同類だから、と確信めいた断定をする彼女の言葉は妙に真実味があって、孝一は彼女の考えを読み取ろうと必死にならざるを得なかった。そして、数秒の思考ののち、なんとか結論を導き出した。

「つまりこういうことか? 佐々木は普通を求めて生きていて、でもどれだけ努力したってその域には到達しない。そして、普通を求めていることを周りに隠すために、学校では明るく振る舞っているってことか?」

 彼女は頷いた。ひどく満足気な様子は、生徒が難問を解いた時の教師の姿によく似ていた。そして彼女は控えめながらも孝一を称えた。

「いい想像力だね」

 孝一は思考が当たったことを喜ぶでもなく、肩をすくめてみせた。

「ほとんど自己紹介だからね」 

 そして言葉を継ぐ。今聞いておくべきだ、と直感が嘯いていたのだ。

「じゃあ佐々木は、健太くんを重荷に思っているのか?」

 失礼な物言いだとどこか他人事のように思ったが、彼女は特段気を悪くするでもなく、虚空を見つめたまま答えた。

「うん。はっきり言ってしまえばね。なに? 説教でもしたくなった?」

 孝一は揺らぎを探ろうと佐々木を注意深く観察する。だが、動揺はどこにも見られなかった。

 もはや孝一は目の前の彼女を、学校で見る佐々木と同一人物とは捉えていなかった。あの明るい、天真爛漫な少女ではなく、別人の、複雑な問題を抱えた無表情の少女。

 その方がまだいくらか納得がいった。それほどの豹変ぶりだったのだ。

「いや別に、そんなつもりはないよ」

 そう答えたが、これは本心だった。孝一は良くも悪くも、障害を持つということの意味を正確に理解していた。彼の理解から言うと、ダウン症の兄が重荷になってしまうことなんて、当然のことだった。それどころか、長い目で人生を捉えた時、これ以上の重荷はなかなか見つからないだろうとすら思っていた。

 しかし、孝一にとっては当然の言葉でも、横に座る少女にとってはそうでなかったらしい。珍しく驚いたように孝一の方に目をやったあと、にこりともせずに言った。

「さすがだね。この話をして説教をしなかったのは、角田先生と佐々木だけだよ。角田先生が佐々木を指名したのにも納得だね」

 褒められたのかどうかわからなくて、多少困惑した。そしてついつい、要らないことを口走った。

「みんなはなんて言うの」

 彼女はまたも、気分を悪くしたわけでもなさそうに淡々と答える。

「家族を重荷に思うのは間違ってるとか、もっと家族を大事にしなさいとか、そんな感じ」

 その時、彼女は一つ大きくため息をついた。そして宙を覗きながら言葉を継いだ。

「そんなこと、わかってるのにね。わかってる上で、それでも重荷だって言ってるのに」

 初めて感情が籠った物言いをしたな、と孝一は思った。そして奇しくもそれは、孝一が常に思ってきたこととまるきり一緒だった。

 しょうがないことだとわかっている。

リハビリをしなくちゃいけないとわかっている。

 その上で嫌だと言っているのに、大人はいつも、無責任に「佐々木ならできる」なんて言うのだ。

 それと同じことを、佐々木は言っているのだ。

 ついさっき佐々木が言った、「同類」という言葉を思い出す。意外にも言い得て妙かもしれない。

 孝一がそんなことを思っていると、おもむろに佐々木が口を開いた。今までの言葉の中で一番ぶっきらぼうで、無遠慮な言い方だった。

「早瀬くんはなんの障害を持ってるの? お母さんから療育園でよく会うとは聞いてたけど、なんの障害を持っているのかは聞いてなくてさ」

 はっきりと聞かれて孝一は驚いた。だが、変に遠慮されるよりはっきりと聞かれた方が、気まずさはない。

 孝一は簡潔に答える。

「右半身麻痺」

 ああ、と佐々木は呟いて、なにやら納得したようだった。裁縫の授業を思い出したのだろうか。彼女はなおも質問を続けた。

「それ、友達には言ってるの?」

 頭を振った。

「言ってないよ」

「征矢にも?」

 ふいに出された名前に、孝一の身体がびくりと反応した。しかし、冷静に考えると特に驚くことでもなかった。征矢と孝一の仲がいいのはクラスメイトなら誰もが知っていることだし、佐々木が征矢のことを名前で呼ぶのも、男女の一軍同士という間柄を考えるとなにも不思議なことではない。

 一瞬でも動揺してしまったことが恥ずかしくて、孝一は敢えて淡々とした口調で答える。

「まあね」

「じゃあ、私だけか」

 佐々木はなんでもなさそうに、相変わらず無感情にそう言った。孝一はちらりと彼女のことを見たが、その視線は宙に浮いたままだった。

 私だけ、と佐々木に言われてからようやく、孝一は自らの不思議な状況を自覚した。

 お互いの一番の秘密を、今日初めて話したような同級生と共有しているのだ。

 孝一にしてみればあり得ないことだし、災難なことだ。面倒が一つ増えた上に、秘密まで明け渡さないといけないなんて。

 だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。この無表情な少女が、他人の秘密をペラペラと話すとは思えない。自分ならそんなことはしない。だとすれば、自分と同類だと臆面せずに言い放つ彼女だって、そんなことしないはずだ。

 どうせ一蓮托生だ、とも思う。お互い肚に一物抱えて、仮面を被って学校生活を送っているのだから、どちらかが秘密を話せば、共倒れなんだ。そう思うと、どこか開き直っている自分もいた。

 おかしな状況を自覚すると角田先生の猫のような目を思い出す。先生はあの目の奥で、いったいなにを考えていたのだろう。

「手伝ってくれる、でいいんだよね?」

 まとまりのない思考を巡らせていた孝一に向かって突然、念を押すように佐々木は言った。孝一は佐々木の方に視線を送った。佐々木の目線は壁のシミに注がれている。

「うん。まあ」

 わざと曖昧な答え方をした。もちろんやると言ったからにはやるのだが、かと言って全てを任せられたりしても困る。

 しかし、隣に座るクラスメイトはそれで十分だと思ったのだろう、力強く言った。

「じゃあ、決まりだね。同盟締結だ」

 孝一は無表情のくせに、案外大げさなことを言うんだな、と少しだけ意外に思った。

 そして、どうめい、と口の中で言葉を転がしてみる。ずいぶん大仰な響きだったが、これ以上ないほどストンと胸に落ちる言葉だった。

 お互いの秘密を守る同盟。なるほど、悪くない。

 孝一が一人得心していると、佐々木はおもむろにスマホを取り出して、孝一にそれを差し出した。

 孝一はなんのことだかわからず、スマホと佐々木を交互に見た。

 佐々木は無表情のまま簡潔に言った。

「連絡先。繋がないとなにもできないでしょ」

 ああ、とすぐに納得すると、左ポケットからスマホを取り出してメッセージアプリを開いた。

 そしてお互いのスマホをかざすと、孝一の画面に『佐々木』の文字とアイコンが浮かび上がった。

 苗字だけなんて珍しい奴だな、と思ったが、それよりもアイコンの方に目が行って、登録名のことはすぐに気にならなくなった。

 アイコンは可愛らしい、女子にありがちなものだった。それがどうしても目の前の無表情な少女と結び付かなかった。そして言う。

「佐々木って、もっと冷めたアイコンしてるかと思った」

「擬態してるんだよ。一般的な女子中学生に」

 佐々木はこともなげにそう言った。孝一はなるほどそうか、と妙に納得した。

「あと、私のことは佐々木って呼んで」

 佐々木は思い出したようにさらりと付け加えたが、孝一は眉をひそめて聞き返した。

「なんだって?」

 聞き返した孝一に対して、佐々木は子どもに勉強でも教えるような口調になる。

「だから、佐々木って呼んでって。苗字だとお兄ちゃんと被るでしょ」

「だったら別に、名前でいいじゃないか」

 孝一は思わずそう反駁する。「佐々木」だなんて、そうそう使わない二人称だ。小恥ずかしくてしょうがない。だったらまだ、名前の方がいくらか呼びやすい。

 すると、佐々木はわずかに目を曇らせた。

「私、嫌いなの。自分の名前。苗字でも名前でもない呼び方なら、佐々木でいいでしょ」

 さらりと言い放った上に、さも当然、といった態度だった。

 なんだそれ。

 孝一は心中でそう吐き捨てた。が、自分で聞いたからには本当にそう呼ぼう、と思うぐらいの誠実さも、孝一は持ち合わせていた。

 その時、受付が孝一の名前を呼んだ。きっと会計だ。

 立ち上がった孝一に、佐々木は言葉をかけた。

「どうする? お兄ちゃんに会っていく? もうすぐリハビリ終わると思うけど」

「いや、やめておくよ。どうせまた今度会うことになるんだろ?」

 佐々木は肩をすくめた。

「近いうちにね」

「じゃあその時を待つことにするよ」

「その時のことは、待ち望んでる?」

 不思議な問いだった。思わず振り向く。相変わらず人形のようにソファにたたずむ少女がそこにはいた。

 こいつの言葉を不思議だと感じたのは今日だけで何度目だろう、なんて思わず呆れながら、言葉を返した。

「なんて答えればいいんだ?」

 孝一の質問に佐々木は答えなかった。ただ、物珍しげにつぶやいただけだ。

「答えに困るぐらいなら無視すればいいのに」

「嫌だね」

「どうして?」

「負けた気がするんだよ。対話を放棄するのは」

 我ながら、頓珍漢な考えだと思った。佐々木もそう思ったのか、小さく首を傾げた。 

「それにしては、質問に答えてくれなかったけど」

 確かに、と孝一は思った。こう言われては、黙るほかなかった。

「今度は無視したね」

 いちいち、痛いところを突いてくる女だ。しょうがなく、孝一は答える。

「……今のところは、割と楽しみだよ」

「どうして?」

 なおも食い下がってきた。佐々木は感情をまったく見せないくせに、いっぱしの少女のように知りたがりだった。

 しかも、その問いは孝一を困らせるものだった。すぐには答えられずに、孝一は中途半端に口を開いただけの姿勢で固まった。

 孝一がなんて答えようか迷っていた時、受付がもう一度孝一の名前を呼んだ。

 助けられた。

 孝一は心中でそう呟きながら、胸を撫で下ろすような気持ちで受付に向かった。そして、相変わらず無料の会計を済ませ、ソファに座っている佐々木に軽く会釈して、壊れかけの自動ドアから外に出た。

 出てから、さっきの佐々木の言葉が脳裏に蘇る。

 ――どうして? 

 いつまでもその言葉が、胸の中で繰り返していた。




 あの療育園での同盟締結からちょうど一週間後、孝一はスマホを片手に、新しく舗装されたばかりの歩道をゆっくりと歩いていた。

 ナビを見ると、あとはずっと道なりに進むだけらしかった。

 孝一は歩きながらナビアプリを閉じて、連絡アプリを開く。

 そして一番上にある、『佐々木』の名前をタップした。スマホのディスプレイにトーク履歴が広がる。

 そこに表示された文字を見て、孝一は首を捻った。

 やはり、あの少女のことはよくわからない。

 戸惑いを心中に垂れ流しながら、佐々木からのメッセージを見つめる。

 今までなんの連絡もなく、まっさらだったトーク画面に、今日の放課後に突然メッセージが送られてきたのだ。内容はあまりにも簡潔だった。簡潔すぎて、どうすればよいのかわからなかったぐらいだ。

『へるぷみー』

 というメッセージのあとに、彼女の家の住所が打ち込まれていた。

 あれだけ無表情で、厭世的な雰囲気を纏う少女なのに(少なくとも孝一に対してはだが)送られてくるメッセージは現代的で可愛らしいのだから不思議だ。

 孝一はそのメッセージに対して、『了解』とだけ短く返して、すぐに出かける準備をした。そして家を出たのがつい十分ほど前の話だ。

 今孝一はナビアプリに打ち込まれた住所が間違いでないことを確かめると、スマホをポケットにしまい、足元を見ながら歩いた。

 しばらく歩いたあとに、孝一は自分が足元を見ながら歩いていることに気づいた。

 そして慌てて、視線を前に戻した。

 またやってたか。

 心中でそう溢したあと、湧いてきた軽い自己嫌悪を追い払うように、にわかに孝一の足は早くなった。

 足元を見て歩くのは彼の昔からの癖だった。そのせいでいつも彼の視界は悪く、何度も事故を起こしそうになったことがある。

 ある時、孝一は自分の悪癖がなぜ生まれたのかを考えたことがある。下を向いて歩くなんてメリットなど一つもないはずなのに、なぜ奇妙な癖がついてしまったのか、自分でも気になったからだった。

 答えは五分とかからずに出た。

 右足を引きずるように歩くため、なにもないところで引っかかることがその原因だった。

 それを阻止しようと、無意識のうちで足元を見て歩いていたのだ。

 それに気づいたその日から、孝一は前を向いて歩くことを意識するようになった。

 だが、長年染みついた癖というのはなかなか治らないもので、今でも孝一は、意識が弱まるとすぐに自分の足元を見てしまっていた。

 この日もそれが起き、孝一は自分を軽く恨んだ。

 まったく、ちゃんとしてくれよ、俺。

 自分を叱咤しながら歩くと、左ポケットの中のスマホが二度震えた。目的地に着いたという通知だ。

 孝一は自分の悪癖に気を取られたせいで、すっかり目的を失念してしまっていた。

 スマホの振動でようやく自分が佐々木の家に向かっていたことを思い出し、目の前にある一軒家へと目をやった。

 ポップな字体の表札に『佐々木』の文字が浮かんでいた。間違いない、健太と佐々木の家だ。

 孝一はもう一度家全体を見渡した。

 外観は白を基調としたこぢんまりとした家。コーティングされた木材のドアのすぐ横に花壇があり、植物の緑が壁の白によく映えている。

 孝一はその家に、海辺の様子を連想した。

 だがいつまでも家を眺めているわけにもいかず、孝一はインターフォンを押した。ぴんぽん、と心地良い音が響いた。

 二十秒ほど待って、ふいにドアががちゃり、と開いた。ドアから半身を乗り出した佐々木の顔が覗いている。その顔は相も変わらず不愛想で、つい二時間前の天真爛漫な少女の面影はどこにもなかった。まったく見事な変貌ぶりだと思わず感心した。

「入っていいよ」

 佐々木の言葉に従って、軽く会釈しながら玄関へと入る。

「お邪魔します」

 玄関に置かれた靴はサイズが小さめな白のスニーカーだけだった。おそらく佐々木のものだろうと孝一は思った。

 孝一は靴を揃えて上がると、案内されるままに洗面台に向かい、手を洗った。洗面台には憎たらしい顔のデブ猫のミニュチュアが置かれていて、そいつが孝一のことを睨みつけるような目で見ていた。もしかしてこの家の住人は猫好きなんだろうかと思ったが、他に猫にまつわるミニチュアなどは見た限りなかったから、もしかしたらただの偶然かもしれない。

 孝一は手を洗うと、またも案内されるままに歩いた。

 玄関の正面のドアを佐々木が開けると、そこはリビングだった。

 佐々木家のリビングには物が多かった。だがどれも暖色系で、整理整頓もされていたから、統一感があり暖かみのある印象を受けた。

 暖色系の家具たちは、感情をあまり見せない本来の佐々木には合わないような気がした。

「そのへん適当に座ってていいよ」

 自身は動き回りながら、佐々木は無機質な声でそう言った。

 孝一は困った。なにせ孝一には人の家に上がった経験がほとんどない。征矢の家にはよく行くが、あれは親友だからまた話が違う。

 そこまで仲が良いわけでもない女子の家での過ごし方など、孝一は知らなかった。というか、ほとんどの男子がそんなもの知らないのではないかと思った。改めて言葉にしてみればおかしいことなのだ。

 そもそもいったいなんだ、「そこまで仲が良いわけでもない女子の家での過ごし方」って。

 孝一は他人事のように思ったが、その場にずっと突っ立っているわけにもいかず、遠慮がちに向日葵色のソファに座った。ソファは柔らかくて、身体が吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどだった。

 そのあともなにをすれば良いかわからず、孝一はひたすらそわそわしていた。しばらく佐々木が動き回る音を聞いていると、居ても立ってもいられなくなって孝一は声を上げた。

「健太くんはどこにいるの?」

佐々木はああ、と呟いた。表情は相変わらずなかった。

「部活。もうすぐ帰ってくると思うよ」

 サラリと言い放たれた言葉に、孝一は驚愕した。

 部活?

 あの健太くんが?

「なに部なの?」

 思わず、問う声が上ずってしまった。

「野球部」

 孝一はさらに驚いて、ほとんど声が洩れかけたのをなんとか堪えた。

 野球?

 まさか運動部だと思っていなくて、孝一は後ろから頭をごつんと打たれたような衝撃に襲われた。

 孝一の脳裏に健太の姿が浮かぶ。背が低く、赤ん坊みたいな柔らかい腕をした青年。とても野球向きとは思えなかった。

 しかも、健太はダウン症なのだ。

 それが、スポーツなんて。

 孝一は驚きを隠せなかった。

 佐々木は目敏くそれに気づいたようだった。

「わかるよ、言いたいことは。私も同じこと思ってるから」

 同類だからね、とは言わなかったが、孝一にはそう言っているように見えた。

 それ以上佐々木はなにも言わなかった。しかし、孝一にはそれで十分だった。敢えて言わないということは、同じことを思っている証拠なんだと孝一にはわかっていた。

 するとその時、キッチンに立つ佐々木が孝一の方を見やった。

「孝一くん、なにか食べたいものある?」

 さらりと名前で呼ばれたことはあまり気にならなかった。それより、聞かれたことのほうが重要だったからだ。

 孝一は怪訝な顔で伺う。

「どういう意味?」

 すると佐々木は軽く眉をひそめた。今日初めて見る、表情の変化だった。

「佐々木は察しが悪いの? だからモテないんだろうね」

 孝一は心に大きな傷を負ったのを懸命に隠した。この時ばかりは佐々木に負けず劣らずのポーカーフェイスだったと、自分でも断言できる。あろうことか、クラスメイトの女子に、モテない、と断言されたのだ。傷つかないはずがない。

 しかしそんな素振りは微塵も見せずに、孝一は言った。心なしか声が震えているのには、孝一自身すら気づいていなかった。

「だから、どういう意味?」

佐々木は無表情を取り戻して、言う。

「決まってるでしょ、夜ご飯だよ、夜ご飯」

 その言葉を受けて、孝一はほとんど反射的に、とんでもない、とでも言うように首を大げさに振った。まさか夕飯をご馳走になろうだなんて考えてもみなかったのだ。そして断ろうとして言う。

「いいよ別に。そんなに遅くまでここに拘束されるわけじゃないんだろ?家で食べるよ」

 だが、佐々木は頑として認めない。

「だめ。それぐらいしないと気がすまない」

 孝一は少し意外だった。そして思ったことをそのまま口にした。なぜだか、佐々木相手だと、遠慮しようという気になかなかならない。

「そんなこと、気にするタイプだと思ってなかった」

 我ながら失礼な言葉だったと孝一は感じたが、佐々木は表情一つ変えない。

「私のこと、血も涙もないとでも思ってるの? 先週だって膝を擦りむいて血が出たし、ドラマで泣いたんだけど」

「それは意外だな。ドラマなんか見るんだ。なに見たの? 鬼平犯科帳とか?」

「そんなわけないでしょ。てかそもそもあれ、泣けるドラマなの?」

「知らないよ。見たことないもん」

「まあいいや、それで孝一くん、なにが食べたいの?」

「別になんでもいいよ」

「その答え、モテないよ」

「パスタで」

 取ってつけたような孝一の言葉に対して、了解、と言いながら、佐々木は慌ただしく冷蔵庫を漁った。そしていくつかの食材を冷蔵庫から取り出して、キッチンからひょっこりと顔を出して孝一に言葉を投げる。

「あんまり統一性のないパスタになるかもだけど、いい?」

「かまわないよ」

 またも、了解、と言うと、佐々木は料理道具をいくつも取り出して調理を始めた。

 どうやら料理には慣れているようで、ずいぶんてきぱきと動いている。

 それを見て、孝一はまたもやそわそわとし始めた。

 他人の家でくつろぐには案外胆力がいる。しかし、孝一はその胆力を持ち合わせていなかった。

 やがて、居ても立っても居られなくなり佐々木に向かって言葉を投げた。

「なにか手伝うことある?」

 佐々木はその頃パスタを茹で始めていた。パスタを横目で見ながら、なにやら包丁で食材を切っているのが動きからわかる。そして、動きを止めようとせずに答える。

「別になにもしなくていいよ」

 しかし孝一は譲ろうとしない。これ以上なにも手伝わないでいるのはむしろ苦痛だった。

「でも、見てるだけっていうのも忍びないだろ」

 孝一の言葉に、佐々木は、別にいいのに、と呟きながらなにやら考えるように目を泳がせた。そして、数秒ののち、「じゃあ話し相手になって」と言った。

 自分からやることをくれと言ったくせに、孝一は少し迷って言葉に詰まった。

「いいの? 話しかけて。料理に集中できなくなるんじゃない?」

 佐々木は事も無げに言葉を返す。その手は忙しなく動いている。

「大丈夫、私、むしろ話してた方が集中できるの」

 てか座りなよ、と佐々木に促されて、孝一はやっとさっき腰掛けていた向日葵色のソファに腰を落とした。

 それをちらりと見てから、佐々木は不愛想に言った。

「さあ、なんか話して」

 ずいぶんな無茶振りだと思いながら、孝一は話題を考えた。最初に頭に浮かんだのは、健太のことだった。

「健太くんって、支援学校に通ってるの?」

 佐々木は顔を上げずに答える。

「うん。特別支援学校の高等部。そこの野球部に入ってる」

 喋りながらでも料理ができるというのはどうやら本当のようで、とんとんとんとん、とまな板が叩かれる音が絶え間なく響いている。

「送迎付きの高校でさ。今日もバスで家まで送ってくれてる」

「へえ」

どう返せばよいかわからず、孝一はそれしか言えなかった。しかし佐々木はそんなこと気にしていないようで、無機質な声のまま続けた。

「お兄ちゃん、学校が楽しいっていつも言ってる」

 羨ましい。

 孝一は率直にそう思った。

 学校が楽しいなんて、孝一にしてみればなかなか思わないことだった。もちろん征矢と話したりするのは楽しいのだが、孝一にとって学校は、秘密が万が一にもバレないように細心の注意を払っている場所だ。決して居心地が良いとは言えなかった。その場所を楽しいと言えるのは、素直に羨ましかった。

 俺も、そういう学校に行っていたら、もっと楽しいのだろうか。

 意図せずそんなことを考えてしまうとなんだか気分が落ち込んできて、孝一は喋るのをやめた。

 すると、黙った孝一と入れ替わるように、佐々木はゆっくりと、噛み締めるように口を開いた。

「羨ましい、よね」

 放たれた言葉があまりにも意外で、孝一は思わず佐々木の表情を探ろうと座ったままキッチンを覗いた。だが、俯いてまな板に視線をやっているせいでその表情は窺えなかった。

「なにが?」

 孝一はわざとらしく聞いた。佐々木が答える。

「学校が楽しいなんて、羨ましいじゃん」

 とんとんとんとん。まるで心臓の音のように規則的にまな板が響く。意味ありげな佐々木の言葉に対して、孝一は尚も問いを重ねる。

「きみは楽しくないの? 学校」

 すると、佐々木は少し顔を上げて孝一を一瞥したあと、すぐにまた視線を落とした。そして無感情に言う。

「あれ、もしかして孝一くんは楽しいの? 同類だと思ってたんだけどな」

「そんなことない」

 孝一は反射的にそう言って否定した。思いがけず言葉に力がこもった。学校が楽しいなんて、そんなこと絶対ない。

佐々木は納得したような声になる。とんとんとんとん。

「やっぱり。そうだよね。学校なんて、楽しむふりで精一杯だもん。ほんとはそんなことしてないで私の生活について一人で悩んでいたいけど、陰気臭いやつだと思われたら嫌われる」

 本当に、その通り。

 孝一は激しく共感した。そして脳裏に「同類」という言葉がよぎる。彼女が使ったその表現は、あながち間違いではないのかもしれないと孝一は思った。

 佐々木は続ける。いつの間にか包丁の出番はなくなり、フライパンに油を引いているところだった。

「そうは思われたくない。学校で居場所は無くしたくない。だから明るく振る舞うけど、明るく振る舞えば振る舞うほど、心は孤独になっていく。要は、中途半端なんだよ、私たち」

 佐々木の口調は相変わらず淡々としていたが、言葉に嘘はないだろうと孝一は感じた。そして、その先の言葉は、孝一が佐々木の代わりに紡いだ。

「でも、それ以上に上手い生き方を、俺たちは知らない」

 それを聞いて、佐々木は軽く微笑んだ。氷のように冷たい微笑だった。生きている人間というより、絵画とか彫刻に近いと孝一は感じる。それほどまでに美しく、かつ凄みのある表情だった。そして佐々木は落ち着いた口調で、しかし芯のある言葉を放つ。

「やっぱり私たちは同類なんだよ」

 どうるい、と胸の中で呟きながら、孝一は力強く頷く。これほど他人に共感を覚えたことは今までなかった。この共感だけで、今日この場所に来た甲斐があったと孝一は心から思った。

「どうしようもない不自由を抱えた、どうしようもない人間たち」

 孝一はあくまで明るくそう言い放った。しかし間違いなく、真剣な本音だった。

 障害を持つことと、ダウン症の兄を持つこと。どちらも、誰が悪いわけでもない。どうしようもないことなのだ。誰も悪くないのだけれど、その不自由は確かな苦しみになる。

「まったく嫌になるね」

 佐々木は首をすくめた。本音なのか冗談なのかわからない、挨拶でもするような軽い喋り方だった。

 その時、ふいに家のドアが開いた音がした。孝一は玄関に目をやる。

 そこには小柄な青年が白い野球ユニフォーム姿で立っていた。靴も脱がずに、まるで置物のように、動かずに仁王立ちしている。その右足の膝のあたりは土で汚れて、薄茶色に染まっていた。

 佐々木は声だけを健太に寄越した。

「お兄ちゃん、そのままお風呂入って」

 健太は返事をしなかったが、すたすたと風呂場へと足を運んでいった。まるで、魔法をかけられて動くようになった人形みたいだった。

 次に、佐々木はちらりと顔を上げて孝一を見た。

「悪いけど、身体を拭くのとかを手伝ってあげてくれる? シャワーを浴びるのはお兄ちゃん一人でできるから。お兄ちゃん、どうも身体拭くのが苦手みたいで、いつもびしょびしょで出てくるの」

 子どもでしょ、と佐々木はさらりと付け加えたが、孝一はなんと反応すればよいのかわからなかった。

 だって、健太のそういうズボラさは子どもといえば子どもだし、仕方ないといえば仕方ないことなのだ。

 障害というものはそういうものだと孝一は理解している。

 孝一にしてみてもそうだった。

 できないといえばできないし、仕方ないといえば仕方ないのだ。

 障害者は、その狭間で揺れ動いてアイデンティティを見つけていくしかないのだ。

 まあ俺は、まだそんなの見つけられてないけど。

 心中で頼りない声を洩らしながら、孝一は佐々木の頼みを請け負って、浴室へと向かった。

 浴室に着くと、ちょうど健太が出てきたところだった。ずいぶん早いシャワーだな、と孝一は少し驚いたが、特に表情を変えるわけでもなく健太の全身を眺める。

 びしょびしょの状態で風呂から上がってきたからか、十八歳にしては小柄な身体から大いに水を滴らせ、床に水が撥ねてしまっている。

 健太は孝一の顔を見ると、一瞬目を開いて驚いたが、すぐに状況を受け入れたようで、分かりやすく目を細めて笑い、孝一を歓迎してくれた。きっと佐々木が事情を説明してくれていたのだろう、と孝一は思った。

 孝一はなにも言わずに健太にタオルを手渡した。こういう時、まずは自分でやらせたほうが良いということを孝一は知っていた。

 健太はのろのろとした手つきで身体を拭き出した。赤ん坊のような腕の動きは、太った蛇みたいにやたらと鈍い。

 孝一はそれを見ながら、ダウン症の人は動きが緩慢になりやすいという話を思い出した。筋肉の緊張が緩いから、動きも緩慢になりやすいという話だ。

 本当に野球なんかできるのだろうか。

 孝一は遅行とした健太の動作を見ながら、半ば疑っていた。軽度の障害である自分ですらスポーツなんかもってのほかなのに、ダウン症を持つ人が野球なんて、なかなか想像しづらかった。というか、想像できなかった。

 健太はしばらくタオルで身体中を拭いていたが、自分が満足すると、タオルを投げてそそくさと服を着ようとし始めた。しかし、身体のあちこちがちまちまきらめいている。

 孝一は慌てて、マットの上からいなくなろうとする健太を止めた。そして優しく、諭すように言う。

「健太くん、俺がもうちょっとちゃんと拭くから、ちょっとだけ待って」

 健太は相変わらずなにも言わなかったが、言葉の意味は理解できたようで、バスマットの上で止まった。

「ありがとう」

 孝一はタオルを手に取って健太に後ろを向くように言った。健太はそれに従った。健太の背中はほとんど水が拭かれておらず、きらきらと光っていた。

 やっぱり。

 小さな頃の自分を思い出してそんなことを思いながら、孝一は小柄な背中にタオルを当てていた。

 健太は小柄と言っても、ダウン症の人の中ではとても大柄な部類だ。確か成長ホルモンの影響とかなにとかで、ダウン症の人は小柄になりやすいということだったが、健太はどうやらその中では体格に恵まれた方らしい。

 もし健常者だったら、もっと身長が大きくて、野球でももっと活躍できたんじゃないか。

 普通の高校で、本気で野球ができたんじゃないか。

 他人のことだと言うのに、孝一は夢想せずにはいられなかった。 

 自分が障害者だから、その不条理はよく理解していた。辛さも理解していた。きっと健太は、想像を絶する不平等と戦っているに違いない。

 途端に物悲しい気持ちに陥ったが、健太はそんなことはまったく気にしていないという様子で孝一に笑いかけた。邪気を払った曇り一つない笑顔は、孝一には眩しすぎた。

「ありがお」

 不明瞭な発音だったが、健太は確かに「ありがとう」と、そう言った。

 思わぬことに、孝一は面食らった。健太に喋りかけられるなど、なに年もずっとなかった出来事だったのだ。

「どういたしまして」

 こちらは明瞭な発音で返した。言いつつも健太をパジャマに着替えさせているところだった。

 なかなかじっとしてくれない健太の着替えを手伝うのはなかなか難しかったが、なんとかパジャマを着させて、次にドライヤーを手伝った。短く刈られたソフトモヒカンの健太の髪はすぐに乾いた。

 だがそれだけでも孝一はどっと疲れた。全身の感覚が薄くなる。体の輪郭が緩やかになって、重くドロドロとした塊になってしまいそうなのをなんとか堪えている。足がだるくて重い。

 なるほど、と孝一は思う。

 佐々木が助けを求めたくなる理由がよくわかる。それに佐々木はこれに加えて、料理、洗濯、掃除など、家事もしなくてはならないのだ。中学生の女子が一人で背負う荷物としては重すぎると孝一は思った。

 それに、ダウン症のきょうだい児であるということは、この苦労が半永久的に続くということだ。もちろん親が健在であれば面倒を見てくれるだろうが、今の佐々木のように親が入院していたりすると、ダウン症の人の世話はきょうだい児がみなくてはならない。もし年を経て、親が認知症になりでもしたら、その苦労は二倍、三倍になる。

 冗談じゃない。

 他人事なのに、あまりの悍ましさに孝一はそう心中で吐き捨てた。暗い将来の展望を覗いた気がして、身体の芯が震えた。

 とても耐えられるものではない。自分の人生などどこにもないのではないか。

 孝一は佐々木の、表情筋がないのではと錯覚してしまうような無表情を思い出す。

 自分の将来を呪っての、あの無表情なのだろうか。

 それを思うと少しだけ心が重くなったが、それ以上に嬉しかった。嬉しく思ってしまう後ろめたさすら、今は少しだけ心地よい。

 同類なんだ。俺たちは。

 孝一は今一度、そう確信した。

 孝一が健太を連れて二人でリビングに戻ると、佐々木はちょうど白い皿にパスタを盛りつけていた。

 二人が戻ってきたのを見て、佐々木は孝一に軽い会釈をした。

「おかえり。ありがと、孝一くん」

 控えめな声には、珍しく実感がこもっていた。

 孝一も会釈だけを返し、佐々木に促されるまま席についた。キッチンのすぐ前にある四角のテーブルを三人は囲んでいる。左の椅子に孝一が、その隣の椅子に健太が座った。佐々木はテーブルを挟んで孝一と向かい合うように座っている。

 統一性がない具になるという佐々木の言葉通り、パスタは和風なのか洋風なのかいまいち分からなかった。要素の多寡でそれが決まるのだとしたら和風なのだろうな、なんてことを孝一は思った。

「いただきます」

 三人で同時に手を合わせると、まるで家族でご飯を食べているような感覚を覚える。その感覚に孝一は、ホテルで目覚めた時の、見慣れない天井を見た時みたいな違和感を覚えた。

 一口水を含んで喉を潤わせてから、孝一は左手でフォークを持った。

「行儀とかそんなの気にしなくていいよ。私も大概だし」

 美佑の言葉が、孝一にはありがたかった。

 右手が不自由な孝一は、どうしてもご飯の食べ方が汚くなる。孝一自身もそれを気にしていて、孝一は他人とご飯を食べる時は、なるべく綺麗に食べるように心がけている。

 だがやはり、できないことを努力するというのはストレスだ。できるだけ気を遣わずにご飯を食べたいというのが孝一の本音だった。

 それを許されたのだから、孝一はずいぶんほっとした。

「ありがとう。助かるよ」

 孝一はそう感謝した。だが、佐々木はどういたしましてとは言わず、やけに挑戦的な口調になった。

「案外気の遣える奴なんだなって思ったでしょ」

 孝一はそれに応えなかった。図星だったのだ。

 あれほど不愛想なのに、そんなふうに気を遣うとは思っていなかった。

「昔からそういう機会が多かったから、意外と気遣うの得意なんだよ、私」

 なんでもなさそうな口ぶりだったが、それがいいことなのか悪いことなのか、孝一には見当がつかなかった。

 だがそれ以上考えるのも無粋な気がして、孝一は食事に集中することにした。

 左手で器用にフォークを扱い、くるくるとパスタ麺を絡ませた。銀色のフォークに金色の麺が絡む様子は、いつも孝一に不思議な感動をもたらせてくる。孝一がパスタを好きな理由が色のコントラストにも表れていた。

 口に運んで一口に呑み込む。醤油の効いた麺が細かくちぎられた海苔と共に口の中に広がった。シャキシャキとした春キャベツの甘さが麺のしょっぱさと上手く絡んで、孝一の舌を刺激する。

「うまっ」

 孝一は目を開いてそうこぼしていた。正面に座った佐々木は乏しい表情筋を少しだけ緩めた。

「そう。なら良かった」

「佐々木って料理上手だったんだ」

「お褒めにあずかるとは光栄ですな」

 佐々木は照れ隠しのつもりか、そうやって冗談めかした。健太は一言も発さずに夢中になってパスタを食らっていた。きっと部活で腹をすかしていたのだろう。

 孝一の左手も健太と同じように止まることを知らず、いつの間にか孝一の皿は半分以上が空になっていた。元々好物ということもあり、あっという間に量が減っていた。

 その時、かちゃり、と音がしておもむろに健太くんが立ち上がった。どうやら完食したらしかった。立ち上がった健太を佐々木は見上げた。

「お兄ちゃん、お皿運んでちょうだい。できる?」

 健太は離れた目で佐々木を見つめながら無言でうなずいた。

 そしてあぶなっかしい手つきで皿を掴んで、洗い場へと運んでいった。

「ありがと」

 その様子を目で追いながら佐々木はそう言った。健太に対してだと、心なしか佐々木の口調は温かみがあるものになる。

 だが健太はなにも言わず、佐々木に背を向けて洗面所に向かった。孝一は小声で問う。

「健太くん、なにしに行ったの?」

「歯を磨きに言ったんだと思う。お兄ちゃん、こだわりが強くて、ご飯の後はすぐに歯磨きしないと気が済まないの」

 孝一は驚いた。

「寝るって言ったって、まだ七時半だぜ」

佐々木はパスタを食べる手を緩めず答える。

「やることがないし、部活で疲れてるんだと思う。お兄ちゃん、いつも寝るの早いの。その分起きるのも早くて、そのせいで私も早起きしなきゃいけない」

 佐々木は苦労を滲ませる言葉を放ったが、表情は相変わらず無かった。それが逆に歪に思えて、孝一は佐々木のことを直視できなかった。

 孝一は佐々木の顔を見れないのを誤魔化すようにパスタを食べていく。皿はもうほとんど空になっていた。

 沈黙が二人の間に訪れる。かちゃり、かちゃりと響くフォークの音が、時を刻むみたいに規則的に鳴っていた。

「ごめんね」

 しばらく経ってから囁くように、消えるような声で佐々木はそう溢した。

 急すぎて孝一は意味を理解できず、自分の耳を疑った。

 だが間違いなく、それは謝罪の言葉だった。無表情で無感情な彼女に最も似合わないと言っても過言ではない言葉。

「なにが?」

 孝一は動揺を隠すように、パスタを食べながらそう言った。金属音は未だ、二人の間に流れている。

「お兄ちゃんの世話のこと。こんな面倒なこと、手伝わせてごめんね」

 佐々木は、今度ははっきりとした声で言った。兄の世話を面倒とも、ごめんねとも言った。

「気にしないでいいよ」

 孝一は佐々木に気を遣わせないためにできるだけ軽い調子で言った。

「困った時はお互い様だよ」

 すると、佐々木は顔を上げて孝一の方を見た。佐々木の瞳は黒なのに、どこか色が薄い。

「お互い様じゃないでしょ。私は孝一くんが困った時に助けられないんだから」

 いかにも真面目腐った言い方で放たれた言葉に、よくわかってるな、と孝一は感心した。

 孝一が困る時はいつも内在するもののせいであって、他人がどうこうできるようなものではない。誰かが解決できるものだとするなら、孝一はとっくに膝をついてその「誰か」にお願いしている。

「そんなことないよ」

 孝一は嘘をついた。佐々木に必要以上に恩義を感じてほしくなかった。そもそも手伝う動機は不純なものだから、感謝される筋合いは特にないと考えていた。

 だが、佐々木は引かない。どうやら、心から負い目に思っているようだった。真面目な人だ、と孝一は思う。

「申し訳ないことをしてるっていう自覚はある。でも、他に頼れなかった。両親に頼めば誰かを雇ってくれるのかもしれないけど、できなかった。二人を傷つけることになっちゃうから。言い訳がましいけど、ほんとなの」

 絞り出すように言った佐々木の言葉が、孝一には痛いほど理解できた。ここでも孝一の脳内に、「同類」の二文字がよぎった。

 兄の世話が負担だなんて、どうして親に言えるだろうか。

 その言葉は親を、兄を傷つけることになってしまうのに。

 孝一にしたって同じことだった。障害を持つことが辛いだなんて、親に言えるはずがない。

 その言葉は親を深く傷つけることになってしまうからだ。

 そんなことはしたくなかった。だって障害を持って生まれることも、兄がダウン症であることも、誰かが悪いからそうなっているわけではない。ただ偶然の結果なのだ。

 それなのに、特定の「誰か」を責められるわけがない。

 誰も責めることができない辛さを、孝一はよく理解していた。

 いっそ誰かのせいだったら。

 いつもそんなことを夢想する。

 その誰かを責めることで、いくらか楽になれるはずなのに。

 佐々木にしたって同じはずだ、と孝一は理解している。

兄の世話を負担に感じることに負い目を感じているのは、誰も悪くないからだ。特定の誰かのせいで、佐々木は負担を背負っているわけではない。健太のせいと言ってしまうこともできるが、健太だって好きでダウン症になっているわけではない。彼だって、できることなら健常者として生きたかったはずだ。それに、一番辛いのは健太自身だいうことも、佐々木はよく理解している。だからこそ佐々木は、自分を責めてしまっているのだ。

「気にしないでいい。俺、健太くんのこと好きだし」

 自分を責めてほしくなくて、孝一はそう言った。自分を見ているようで辛かった。同類だから、助けたかった。

 すると、佐々木は無表情を少しだけ緩めて、目尻を下げた。学校でいつもしているような、穏やかな表情に、ほんの一瞬だがなる。

「良かった。お兄ちゃん、いい人だもんね」

 なんだか寂しい響きを含んだ言葉だった。諦めが入ったようなため息交じりの口調に、孝一はなにも言えなかった。

 その時、洗面所から健太くんが戻ってきた。そして、二つのつり目をきょろきょろと動かすと、佐々木の方を見て、口を開いた。

「だいじょぶ?」

 明らかに、心配を含んだ声音だった。

 まさか、妹が悲しんでいるのを察したのか?

 孝一は半ば信じられないような思いだった。その場にいたわけでもないのに、一目見ただけで、ほとんど表情のない佐々木の状態を察することが出来るなんて。

 健常者はおろか、たいていの人ができない芸当のはずだ。

 だが、驚いている孝一とは対照に、佐々木はとても冷静だった。健太に向き合って、明るい表情になった。

「ううん、なんでもないよ。心配してくれてありがと」

 健太はしばらくなにも言わず、なにか考えるように宙を見ていたが、やがてのろのろとした歩きで階段を上っていった。

 その背中に、佐々木が声を投げた。

「おやすみ、お兄ちゃん」

 孝一もそれに倣う。

「おやすみ、健太くん」

 二人の声が重なると、健太は階段で立ち止まってこちらを見た。

 そして、驚くほどはっきりとした発音で言った。

「おやすみ」

 そのあとすぐに健太の姿が二階へと消えると、佐々木が自らの皿を持って立ち上がった。そしてまた無表情に戻った。

「ね、優しいでしょ」

 冗談めいた口調だったが、孝一は皮肉が込められていると感じずにはいられなかった。




 昨日と同じように、孝一は白い家のインターフォンを鳴らした。

 またもや、佐々木に呼び出されていたのだ。

 今日は休日だったが、なんの予定もなかった孝一は二つ返事で呼び出しに応じた。どうせ家にいても、部活に入っていない孝一は昼まで惰眠を貪る以外にやることがないのだ。

 インターフォンを鳴らすとすぐに佐々木は出てきた。

 その恰好は昨日よりもしっかりしていた。おしゃれに疎い孝一にはよくわからなかったが、たぶん流行りの服装なんだろうと思う。街中でよく見るファッションだったからそう思っただけだが。

佐々木は淀みなく言う。

「ちょうどいいところに来たね。助かった。私、これから買い出し行ってくるから、帰ってくるまでお兄ちゃんの面倒見ててくれない? 一人にするわけにもいかないからさ」

 孝一は黙って頷いた。

「ありがとう」

 そう短く残すと、佐々木は歩き出した。

 それと入れ替わるように、孝一は家へと足を踏み入れた。

「お邪魔します」

 そう呟いてスニーカーを脱ぐ。そして洗面所で手を洗った。洗面所では、またもや憎たらしい顔をしたデブ猫のミニチュアが孝一を歓迎していた。

 孝一は手を洗い終えてリビングに向かうと、真っ先に健太の姿を捉えた。

 健太は新しそうな、シワひとつない半袖の白いTシャツに袖を通していた。

 向日葵色のソファに座っている健太の座り方はだらしなく見えたが、筋肉の緊張が緩い彼の身体にとって、それがごく自然な座り方であるのだと孝一にはわかった。

 それを見ながら孝一は、不思議な状況だ、と思う。

 付き合っているわけでもない同級生の女子の家で寛いでいるなんて、おかしすぎる状況だ。しかも、ダウン症の青年と時間を共にしているのなんて。

 まるで現代アートで表現でもされているような気分だった。それでなにを表現したいのかはいまいち分からないが。

 まあ現代アートなんてそんなものなんだろう。

 美術の造詣などゼロの孝一はそんなことを呑気に思っていた。

 対して健太はというと、熱心にテレビを見ていた。面白い番組がやっているとは思えない時間帯だったが、健太の様子は日曜朝のヒーロー番組に熱中する子どもみたいだった。

 なにがそんなに面白いのかと気になって、孝一はソファの後ろに立ってテレビを覗いた。番組は民放のニュース番組で、内容は前日のプロ野球の勝敗についてだった。

「健太くん、よっぽど野球が好きなんだね」

 孝一は試しに、そう言ってみた。すると、健太は振り返って、意思の読めない目で孝一を見た。そして、なにか逡巡したあと、ソファの自分の横の部分を手のひらでパンパン、と二度軽く叩いた。

 隣に座れ、という意味だと孝一は受け取った。

 孝一は素直に健太の隣に腰掛けた。必然、二人で並んでテレビを見る。孝一は野球に詳しいわけじゃないから、ニュースの内容はあまりわからなかったが、とにかく、地元球団が勝ったらしいということはわかった。

「勝った。勝った」

 健太は短く二度同じ言葉を繰り返した。まるで昭和の無口な親父のような口調だったが、口ぶりから満足気な響きがよく伝わってきた。

「健太くん、この球団のファンなの?」

 試しに聞いてみると、健太はにこりと照れ隠しのように笑って頷いた。さっきとは百八十度変わって、無邪気な子どものような笑みだ。その純情を見ると、とても四つも歳上とは思えない。

「うん。ぼく、好きなんだあ」

 思いのほか明瞭な発音に少したじろきながら、孝一は言葉を返す。

「そっか。健太くんはなんで野球が好きなの?」

「楽しいから」

 ごくごく単純明快な答えだった。孝一はやけにそれが羨ましくて、つい言葉を重ねた。

「いつから野球を始めたの?」

「ずっと前。パパがグローブを買ってきてくれた時から」

 健太は嬉しそうに目を細めていた。その様子が笑った時の真里さんにそっくりだと、孝一はその時に気づいた。

「それからずっと野球が好きなの?」

 健太は迷うことなく、大きく頷いた。

「うん。大好き」

 それを見て、孝一の胸がちくりと痛んだ。そしてすぐに質問をしたことを後悔した。

これ以上、野球の話をしたくないという思いに駆られた。まっすぐな健太くんを見たくなかった。スポーツなど一切楽しむことができない自分がバカにされているみたいな気持ちになってしまう。

――その程度の障害で、悲劇ぶるなよ。

実際にはそんなはずないのに。そう言われているような気がしてならなかった。孝一は必死に、テレビに夢中なふりをした。

 だが、そんな孝一に構うことなく、健太くんは言葉を続けた。

「打つのも、投げるのも、守るのも好き。上手くできない時もあるけど、それも楽しい」

 言葉から充足感が強く伝わってきて、それが追い打ちをかけるように孝一の心に迫ってくる。

 なんでその身体で、楽しめるんだ。

 侮蔑ではなく、嫉妬としてそんな言葉が浮かんだ。そんなことを思わなくちゃいけない自分が恥ずかしかった。だが、感情は一度溢れてしまうと、止まるところを知らない。

 俺ですらスポーツを楽しめないのに、俺よりも不自由な身体を持って、なんでそこまで楽しめるんだ。

 右半身麻痺というだけでも、スポーツをやる上では死刑宣告も同義だと思っていた。それなのに、ダウン症の少年がパラスポーツではなく、野球を楽しむなど、孝一にとっては理解の外にある出来事なのだ。

 できないことで、辛くなったりしないのだろうか。

 もしかしてそんな弱い人間は、俺だけなのだろうか。

 まるで壁でも迫ってくるかのように、心が狭く、苦しくなっていく。

 俺は安心したくて、この役割を受け入れたのに。

 息苦しかった。早くこの苦しさから解放されたかった。

 すると都合よく、ニュースが切り替わった。明るかったアナウンサーの口ぶりが打って変わって、重々しいものへと変わった。それと同時に健太はテレビへの興味を失ったようで、「終わっちゃった」と残念そうに呟いて、のすのすと立ち上がって二階にある自分の部屋へと向かって行った。

 孝一はそこでようやく一息つくことができた。そしてテレビを消そうとしたが、アナウンサーの言葉を聞いて、その手が止まった。視線が自然と上へと向かい、テレビを捉えると離れなくなる。まるで金縛りにあったみたいに、孝一の身体はリモコンを手にしたまま動かなくなった。

 アナウンサーは手元の原稿をちらちらと見ながら、お手本のような厳しい目つきをしていた。ほとんどテレビのこちら側を睨んでいるようですらあった。そして、厳しい声で、しかし明瞭に言葉を放ち始める。

「昨夜、都内の障害者支援施設にて、職員による入居者の殺害事件が起きました。職員の男は少なくとも八人の入居者を殺したと見られ、その容疑を認めています。動機について男は、『どうしようもない連中だから殺した。障害者なんて、生きていたってしょうがない』などと供述しており、警察が詳しく捜査しています。凶器は、施設にあった料理包丁であると見られ――」

 そこまで聞くと、孝一の耳にはもうなにも届かなかった。ただ犯人の供述だけが、頭の中で反芻を始めていた。

 ――障害者なんて、生きていたってしょうがない。

 その言葉が、まるでそれこそ鋭利な包丁のように、孝一の脳内を何度も刺した。脳内では血が溢れる代わりに、確かな絶望と、もう慣れてしまった諦めがもわもわと広がっていた。

 さっき追いやったばかりの気持ちが、もう一度孝一の心に侵入してきたのだ。

 諦め、恥、劣等感。

 その全てが孝一を攻撃した。

 そしてなにより孝一に衝撃を与えたのは、犯人の供述にある種の真実があることだった。

 孝一は障害者でありながら、いや、障害者であるからこそと言うべきか、それを理解していた。

 犯人の供述は、孝一が生きていく中で、ずっと微かに思っていたことなのだ。そして、ずっと無視し続けてきたことだった。

 障害者に生きている価値はあるのだろうか。

 不完全な人間に、生きている価値はあるのだろうか。

 そんな問いを浮かべるたびに無視して、孝一は生きてきた。洋服がはみ出ているのにむりやりクローゼットを閉めるみたいに、強引に心の奥にしまって生きてきた。

 だが今、それらは静かにあふれ始めていた。

 テレビによると犯人は、障害者支援施設の職員だったという。そんな人間が障害者を殺し、あまつさえ、障害者のことを「生きていたってしょうがない」とまで言い放った。

 もう孝一の中で、自分の存在価値という問題は無視できる事柄ではなくなっていた。そしてつい先ほどの出来事も手伝って、孝一の心は深く沈んでいってしまう。底のない海に落ちていくみたいだった。本当に水の中なのではと錯覚してしまうほど、心は冷たい。そして、その冷たい海の中で、嫌でも考えてしまう。

 同じ障害者でも、懸命に楽しんで生きようとする健太に対して、俺に生きる価値なんかあるのだろうか。

 諦めてばかりで、情けない俺に。

 とはいえ、「楽しんで生きよう」なんてことは軽々しく言えそうにない。

 だって、「できない」んだから。

 他の人よりも「できない」のが絶望的なことだと、孝一はよく知っている。

 その時、孝一の心が囁いた。小さな声で、しかしそれが真実なのだと微塵も疑っていないような強い口調で囁く。

 健太は知らないだけなのだ。

 健太は周りの人間も同じ種類の人間だから、できないことの辛さをよくわかっていないんだ。だから、野球なんか楽しめるんだ。

 ならいっそ俺も、知らない方が良かった。

 障害を持つということがこれほどまでに理不尽だなんて。

 生きる価値もないかもしれないなんて。

 心臓がどくどくと跳ねていた。自分が生きている価値があるのかどうかわからなくなったと言うのに、命は今もうるさく騒いでいる。孝一にはそれが鬱陶しくて仕方がなかった。

 孝一は療育園や病院に行くたび、暴れる子どもがいることを思い出していた。

 肉親であり、自分を愛してくれている母親を躊躇いなく蹴り、殴り、物を投げつける子どもは確かにいるのだ。コミュニケーションが取れず、ただ暴れるだけの子どもはいるのだ。

 そういう子どもが成長してから障害者施設に入ることもある。孝一はそれを知っている。

 知っているから、孝一は思わずにはいられない。

 もしかすると、ある意味では犯人も、被害者なのではないか、と。

 施設の入居者に理不尽に暴力を振るわれ、耐えれなくなった上で、犯行が起こったのではないか。

 それだから、「生きていたってしょうがない」なんて言ったのではないか。

 ニュースではなにも報道されていなかったが、孝一にはきっとそうだという半ば確信めいた思いがあった。

 だが、今孝一にとってそんなことは分からなかった。というより、どうだって良かった。

 それよりも、自分自身うっすらと疑っていた存在価値を、真っ向から否定する第三者が現れた衝撃で心がいっぱいになってしまっていたのだ。

 気づくと、またニュースが入れ替わっていた。アナウンサーは、さっきまでの厳しい顔が嘘のように穏やかな表情で、アヒルの親子が横断歩道を渡ったというニュースを報道し始めた。

 それから佐々木が帰ってくるまでの孝一の記憶は、ほとんど残っていなかった。

 呆然と過ごしているうちに、いつの間にか佐々木が帰ってきたような、そんな気持ちでいた。

 だから、昼食の感想を求められた時は困った。孝一は昼になにを食べたかさえ曖昧だったからだ。苦し紛れに答える。

「あー、うん。美味しかったよ」

「ちょっと。心がこもっているように感じれないんですけど」

 佐々木はそう言いつつ、あまり気にしていなさそうだった。しかしその目は相変わらず暗く、なにを考えているのか分からない。

 目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ、と孝一は思う。

 佐々木の目は確かに、口と同じぐらいなにも言ってくれないのだから。

 だがしかし、孝一の目はどうやら多弁らしい。佐々木は冷たい瞳で孝一の目を射抜きながら言った。

「なにかあった?」

 孝一は多少驚いたが、もうほとんど慣れっこだった。佐々木はいつも、心を読んでくる。

「なにもないよ」

 そう言って誤魔化した。胸に暗雲が立ち込めて去ってくれないことなど、佐々木に知られたくなかった。件のニュースを見てからなんとなく体調が悪いことなど知られたくなかった。

 その時ふと、孝一は思った。

 佐々木ももしかして、障害者のことを、あの事件の犯人と同じように思っているのではないか。

 ――障害者なんて、生きていたってしょうがない。

 さっきのニュース番組でのアナウンサーの言葉が脳内で再現された。

 凶悪犯が語った、ある種の真実の言葉。

 今は知らないようだが、いずれ佐々木も、あのニュースを目にすることになるだろう。その時、犯人の供述に深く共感するのではないか。

 孝一はそう思うと怖くて仕方なかった。それと同時に、妙にその考えに納得できる自分がいることに気づいた。

 そして、それもそうか、と思う。

 だって俺達は、同類なんだから。

 その時、佐々木が言う。

「ほんとに大丈夫?顔色悪いよ」

 表情は変わらずなかったが、声から心配している様子は伝わってきた。

「ごめん、ちょっと体調悪いかも」

 孝一はそう言った。これは嘘ではなかった。さっきから息が苦しくて、胃がひっくり返りそうだった。

 佐々木はなおさら心配そうになる。

「ごめん。体調悪いのに無理させちゃったのかも。大丈夫?」

「うん、全然平気。でももう今日は帰っていいかな」

 これは嘘だった。まったくもって平気ではない。一秒ごとに体調が悪くなっていくのを孝一は確かに感じている。

「うん。帰った方がいい。今日はありがと」

 佐々木は強い口調でそう言うと、玄関まで送ってくれた。

 孝一はドアを開けて家から出ると、しばらくは気丈に振る舞って足取り確かに歩いたが、それも一度曲がり角を曲がってしまえば終わった。

 その場に倒れこむようにしゃがむ。これ以上はたとえ一歩だって歩けそうになかった。

 足がしびれるのを感じる。頭痛が強まるのを感じる。しゃがんでいるのも辛くて、その場に座り込む。

 息がどんどんと荒くなる。死にかけの肉食獣みたいな、激しい呼吸の仕方以外で酸素を捉えられない。

 ――障害者なんて、生きていたってしょうがない。

 あの犯人の言葉が、孝一の脳に強く蘇る。いつだかの親友の憐憫の視線が蘇る。

それらは靴裏にへばりついたガムみたいに、どこに行こうと離れてくれそうにない。

 孝一はまだ立ち上がれない。アスファルトの小石が左手の皮膚に食い込んで痛かった。

 もうわからなかった。なにをしたいかも、なにができるのかも。

 頭がへたくそなエレキギターのようにがんがん鳴っている。聞くに堪えない演奏はいつまでも止まらない。

 そして、気持ち悪さが頂点に達した瞬間、胃が完全にひっくり返った。

 げえええええ、げええええええ。おえっ。

 鈍い鼠色のアスファルトが黄土色に染まる。それが汚くて、孝一はさらに吐きそうになった。だが、もうなにも出てこなかった。

 酸性を感じて喉が痛む。反射で出てきた涙で視界が悪くなる。

 誰も見てなくて良かった。

 孝一が感じることができた感情はそれだけだった。

 一刻も早くこの場を離れたくて、片づけをしようともせずに孝一はふらふらと立ち上がった。

 孝一は黄土色の中に固形の茶色の物体が小さく散らばっているのを見つける。

 そうだ、コロッケだった。

 孝一はようやく、今日の昼食の内容を思い出した。




 最後に佐々木家を訪れてから、つまり孝一が路上で吐いてから一週間後、クラス中の浮ついた空気とは裏腹に、孝一の心はずしりと沈んでいた。

 理由は明白だった。今日が学級対抗のドッジボール大会の日だからだ。それは孝一にとってみれば、九月の体育祭に次ぐ地獄の行事だった。

 教室では宇佐美が、まだ大会も始まっていないというのに気炎を吐いていた。宇佐美は野球部で、このクラスでは征矢と並ぶエース格なのだから、気合が入るのも当然と言えば当然なのだが、やはりうっとおしかった。

「二組、絶対優勝するぞ!」

 まだなにも始まっていないのに、クラスの一軍集団の中で、宇佐美はそう騒いでいた。その中に佐々木の姿もあった(実際、宇佐美はほとんど佐々木の方しか見ていなかった)。

 一軍の中で唯一その輪の中から外れている征矢は、孝一の隣でその騒ぎを眺めていた。

「気合入ってんなあ、あいつら」

 征矢は本来あの輪の中に入ってしかるべき人間なのに、まるで独り言のようにそう笑った。つくづくこいつはなんで俺と仲良くしているのだろう、と孝一は感じる。

「お前こそ気合入れろよ。エースだろ」

 孝一は考えていることを振り払うようにそう言って、ぱしん、と征矢の背中を一度叩いた。すると征矢はいてえな、と顔を歪めたが、嫌そうな様子は見せなかった。マゾヒストかよ、と思った孝一に対して征矢は淡々と言う。

「まあ、やれるだけはやるよ。孝一も頑張ろうな」

 ああ、頑張るよ。なるべく気配を消せるようにね。

 そんな皮肉が孝一の頭の中に浮かんだが、それは口の根元の方に押さえつけておいた。

 その時、ちょうど黒川先生が教室に入ってきて、みんなを体育館へと誘導した。これから開会宣言を挟み、そのままドッジボール大会が開催される。

 体育館での開会宣言はすぐに終わった。学年全員(特に男子の)の期待はもう爆発寸前だったから、これは賢い選択だった。あまり長い時間をかけると、期待ではなく不満が爆発する結果になってしまっただろう。

 ドッジボール大会は男女別で行われ、四クラスの総当たり戦である。孝一のクラスは初戦から出番があり、クラスの盛り上がりはいきなり最高潮になった。

 当たり前のように試合前の円陣が組まれた。孝一はこういう盛り上がりが苦手だったが、一人だけ輪の中に加わらないわけにもいかない。平気な顔をして、さも楽しんでいるかのように振る舞った。

 円陣の声出しは、当然のように宇佐美だった。

「絶対勝つぞ!」

 うるさいな、ほんとに。

 思いつつも、孝一は輪の中では笑顔でいた。浮きたくない気持ちから声を張っていた。

 そうして試合が始まった。

 孝一にとって喜ばしいことに、試合はごく単調に進んでいった。しかもチームは勝っている。

 孝一はほっと胸を撫で下ろした。孝一にとっては優勝とか、そういうものは全く意味を為さないが、それでも勝利は大切な要素だった。

 なぜなら、負けてしまえば「戦犯探し」が始まるからだ。

 言葉に出して糾弾する訳では無いが、なんとなくそういう雰囲気が漂いだす。

 そしてその標的になるのはいつも運動神経が悪い奴だった。

 運動神経が悪い奴はみんなから使えない奴だと思われる。もちろんおおっぴろげに言われたりする訳ではないのだが、確かに思われている。

 孝一は実感としてそれを知っていた。そして孝一はそれをなによりも嫌った。

 プライドを傷つけられたとか、そういう話ではない。

 ただ、自分が情けなくなってしまうのだ。そしてだいたい、結論は、障害を持つことにする劣等感へと向かってしまうのだ。

 それが嫌だった。これ以上卑屈になりたくなかった。たとえ障害を持つ自分が悪いとしても。

 あれこれ考えながらも、孝一は声を張ってチームに貢献しようとしていた。いや、楽しんでいるんだと示そうとしていた。 

 それに嫌気が差しそうなったその時、試合が終わった。征矢が最後の一人を当てたのだった。

 観客席となっている体育館の二階から歓声が上がり、同時にチームが沸いた。

「征矢、ナイス!」

 宇佐美が征矢にハイタッチを求めた。宇佐美もこの試合、エースとしての役割を見事に務め上げていたが、顔には少し悔しそうな色が浮かんでいた。きっと最後の一人は自分で当てたかったのだろう。

 対して征矢は、照れくさそうに笑みを浮かべながら、右手を宇佐美の右手に合わせた。

 ぱちん、という小気味よい音が鳴った。

 途端に湧いた羨望を誤魔化すように、孝一は征矢の背中を叩いた。

「凄かったな、ナイス」

 嫉妬なんかやめろ。惨めになんかなるな。 

 孝一は自分に言い聞かせる。

 征矢はにかっと笑った。

「へへ、頑張ってたろ」

 もし健常だったらとか、考えるな。

「いい感じに勝てて良かった。まあ俺、なんもしてないんだけど」

 考えるな。考えるな。

「んなことねーよ。声出し、良かったじゃん。楽しそうで良かった」

 考えるな。本当はなにも楽しくなかったなんて、考えるな。

 孝一が自分の中の感情を抑えていると、宇佐美が大声で征矢と孝一に声をかけた。

「おいお前ら、もう次の試合始まるぞ! 早くどかないと怒られるぞ!」

 やべえやべえ、なんて言いながら、征矢は小走りで二階へと上がっていった。孝一もそれに続いた。

 征矢の足取りが身軽なのが、やけに羨ましかった。

 第二試合は白熱した展開で、時間いっぱいまで戦ったあと、内野の人数差で四組が一組を下した。次の試合は孝一たちの二組と一組の対戦だから、順当に行けば最終戦で優勝が決まることになる。ちなみに二組の女子は、ソフトボール部の子が孤軍奮闘していたが、接戦の末に敗れていた。佐々木も何人か当てているのを孝一は見ていた。

「いやあ、惜しかったなあ、女子」

 孝一を連れて宇佐美による試合前の熱血戦術解説から抜け出した征矢は、大きい独り言のように呟いた。征矢は二人になると、いつもそういう喋り方をする。

「な。いい試合だった」

 孝一も独り言のように返した。二人は二階のベランダのようになっている部分の、白いプラスチックの柵の前に座っている。体育館は二年前に改装されたばかりでまだ新しく、柵には傷一つなく、まるで大きなホワイトチョコのお菓子みたいだった。

「このあとすぐに試合だっけ?」

「いや、もう少し休憩のはず」

「じゃあまだゆっくりできるな」

 征矢は足を伸ばし、両手をついてだらんと座った。孝一もそれに倣った。

 床にふれて、左手がひんやりとした。それがなんとなく心地よかった。

 すると、四人の女子の集団がこちらを見ているのに孝一は気づいた。隣のクラスの子達だと孝一は気づいたが、征矢は女子たちの存在に気づいていないようで、時々彼がする、秘密を湛えた遠い目で虚空を見つめていた。

 女子たちはひそひそと話していたが、首の動きが忙しなくて、孝一にはそれが下品に見えて仕方なかった。

 それがしばらく続いたあと、女子の中でも小柄な子が、手になにかを持って近づいてきた。後ろでそれを見る仲間の女子たちは、一瞬も見逃すまいと、恥じらいもなくじっくりとこちらを覗いてきた。孝一はその視線に多少不快になったが、なにも言わずにいた。どうせ用があるのは自分じゃないだろうということがわかっていたのだ。

 どうせ征矢に、なにか言いにきたのだろう。

 孝一の予想は的中した。彼女は二人の前で立ち止まると、小さな声で征矢の苗字を呼んだ。

「樋口くん」

 征矢が宙にやっていた視線を彼女の元に向けた。征矢はそれまで彼女の存在に気づいていなかったようで、驚いたように目を丸めたが、すぐに状況を把握したらしく、「なに?」と優しく返事をした。

 彼女は返事を貰えただけで嬉しくなったらしく、顔を赤らめた。可愛らしい、と孝一はついつい思ってしまった。

 彼女が征矢と二人だけで話したいだろうと思って、孝一はさりげなくその場から去ろうとした。この状況に身を置くより、宇佐美の演説を聞く方がいくらかマシだろう。

 だが、立とうとした孝一の体育着を、征矢が女子に見られないように掴んだ。そのせいで立ち上がれず、孝一は座り込むしかなかった。孝一は驚いて征矢の横顔を覗いたが、女子と話している征矢のにこやかな表情からはなにも読み取れなかった。

「ドッジボール大会頑張ってね。あと、これ、よかったら使って」

 彼女はそう言ってスポーツタオルを征矢に手渡した。デザインからしてみても、女子が使うようなものではなかった。おそらく、征矢のためにわざわざ買ったのだろう。

「え、マジで。ありがとう。助かる」

 征矢はそう喜んだ。すると彼女はここぞとばかりに征矢に紙切れを手渡した。その手が小刻みに震えているのを、孝一は見逃さなかった。

「それ、IDなの。もしよかったら、今日、連絡してもいい?」

 彼女は上目遣いに征矢を見ていた。対して征矢はなんでもなさそうに笑みを作った。普段よりも硬い笑顔だったと孝一は気づいたが、目の前の女子がそれに気づいているのかは分からなかった。

「うん、いいよ。塾があるから、返信遅くなるかもだけど」

 彼女は顔を軽く朱に染めた。そして、ありがと、とだけ言い残してその場を立ち去った。

 その時、孝一は彼女にきっ、と睨まれた気がした。

 やめてくれよ、という言葉は心中にとっておいて、気づかないふりをした。

 騒ぎ立てていた女子たちの姿が完全に消えたのを見届けながら、孝一は言った。

「相変わらずおモテになりますなあ」

 からかったが、「だろ」と征矢は二本指を立ててピースを返してきて、なんだか拍子抜けだった。そしてたまらず口をとがらせる。

「てか、なんで服引っ張ったんだよ。あの子に睨まれちゃったじゃねえか」

「いやあ、二人きりだと気まずかったし」

 征矢はぬけぬけと言い切った。

 孝一はそれ以上責める気にもならず、嘆息する。

「まったく、こっちはいい迷惑だぜ。で、付き合うの?」

 今度は征矢が嘆息する番だった。

「なんでそうなるんだよ。そんな話一度も出なかったじゃんか」

「でも、そういうことだろ」

 征矢は大げさに肩をすくめながら認めた。

「まあな」

 孝一はさっきの少女の姿を思い浮かべた。

 目が大きくて、それ以外の要素が全部小ぶりな、小動物みたいな人だった。可愛らしいといえば可愛らしい人だった、と孝一は思った。

 征矢は頭を掻きながら、少しだけ申し訳なさそうに言った。

「まあ、告白されても付き合わないよ」

 孝一は内心ほっとした。友人の選ぶ人は自分の認める人であってほしいという、身勝手な思いがあったのだ。あの子の雰囲気は、なんとなく嫌だった。

 だが、口から出した言葉は正反対のものだった。しかしこちらも、本心からきた言葉だ。

「またかよ。一人ぐらい付き合ったっていいのに。何事だって経験だぜ、経験」

「じゃあ孝一には、そんな経験がおありで?」

 孝一は肩をすくめた。それを見て征矢は声を上げて笑った。

「とにかく、付き合うつもりはないよ」

 ふうん、と流しながらも、孝一は不思議な思いに駆られていた。

 征矢は相当モテる。それなのに、誰とだって付き合おうとしないのだ。

 恋愛に興味がないだけなのかもしれないが、それにしてもおかしい。知っているだけでもかれこれ十人以上、征矢の前に撃沈したじょしがいるのだ。

 つい気になって、孝一は口を開いた。

「征矢って好きな人でもいんの?」

 すると征矢は驚いたようで、眉をひそめて端正な顔立ちを崩した。

「なんだよ急に」

「いや、ちょっと気になってさ。お前、あんまりにも誰とも付き合おうとしないから、もしかしたら誰かいるのかなって」

 すると征矢は乾いた笑顔を見せた。あの、宇宙の果てまで見透かす目を携えて。

「いるよ」

 孝一は驚きのあまり身体を支えていた腕を滑らせて、体勢を崩した。頭ががくんと揺れた。

「誰? 俺の知ってる人?」

「内緒」

 口の前に人差し指を立てて、征矢はウィンクした。映画のワンシーンだと思えるほど、官能的で美しい仕草だった。

 一体誰だ?

 そう思った頭の中に、一瞬佐々木の顔が浮かんだ。理由は自分でも分からない。多分ただ単に、「かわいい」とされている女子だったからだ。孝一は自分にそう言い聞かせた。

 そして、征矢と佐々木が付き合っている様子を思い浮かべた。

 二人が肩を寄せ合って、二人そろって音が出そうなほど眩しい笑顔を湛えている。

 孝一はすぐにその妄想を振り切りたくなった。その理由も自分でも分からない。

 そして孝一は誤魔化すように言った。

「征矢でも付き合えないような人なの?」

 すると征矢は滑稽なことを聞いた、とでも言うようににやりとした。

「孝一は俺を過大評価しすぎだよ。別に俺は無敵でもないし、ハンサムでもない」

 ハンサムでもないわけないだろう、と突っ込みたかったが、征矢が口を開いたのでやめた。今は征矢の言葉を聞きたかった。

「なんというのかな、これは運命的に難しいことで、どうしようもないことなんだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 征矢は不思議なことを言った。はっきり言って、孝一には全くその言葉の意味が理解できなかった。

「それってどういう意味――」

 孝一が言おうとした瞬間、集合がかかった。どうやら次の試合が始まるらしかった。

「俺たちも行かないと。ほら、立って」

 征矢はパンパン、と手を二度叩いて孝一のことを急かした。

 孝一は尋ねる機会を失って歯噛みしたが、どうしようもないことだった。仕方なしに立ち上がり、集合へと向かった。

 試合は、孝一にとっては喜ばしいことに、終始盛り上がりに欠けるゲームだった。

 圧勝だった。五分とかからずに、一組の内野は全滅させられた。つまり、孝一たちの二組は優勝に王手をかけたことになる。

 しかも、裏の試合だった四組対三組の試合結果が四組の勝利だったのだから盛り上がりはもう最高潮だった。次の二組対四組の試合が優勝決定戦になったからだ。

 これで二組や四組だけでなく、一組や三組の生徒も、最終試合を見守る展開になった。

 最悪だ。

 孝一は心中でそう毒づいていたが、表面上はあくまで、優勝への期待に胸を膨らませていた。

 しかも今度は抜け出せる雰囲気でもなく、宇佐美の演説を聞かなくてはならなかった。宇佐美の興奮した大声に孝一は耳を塞ぎたい思いだったが、仕方なく聞いていた。

「ここまで来たんだ! 絶対勝ってやろう! んで、黒川先生を胴上げしてやろう!」

 孝一は胴上げされる黒川先生を想像する。あまりに滑稽だった。隣にいた征矢もどうやら同じことを想像していたらしく、にやにやと口元を緩めていた。

 そして、また集合がかかった。そしてコーンで囲まれた四角の中で、当たり前のように、クラス全員での円陣が組まれた。

 驚くことに、その中に黒川先生もいた。

「案外熱い人なんだな」

 征矢は面白がるように小声で耳打ちした。孝一も小さく頷いた。

 声出しはまたもや宇佐美が担当した。

「さあ男子、絶対勝つぞ!」

 歓声というか、ほとんど怒号のような声が上がった。そして、男子だけがその場に残って、口々に応援を受けた。その中でも征矢はやはり別格で、何人もの女子から応援を受けていた。征矢自身はそれを笑顔で受け流していた。

「孝一くん」

 ふいに背中から名前を呼ばれて、孝一は飛び上がりそうになるぐらい驚いた。まさか自分に声がかけられるとは想定していなかったのだ。振り向くと、佐々木がそこにいた。孝一の脳裏にさっきの妄想がよぎって、顔を見ることが出来なかった。

「頑張ってね」

佐々木はただ一言、そう言った。なにを頑張れ、とは言わなかった。普通に考えれば優勝できるように、という意味だが、孝一は同盟相手の言葉を、違う意味で受け取った。それに、あの恐ろしく冷たい声で言ったのなら、きっとその意味だろうという確信めいた思いもあった。

「ああ。目立たないように頑張るよ」

 俯いたまま、小さく孝一はそうこぼした。

佐々木が口元を緩めたのが、孝一の視界の隅に映った。きっと学校だから表情が変わりやすいのだろう。

「ひねくれてるねえ。でも、捉え方は孝一くん次第だからね。とにかく、頑張って」

 そう言い残して、佐々木は二階へと上っていった。

 その華奢な背中を見ていると、孝一の背中がばしん、と音を立てた。背中がじんわりと痛んで、孝一は思わず顔を歪めた。振り向くと、背中を叩いたのは征矢だった。征矢は名画でも見るようにしげしげと孝一の顔を覗いた。

「やるじゃん。へえ、佐々木か」

「いってーな。しかもちげえよ。たまたま仲良くなったんだよ」

「その言い訳は宇佐美にした方がいいぞ。あいつ、お前のこと殺しそうな目で見てた」

「げえ。てかあいつも、声をかけるなら宇佐美にしときゃよかったんだ。俺なんか応援してもなんもねえけど、宇佐美だったら次の試合、ボールが火を噴いたはずだぜ」

 征矢はにやりと笑った。そして気合十分といった感じで肩を回している宇佐美に一度視線をやったあと、孝一に目を戻した。

「言えてるな」

 そして次の瞬間、孝一の背中がまた痛んだ。征矢がもう一度叩いたのだ。孝一は征矢を睨んだ。

「なにすんだよ」

 征矢は孝一の肩に腕を回し、乱暴に肩を組んだ。

「絶対勝つぞ」

 そしてそれだけ言うと、肩を離した。

 こいつもなんだかんだ、熱いよなあ。

 孝一は痛む背中を自らさすりながらそう思った。

 これはますます、悪目立ちしねえようにしねえとな。

 笛が吹かれると、試合が始まった。

 ジャンプボールはクラス一の長身である石狩が務めたが、ボールは相手に渡ってしまった。クラスの全員が決まりきった動きのように後ろに下がった。四組はエースを外野に配置しているらしく、すぐに外野にボールが渡された。そして、坊主頭の野球部がそれを受け取り、物凄い勢いのボールを放った。だが、ボールは宇佐美によってキャッチされた。二階から大きな歓声が上がった。宇佐美はそのままボールを思い切り投げた。ボールは相手の内野に当たってこぼれた。アウトだ。また歓声が上がった。

 相手チームがこぼれたボールを拾った。そしてまた、ボールは外野へと渡った。

 野球部がまた投げたが、今度は征矢が完璧にキャッチした。

「よっしゃあ、ナイス!」

 わざとらしい孝一の声は、二階から上がった黄色い歓声にかき消された。歓声は明らかに宇佐美のものより大きかった。

 征矢がボールを投げた。ボールは物凄い速度で、一直線に相手の内野に向かった。そして、四組のエース格であるサッカー部に当たった。二階からため息と歓声が同時に上がった。

 よしよし、有利に進んでる。

 孝一は内心で呟いた。

 あとは当たらなければいいだけだ。

 征矢が投げたボールの勢いが強く、ボールは二組の内野に戻ってきた。だが、焦った宇佐美が投げたボールは、簡単に相手に取られてしまった。

 ボールは外野のサッカー部に渡った。

 まずい。

 孝一は直感した。

 狙われる。

 嫌な予感は当たった。サッカー部と目が合う。

 投げられたボールは一直線に孝一の身体へと向かってきた。

 やばい。

 その思いだけが先走り、動くことができない。取ろうにも、避けようにも、右半身が邪魔をしてくることを孝一は知っている。

 そして、孝一の右わき腹に鈍い痛みが走った。ボールが当たったのだ。

 物凄く無様な当たり方だと自分でも思った。二階の歓声が他人事のように聞こえ、ため息は全身に降り注いできた。

 最悪だ。最悪の悪目立ちだ。

 当たった人間が誰もいない外野に向かいながら孝一はそう思った。

 だが、孝一の最悪は、これで終わりではなかった。

 外野にいると、どうしてもボールが回ってきがちになる。外野でのパス回しは戦術としてとても重要だからだ。その中でも、孝一はなるべくボールに触れないように動いていたが、ある時、内野にいた宇佐美が孝一にボールを投げた。そして大声で言った。

「投げろ、早瀬。当てて戻ってこい!」

 まさに最悪だった。当てられるはずもない。蚊の止まるようなボールしか投げられないのだから。

 だが、こう言われて、投げないわけにもいかなかった。

 孝一は仕方なく、渾身の力を込めて投げた。

 当たってくれ。

 願ったが、叶うはずもない。ボールは無様にも相手に当たるよりも先にワンバウンドして、相手の手に渡った。

 ため息が二階中に広がったのを感じる。今すぐにでも消えてしまいたい気分だったが、そうするわけにもいかない。沈痛な面持ちでいるわけにもいかない。孝一は謝ったあと、声出しを続けて気にしていないふりをした。

 こんな大会、早く終わってくれ。

 孝一はそう願いつつ、コート脇に置かれたタイマーを見た。

 まだ七分も残っていて、試合自体も一進一退の決勝にふさわしい攻防だ。試合の熱気は収まりそうにない。

 孝一はがっくりとした。

 ならばこのままなにも起きないでくれ。

 そう祈った。しかし、孝一の最悪は、まだまだ終わらなかった。

 一人当てられれば一人当てられ、外野の人間が行ったり来たりする中で、孝一は上手く蚊帳の外にいることに成功したが、やがて戦局が有利に進んでいくにつれて、外野の人数が少なくなってきた。それを見た宇佐美が孝一に叫んだ。どうしても勝ちたいのだろう、必死の声だった。

「早瀬、パス回ししてくれ!」

 まじかよ。

 内心で舌を打ちながら、孝一は仕方なしにパス回しに参加した。外野が孝一ともう一人しかいなかったのだから、いつものようにさりげなく誰かに任せる、ということは望めなかった。

 悪夢はすぐにやってきた。

 孝一はパス回しの最中にキャッチミスをした。孝一の右手はどうしても反応が鈍く、左手と合わなかった。左手が先走ってしまい、上手く取れずに後ろに逸らしてしまった。

 ため息が二階を支配した。孝一は急いで後ろに転がるボールを拾った。

 そしてなんとか取り返そうとして、焦って投げたのがいけなかったのかもしれない。

 外野の向こう側へとパスしたはずのボールは低弾道を描き、相手にキャッチされてしまった。

 またため息。相手の応援からは歓声が上がっていたが、孝一の耳には嘲笑にしか聞こえなかった。

 宇佐美が怒鳴った。

「どんまいどんまい! 気にすんな!」

 そう言いながら目にははっきりと失望が浮かんでいた。それも当然だ。孝一のミスのせいで、チャンスが一転ピンチになったのだから。

 俺のせいで。

 孝一は背筋が凍った思いだった。惨めだった。一刻も早く消え去りたかった。 

 だが、消えることなどできるはずがない。

 孝一にできるのは、これ以上試合に絡まないように気配を消すぐらいだった。

 だが、そうもいかなかった。

 長い間攻められていたが、征矢がスーパーキャッチを見せた。歓声が二階だけでなく、仲間からも大きく上がった。それぐらいのファインプレイだった。征矢は掴んだボールを外野に回した。

「 回せ回せ!」 と宇佐美が叫んでいるのが聞こえる。

 嫌な思いがよぎったが、参加しないわけにもいかなかった。ただ、ミスをしないように集中し直した。

 ボールは孝一の反対の外野へと渡った。

 向こう側にいるクラスメイトは、優勢から劣勢に立たされた焦りからか、変な回転のかかった、すっぽ抜けのボールを孝一に向かって投げた。

 いや、むず。

 孝一は思ったが、すぐにボールに集中した。

 取れないボールではない。もし征矢なら、軽々取るはずだ。

 さあ集中しろ。

 焦らず、しっかり胸で収めて――

 だが、やはり左手が先走った。

 しかも、今度は決定的だった。

 孝一が弾いたボールは無情にも転がり、相手のコートの中に入ったのだ。

 二階から湧いた悲鳴のような声が孝一の背中を刺した。孝一はそれで殺されたかと思った。それぐらい、生きた心地がしていなかった。

 そして相手の手に渡ったボールは、前線で孝一からボールを受けようとしていた宇佐美に当たった。宇佐美はボールを弾いてしまった。アウトだ。

 途端にため息が孝一の全身に降り掛かった。潰れてしまいそうだった。むしろ潰された方がいいとすら思った。

 その時、無念に俯きながら外野に来た宇佐美が孝一の前を通った。

「ごめん」

 孝一はほとんど反射で謝った。

 すると、宇佐美は顔を上げた。

「いやいや、しょうがねーよ。まだ巻き返せる、いけるよ」

 口調は優しかった。だが、目には確かに失望が浮かんでいるのを、孝一は見逃さなかった。

 ああ、こいつは駄目なんだ。

 そう断定する目だった。

 やめてくれ。

 孝一はほとんど声に出しかけていた。今までの人生で受けてきた屈辱の視線が、まざまざと蘇っていく。

 孝一は今までにもそういう目をされてきた。

 運動に関わるイベントが起きると、ほとんどいつもそうだった。

 それがトラウマとなり、孝一の巨大な劣等感になってきたのだ。

 幸い、宇佐美が外野に回ったことで、孝一は出番を失った。だがそれも、今の孝一にとっては些細な出来事にすぎない。

 孝一は劣等感に苛まれていた。どうしようもない理由のある「できない」という、最大の屈辱に耐えなければならなかった。

 だがそれでも勝利を願っていた。チームが勝てば、ミスも帳消しだ。戦犯探しが始まるのは、負けた時だけだからだ。

 だが、現実はそう上手くいくはずもない。外野に行ったことで、有利から不利へと転落したことで、宇佐美はすっかり焦ってしまっていた。投げても投げてもコントロールが定まらず、相手にボールを奪われ続けた。

 クラスメイトたちもそうだった。焦りが生まれて、ミスが多くなった。

 その中でも征矢は孤軍奮闘していたが、それにも限界がある。

 一人、一人と当てられて、外野の人数がどんどんと増え続けた。そしてついに、内野は征矢一人になった。

 みんなが頑張れ、と声をあげていたが、声色にはどこか諦めの色が漂っていた。

 だが、征矢はそこから驚異の粘りを見せた。連続で二人を当てた上に、ボールを幾度となく避け続けた。

 歓声がどんどんと大きくなっていく。期待を込めた目が征矢に降り注ぐ。

 しかし、最後にはキャッチミスをして、当てられてしまった。そして二組は全滅した。

 四組が歓喜の輪を作る横で、二組は悔しさを滲ませていた。

「最後、取れなくてごめん」

 征矢は額に滲んだ汗を拭いながら悔しさを滲ませた。

 孝一はそれを側で見ていた。でも、なにも言えなかった。劣等感に押しつぶされそうになっていて、息を吸うのでやっとだった。

 俺のせいだ。

 俺のミスのせいで負けた。 

 円陣の宇佐美の声出しが浮かぶ。

 勝利を望んでいた黒川先生の顔が浮かぶ。

 佐々木の言葉が浮かぶ。

 ――絶対勝つぞ。

 いつになくやる気だった、征矢の声が浮かぶ。

 全部、俺が台無しにしたんだ。

 劣等感が、虚無感が、申し訳なさが、まるで大荒れの海のように孝一を掴んで離さない。

 冷たい海の中で息もできず、孝一は溺れていた。その水の重さに、押しつぶされていた。

「しょうがねえよ」

 クラスメイトたちがそう言って、口々に征矢を労った。

 宇佐美は征矢の肩を叩いた。

「お前は悪くない」

 悪かったのは、あいつだ。

 孝一には、そう言っているように聞こえた。

 口では言わないが、みんなわかっている。

 孝一はそう思った。

 戦犯は俺なんだって、みんなわかってる。

 遠慮がちなクラスメイトたちの目が胸に突き刺さる。

 お前が悪いんだと言っている。

 お前のせいで負けたと、言っている。

 ――だって、しょうがねえじゃん。

 孝一の本能がうそぶく。自衛のための自虐だった。

 ――そんなことない。そんなこと思うのはやめろ。

 心が答えた。こちらは自分の存在価値のための反論だった。

 ―――障害者なんだもん。できねえよ。

 本能がまたうそぶいた。

 ――違う。ただ単にミスをしただけだ。誰にでもあることだ。

 心が必死になって答えた。

 ――ちげえよ。俺だから起きたミスだ。右半身が不自由だから、起きたミスだ。

 本能が嗤った。醜い、乾いた笑いが孝一の心の中で響いた。

 ――やめろ。そう思ったら、終わりじゃないか。

 心はほとんど泣きそうになっていた。

 本能は尚も嗤った。

 ――仕方ないだろ。不完全な人間なんだから。

 いつかの殺人犯の言葉が、孝一の心を刺激していた。

 俺なんか、生きていたってしょうがない。

 だって、人間として不完全なんだから。

 本気でそう思った。孝一はそれを自暴自棄だと捉えられなかった。自暴自棄というには、あまりに根拠が強すぎる。

 二階から女子の甲高い笑い声が聞こえた。

 俺を嗤ってるんだ。

 孝一はそう思った。

 隣から、男子の笑い声が聞こえた。

 俺のミスをバカにしてるんだ。

 そんなはずないのに、孝一はそんな気がしてならない。

 まるで世界から味方が消えたような感覚だった。男子も女子も先生も体育館の空調でさえも、自分の敵になった気がしてならない。

 ふと、佐々木のことを考えた。

 佐々木は俺を嗤っただろうか。

 想像して、辛くなる。胸が裂けてしまいそうだった。しょうがないじゃないか、と叫びたくなった。

 次に、健太の顔が浮かんだ。

 孝一の頭の中で、彼も俺を嗤っていた。その程度の障害で、なにを悲劇ぶっているんだと嗤っていた。

 僕は野球ですら楽しめているのに、と嗤っていた。

 健太の軽蔑の目が孝一を射抜く。

 孝一は、世界の全てと戦っていた。




 孝一は征矢と二人で、地元で一番大きい駅のすぐそばにあるファミリーレストランに来ていた。

 値段の安さが売りの店で、中学生のお小遣いで事足りる店といえば、誰もが一番に思いつくような有名チェーンだ。

 温かな雰囲気に纏われたこの場所でも、孝一の心はまるで癒されなかった。

 本当なら今ごろ、クラスメイト達と打ち上げに向かっているはずだった。だが、孝一がそんな気分のはずもない。ひっそりと帰ろうとしていたところを、征矢に捕まり、連れられるままこの場所まで来ていた。

「クソ喉渇いてたからありがてー」

 征矢はそう言いながら、グビグビとドリンクバーのジュースを一気に飲んだ。

 孝一も同じようにした。気分ではなかったが、せっかくの食事なのに一人不貞腐れているわけにもいかない。

 炭酸が喉に絡まって、甘さと刺激でたちまち脳が支配された。

「いやあ、惜しかったなあ、今日」

 なんでもなさそうに征矢は言った。孝一はなにも言わなかった。

 謝れば、きっと征矢は「いいよいいよ、そんなの」なんて言って許すだろう。

 それを拠り所にしようとする自分を、孝一は許せそうになかった。

 二人はしばらくの間黙っていた。

 だがそれは不機嫌なものではなく、友人同士の、互いを知り尽くした末の沈黙だった。

 スマホをいじるわけでもなく、ただジュースを飲んだり、テーブルに広がった料理を食べるだけの沈黙。

 やがて、テーブルの上の料理が全て空になった頃、ようやく征矢が口を開いた。

「なにを隠してるんだ?」

 孝一には征矢がなにを言っているのかがわからなかった。

 なにも言えずにいる孝一に対して、征矢はもったいぶって言葉を継いだ。

「俺に、ていうかみんなに隠してること、あるだろ。そろそろ俺にぐらい、言ってくれたっていいんじゃないか」

 孝一は驚きで声も出せなかった。心臓だけが、動かない口を代弁するかのように大きく跳びはねていた。

「……ねえよ」

 なんとか、そう絞り出した。

 征矢にだけは言えない。

 孝一は強くそう思った。小学生時代の失敗が脳裏をよぎる。

 無二の親友との関係を、微妙にしたくない。

 そう思っていた。

 もし、障害を打ち明けたとして、同情の色を見せられたら。

 想像しただけで、孝一は総毛立つ思いだった。

 征矢に限ってはそんなことはないと信じたいが、なにせ「同情」は世間一般では悪いとされていない行為なのだ。

 だから余計、タチが悪い。

 孝一はそう思った。

 その行為が、「お前は憐れまれるべき人間だ」と言うのと同義であることを、人々は知らないのだ。

 別にそれを非難したいわけではない。これは、障害を持つ人にしか理解できない感情だからだ。

 でももし一度でも同情されてしまえば、対等な関係は崩壊する。それを望む人間など、いったいどこにいるというのだろうか。

 だから、孝一はここで、誤魔化すという選択をしたのだ。

 だが、そんなこと征矢はお構い無しだ。小さく笑うと、言葉を続けた。

「誤魔化せねえって。お前が時々不自然なの知ってるし。今日だって、もちろん負けたのは悔しいだろうけど、お前少し異常だったぞ。この世の終わりみたいな顔しやがって」

 うるさい。

 思わず、心中で言葉が洩れた。征矢のことをそんなふうに思うことなんて初めてだった。

「なあ、言っちゃおうぜ。そっちのほうが楽になる」

 そんなわけない。

 しょせん、征矢にはわからないんだ。

 まるで理解者のようにふるまっているが、そんな訳がない。

 だって征矢は運動ができて、頭が良くて、顔が良くて。

 全部持っている人間なんだ。持っているどころか、欠けている人間の気持ちなどわかるわけがない。不完全な人間の気持ちなんて、わからない。

 孝一の心はどんどんと荒んでいく。だが目の前の親友はあくまで能天気だ。それが孝一の癇に障った。ああ、うるさい、うるさい、うるさい。

「お前にはわかんねえだろ」

 ついに孝一はそう言い放った。二人の間ではいつも乱暴な言葉が飛び交うが、あくまで声色は穏やかだ。だが、この時の孝一は敵意たっぷりだった。

 征矢はそれに気づいて、困惑したような表情を浮かべた。頭に血が上っている孝一は、それを見て優越感に浸った。そして、もっと困らせてやりたいと思った。

「悩んだことなんかないだろ? 適当にやってりゃあ上手くいくんだもんな、羨ましい限りだよ。こっちは毎日死に物狂いだっていうのによ」

 征矢は一瞬むっとしたように表情を固めたが、すぐに穏やかな表情に戻った。

「なに言ってるんだよ。いったん落ち着けよ」

 その大人びた対応が、余計孝一を苛つかせた。

 余裕ぶりやがって。

 孝一は皮肉たっぷりに言った。

「これまでにないぐらい落ち着いてるよ。冷静になってようやく、お前が嫌な奴だって気づけたんだ」

 征矢は怒るでもなく、ただ黙っていた。しかし、その目に同情の色が微かに差したのを、孝一は見逃さなかった。ああこいつは自分を責めておかしくなってるんだと征矢の目が言っていた。可憐想に、と言っていた。

 そして次の瞬間、孝一の中で何かが切れた。何の前触れも音もなく、ただ確実に、なにかが変わった。

 バカにしやがって。

「ほら、お前も俺のこと、可憐想な、駄目な奴だと思ってるんだろ? ばっちり顔に書いてあるぜ。俺のこと見て見下してたんだろ? ずっと。自分一人でボタンをつけることもままならない、どうしようもない奴だと思ってたんだろ?」

 もはや止まらなかった。腹の底がどす黒く熱くなって、必要以上のエネルギーとなって孝一の全身に巡った。まるでブレーキの壊れた車みたいに、止まることを知らずにあらぬ方向に向かっている。運転手である孝一はそれを気にもとめない。そんなことより、怒りと嫉妬と屈辱で頭がいっぱいだった。目の前のハンサムな男の顔をどうにか歪めてやりたいという思いでいっぱいだった。

「孝一、一回落ち着け。無理に言わせようとして悪かった。もうそんなこと言わないから、怒るのをやめてくれ。ほら、周りの人たちみんな見てるから」

 征矢は狼狽を隠すのでいっぱいのようだった。周りから徐々に集まる視線を気にしていた。

 孝一はそれを嘲笑った。はん、と乾いた声が出た。声はやけに店内に響いた。

「ほら、周りのことばっか気にしてよ。偽善者だもんな、お前。ずっと不思議だったよ、お前みたいな奴がなんで俺なんかとつるんでるんだろうなって。今ようやくわかった。駄目な奴とつるんでる自分の優しさに浸ってたんだろ?」

 これには、流石に征矢も怒りを見せて顔を歪めた。睨むように孝一を見ている。

 対して、孝一はほくそ笑んだ。

 いいぞ。

 もっと怒れよ。いつまでも余裕ぶってんなよ。ムカつくんだよ。

「俺はそんなつもりじゃ――」

「ああ、お前はそう言うだろうよ。どこまでも自分のことだけの偽善者だもんな。なにひとつ悩むことなんかないくせに、理解してるふりばっかりしてよ」

 征矢の眉がぴくりと動いた。そして、ついに美しい顔を歪めて、孝一のことを睨んだ。

 そうだ、もっと怒れ。俺ごときの挑発に乗ってこい。お前の余裕を、俺が剥いでやる。

「孝一、それお前の本心か?」

 孝一は頷いた。そして憎しみを最大限に込めて、見下すように征矢を睨んだ。

「ああ、もちろん」

 征矢は勢いよく席を立った。その目は孝一を睨んだままだ。美しい瞳にはヘビのような威圧感があった。

 そして、冷ややかに言い放った。

「俺はお前のこと、親友だと思ってたんだけどな」

「ああ、俺もだよ」

 孝一が答えた。こちらは嘲るような声色だった。

「一つだけ言っておく。俺は一瞬たりとも、お前のことを見下したことなんてない」

「ああ、お前はそう言うだろうよ。いい顔してばっかの、偽善者様だもんな」

 すると征矢の目にはっきりとした軽蔑が混じった。

「一つ付け加えるよ。今、初めてお前のことを心から見下してる」

 孝一は征矢を嘲笑う。

「ああ、俺もだ」

 それが最後だった。征矢は怒りを一歩一歩に込めて、大股で店を出ていった。

 孝一の心は満たされていた。

 やった。あいつの余裕を剥いでやった。

 優越感が、まるで湯水のように孝一の身体に染みていく。空虚な部分を埋めていく。

 そして、その代償に、孝一は無二の親友を失った。




 翌日、孝一は佐々木家のソファに座っていた。佐々木に呼ばれたのだ。本当は来たくなかったが、断って前日のことを気にしていると佐々木に思われたくなくて、二つ返事で了承した。

 佐々木は既に家にいなかった。なんでも、辞めたはずの陸上部の助っ人を頼まれたらしい。

 頼まれて断れずに、健太の世話を孝一に任せたということだ。

 健太はリビングで謎のカードゲームを一人広げていたが、そういうことをしているときは放っておいて良いと前もって佐々木に言われていたから、孝一は特になにも言わないでおいた。

 健太の世話をするとは言っても、孝一はほとんどなにもすることがなかった。

 健太は人に迷惑をかけるような人間ではないし、むやみやたらに騒いだりしない。押さえつけたり、なだめたりする必要がないのだ。

 とはいえ、ダウン症の人に一人で留守番させるわけにもいかない。大人しいとはいえ、奇想天外な行動に走ることもある。

 それを監視するために、孝一は呼ばれている。しかし今日は今のところ、孝一の出番は回って来ていない。

 孝一が来てから健太がしたこととすれば、部屋とリビングの往復と、謎の一人カードゲームぐらいだった。

 孝一にとってそれはありがたい状況だった。

 昨日の球技大会を経てから健太に会うのは、やはり気が進まなかった。

 本人にそんな気持ちはないだろうが、見下されているような気がしてならないのだ。もちろん、孝一の被害妄想だ。

 会うことは避けられなくとも、話すことを最小限にできればそれで良かった。

 とはいえ暇だった。なにもしないではいられないと孝一は思った。なにかしていないと、昨日のことを思い出してしまうからだ。

 球技大会のことも、征矢とのことも、全部。

 孝一は別に、征矢との喧嘩を後悔しているわけではない。

 ただ思い出すとやはりいい気はしない。

 孝一はとりあえずテレビをつけた。

 だが、すぐにそれを後悔した。

 画面に浮かび上がったニュース番組では、あの障害者施設の事件が特集されていたからだ。

 テレビを消そうかと思ったが、できなかった。気になってしまって仕方がなかった。

 ナレーションが重々しい口調で語りだした。

「都内で起こった、残酷な殺人事件。全てを計画、実行した犯人の素顔とは? また、その動機とはいったいなんだったのか。なぜ未来ある若者が、殺人を起こしてしまったのか。最新情報をもとに、真実にせまる――」

 テロップもナレーションもわざとらしすぎて、週刊誌の安い記事のような印象を孝一は受けた。だが番組を変えようという気にはならなかった。

 画面が移り変わり、今度はマイクを持った若い男のアナウンサーの姿が映った。その背景が事件の起きた障害者施設だと、孝一はすぐに気づいた。

「こちらが、事件の起こった障害者施設です。今は何事もなかったかのように活動を続けているこの場所が、残酷な殺人事件の現場となったのです。いったいなぜ、〇〇容疑者は犯行を起こしてしまったのでしょうか」

 アナウンサーが明瞭な発音でそう言った。重大そうに顔を厳しくしていたが、本当に重大だとは思っていないだろう、と孝一は思った。

 次に切り替わった画面は、インタビューの画面だった。場所はどうやらテレビ局のようだった。

 ナレーターが言った。男の低い声だった。孝一は何度かテレビでこの声を聞いたことがあった。

「私たちは、〇〇容疑者の高校時代の友人に独占取材しました。同級生が語る、残酷な殺人鬼の素顔とは?」

 安いテロップが画面右上に配置され、中央にはラフな、本当に私服といった感じの無地の黒いシャツのみが映された犯人の同級生が佇んでいる。

 そしてきっとインタビューが本職でないであろう、ぼそぼそとした男の声が、同級生に向かって聞いた。

「高校時代の○○容疑者の印象はどんなものでしたか?」

 同級生が答える。加工されてはいるが、男の声だとすぐにわかった。

「いたって普通の人でした。むしろ、心優しいと言っても良いぐらいです。特に問題はなさそうでした」

「ちょっと危ない行動だとか、犯罪につながるような行動はみられなかったのですか?」

「そんなまさか。○○が犯罪者になるだなんて思っていた人は、少なくとも同級生にはいなかったはずです。人が良かったですから」

「ではなぜ、〇〇容疑者は凶行に至ったとお考えですか?」

 同級生は少しの間黙った。そして考えを巡らせたような間のあと、控えめに言った。

「……正直、問題があったんだと思います。殺された人たちにも。病気を持っていたのだからしょうがないことだと思いますが、〇〇が入居者の人々から様々な暴力を受けたことがあると、本人の口から聞いたことがあります」

「それは本当ですか?」

 同級生のシャツと肩が少しだけ揺れた。画面には映っていないが、どうやら頷いたらしい。

「本当です」

 すると画面が切り替わった。整髪剤で髪を固めた短髪のアナウンサーが、スポーツマンらしい広い肩幅をスーツに包んで、厳しい目つきでこちらを覗いている。

 そして重苦しく口を開いた。厳しい目つきとは対照に、口調は痛ましげだ。

「痛ましいこの事件に関する容疑者の動機は、未だ公開されていません。ですがもしも、先ほどのインタビューで語られたことが動機だとするなら、容疑者もまた、被害者の一人なんじゃないでしょうか」

 アナウンサーがそう締め括り、特集は終わった。次に流されたニュースは旬の野菜の値上げに関するものだったが、孝一の耳には入ってこなかった。

「やっぱりか」

 思わず声が洩れていたが、健太はカードゲームに夢中で、反応しなかった。当の孝一自身も、自分が言葉を発していたことに気づいていなかった。

 孝一はただ思いを馳せていた。確かな重りが心にのしかかってきて、にわかに息が苦しくなる。

 ――どうしようもない連中だから殺した。

 犯人の供述が脳内で蘇った。

 あながち間違いじゃなかったんだ、と孝一は思った。

 犯人の動機には、おかしなところなんて一つもなかった。それどころか、正当性がある。

 孝一は知っている。障害者の暴力が時に加減の知らないものであるということを。

 彼らには言葉が通じないこともあるということを、知っている。

 犯人はきっと、そんな人たちを介護することに疑問を感じていたのだろう。そして、どこかでそれが爆発して、凶行に至った。

 障害者を介護する人であっても、そう思うのか。

 諦めの感情が心に広がる。孝一の人生で一番長く付き合ってきた感情だ。

 できないことに対する諦め。

 人より苦労することに対する諦め。

 差別されることに対する諦め。

 全部を含んで、孝一にのしかかった。

 そして思い出してしまう。

 クラスメイトたちの責めるような目を。

 無二の親友だった男の、見下すような目を。

 すると孝一はつい先日、道端で吐いたことを思い出した。あの時と同じ吐き気が孝一を襲った。

 全部吐いてしまいたくなった。魂ごと、全部。

 その時、孝一の右耳に声が飛んできた。

「こいち。どしたの?」

 健太の声だった。孝一は驚きのあまり声も出なかった。

 健太に話しかけられること自体がそもそも稀なのに、なにかあったと見抜かれた。

 前にも佐々木が同じように話しかけられていた。

 ダウン症の人は感情を読むのが得意だとは聞いていたが、正直、ここまでだとは思っていなかった。

 孝一は動揺を隠しながら、なんでもないよ、と返す。しかし、健太はそれが嘘だと見抜いているようだった。心配そうに眉を近づける。

「ほんとに? おちこんでない?」

 孝一はどう答えようか迷って言葉に詰まった。

 なんと答えるのも不正解な気がして、なにも言えなかったのだ。

 沈黙を落ち込んでいる証拠と受けたのか、健太が優しく、言い聞かせるように言った。子どもが自分より小さな子どもに物を語る時のように、微かに誇りが混じった声だった。

「だいじょうぶだよ。この家にいれば、落ち着くよ。明るくて、落ち着くんだあ」

 健太はそう言うが、孝一はどちらかというと寒色系の方が落ち着く性分だったから、同調はできなかった。黙っていると、健太が尚も言葉を継いだ。

「おちこんでるなら、野球したほうがいいよ! げんきでるよ!」

 励まそうとして言ったのだろうが、孝一は余計に落ち込んだ。

 初めは、気分を上げようとして受けた仕事だったのに。

 孝一はそう思わずにはいられなかった。

 いつの間にか、健太は孝一の劣等感の引き金になっている。

 罰が当たったのだといえば確かにそうだった。最初から見下そうとしていた孝一が間違っていたことなど明白だった。

 しかし、孝一は納得がいかない。

 思わず、心中で吐き捨てる。

 なんでそう、ポジティブになれるんだ。

 まるで障害者であることに劣等感を抱いているのがおかしいみたいじゃないか。

 そんなこと、ないはずなのに。

 致命的な欠点でしかないはずなのに。

 だが目の前の小柄な青年は、まるでハンデを背負っていないかのような口ぶりだ。

 きっと知らないんだ、と孝一はまたもや思う。

 健太くんはきっと知らない。世界が障害者にとってどれだけ辛いものなのか。

 健太くんが生きているのは、同じ人間ばかりの、狭い世界なんだ。佐々木や真里さんが必死に彼を守っている世界なんだ。

 きっとそれだけの違い。

 同じ、世界から弾かれた人間。

 同じ、「 生きていたってしょうがない」人間。

 だったら俺も、狭い世界で生きていたかった。だが、それは叶わない願いだ。端から見れば孝一は右足を軽く引きずって歩くだけの、不器用で運動神経の悪い人間なのだ。健太のように知的障害があるわけではない。

 そんな人間は、狭い世界で生きていてはいけないのだ。

 ひっそりと朽ちていくのを誰かが助けてくれるわけではない。健太にとっての佐々木のような、真里さんのような存在はいない。

 健太と同じ、世界から爪弾かれた人間だというのに。

 気が滅入りそうだった。世界がどれだけ自分にとって醜悪な環境なのかを思い知って息が苦しくなった。

 するとその時、孝一のポケットが二度振動した。スマホがメッセージを受信したらしい。

 ほとんど反射的に、孝一はポケットに手を突っ込んで四角の液晶画面を取り出す。メッセージは佐々木からのものだった。

 メッセージアプリを開く。『佐々木』と表示された文字をタップする。トーク画面が浮かび上がる。

 そこに表示されたのは一枚の写真で、赤色の、陸上部指定のジャージ姿の佐々木がトロフィーのようなものを掲げて、他の陸上部の女子と笑顔でこちらを向いていた。明らかに学校用の笑顔を、佐々木は浮かべていた。写真に映る佐々木以外の三人の女子は三年生で、孝一も多少面識もある。

 孝一は目線を写真からその下のメッセージへと下げた。

『おかげさまで、リレー地区大会一位でした』

 はは。

 孝一の口から、乾いた、半笑いのような声が洩れた。

「すげえや」

 孝一は素直にそう思っていた。

 それと同時に、どこか裏切られたような気持ちを抑えられない。

 佐々木は容姿にも運動神経にも恵まれているが、自分と同じ、人に言えない秘密を抱えた仲間同士だと思っていた。

 肝心なところで、どうしようもない理由で上手くいかない仲間だと思っていた。同類だと思っていた。

 だが、今佐々木は立派にトロフィーを掲げている。

 俺が、自分の価値を信じられずにいる間に、佐々木は凄いことを成し遂げてみせたのだ。助っ人としての役目を果たしてみせた。

 なんで、こんなにも違うのだろう。

「生きていてもいい」人間と俺の違いはなんなのだろう。

 本能がすぐに答えた。

 ――そんなの、決まってる。

 ――障害者であるかどうかだ。障害者に、生きている価値なんてないんだから。

 心はもう、反論してくれなかった。

 暖色系の部屋が、自分を嘲笑っているように思える。

 世界から拒絶されている二人を、蔑んでいるように思える。

 たまらなくなって、孝一は窓の外を覗いた。

 昼空は、梅雨のくせに憎らしいくらいに晴れていた。

 漫画や小説なら、雨が降ってくれるのに。

 俺に寄り添ってくれるはずなのに。

 どうやら現実はどこまでも、俺の敵らしい。

 孝一は生まれたその時から自らに不条理を与えてきた世界を睨んでいた。




 それからどれぐらい時間が経っただろう。孝一にしてみれば数時間にも思えたが、五分しかたっていないと言われても妙に納得してしまうような、矛盾した時間感覚の中に孝一は存在していた。

 正確な時間経過はよくわからないが、とにかく、ドアの開く音で孝一は現実に立ち返った。佐々木が帰ってきたのだ。

「ただいま」

 その声はいつもより少しだけ張りがあるように感じられた。きっと一位がよっぽど嬉しいんだろう、と孝一は思った。

 佐々木は洗面所で手を洗うと、すぐにリビングに戻ってきた。孝一はなるべく顔を見たくなくて、ソファに座ってスマホをいじるふりをしていた。健太はいつの間にか部屋に戻っていて、リビングには孝一と佐々木の二人しかいなかった。

「孝一くん、ありがとね。わざわざ来てくれてさ」

「それより、おめでとう」

 孝一は無理に明るい声を出した。虚しく響いていないだろうか、と心配になったが、佐々木は気にしていないようだった。

「いやあおかげさまで」

 声は例のごとく静かだったが、やはり嬉しさがにじみ出ている。対照に孝一は惨めになっていく。裏切られたような気持ちでいっぱいだった。

 同類だと思っていたのに。

 佐々木がそう言い始めたのに。

 ちらりと顔を上げた拍子に、孝一の視界に佐々木の持つ表彰状が入った。それが余計孝一を刺激した。

 孝一はあんなもの一つも持っていなかった。持つ権利すらないのだと、自分では思っていた。

 だが、今目の前で、自分と同類であると自ら言った少女がそれを手にしている。

 嘘つき。

 孝一は真っ先にそう思った。

 同類なんかじゃないじゃないか。

 孝一はそう言いたいのを、なんとか堪えなくてはならなかった。

 だが佐々木は、孝一の心が荒んでいることなど知る由もない。いや、普段なら気づいたかもしれないが、この時の佐々木は気分が高ぶっていて、そんなことには気が付かなかった。

「いやあ、ぎりぎりだったんだよね。アンカーだったんだけど、走るのは久しぶりだったからさ、不安だったんだけど。最後の直線で抜いて一位になってさ。嬉しかったなあ」

 もはや無表情な少女はどこにもいなかった。孝一はそのことにも裏切られたような気分でいたが、考えないようにしていた。

 へえ、とか、良かったじゃん、とか、適当な相槌で、話が終わるのを待っていた。帰れるようになるのを待っていた。なんとかぎりぎりで、爆発寸前の感情を押さえつけていた。

 佐々木は尚も続ける。さっきまでは喜びを抑えがちな声だったが、こればかりは弾んでいた。

「あと、お母さん、退院の目途が立ったんだって。来月の終わり。これでやっと、解放だよ。部活にも戻れるかも」

 この一言が、決定的だった。

 裏切られた。

 孝一は瞬時にそう思った。

 解放なんて、俺には来ない。一生、縛られなくてはいけない障害を抱えて生きているのだ。それを、仮にも同類だと自分で言ったのに、解放だなんて。

 孝一はいつかの佐々木の言葉を思い出す。

 ――要は、中途半端なんだよ、私たち。

 違う。中途半端なのは、俺だけだった。

 今となっては荒唐無稽な、酷い笑い話に思えてきた。

 ははは、と乾いた笑いがこみ上げてくるのを止められそうにはなかった。

 嘘つき、嘘つき、嘘つき。

 その言葉が何度も孝一の脳をめぐる。裏切られたという実感が湧き水のように溢れて来る。冷たい怒りと失望が溢れてくる。

 だが、佐々木はそんなことは知らず、なおも口を開きかけた。それを見て、孝一はもう我慢できなかった。

「もういい!」

 恐らく、孝一の人生の中で最も大きい声だった。気づけば孝一は勢いよく立ち上がっていた。

 温かみのあるフローリングが目に入る。それが憎くて、孝一は佐々木を睨みつけた。しかし、佐々木は表情を変えずに、すべて見透かすような目で孝一を見ていた。それがまた憎かった。

 孝一は尚も叫んだ。窓が開いていれば、いや、開いていなくとも、近所中に響き渡るであろうという大声だった。

「なにが同類だよ! なにもかも持ってるくせして、不幸ですみたいな面しやがって。なにが不完全だよ! ちょっとの間の子守りが辛かっただけかよ? それなのになにが同盟だ。良かったな、賞状が貰えて。良かったな、ママが帰ってきてくれて!」

 佐々木は尚も表情を変えない。しかし、その目が揺らいでいるのを孝一は見逃さなかった。佐々木は宥めるように口を開く。

「違うの、孝一くん。私、そんなつもりじゃ――」

「なにが違うんだ! わかったような口きいて、なにもわかってないじゃないか。蔑まれたこともないくせに、なにが同類だよ!」

 孝一はドッジボール大会の、クラスメイト達の目をまたも思い出していた。すべて諦めたような軽蔑する目を、こいつは知らないのだ。

 それなのに、不幸ぶりやがって。理解者ぶりやがって。

「バカにしてたんだろ? 俺のこと。同類だって言われて、初めて理解者を得た気になって喜んでた俺をバカにしてたんだろ?」

 これには佐々木は首を何度も横に振っていた。「違う」と言っていた。だがそんなこと、孝一にはもはや関係なかった。

「お前はスポーツもゲームもなにもかも楽しめるじゃないか! ダウン症の兄を持つのが辛いって? 甘えるなよ、俺で良ければいつだって代わってやる。こんな不完全な身体、くれてやるよ。どうだ、欲しくなったかよ? ならないだろ?」

 孝一はほとんど嘲っていた。心臓と感情だけが先走って声が震えていた。噴火を何度も繰り返す活火山のように、孝一の激情は何度も爆発する。形を変え、言葉を変え、爆発する。

「それが答えなんだよ! いいか? 俺たちは同類なんかじゃない。俺だけが、不自由で不完全なんだ。お前はそうじゃない。ごくごく限定的な不幸で、悲劇のヒロイン気取ってるだけだ。俺は一生ものの不完全を抱えて生きなくちゃいけないんだ。お前なんかと一緒にするな!」

 佐々木は少しだけ顔を歪めたが、すぐに平静に戻った。孝一にはそれが憎くて仕方なかった佐々木は力強く言う。

「違う。私、そんなこと思ってない――」

 だが、その声はもう、孝一には届いていなかった。孝一はただただ目の前の少女に対して怒っていた。虚しさと怒りがないまぜになって、色を混ぜすぎた絵の具みたいに、ドス黒い感情の渦の中に埋もれていた。

 孝一は自分の不自由さをこれまでの人生で何度もなぞってきて、心に深い溝を作っていた。今度も、その溝の中で孝一はうずくまっていた。そんな状態で、佐々木の声は聴けるはずもなかった。

 孝一は怒り狂ったまま、玄関へと向かう。

 視界に入るもの全てが忌々しかった。全部壊してしまいたい衝動に駆られたが、なんとかこらえた。

 そして、「待って」と引き留める佐々木も無視して、孝一は外へと出た。

 そして、空をまっすぐ睨みつけた。恐ろしいほど青々しい空がそこにはある。もし触れてしまえば、全身が染まってしまうような、清々しい青。

 その青が憎かった。空気を読まない太陽が、白々しく穏やかに浮かぶ雲が憎かった。

 世界が憎かった。征矢が憎かった。佐々木が憎かった。この身体が憎かった。

 その全部に対して、孝一は吐き捨てる。

「くそくらえ」

 唾が飛んで、アスファルトのどこかに消えた。




 六月も終わろうかという頃、孝一は自宅のソファで仰向けに寝転んでいた。全身の力が抜けており、まるで人形のようにだらりと腕を垂らしている。

 孝一の家は健太と佐々木の家とは対照的に、どこか冷たい印象を持つ家だった。家具は基本的に黒で統一され、壁は雪のように白かった。

 なにもしたくない。

 無気力が孝一の身体中を支配していた。

 孝一は今日、生まれて初めて療育園をサボった。

 自分の「できない」と向き合うのがどうしても嫌だったのだ。

 今そんなことをしたら、その場で自分の右手を切り落としてしまうかもしれないとすら思っていた。それぐらい、嫌だった。

 かといって、他になにかしたいのかというと、そうではなかった。

 なにもしたくないし、なにをすべきかもわからない。

 最後に健太と佐々木の家を訪れた日から、孝一はずっとそんな気持ちに陥っていた。

 結局、無価値なのは俺だけだったのだ。

 不完全な人間なのに、生きていていいのかわからない。

 ただ朽ちていきたかった。消え去ってしまいたかった。

 心のどこかに、あの殺人事件の犯人の言葉が常にある。

 脳の深くに、宇佐美のがっかりとした瞳が常にある。

 胸の中に、征矢の蔑むような目が常にある。

 目の奥に、佐々木の感情のない表情が常にある。

 それが孝一を苦しめていた。なにかをするたびに、動きの鈍い右半身を気にするようになってしまった。誰かがバカにして笑っているんじゃないかと考えてしまうようになった。

 どこまでも孤独だった。唯一の親友はもういない。同類だと思っていた同盟相手ももういない。辛くなった心を慰めてくれる存在はもういないのだ。孝一は征矢と佐々木にあんな物言いをしたことを、心底悔やんでいた。

 全部自分の問題なのに、征矢を、佐々木を悪者にしてしまった。

 俺が嫉妬ばかりの浅ましい人間だから、傷つけてしまった。

 ここまで後悔しているのに、謝ることはできなかった。

 謝って、もし許されなかったら。

 そう考えてしまうとなにもできなかった。

 それぐらいのことを俺はしてしまったのだ。

 もしかしたらこの状況も、その罰なのかもしれない。

 そう思ったが、すぐにそうではないと思いなおした。

 罰ならもう喰らっているからだ。生まれたその時から、ずっと。

 不完全な身体で生きていかなくてはならないという厳罰。

 世界のほとんどの人が、喰らわなくてもよい厳罰。

 それをなぜ、俺が引いてしまったのだろう。

 世界とはなんて不条理なのだろうと思う。

 通常の人間が楽しめるスポーツもゲームも、なにひとつ満足に楽しめないのだから。

 運動部を見ると心が苦しくなる。ゲームの話が聞こえると泣きたくなる。

 そんな状態はずっと前からあったが、最近はさらにひどくなっている。

 満足に息ができなくなるのだ。劣等感が気管を塞ぎ、肺を圧迫してしまう。

 ああ、終わりたい。

 孝一はソファの上で虚空を見つめながらそう思った。

 全部終わらせてしまいたい。人生も全部。

 だってもう無意味じゃないか。「生きていたってしょうがない」んだから。

 心が圧迫されている。まるでどこにも居場所がないみたいに、劣等感においやられている。

 その時、孝一のスマホが左ポケットの中で震えだした。ぶー、ぶー、と規則的に音を立てて揺れている。

 孝一はスマホを取り出して画面を覗いた。そこに浮かんだ表示名に驚いて、思わず起き上がった。

『角田先生』という表示は、少なからず孝一を困惑させた。

 たしかに昔に連絡先を交換した覚えがあるが、連絡を取ったことなど一度もない。それがなんで、急に電話なんか。

 きっと療育園をサボったからだ、と孝一は思った。

 電話に出ようか迷ったが、ここで無視をして、あとで親に連絡されても困る。仕方なく、孝一は電話に出た。

「もしもし」

「ああ孝一くん。もしもし、大丈夫? 元気?」

 角田先生は相変わらず、少女のような声をしていた。電話越しに聞くとますます若々しくて、一瞬孝一は違う人が出たのではと思ったほどだった。

「いや、ちょっと熱が出ちゃって。すみません」

 孝一は特に声色を変えずにそう言った。どうせ仮病はバレていると思っていたから、開き直っていた。

「そう。安静にしてね。今までなかったことだからびっくりしちゃったよ」

「すみません」

「健太くんも心配してたよ」

 孝一の心臓が跳ねた。今、その名前は最も聞きたくない言葉のうちの一つだった。

 角田先生は孝一がなにも言わないとみると、言葉を継いだ。

「仲がいいんだってね。健太くんが嬉しそうに話していたよ」

 やめてくれ。その話をしないでくれ。

 思いつつ、はい、となるべく平坦に答えた。動揺していると思われたくなかった。

「ありがとうね、孝一くん。あの役目を引き受けてくれて。文句ひとつ言わずに来てくれるらしいじゃ」いか。相変わらず優しいんだね」

 違うんだ。

 孝一は叫びたくなったのを堪えなくてはならなかった。胸が針山になったみたいだった。刺すような痛みが幾度となく押し寄せる。

 俺は見下していたかったんだ。自分より重大な障害を持つ青年のことを。

 安心したかったんだ。俺はまだマシなんだって。

 助けたいとか、そんなんじゃないんです、先生。俺はどこまでも矮小で独りよがりな人間なんです、先生。

 全部言ってしまいたかった。

 でも、もし先生にまで見下されてしまったら。

 そう思うと言えなかった。

 自分が情けなくて仕方なかった。消えてしまいたかった。

 全部、障害のせいなんだ。

 そう、醜くも叫んでしまいたかった。だって実際、そうなんだから。

「孝一くん」

 電話越しの先生の声がやけに明瞭で、孝一の意識が現実へと戻った。いつまでも自分の敵である、世界へと戻った。

「今日はサボりかい?」

 声は軽かった。いつもの、少女のような声だった。だが、急に核心を迫られた気がして、孝一は多少動揺する。

 孝一がなにも言わずにいると、責めているわけじゃないんだよ、と先生は優しく付け加えた。

「そういう時期はあるものと理解しているよ、むしろ正常なことだと思うんだ」

 うるさい。理解なんかできるはずない。先生は障害者じゃないんだから。

 孝一は虚しさと悔しさと怒りの間で揺れていた。ドロドロとした塊が、孝一の身体の中心で渦巻く。

 そしてそれは、言葉となって口から放り出された。熱くぐつぐつとした感情だったのに、出てきた声は自分でも驚くほど冷たかった。

「理解なんかできるはずない。だって、先生は障害者じゃないんだから」

 言うつもりのない言葉だったのに、出してしまったあとの気分は思ったよりも清々しかった。

 ずっと抱えてきた本音だからだ、と孝一は思った。

 誰も俺の気持ちを理解することはできないのだ。だって、みんなは完全な人間なんだから。

 角田先生も征矢も佐々木も、みんな完全な人間なんだ。欠陥を抱えた人間の気持ちなんかわかるはずもない。

 孝一はもう止まらなかった。言葉が次から次へと、まるでダムが決壊したかのように溢れてくる。

「俺の気持ちは俺にしかわかんないんだ。俺がどれだけ一人で戦っているのかは、俺にしかわからないんだ。憐れまれる辛さがわかるのは俺だけなんだ。先生も征矢も佐々木も、みんななに不自由ない体を持ってるじゃないか。ダウン症の兄を持ったからなんだ。その程度の苦労、喜んで代わってやるさ。秘密を言ってくれだって?冗談じゃない。知らないんだ、みんな。障害者に対して、慢性的な差別があることを。それを向けられる辛さを。不自由な身体を持つ辛さは俺にしかわからないんだ。それなのに、理解してるだなんて、軽々しく言わないでくれ」

 先生に対してこんなに声を荒げたのは初めてだった。だが、角田先生自身は落ち着いていた。繰り出された電話越しの先生の声は、もう少女のものではなかった。落ち着き払った、大人の声だった。

「そうだね。孝一くんはなにも間違ってない。私は障害を専門とする医者だけど、障害者の苦しみは言語化できないし、わからない。でも、医者ですらそうなのに、いったいこの世界の誰が、障害者は不自由だなんて決めつけているんだろうね」

 一瞬、なにを言っているのかわからなかった。なにを言おうとしているのかわからなかった。いや、正確にはわかっていた。だけど、あまりにも現実とかけ離れている言葉だったから、脳が理解を拒んでいた。

 決まってるじゃないか。

 孝一の頭に一番に浮かんだ言葉はそれだった。

 障害者が不自由だと決めているのは、世界だ。そして、それは一点の曇りもない真実なのだ。

 なに一つ間違っていない考えだという確信があった。実感もあった。だが、声に出してそれを言うことはできなかった。なぜなのかはわからない。ただ、言葉が喉の奥につかえて出てこなかった。

 先生は孝一の答えを待たずに言葉を継いだ。その声は、いつもの先生からは大きくかけ離れた、いつになく真剣な声だった。

「残念ながら私は、これ以上孝一くんになにも言うことができない。孝一くんの言うとおり、私には孝一くんの気持ちが理解できないからね」

 先生の声には確かな悔しさが混じっていた。先生は言い聞かせるように続ける。

「いいかい孝一くん、よく考えるんだ。よく悩むんだ。それがきみの力になる。答えは、きみの中にしかないんだ。だって、きみは特別な人間だから。はっきり言おう。きみは障害者だ。ハンデを背負って生きていかなくちゃいけない人間なんだ。私はそうじゃない。大多数の人がそうじゃない。誰も救いをくれないんだ。救いは、きみの中にしかないんだ。自分で考えるしかないんだ。どこまでも一人で考えるしかないんだ」

 孝一はなにも言わない。なにも言えなかった。

「じゃあね、孝一くん。このあと診察があるから、これ以上話すことはできない。また来月、療育園で会おう。きみなりの答えが見つかることを祈ってるよ」

 先生はそれだけ言い残して、電話を切った。

 そして、孝一が角田先生の言葉の意味を考える間もないうちに、もう一度スマホが震えだした。示し合わせたみたいな完璧な入れ替わりだった。

 孝一は画面に映し出された名前を見て、角田先生の時よりずっと驚いて、思わず声を洩らしていた。

「……なんで」

 もう二度と、連絡なんて来ないと思っていたのに。

 最後に会った時、あんなにひどい仕打ちをしたのに。

 孝一は電話を出たべきか迷った。でも結局、震える指先で電話に出た。そしてスマホを耳に押し当てる。

「もしもし」

 あの無感情な声が孝一の鼓膜に届く。安心するような、気まずいような気持ちに陥る。

 孝一がなにも言わないうちに、佐々木は言葉を重ねた。

「来週の日曜、九時に市民球場に来て」

 それだけだった。そして孝一がなにも言わないうちに、佐々木は電話を切った。

「え」

 思わずこぼれたその声は、一人だけのリビングによく響いた。

 つー、つー、という音が、他になんの音もない世界の中で響いている。孝一の耳に、その音はいつまでもこびりついていた。




 日曜、九時の五分前に、孝一の視界に市民球場が入ってきた。そこでようやく孝一は手に持ったスマホのナビゲーションアプリを閉じた。孝一の額には汗が滲んでいる。初旬とはいえ、もう七月だ。今日の最高気温は三十五度に達するらしい。

 市民球場は孝一の家から歩いて二十分ほどの場所にあった。地元ではあるが、孝一にとっては馴染みのない場所だった。

 いったいなんのために呼び出されたのか、孝一には検討がつかなかった。だが、最後に佐々木に会った時の記憶は決して良いものではない。だから、球場に一歩近づくたびに、心臓は重みを増していった。

 今朝も散々、孝一は球場に行くべきかどうか迷った。なにせあの時は事情を聞く暇もなく電話を切られてしまったのだから、なにが目的で呼ばれたのかわからなかった。なにより佐々木に会うのが怖かったし、嫌だった。

 一歩一歩、球場が大きくなっていく。そして、佐々木の姿を孝一の目が捉えた。

 佐々木も孝一を見つけたようで、孝一に向けて手を振ってきた。ついこの間、孝一が声を荒げたことなど忘れているかのような軽やかな仕草に、孝一の胸が痛みを感じる。それを振り払うように、孝一は早歩きになった。

「久しぶり」

 先にそう言ったのは佐々木だった。相変わらずの感情の乏しい声色に、孝一は安心と戸惑いの両方を覚えた。

 孝一はなんと言えば良いかわからなくて、曖昧に会釈をするだけに留めた。

 気まずくて仕方なかったが、佐々木がなにを思っているか、乏しい表情からはなにも読み取れなかった。

 佐々木は大人びた白いカジュアルなワンピースを着ていた。普通の中学生では似合わないであろう服装だったが、頭抜けて大人びた顔立ちの佐々木にはぴったりな服装に思えた。

「中、入ろ。チケット代、かからないらしいよ」

 孝一は戸惑った。なんの話をしているのかわからなかった。

 野球場に来てチケットというのだからこれから野球を見るのだろうということはわかったが、なんの試合なのかがわからない。それに、健太の姿が見えないのもおかしな話だった。佐々木よりも孝一よりもずっと野球が好きなはずの健太くんがここにいないのは変だ。

 その時、佐々木は孝一が戸惑っていることに気付いたようだった。そして、今思い出した、とでも言うように目を開いて、「ああ」と小さく洩らした。

「なんの試合があるのか言ってなかったんだっけ」

「試合があることすら知らなかったよ」

 少しだけ緊張しながら、孝一はそう返した。会話するとどうしても、最後に話した時のことが蘇ってしまう。

 だが佐々木はそんなこと気にしていないようで、平坦に言葉を返した。

「あれ、そうだったっけ」

 とぼけてるな、と孝一は思ったが、なにも言わなかった。

「お兄ちゃんの試合だよ、野球の。いわゆる最後の夏ってやつ」

 これには孝一は声を上げずにはいられなかった。

「健太くんの試合?」

 ありえない、と孝一は目を見開いた。野球の大会に支援学校が出場するなんて、聞いたことがない。

 佐々木は頷く。

「うん。初めてらしいよ、支援学校が甲子園の予選に出るのって」

 なんでもなさそうな口調だったが、俄かに信じ難いことだった。

 そもそも、勝負になるのか、と孝一は思う。

 大敗を喫するだけなんじゃないか。

 大勢の前で恥をかくだけなんじゃないか。

 そう思わずにはいられなかった。

 孝一は自身のドッジボール大会を思い出した。

 あの時の劣等感、恥、諦念。

 あれを受けるだけなんじゃないのか。

 健太の人懐こい、幼い笑顔を思い出す。

 あの笑顔が劣等感に染まるところなど、見たくなかった。

 想像しただけで身体がぶるりと震えた。

 そんな孝一の肩を、佐々木が軽く叩いた。それによって孝一は現実へと立ち返った。蝉がやけにうるさいのにも、その時気づいた。そう、もう夏なのだ。

「とりあえず、早く入ろ。試合、始まっちゃうから」

 そして孝一は促されるまま、球場に入った。

 入り口から入って、階段を登ってすぐに見えるグラウンドは壮観だった。

 野球のグラウンドはこんなに大きいのか、と孝一は驚かずにはいられなかった。

 孝一の父親は野球好きだから、孝一自身テレビ中継は何度も見てきたが、実際にグラウンドを見るのは初めてだった。

 内野は綺麗に整備されていて、外野の芝は短く刈り取られているこの球場は、実は市民球場としてはとても規模の大きい良いグラウンドなのだが、野球に疎い孝一はそんなことは知らず、野球場とはこういうものなのか、と驚嘆していた。

 どうやら健太たちの高校は三塁側が応援席らしく、孝一と佐々木は三塁側の席に腰掛けた。青色のプラスチック製の席は座り心地が悪かったが、孝一は特に気にしなかった。

 周りを見ると、母親らしき人たちがまばらに座っていた。どの人もまだ試合前だというのに、まるで終盤の大ピンチの場面を見ているかのような、緊張した面持ちでいた。

 それもそうだろう、と孝一はその心中を慮った。

 我が子の初試合なのだ。緊張するなという方が無理であろう。それに、子どもたちはどれも障害を抱えた子どもなのだ。それがこの炎天下で試合など、心配になるのも当然だ。

 緊張した顔の保護者たちの中で、隣に座る少女だけは普段通り無表情のままでいた。その顔を見つめていると、先日の声を荒げた自分の声が脳内に蘇ってきて、孝一は慌てて誤魔化そうと視線を他へやった。その視界に電光掲示板が入る。電光掲示板には二つの高校名が表示されていた。一つは健太たちの学校で、一つは隣の市の高校だった。孝一もその高校の名前は知っていたが、野球が強いという話は聞いたことがなかった。公立のそれなりの進学校だという話しか孝一は知らなかった。

 孝一は向かい側、一塁側の席を確認する。席はこちら側より空白は目立っていなかった。恐らくベンチ外であろう坊主頭たちが数名いたからだ。

 当たり前だが、こちら側にベンチ外と思わしき人は見当たらなかった。そもそも人の少ない支援学校で、野球をやっている生徒が二十人も三十人もいるとはとても思えない。

 そしてやがて、グラウンドに選手たちが入ってきた。

 相手高校の選手達だ。キビキビとした仕草で走るその様はまるで鍛えられた軍隊みたいだった。

 孝一は健太の緩慢な動きを思い出して、どうしても比べてしまう。とても太刀打ちできるとは思えない。

 選手達はノックを始めた。声を上げながら行われる素早い動きのノックに、孝一は思わず惚れ惚れと見ていた。

 そして少しすると、アナウンスが入った。

 たかだか高校野球の一回戦でアナウンスなんか入るものなのかと孝一は思ったが、特になにも言わずに、球場中に響くアナウンスを聞いていた。

 アナウンスは最初に、相手高校のスターティングメンバーを発表した。しかし、誰一人として知らないので、孝一はほとんど聞いていなかった。

 それが終わると、相手高校の選手達はまたキビキビとした動きで、今度はベンチに戻っていた。

 次は、健太の高校の番だった。

 だが、ベンチから出てくる動きはスロウそのもので、どうも頼りない。

 孝一は相手側のベンチからのため息が聞こえてくるようで、気が気でならなかった。

 健太くんの姿をはすぐに見つかった。なにしろ、どうやらポジションはレフトのようで、孝一達の席からよく見えるポジションだった。

 健太達の高校のノックが始まる。

 思った通り、ノックの動きはひどく悪かった。捕球のままならない選手もいたし、送球など、ほとんど全員が目も当てられないほど酷かった。

 孝一は他人事なのに、まるで自分ごとのように胸を痛めていた。

 今すぐやめた方がいいと叫びたくなった。どうせ恥をかくだけなんだから、と教えたくなる。

 だが、そんなことはできるはずもなく、孝一は流れ始めたアナウンスに耳を傾けることしかできなかった。

 一番、センター、日江島くん、二番、セカンド、田村くん、三番、キャッチャー、広川くん……

 次々に名前が呼ばれていく。

 そして次の瞬間、アナウンスが、高校野球独特のイントネーションでこう告げた。

「四番、レフト、佐々木くん」

 孝一は素直に驚いて、少し胸がざわめいた。野球に疎い孝一でも、四番が名誉ある事だということはわかる。

 驚いたのは佐々木も同じのようで、小さく声を洩らしていた。

「お兄ちゃん、四番だったんだ」

 孝一は佐々木の横顔を盗み見る。佐々木の目は鈍い光を湛えていたが、その口元は緩んでいるように見えた。

 孝一が健太へと視線を戻すと、ちょうど外野のノックが始まったところだった。健太にボールが飛んでいく。

 見ると、健太は他の生徒達よりもよっぽど上手く動いている。もちろん相手選手には及ばないが、チームの中では一番の実力だということは明白だった。

 孝一は驚きながらも、健太の野球に対する情熱を思い出した。

 泥を塗って帰ってきた姿が脳裏に浮かぶ。

 孝一は彼の言葉を思い出す。

 ――打つのも、投げるのも、守るのも好き。上手くできない時もあるけど、それも楽しい。

 どうせ「普通」にすら及ばないのに、どうして。

 孝一はそう思わずにはいられなかった。

 どれだけ努力したって、それはマイナスをゼロに近づけるだけの努力なのに。

 どうして頑張れるのだろう。どうして楽しめるのだろう。

 嫉妬よりも、純粋な疑問としてそう思った。

 やはり知らないのだろう、と孝一は思う。

 世界がどれだけフラットなのか。障害者に優しくないか。

 健太はそれを、まったく知らないのだ。

 そう考えると、これからの試合を案じずにはいられなかった。

 どう考えても、健太達は勝てない。

 そこで健太は初めて知ることになるのだ。世界が自分の味方ではないことを。

 孝一は自身のことを思い返す。

 なにも考えていなかった幼少期から、成長するにつれて徐々に浮き彫りになっていく現実が、分厚い透明な壁となって目の前に現れてきた。

 透明の向こう側には、いつも同級生達が楽しそうにしている。

 孝一はそれを羨ましげに眺めることしかできない。壁は天まで伸びていて、乗り越えることは叶わないのだ。

 同じ思いを、健太はする事になる。

 胸が痛んだ。湧き上がってくる慢性的な劣等感と、健太は戦わないといけないのだ。

 まだ試合が始まっていないのにも関わらずに、孝一の手のひらに汗が滲んだ。

 今すぐ試合を止めてくれ、と叫びそうになるのをなんとか堪えなくてはならなかった。

 自分と同じ思いをする人間が生まれる瞬間など見たくなかった。

 だが思いは虚しく、試合は始まった。

 先攻は相手チームだった。

 一番、ショート、疋田くん、とアナウンスが告げる。

 一番バッターは中肉中背といった感じの選手で、左打席に入った。

 対して、健太達のチームのピッチャーは忙しなく身体を動かしていた。

 発達障害と、知的障害。

 孝一はそう看破していた。

 孝一は何年も療育園に通ってさまざまな種類の障害を持つ人々を見てきたから、どんな障害を持っているのか、一目見ればなんとなくわかる。

 健太の高校で受け入れているのはダウン症の高校生だけではない。むしろダウン症の人は少数だという。その証拠に、スターティングメンバ―には健太以外、ダウン症と見られる人はいなかった。

 プレイボールがかかった。ピッチャーはぎこちないモーションで腕を上げ、振った。

 客席からでも速くないとわかるボールがピッチャーから放たれる。そして、ボールがホームベースを通過しようかと思った次の瞬間、バッターがバットを一閃した。かきん、という金属音を残してぐんぐんとライト方向にボールが伸びていく。

 ライトは緩い動きでボールを追った。だが、やがてフェンスに背中を合わせた。その上を、白球が飛んでいく。

 スタンドインだ。

 歓声が一塁側の席から上がる。だが打った本人は、なんでもないとでも言うように黙ってベースを一周していた。

 ほら、やっぱり。

 孝一は相手打者の小走りを見ながら、そう歯噛みした。

 まさか初球からホームランとは思わなかったが、打ち込まれることは必至なのだ。要は、負けて当然なのだ。

 それなのに、なぜ。なぜ、戦うんだ。

 そう思わずにはいられない。

 孝一はレフトの定位置にいる、健太の姿を見やる。キャップを被っているから、その表情を窺い知ることは叶わなかった。

 次のバッターが打席に入る。相手側の客席から野太い応援歌が聞こえる。

 このバッターも、初球に手を出した。だが、打ち損じてボールはセカンド正面だ。

 ワンナウト、と孝一が思った瞬間、セカンドの選手がエラーした。ボールがグラブの下をくぐって外野へと力なく転がっていく。

 そして、センターの選手が前に詰めてボールを捕ろうとしたが、上手くいかずに手こずった。その隙に、バッターは二塁まで到達していた。

 一塁側の席からは歓声が上がる。対照に三塁側の席からはため息にも似た空気が流れていた。

 孝一はそれを、自身のドッジボール大会と重ねて見ていた。

 ミスするたびに湧き上がる歓声と、肩に重くのしかかるため息。

 思い出すだけで気分が悪くなる。

 今すぐこの場を離れたかったが、そういうわけにもいかない。

 孝一はこの場所に自分を連れてきた佐々木を恨んだ。そして、呼びかけに応じてしまった自身を責めた。

 だが、そうしたところで現状は変わらない。ちらりと横を覗いたが、佐々木は人形のように行儀良く座り、試合の行方を見つめていた。

 その様子に、初めて療育園で佐々木を見た時のことが重なった。佐々木はいつもスマホをいじるでもなく、虚空を見つめていた。もしかしたら今も、見つめているのは試合ではなく宙なのかもしれない、と孝一は思った。

 かきぃん、と金属バットがボールを跳ね返す音が、孝一を現実に引き戻した。孝一は反射のように白球の行方を追う。レフトとセンターの間をボールが抜けていく。健太が懸命にボールを追うのが見える。だが、その足は遅く、その間に溜まっていたランナーが一人生還する。結局、タイムリーヒットとなった。

 健太がボールを掴んで中継に向かって投げた時には、すでにバッターランナーは三塁へと到達していた。

 健太はボールを拾うだけで相当体力を消耗したらしく、肩で荒く息をしていた。

 大丈夫だろうか、と孝一は思ったが、太陽の光がまぶしくて、健太の顔はよく見えなかった。

 孝一は視線を電光掲示板へと移動させた。アウトカウントを示すランプは未だ点灯していない。

 まだまだ続くな、これは。

 孝一は降り注ぐ太陽光に眉をひそめながらそう思った。

 孝一の予想は的中した。結局、相手高校の攻撃が終わったのは、試合開始から三十分ほど経ってからだった。

 孝一は電光掲示板に表示されたスコアボードを見やる。四角の中に二つのアラビア数字の一が、まるで満員電車に乗る人のように、ぎゅうぎゅう詰めに表示されていた。

 十一点。

 孝一は心の中でそう呟いた。なかなか絶望的な点差であることぐらい、孝一にもよくわかる。

 グラウンドに目を戻すと、相手のピッチャーが投球練習を始めていた。左投げの選手のボールは、はっきり言って健太達のチームのピッチャーよりもずっとずっと速いのが、観客席からも見て取れた。流れるような動作からして、ぎこちないフォームとはまったく違った。

 孝一はそれを見て、健太の高校のピッチャーのことを思う。

 今頃健太達のチームのピッチャーは、自分と相手投手を比べて衝撃を受けているのではないか。

 自分がどれだけぎこちないフォームで投げていたのか思い知るのではないか。相手ベンチで笑われているのではないかと、恐怖するのではないか。

 ちょうど、俺がぎこちない歩き方をクラスメイト達にバカにされたときのように。

 健太達の高校の一番バッターが打席に入った。細長い棒みたいな青年。

「よろしくお願いします!」

 その選手は、客席にも響くほど大きな声で審判に向けてヘルメットを脱いでお辞儀をした。あまりないことだからだろう、一塁側の客席が少しざわついていた。

 軽い知的障害だな、と孝一は断定した。きっと教えられたことを素直に守る、いい子なんだと思う。

「良い挨拶だね」

 試合開始からこれまでずっと黙っていた佐々木が急にそう声を上げた。唐突すぎて、孝一は一瞬反応が遅れた。

「ああ、そうだね」

 急にそんなことを言いだして、なにが言いたいのかよくわからなかった。孝一は佐々木に見られないようにその横顔を覗いた。だが、やはりその表情から感情は読み取れない。乏しい表情を補足するように言う。

「でもああいうのって、バカにされがちだよね。私たちの中では」

 考一はまだ佐々木がなにを言いたいのか分からず、少し迷いながら答える。

「まあ、確かに」

 孝一が言い終えるとほぼ同時に、佐々木は口を開いた。

「別に間違ったことなんか一つもしてない、むしろ褒められてしかるべき行動なのに、みんななんでバカにするんだろう」

 それは疑問というより、冷たい怒りのようだと孝一は思った。佐々木は続ける。

「くだらないよね、ほんと。元気に挨拶しただけでバカにして笑ってさ」

 孝一は黙っていた。佐々木がこんな風に怒りをあらわにしているのを、今まで見たことがなかった。

 その時、一塁側の観客席が大いに沸いた。孝一はさっと視線をグラウンドに戻した。どうやら一番バッターが見逃し三振したらしかった。

「でも一番ムカつくのは、それをわかってるのに一緒に笑ってる自分がいること」

 佐々木はさらりとそう言い放った。衝撃的な言葉に、孝一は思わず佐々木の顔をまじまじと覗いた。その顔には珍しく、はっきりと怒りが滲んで見えた。

「結局浮きたくないって思っちゃう。みんなに合わせなきゃいじめられるんじゃないかって思っちゃう」

 孝一は尚も黙っている。なにを言うのも不適切な気がしてならなかった。

「こうやって思ってるのは私だけなのかな。もしかしたら、あの場で笑っている全員が、おんなじこと思ってたりしないかな」

 だとしたら滑稽だね、と続けた少女の声は、ちっとも滑稽になんて思っていなさそうだった。

 その時、金属音が球場に響いた。小さな歓声が上がる。だが打球は前に飛ばず、キャッチャーフライに終わった。

 三番、キャッチャー、とアナウンスの声がこだまする。そんなの聞こえていないとでも言うように、佐々木は更に続けた。

「いつからこうなったんだろう。明確なきっかけなんかなしに、みんなの中に埋もれているのが一番だなんて思うようになったんだろうな、きっと。だから少しでも浮いていたくなくて、お兄ちゃんのこと隠したりするんだ。みんなの中に埋もれてるのがいいだなんて、大間違いなのに」

 まるで自分を責めているみたいな言い方だった。そんな自分のことが許せないとでも言い出しそうな雰囲気があって、孝一には触れられそうになかった。

 その時、またも一塁側の観客席が歓声をあげた。どうやら三番バッターは三球三振に倒れたらしかった。

 先攻の相手高校と比べて、あまりにあっさりと攻撃は終わった。健太が守備に就くのを横目に、孝一は佐々木に呼びかける。

「俺が障害を隠しているのは、間違いだと思う?」

 孝一にはさっきからずっと、佐々木が暗にそう言っているような気がしてならなかった。

 だが、佐々木はなにも答えなかった。相手チームの応援歌で聞こえなかったのか、と思ったが、もう一度言おうという気にはならなかった。孝一は黙って試合を見つめていることにした。

 相手の先頭は六番からで、体格と恰幅の良いバッターだった。今まで二打席連続でヒットを放っている、いわゆる、当たっている(ほとんどの打者がそうなのだが)選手だ。

 ピッチャーがぎこちない動きで腕を振った。

 放たれたボールは大きく上に外れた。キャッチャーが捕ろうとするが、反応が遅く、後ろにそらしてしまう。

 しかしランナーがいないから、なにか起こるわけでもなく、ただキャッチャーがボールを拾うまで試合が止まる。

 孝一は自分がドッジボール大会でボールを逸らした時のことを思い出して胸が痛くなった。キャッチャーが必死にボールを追う姿が自身と重なった。

 そしてキャッチャーがなんとかボールをピッチャーに投げ返した十秒後に、その白球はスタンドへと吸い込まれていった。

 この試合二本目の先頭打者ホームランだった。

 ホームランを打った選手が小走りでダイヤモンドを一周するのを健太が立ち尽くして見ているのが、孝一の目に映った。

 その背中がいつになく寂しげで、孝一の脳裏には野球が好きと言った青年の笑顔が無残にも打ち砕かれる場面が何度もよぎった。

 だが、いかに孝一が沈痛な心持ちになったとしても試合が止まることはない。

 次の打者は初球を振り抜いた。打球はレフトへと飛んでいく。

 健太がその打球を追う。足取りは遅かったが、それでも十分に取れる打球だ。打った打者は一塁へと走りながら悔しそうに自らの太ももを叩いている。

 健太が止まった。落下地点に入ったらしかった。ボールが健太のもとに落ちていくのが客席からよく見える。健太は手を伸ばす。ボールはクラブに収まる。はずだった。

 健太が落球したのだ。グラブがボールを弾いて、白球は短く刈られた芝の上に落ちていく。孝一にはその様子が、ひどくゆっくりに見えた。

 だが、実際はそうではない。打者は健太がボールを落としたのを見ると猛然と加速して走り出した。健太が慌ててボールを拾って送球した頃には、打者はすでに二塁に悠々と到達していた。

 周りの母親達のため息が三塁側の応援席を支配する。孝一はここに真里さんがいなくて心底良かった、と思った。もし自分が真里さんだったら、とてもこの場にはいられない。

 孝一には小柄な健太の背中が、更に小さくなっていくように見えた。背番号が縫い付けられたユニフォームがどんどんと縮んでいく。

 孝一は健太の心中をよく理解できた。

 そして、しょうがない、と孝一は叫びたくなる。不自由な身体で人並みにやろうだなんて無理な話なのだ。孝一自身、そのことをよく知っている。だからこそ、健太の辛さが理解できる。

 健太は落ち込んでいるのか、すっかり俯いてしまっている。

だが当然試合は続いている。ちょうど打者がバットを振る。

 かきぃん、という小気味よい金属音を残してボールが飛んでいく。そしてなんの因果か、ボールはまたもや健太のもとへと向かう。

 孝一は嫌な予感を覚えた。そしてそういう予感はたいていの場合で当たるのだ。

 この時もそうだった。三遊間を抜けたゴロの当たりに、健太は走って前進し、ボールを掴もうとグラブを下げた。だが、健太はなにを見誤ったか、ボールはグラブの下を通過していった。

 健太はそれ気づくと、慌てて振り返ってボールを追う。だが、ボールの勢いが良く、ボールはフェンスまで転がっていく。

 その隙に、二塁走者が生還した。その上、バッターランナーは足が速いのか、既に二塁を回ろうとしている。

 ボールはフェンスに当たって方向を変えた。だが大した変化ではない。健太はのろのろとした、しかし必死の走りでボールに追いついた。だが、相手チームの歓声に焦ったのかボールをなかなか掴めない。やっと掴んでボールを投げた時には打者は既に三塁を回っている。しかも、健太が焦って投げたボールは中継まで届かず、芝の上でバウンドを始めていた。焦っていた健太はボールを投げる時に手を滑らせたのだ。

 そしてボールが芝の上を転がっているうちに、打者は本塁へと生還した。ランニングホームランだ。

 相手チームが歓声をあげる。だが、どこか遠慮がちな歓声だった。ミスをした健太を慮っているような歓声の仕方だった。

 孝一はそれを見ているだけで辛かった。対戦相手に気を遣わせるなんて、これ以上ないほどの屈辱だ。

 孝一は今までの経験を思い出す。 

 下手な同情を受けた時の惨めな気持ちが蘇ってくる。

 同情と理解は、似たようでいて真逆の言葉だ。真に相手を理解している人間が同情することなどあり得ない。

 だから今、健太が受けている同情がどれだけ健太を苦しめているのかを、孝一はよく理解していた。

 そして孝一自身は同情するわけではなく、試合を見つめながら、これ以上なにも起こらずに終わりますようにと祈っていた。

 結局、この回の相手の攻撃で十二点が追加された。

 孝一の願いも虚しく、すっかり自信をなくしてしまったらしい健太はミスを重ねた。

 落球、ファンブル、送球ミス。

 この回の失点のほとんどに健太は絡んでいた。

 きっと健太は自分を責めているはずだ、と孝一は想像する。

 自分のミスでこんなにも点が取られていることに、自分を責め始める。そしてその責めは最終的に、障害を持つ自分自身へと向かっていくのだ。孝一自身、そんな経験にいくつも心当たりがあった。

 健太の子どものような無垢な笑顔が孝一の脳裏によぎる。

 そして、これ以上その顔を歪めて欲しくないと願った。

 自分のようには、なって欲しくない。

 孝一がそんなことを思っている中で、二回裏、健太の最初の打席が回ってきた。

 アナウンスが健太の名前を告げた時、孝一は妙な気持ちになった。知り合いがテレビに出たらこんな感じなのだろうと漠然と思った。

 たどたどしく打席に入る健太を見ながら、頑張れ、と孝一は心の中で念ずる。

 あれだけミスを重ねてしまったのだから、是が非でも塁に出たいはずだ。少しでもチームに貢献できれば、少しぐらい、自責の念は弱まるはずだ。

 これ以上惨めにならないために、打ってくれ。

 孝一はほとんど身を乗り出してそう祈っていた。

 だがしかし、健太は筋力が弱いからか、バットを持っているのだけで精一杯に見えた。とても相手のボールを打てるとは思えない。

 初球、放たれたボールを健太は見逃した。審判は拳を握って腕を上げた。ストライクだ。

 二球目、初球と同じボールが投げられた。今度は手を出したが、バットが重くて強く振れないのか、タイミングがまったく合わずに空振りした。

 そんな健太を見て、孝一は胸を痛めずにはいられなかった。

 あの情けないスイングが彼の全力だと孝一にはわかっている。そして、自分の全力の動きが情けない姿になってしまうことの辛さと、恥ずかしさを孝一は知っている。

 もうやめてもいいじゃないか、と孝一は思う。さっきまで打ってくれと念じていた人間とは思えない言葉だが、この時の孝一は心からそう思っていた。

 もう恥をかかせなくてもいいじゃないか。

 もう心を追い込まないでいいじゃないか。

 孝一の心はそう何度も叫んでいる。

 孝一はどうしても健太の姿を自身と重ね合わせてしまう。そして、健太を自分に置き換える。

 俺だったらもうやめたくなっている。不完全な身体で完全な身体と戦わなくてはならない現実を知って、逃げたくなっている。

 だが、スポーツにはルールがある。健太がその場から逃げられるはずもなく、結局三球目を虚しく空振りして三振に倒れた。

 ため息がどこからともなく流れ出す。四番なのに、という空気が球場に立ち込める。

 この空気を健太が感じ取っていませんようにと孝一は思った。しかし、きっと感じ取っているだろうという確信めいた思いもある。ネガティヴな時ほど、人は空気を敏感に感じ取るということを孝一は知っている。

 アナウンスが次のバッターの名前を告げる。痩身のバッターは知的障害を持っているようだった。

 その打者は初球を当てたが、力のないショートゴロに終わった。更にその次の打者も、三球とも見逃して三振に倒れた。

 またもやあっという間に攻撃が終わり、球場中がため息に包まれた。相手の応援席ですら同じような雰囲気を漂わせていた。これからまた長い攻撃時間に耐えなくてはならないという現実がそうさせていた。

 孝一はベンチからグラブを抱えて出てくる健太を見て、その心情を推し量ろうとしたが、太陽の光があまりにも眩しくて、健太の姿はよく見えなかった。

 だが、健太の心の内は想像はだいたいできた。自分に置き換えて考えればいいからだ。

 きっと愕然としているに違いない。今まで障害があることを自覚していたとはいえ、そこまで大したハンデだとは思っていなかったはずだ。だって周りの人間は、自分が大きなハンデを抱えているなんて教えてくれないのだから。そしてようやく思い知るはずだ。自分がどれだけ不完全な人間であるのかを。努力とか、そんなものでどうにかなるものじゃないほど、厳しい現実がそこにあることを。

 ちょうど俺が、クラスの全員が何十回、何百回とできた縄跳びを一度も跳べずに終わり、クラスメイト達から大声で笑われたあの時のように。

 あの時俺は障害を持つということの意味を知った。バカにされることだと知った。

 そして、こう思った。

 早く授業が終わってくれ、と。

 健太も同じことを思っているはずだと孝一は思った。だが、これは四十五分間の授業ではないのだ。すでに試合開始から一時間が経とうとしているのに、たった二回しか終わっていない野球の試合なのだ。

 そう簡単に終わってはくれない。健太はまだまだ、押し寄せてくる劣等感と戦わなくてはいけないのだ。

 孝一は定位置へと向かう健太の背中を見ながら、これから健太が戦う、相手チーム以外の敵のことを考えずにはいられなかった。そして、お願いだから早く攻撃を終えてくれ、と相手ベンチに祈った。

 だが、祈りとは大抵の場合で意味をなさないものだ。この回の攻撃が、今までの攻撃の中で最も長い時間がかかった。

 四十五分にも及んだ攻撃は、十八点をスコアボードに叩きつけてようやく終わった。

 最後のバッターがセンターフライに倒れた時、球場中に安堵のため息が流れた。

 やっと終わった。

 球場にいた全員が同じことを考えていた。相手の応援席も、相手ベンチですらもその空気を流していた。

 だったら手を抜けよ、と孝一は思ったが、これはあくまで勝負の世界であり、慈善試合ではないのだ。手を抜かないのは、ある意味相手に対する敬意とも言える。

 しかし、健太達にとって屈辱な時間が長引いたというのも事実だ。孝一にはそれが辛くて仕方なかった。ついつい、彼らの気持ちになってしまう。

 きっと自分が「できない」ということをとことん思い知る時間だったはずだ。終わらない試合に、絶望する時間だったはずだ、と推し量るたびに胸が重くなったが、なぜだかグラウンドから目を逸らすことはできなかった。

 三回裏、健太達の攻撃が始まった。しかしこの攻撃はまたもや、五分と経たずして終わった。

 そしてまたすぐに、長い長い攻撃が始まる。もう誰もがうんざりしていた。それを証明するように、帰ろうとする観客が徐々に増えていった。相手の応援席はもちろん、三塁側に座っていた母親らしき観客達も、数人が帰りだした。

 もっともなことだ。奇跡の大逆転などあるはずもないのに、ずっと似たりよったりの試合を見ていたってしょうがないという気持ちになるのもよく分かった。

 そんな雰囲気の中で、ただ一人、佐々木だけは身動き一つせず試合を見ていた。動く時と言えば水を飲むぐらいで、その時でさえ目線は試合に注がれている。いったいどこからその集中力がくるのか孝一にはわからなかった。

 佐々木は一回裏のあの時以来、一言も喋ろうともしなかった。美しい黒髪も相まって、日本人形なのかと思ってしまいそうになるほどだった。もっとも、日本人形にしては、白のワンピースはおかしな格好だが。

 その時、かきぃん、と音がして、放物線はスタンドへと向かっていった。今日なに本目かもわからないホームランだった。

 長い長い攻撃の中で、良かったことが二つだけあった。一つは、健太のところにボールがほとんど飛ばなかったことだ。そしてもう一つは、コールドゲームというものがあると孝一が知ったことだ。五回裏の終了時点で十点差がついていれば、そこで試合終了になるらしい。この試合の点差は、十点どころか、既に四十点はついている。コールドゲームはまず間違いないだろう。

 早く試合が終われば、それだけ健太の苦痛の時間は早く終わるのだ。

 四回表の攻撃がようやく終わった時に、佐々木は急に声をあげた。

「間違い、ではないと思う」

 あまりに急な言葉に、孝一はなにのことを言っているのかしばらく分からなかった。それが一回裏に孝一がした問いに対する答えだと気づいた時には、佐々木は既に言葉を継いでいた。

「でも、正解でもない気がする」

 いつになくはっきりと、佐々木はそう言った。孝一は心がざわめき立つのを感じる。だが、決して表情には見せまいと、試合に集中しているふりをした。ちょうど先頭打者がボールを見逃したところだった。

「孝一くんは、あの障害者施設での殺人事件のことを気にしてるんでしょ」

 佐々木はさらりと言い放ったが、孝一には看過できない言葉だった。思わず言葉を返す。

「なんでそう思った?」

 これじゃ認めているようなものだ、と自分で思ったが、特に気にならなかった。気持ちを隠したいのか、隠したくないのか、自分でもよく分からなかった。

「だって明らかに様子がおかしかったもん。その時は知らなかったけど、ちょうど体調が悪くなって帰った日だったよね、あのニュースが報道されたのは」

 佐々木は淡々と続ける。その目は試合に注がれたままだ。

「そのあとにドッジボール大会があって、孝一くんはお世辞にも活躍したとは言えなかった。でも親友の征矢は大活躍した。そのあとなにがあったのかは知らないけど、孝一くんと征矢はその日を境に学校で話さなくなった」

 孝一もこれには声を上げずにはいられなかった。孝一が征矢と仲たがいしたのは、男子の中ではすでに周知の事実だが、まさか女子にまで知られているとは思っていなかった。

「なんで知ってるんだ?」

 すると、佐々木は呆れた、とでも言うように首をすくめた。

「あのね、女子の観察眼をあまりバカにしない方がいいよ。すごいんだから、ほんとに。それに、あの大人気の征矢だよ? すぐ噂になったよ。色んな話が出たね。孝一くんが征矢を殴ったとか、孝一くんの妹と征矢が付き合いだしたとかね」

 孝一はあまりのことに眉をひそめた。

「なんだって? 俺に妹なんていないぞ」

 あえて、殴ったという噂には言及しなかった。あの仲たがいの原因は、殴ったのと大して変わらない。

「あくまで噂だから。女子ってなんだって飛びつくんだから」

 佐々木は相変わらず無表情で続けた。でも、その声には軽い侮蔑が混じっているように孝一には感じられた。

「あと、征矢に告白しようとした女の子の邪魔をしたとか」

 思い出したように続けた佐々木の言葉に、孝一は小動物然としたあの他クラスの女子の顔を思い出して、苦々しい思いに駆られた。

「それはほんとだよ」

 孝一の言葉に、佐々木は興味なさげに、「ああ、そうなの」とだけ呟いた。そして、本題に戻るけど、と続けた。

「とにかく、孝一くんは傷ついてた。その原因は、少なからず自分の障害を隠していることと関係があると思うの」

 佐々木の思いもよらない言葉に、孝一は思わず佐々木の顔を覗いた。だが、その美しい横顔を祝福するように太陽が照らしているだけで、そこからはなにも読み取れない。

「私は別に、それを隠していること自体がいけないとは思ってない。他人に同情される辛さは、私もよく知っているから。でも孝一くんはそれだけじゃないでしょ」

 そこで言葉を切ると、佐々木は試合が始まってから初めて、孝一の方を向いた。

 美しい瞳に覗かれて、孝一は既視感を覚えた。クラス替え直後、そして療育園、裁縫の授業と、幾度となく注がれてきた視線を思い出す。

 全部お見通しだとでも言うような視線を、思い出す。

 そして、佐々木はゆっくりと口を開いた。孝一はまるで審判を待つ犯罪者のような気持ちになっていた。

「きみは、障害者であることを恥じている」

 そう言い切った。相手の観客席が大いに沸いている。なにかが起こったらしいが、冷たい瞳を剥がすことは孝一にはできなかった。

 ――障害者であることを恥じている。

 孝一は何度も脳内で反芻する言葉に、当たり前じゃないか、と言いたくなった。

 障害を持つことを恥じているなんて当然だ。だってそれは、紛れもない劣等の証なんだから。

 そう思いつつも、どこか納得する自分がいた。

 なぜかはわからない。だが、心に巣食っている蜘蛛の巣を払われたような気持ちになる。

 佐々木は尚も続ける。決して孝一から視線を外そうとせずに。まるでそうしないと生きていられないとでも言うように、放してくれない。

「孝一くんは自分の身体に多大なコンプレックスを持ってる。劣等感と言ってもいいかな。しかもそれを自覚しているのに、それでいいと思っている」

 心の内側をすべて見透かされたような気持ちだった。でも、不快感はなかった。不快感の代わりに、佐々木が幾度となく使ってきた、「同類」という言葉が頭をよぎる。

「私は孝一くんのことを同類だと思ってた。傲慢にもね。どうしようもない重荷を抱えた人間同士だって思ってた」

 佐々木は一度言葉を切った。そして、息を吸ってから、でもね、と続ける。球場ではまた歓声が沸いている。しかし、孝一も佐々木もそんなものは耳に入っていなかった。

「全然違ったんだ。私は少なくとも、自分を恥じてはいない。大きすぎる違いだった。それに気づいたのは最近なんだ。孝一くんがうちに来てくれなくなって、初めて気づいた。孝一くんがとてつもないものと戦っているんだって」

 戦っている、という言葉に孝一はムズかゆさを覚えた。

「別に俺は戦ってない。最初から負けてるんだよ、生まれたその時から」

 だが、佐々木はぴくりとも表情を変えない。孝一にとってはなじみ深い、全てを見透かすような目をするだけだ。

「孝一くんはいつもそうやって、すぐに諦めちゃう。だから、劣等感に支配されてる」

 その言い方が孝一の頭に来た。思わず言葉を返す。

「俺じゃないからそんなこと言えるんだよ。不完全な人間じゃないから、そんなこと言えるんだ」

 すると、佐々木はふわりと微笑んだ。まるで天使のそれのような美しい、邪気のない笑みだった。そして、諭すように優しい言い方をした。

「完全な人間なんて存在しないんだよ、孝一くん。誰もが、欠点を抱えて生きている。見えづらいものかもしれないけど、確かな欠点を人は抱えているんだよ。それがたとえ、征矢だろうとね」

 孝一は反射的に、嘘を吐くな、と思った。征矢など、これ以上ないほど完璧な人間じゃないか。そしてそれは、図らずも口をついて出ていた。

「嘘を吐くなよ。征矢なんて、これ以上ないほど完璧な人間じゃないか」

 すると佐々木は黙った。口をきゅっと結んで、なにか考えるように俯いた。そして数秒ののち、意を決したように口を開いた。

「ううん。違う。征矢は、完璧な人間なんかじゃない」

 そんなわけない、と孝一は思う。

 一番近くで見てきたのだ。あいつがどれだけ完璧な人間かを。

 スポーツも容姿も勉強も性格も、あいつはすべてが完璧だった。

 そう確信していながら反論できなかったのは、佐々木の声が、やけに確信的だったからだ。それ以外あり得ないと信じきっている、ある種盲目的とも言える佐々木の姿を孝一は今まで見たことがなくて、気圧されていた。

 黙っている孝一を見据えながら、佐々木は静かに言葉を継ぐ。

「征矢は全然、完璧なんかじゃない。もちろん私もそう。私たちはみんな、不完全なの」

 綺麗事だ、と孝一は思う。だが、佐々木の言葉にはどこか、聞き捨て難い響きがあった。

 ――私たちはみんな、不完全なの。

 その言葉がぐるぐる体内で渦巻く。心の中心へと言葉が吸い込まれていく。

 救われるような、苦しいような、矛盾した気持ちが孝一の中に湧き上がっていく。

 だが、それをうまく言葉にできない。孝一は黙るほかなく、唇を噛んだ。対照に佐々木は、いつになく饒舌だった。

「その中で、みんな自分と戦ってる。どうしようもないほどの焦りと、劣等感と戦ってる」

佐々木は力強く言い切った。孝一はなんとなく、分かる気がした。この世界で必死なのが自分だけだなんて、いったい誰が証明できるのだろう。

 孝一の脳裏に征矢の顔が浮かぶ。音の出そうな笑顔がこっちを向いている。

 気づけば孝一は、声を洩らしていた。

「……戦ってるのか、あいつは」

 すると佐々木は、一瞬意外そうに目を開いたあと、すぐに細めた。まるで我が子でも見守っているような、これ以上ないほど優しい笑顔。そしてその笑顔を崩さずに、言う。

「そう。戦ってる。そして、今度は孝一くんの番だよ。孝一くんが、戦う番」

 佐々木は一つ一つの言葉をかみしめるように、ゆっくりと、明瞭な発音で言葉を紡いだ。

 だが孝一の胸には、無理に決まってる、という言葉が脳内を駆け巡る。そしてそれは実際に声となって飛び出た。

「無理だよ。俺は征矢じゃないんだ。怖くて、頑張ることすらできないんだ。どうせ負けるのに、戦おうなんて気持ちにならないんだ」

 言っていて情けないと自分でも思う。だが、これは真実なのだ。現に、目の前で行われている試合がそれを証明している。障害者がどれだけ頑張ったって、健常者には敵わない。ダウン症の兄を持つこととは訳が違うのだ。

 孝一はスコアボードを覗く。

 五十四対〇。

 圧倒的なスコアの差が、そのまま孝一の胸にのしかかる。それが自分と健常者との格差そのもののように思えて仕方なくて、やっぱり無理だ、という思いが広がる。

 だが、あくまで隣の少女は自信ありげだった。そして、ずっと孝一に向けていた目線を試合へと戻した。そして、絶対的な正解を答えるみたいに自信たっぷりに言った。

「できるかどうかは、きっとお兄ちゃんが証明してくれるよ」

 いつの間にか、健太達の攻撃は終わっていた。相手校の選手がベンチに下がっていく。

 横目で見ると、佐々木はいつになく熱のこもった視線をグラウンドに向けていた。

 その熱い視線は、最後の守備に就こうと走る健太に向けて、まっすぐと注がれていた。

「証明って」

 孝一は思わずこぼしていた。

 いったいあの青年が、なにを証明するというのだろう。

 これほど絶望的な点差をつけられて、健太になにかできることなんてあるのだろうか。

 疑問を浮かべながら見ているうちに、気づけば三十分が経ち、十二点が追加された。

 この回、健太はミスこそしていないものの、目立った見せ場も一つもない。

 ほら、やっぱりダメなんじゃないか。

 孝一はため息とともにその思いをこぼした。

 しかし、健太達はなんとかツーアウトまで追い込んだ。この試合の最後の攻撃まで、あと少しに迫っている。孝一は打席を見る。相手高の打者は一番だった。初回、先頭打者ホームランを打ったバッターだ。

 左打席に入ったバッターは二球ボール球を見逃したあと、三球目を振り抜いた。

 その瞬間、まずい、と孝一は思った。

 うまく流した打球が、スピードに乗りながらレフト方向へと飛んでいったからだ。

 健太はもうすでに打ちのめされているはずだ。自分と健常者との差を初めて間近で見せつけられて、絶望しているはずだ。

 それなのにこれ以上、追い詰める機会を作らなくてもいいじゃないか。

 孝一はそう心の中で喚いた。見れない、とも思った。これ以上健太が落ち込むところなど、見たくない。

 だが、目はどうしたって白球に吸い込まれていく。その動きに吸い込まれていく。レフト線に向かって白球がどんどんと芝に近づいていく。打者が一塁を回って二塁を貶めようとしているのが見える。

 打球のスピードは落ちない。レフトの定位置から、健太ではどうしたって間に合うはずがない位置にボールが転がろうとしている。

 だめだ。健太では間に合わない。

 孝一はそう直感した。

 だがその瞬間、ボールを追っていた孝一の視界に、小柄な青年の姿が映った。

「お兄ちゃん」

 孝一は、隣の少女がそう呟いたのを確かに聞いた。

 健太が懸命に走っている。短い、赤ん坊のような両腕を振って、ボールの落下地点へと懸命に走っている。

 球場がざわめき出す。

 まさか、間に合うのか。

 そんな雰囲気に包まれ出す。

 だが、ボールのスピードは落ちない。放物線はもう少しで地面へと到達する。

 それでも、健太は諦めない。

 決して速いとは言えないスピードで、懸命にボールを追う。少しずつだが、どんどん、どんどんとボールに迫っていく。

 いつの間にか、孝一は拳を握っていた。その拳の中に、大量の汗が滲んでいるのが自分でもよくわかる。

 間に合え。

 球場中がそう願っているのが、孝一にはわかった。

 しかし願い虚しく、ついにボールが着地する。

 そう誰もが思った瞬間、健太が地面を蹴って横っ飛びした。

 健太は短い左腕をこれ以上ないほど突き出す。

 革色のグラブに観客、いや、球場全員の視線が送られる。

 そして次の瞬間、白球はグラブの中へと飛び込んでいった。

 孝一の目にはそう映った。だが、球場は緊張にも似た静寂に包まれている。

 まだ確認できていない。健太のグラブにボールがあるのかどうか、知っているのはまだ健太のみだ。

 芝の上で倒れこんでいた健太が起き上がる。そして、見せつけるように、左手を掲げた。そのグラブの中に、確かにボールは入っていた。

 瞬間、球場が大爆発を起こした。たった五十人いるかいないかの球場で、割れんばかりの歓声が起こる。

 まさにスーパープレーが飛び出した。誰もが予想していなかったプレーに、万雷の拍手が送られる。敵味方関係なく、打った当人でさえ、笑みを浮かべて健太に向かって拍手をしている。

 その中で孝一だけがただ一人、取り残されていた。

 なんで。

 拍手を送ることもせずに、ただ疑問に駆られていた。

 なんで、諦めてないんだ。

 あんな危険なプレー、健太が許可されているわけがない。人一倍脆い身体を持っていることぐらい、自分でもわかっているはずだ。

 それに、この点差だ。今更巻き返せるはずなんてない。

 それなのに健太はたったワンナウトのために、自らを危険に晒してまで飛び込んだ。

 孝一には到底理解できないことだった。

 そしてなにより孝一を驚かせたのは、健太に拍手を送るチームメイトの誰一人として、その顔に諦めを浮かべてはいなかったのだ。

 なんでまだ、諦めてないんだ。

 孝一の心がそうやって叫ぶ。

 もう差は見せつけられたじゃないか。

 もう勝てないことぐらい、わかったじゃないか。

 自分が「できない」ことぐらい、わかったじゃないか。

 だが健太達は、諦めようとしない。

 目の前のワンナウトのために、懸命にプレイしている。

 ありえない、と孝一は思った。

 不自由な身体で持って戦うことなど無謀なのだ。なんで、まだ勝とうとしていられるんだ。

 攻撃が移り変わり、健太達の高校は、四番からの攻撃だった。健太達は、まだ一本のヒットも打っていない。

 健太がベンチから出てきた。高校野球生活、二度目にして、最後の打席だ。

 まだヒットの出ない現状に、どうにか一矢報いようとしているのだろう。一打席目よりもバットを短く握っていた。

 ピッチャーは、そんなことお構いなしだ、とでも言うように大きく振りかぶって、力強いボールを放った。それを健太はなんとかバットに当てようとスイングする。だが、バットは空を切った。

 空振りこそしたが、健太の顔には諦めは影もない。ただまっすぐに相手投手を睨むように見つめている。

 孝一は、ついに声を洩らした。

「……なんでまだ、諦めようとしないんだ」

 すると、佐々木が答える。さも当然、という口ぶりで、相変わらず声に色はない。

「諦める理由なんてどこにあるの?」

 これには孝一は反駁せざるをえなかった。

 決まってるじゃないか、そんなの。

 そして苛立ちを隠そうともせず、乱暴に言い放つ。

「六十点差以上ついてるんだぞ。勝てるわけない」

 しかし佐々木も譲らない。

「でも」

 確信めいた声で、自信たっぷりに言う。

「まだ負けてない」

 その声があまりにも力強くて、孝一は少したじろいた。ちらりと横を見たが、佐々木は試合に集中していて、孝一に視線もやろうとしない。

 その時ちょうど、健太がツーストライクに追い込まれた。

 あと一球、という野太い声が相手の応援席から聞こえてくる。しかしそんなことを気にせずに孝一は言葉を吐く。

「そんなの、詭弁だ。こんな点差、負けているのとなにが違う? それに、健太くん達は障害者なんだ。始まる前から、負けているようなもんなんだよ。不自由な身体を持つ人間が、健常者に勝てるはずないんだ」

 乱暴すぎる言葉だと、言ったそばから自分でも思った。しかし、間違いではないという思いが強くて、撤回しようという気にはなれなかった。

「そんなの、誰が決めたの?」

 佐々木はまるでなんてことのない会話のように、軽やかにそう言った。

 孝一は思っても見なかった言葉に面食らって、言葉に詰まった。そしていつか電話で言われた、角田先生の言葉が鮮やかに甦ってくる。

 ――いったいこの世界の誰が、障害者は不自由だなんて決めつけているんだろうね。

 今また、同じようなことを佐々木は言っている。孝一はあの電話の時に思っていたことを、角田先生の代わりに佐々木にぶつける。

「決めたとかじゃない。そういうものなんだ」

 孝一はどこかすっきりしたような気持ちになる。しかし、同時に湧き上がってくる虚しさのことも無視できなかった。

 佐々木は言葉を受けてようやく、孝一の方を見た。いつもは冷たい光を放っている佐々木の目が、優しさに満ちた光を帯びている。まるで学校にいる時の佐々木みたいだった。

 そして孝一をまっすぐと見つめながら言う。誇るように、言う。

「でもお兄ちゃんは、そんなこと考えてもいない」

 衝撃が、孝一の全身を貫いた。まさに、雷に打たれたような衝撃だった。

 孝一の胸に、言葉が深く深く突き刺さる。まるで天使が放った矢みたいに、胸の深くまで言葉が到達していく。

 そして、思い至る。

 それだったんだ。

 俺と、彼の違いは。

 孝一はずっと不思議でならなかった。なぜあの青年は、ダウン症を患っていることなど嘘のように、明るく振る舞えるのか。

 知らないだけだと思っていた。彼はまだ、自分がどれだけ辛い状況にいるのか、知らないのだと思っていた。

 だが、違った。

 最初からそんなこと、考えてもいないのだ。

 孝一は視線を試合へと戻す。健太は未だ打席に入っている。その表情は彼のチームメイト全員と同じように、諦めとは程遠いものだった。

 必ず打つ。

 そう言っているようですらあった。

 健太は筋力が弱い。だから、バットを持つのだけで大変に見える。それでも、その目は真っ直ぐに相手投手を見つめている。

 そこでようやく、孝一は気づいた。

 この人は、絶望なんかしちゃいない。

 自分を恥じてなんかいない。

 不可能だなんて思っていない。

 不自由だなんて、考えてもいない。

 ただ純粋に、戦っているんだ。

 そして孝一の心に、生まれて初めての感情が湧き出てきた。

 俺も、戦ってみたい。

 その思いが、今まで重荷がついていた心をまるで気球みたいに持ち上げていく。

 孝一の心臓は高鳴っている。生まれて初めての欲望を歓迎している。

 ――できるかどうかは、きっとお兄ちゃんが証明してくれるよ。

 今ならそれが、詭弁ではないと言える。孝一はそう思った。

 頼むよ、健太くん。

 孝一はまっすぐと健太を見つめながら、テレパシーでも送るように、心の中でそう呟いた。

 障害者でも健常者と戦えるって、俺に証明してくれ。

 カウントはツーボールツーストライク。

 一度でも空振りしてしまえば、またはストライクを見逃してしまえば、健太の高校野球は終わってしまう。

 だが、相手ピッチャーにそんなことは関係ない。大きく振りかぶってボールを投げる。

 健太はそれをスイングした。かきん、と音が響く。しかし、振り遅れてしまっていてファウルだ。

 全力のスイングだった。それで間に合っていないのでは、打てるはずもないのかもしれない。

 だが、健太の頭にそんなことはないのだと、孝一にはわかる。

 あるのは、打ってやるという強い意志だけだ。

 ピッチャーがまたもボールを投げた。音が響く。ファウルだ。

 もう一度投げる。もう一度ファウルだ。

 投げる。ファウル。

 投げる。ファウル。

 投げる。ファウル。

 これで六球連続のファウルだ。球場が少しずつ、異様な雰囲気に包まれだす。なにしろこの試合、ここまで粘ったバッターは健太だけなのだ。

 ピッチャーは肩で息をしている。額の汗を拭う。彼もまた全力なのだと、孝一は思い知る。

 そして振りかぶる。健太がバットを振る。ボールは健太の背後の防球ネットに当たった。またファウルだ。

 いつの間にか、球場には緊張とざわめきが広がっていた。誰もが、この勝負の行方を追っている。

 そして次の一球、ついに健太が見逃した。

 球場が一瞬、静寂に包まれる。ストライクか、ボールか。

 次の瞬間、審判が手を上げないのを見ると、観客は全員、大きくどよめいた。

 これでフルカウントだ。

 次の一球で勝負が決まる。そんな予感が球場に漂う。孝一もそんな気がしてならなかった。

 ピッチャー自身もそう感じているのだろう。一つ大きく息を吐いてから、腕を上げて振りかぶり、ボールを放った。

 次の瞬間、健太はバットを振り抜いた。まっすぐに、ボールに向かって金色のバッドが残像を残すのを、孝一は見ていた。

 かきぃん、という金属音が響く。

 打球の行方を球場の全員が追う。その中でも、孝一の目はいち早く打球を捉えた。白球は勢いよく上がって放物線を描き、なんの因果か、健太のポジションであるレフト方向へと伸びていく。

 相手のレフトがそれを懸命に追う。しかし打球の勢いも速い。追いつくかどうか。健太がしたのと同じように、レフトは飛び込んでグラブをしている手を懸命に伸ばす。

 抜けろ。

 孝一は拳を握ってそう願っていた。いつの間にか、無意識のうちに立ち上がっている。

 抜けろ、抜けろ、抜けろ――

「抜けろ!」

 孝一がそう絶叫した瞬間、白球が芝の上で跳ねた。

 球場中が歓声に包まれる。歓声というより、ほとんど絶叫に近い祝福だった。

 その中を、健太は懸命に走る。不器用な、どしどし音がしそうな走りで、懸命に足を回す。そして健太は二塁で止まった。

 健太は二塁上でバッティンググローブも外さず、三塁側を見た。そして、孝一とその隣に座る妹を見つけると、にこりと笑った。あの人懐こい笑顔で、照れくさそうに。

 孝一が隣を見ると、佐々木は泣いていた。絵の具のように白い頬に透明な涙が二筋、伝っている。佐々木が、孝一に対して初めて見せた涙だった。それと同時に、孝一の人生で見た中で、最も美しい涙だった。

 孝一も泣いていた。涙のせいで、世界の色がぼやけていく。解像度が急に悪くなった世界の中で孝一は、ただ左手を突き出して、健太に向けてガッツポーズをしてみせた。

 そして大きく頷いて、孝一は空を見上げた。パソコンの機能で塗りつぶしたみたいな、濃い、単調な青がそこにはある。顔を出している入道様が、太陽に照らされて透明な光をまき散らしている。健太はその光を一身に受けていた。空ごと、健太のことを祝福していた。

 その時脳内に、佐々木の言葉が蘇ってきた。

 ――今度は孝一くんの番だよ。孝一くんが、戦う番。

 ああ。

「今度は俺の番だ」

 孝一は一人、確信を持って決意するように、そう呟いた。




 思えば、物心がつくよりもずっと前から、この古びた診察室の記憶はあった。

 七月も終わりかけた頃、孝一は相も変わらず古臭くおもちゃばかりの療育園の診察室の中でそんなことを思った。

 そして、目の前の回転椅子に座る女性との記憶も、また同じだ。

 角田先生はくるくると自分の黒髪を弄んだあと、嬉しそうに目を細めた。

「今日は体調を崩さなかったみたいだね」

 開口一番の意地悪なセリフに、孝一は頭を掻きながら唇を尖らせた。

「いつからそんな嫌味を言うようになったんですか」

「私は生来の嫌味屋だよ。患者の前でそういう事を言わないだけでね」

「先生は俺のこと、患者だと思っていないんですか」

「少なくとも、冗談を言っていい状態だと思っているんだよ。今はね」

 その言い方に孝一は引っ掛かりを覚えて思わず聞いた。

「前は違ったんですか」

 それに対して、先生はなんでもなさそうに、孝一の目を見ようともせずに答えた。

「だって孝一くん、この場所が嫌いだったろう」

「はい」

 孝一はたじろきもせず言い切った。その事を隠していたつもりはないし、もしその意思があったとして、角田先生に隠し通せるとはとても思えない。

「でも今は、そうでもないです」

 これも、はっきりと言い切った。まごう事なき事実だった。あれほど劣等感を刺激してきたこの場所を、今は親しみ深い場所だと感じられている。

 角田先生は孝一をじっと見つめた。見定めるように、小さな二つの黒目が孝一を見透かす。

 そして先生は破顔した。いつもの、少女のような純朴な笑顔だった。

「孝一くんからその言葉が聞ける日が来るなんてね。おばさん、泣いちゃいそうだよ」

 孝一は苦笑した。角田先生がこんなことで泣くような人間ではないことを、彼はよく知っている。

 まったく、いつまでも掴めない人だ。

 五月の診察の時、この部屋に佐々木がやってきたことを思い出す。

 ――孝一くんに必要なことだと思ったんだ。

 あの時、先生は確かにそう言った。あの時先生は、ここまで読んでいたのだろうか。

 気になって仕方なかったが、直接聞くのは辞めておいた。どうせ、「いやあまったく考えてなかったよ。孝一くんが頑張っただけじゃないかな」 とか言ってはぐらかされるのがオチだ。

 代わりに、先生の目を覗く。しかし、少女のような先生の瞳はきらきら輝くのに忙しくて、感情までは表に出してくれないようだった。

 すると、先生がわざとらしく顔を両手で覆って嘯く。

「もう、やめてよ。そんなに見つめられたら照れちゃうじゃない」

 孝一は笑いを通り越してもはや呆れた。ふざけた人にもほどがある。

 孝一がため息を吐くと、角田先生はやめてよ、と笑った。

「私の方が子どもみたいじゃない」

 実際その通りじゃないですか、と喉元まででかかったが、やめておいた。少女のようでありながら、角田先生が医者として優秀なのを孝一はよく知っていた。

 そして先生はようやくいつもの調子に戻って、柔らかな笑顔を浮かべて言う。

「これほど大きな変化なんて、なかなかないよ。健太くんにあてられたのかな」

 孝一は頷く。脳裏には、素晴らしいヒットを打った健太の顔が浮かんでいた。

「はい。人生で初めて、戦ってみたいと思ってるんです」

 すると角田先生はできの悪い生徒に初めての正解を与えるみたいに、大げさに何度も何度も頷いた。

 言葉はなかったが、孝一は十分励まされた気分になる。そして、気持ちが高まるのを感じながら言葉を放つ。

「夏休み明けの体育祭、頑張ってみようと思ってるんです」

 自分で言っていて、孝一は不思議な気分に駆られた。

 体育祭を頑張るだなんて、今までの人生で考えてみたこともなかった。

 体育祭なんて、孝一にとっては忌々しいイベントに過ぎないはずだった。頑張るなんて、ずっと避けてきた言葉のはずだった。

 だが口にしてみると、不快感はどこにもなかった。むしろ一種の爽快感みたいなものが、孝一の中に広がっていた。

「良い事だね」

 噛み締めるように先生が言った。それがなによりも心強かった。

 先生の言葉に励まされ、孝一は用意していた言葉を吐く。実を言えば、孝一はこれを告げるためだけに、今日療育園に来たようなものだ。

「先生は、どうしたら足が速くなるか知ってますか?」

 言い放ってから孝一は、バカげた言葉だったかもしれない、と急激に不安を覚えた。「足が速くなりたい」だなんて、すっかり声変わりを果たした人間の口から出ると、ずいぶん滑稽な響きがあるように思えて仕方なかった。

 しかし、先生は笑うようなことはせず、むしろ真剣な表情になって、うつむきがちに考え始めた。

 先生はしばらく、うーん、と言って考えを巡らせていたけれど、やがて顔を上げると申し訳なさそうに首を振った。

「残念ながら、それはわからないな。私にわかるのは、孝一くんのような子が歩けるようになるためのリハビリぐらいなんだ。でもきみの歩き方に大した欠点はないし、むしろ走れるだけで驚異的なことだよ。だから、私から言えることはなにもない」

 口惜しそうに語る先生の言葉に孝一が落胆しなかったといえば噓になるが、ある程度予想できていた答えだった。孝一は表情を変えずに言う。

「そうですか」

 ありがとうございます、と孝一は告げたが、先生はほとんど聞いていないようだった。先生は孝一の方を見ずに、しばらく宙に思いを馳せているようだった。すると数秒後に、思い付いた、とでも言うように膝を打った。そして孝一に向き合ってから、自慢でもするようにしたり顔になった。本当に子どもみたいだ、と孝一は思わずにはいられなかった。

「一人、いるよ。きみに走り方を教えられる人が」

 まったくもったいぶった言い方をする人だなと孝一は半ば呆れたが、黙って続きを聞くことにした。

 すると、先生は眉をひそめた。

「孝一くん、そこは身を乗り出さないと。興が乗らないよ」

 孝一は思わず舌打ちしそうになった。

 まったく、この人は本当に。

 仕方なく、孝一は少しだけ身体を前に傾けた。ただし、できる限り棒読みにすることも忘れなかった。

「ほんとですか」

 先生は棒読みに気づかなかったようだ。その証拠に、楽しそうに自らの肩を揺らしている。そしてまるで探偵を気取るようにこほん、と息を吐いた。

「いるじゃあないか。きみの身近に、足の速い子がさ」

 そう言われたが、孝一には誰のことだか分からなかった。一番に征矢の顔が浮かんだが、先生が征矢のことを知っているはずがない。

 孝一が黙っていると、先生は愉快そうに付け加えた。

「陸上部のエースで、きみのクラスの女の子。きっとクラスで一番かわいい子だよ」

 そう言われて、孝一はようやく思い至った。

 先生が言いたいのは、佐々木のことだったのだ。

 そしてそれは素晴らしいアイディアであるように思えた。彼女なら障害にも理解があるから頼りやすい。

 孝一は冗談めかして、しかし本心を言った。

「先生、良いこと言いますね」

 角田先生は上機嫌そうに、口元に笑みを浮かべた。

「そうだろう」

 上機嫌な先生にあてられて、孝一まで気分が上がっていた。そのせいか、余計なことを口に出した。

「先生、ずいぶんお気に入りなんですね。クラスで一番かわいいだなんて。佐々木以外の女子なんか見たことないくせに」

「別にお気に入りなんかじゃないよ。まあもちろん、あの子の人柄は好きだけどね。あの子の容姿はちょっと飛びぬけて可愛いから、クラスで一番かわいい、という見立てはそこまで外していないつもりだけど。それとも、同級生からしてみれば違うのかな?」

 これは見事なカウンターだった。多感な男子中学生が、この言葉に満足な返答を返せるわけがない。孝一も例に洩れず、なにも言えなかった。

 それを見て、先生は孝一を可愛がるように優しく笑った。それが孝一には悔しかった。悔しくて、席を立とうとする。この辺はまだまだ子どもだ、と自分のことながら思う。

「じゃあ俺、帰りますよ。今日はありがとうございました」

 そう言って、孝一は錆びだらけの丸椅子から腰を上げた。

「あ、逃げたね」

 先生は冗談を口にしたが、別に間違いではなかった。本当に鋭い人だと、孝一はむしろ感心する。

 孝一がすっかり重たくなってしまったドアに手をかけた時、その背中に先生の声が飛んだ。

「あの子なら、私は文句を言わないよ」

 孝一は振り返る。一瞬意味が分からなかったが、先生のにやけ顔を見ればすぐにその意味は理解できた。

 孝一は口をとがらせつつ、笑った。先生は鋭いけれど、これに関しては的外れもいいところだった。

「それ、佐々木に失礼ですよ。それに、俺たちの間に恋愛感情はないですよ」

 すると、先生は舌を出して笑ったあと、本当にそう思っているかのように呟いた。

「なんだ、つまんないの」

 孝一は苦笑しながら、診察室をあとにした。

 診察室を出て、孝一はいつものソファに腰を掛けた。そしてそのままポケットに入っているスマホを取り出して、メッセージを送ろうとする。

 どんな文面にしようかさんざん悩んだ末に、『足が速くなる方法を教えてほしい。体育祭までに』などという、酷くつまらない文章になってしまった。

 まあ別にいいか、なんてことを考えていると、受付が孝一を呼んだ。孝一は立ち上がって受付に向かい、会計を済ませる。無料だからか、会計はいつも恐ろしく早い。

 孝一はその足で自動ドアをくぐった。するとその時、スマホがポケットの中で振動した。思わず開くと、そこには佐々木からのメッセージがあった。

『いいよ』という文言を確認したあと、孝一はスマホをまたポケットにしまう。

 気づくと、すっかり夏という雰囲気を纏っている生温い風が、露わになっている孝一の左腕を撫でている。

 快晴の太陽をまっすぐに受けて、療育園に植えられた花壇の中で青々しい葉が輝いている。まるで、自分こそ命の象徴なんだと誇示するかのように。

「綺麗だ」

 孝一はほとんど反射的に言った。

 その声に、自分のことながら驚いた。

 療育園にあるものを美しいと思えたのなんていつぶりだろうか。  

 そんなことを考えながら、孝一は帰路へとついた。




 夏休みの最終日、日の暮れかかった時間に、孝一は市営の陸上競技場にいた。

 銅の色をしたトラックの上で、孝一は膝に手を置いて息をしている。ちょうど、練習メニューがすべて終わったところだった。

 走り疲れて肩で息をしている孝一に、佐々木がペットボトルの水を差し出した。

 孝一は感謝を告げてペットボトルを受け取り、キャップを開いて水を飲んだ。

 乾ききった喉に冷たい水が絡んで気持ちよかった。

「孝一くん、相当速くなったんじゃない? この一か月で」

 感嘆するように佐々木が声を上げる。その手にはストップウォッチが握られている。孝一は汗をタオルで拭いながら頷く。

「きみのおかげだよ。きみが根気強いせいで、やめるにやめれなかったんだ」

 冗談めかした口調だったが、真実である。

 日頃の運動不足のせいか、特訓をし始めた最初の日々は、絶えることのない右足の痛みを堪えながら眠らなくてはならなかった。

 湿布を貼って痛みを誤魔化しながら、明日こそはやめてやる、なんて情けない決意を固めながら孝一は眠りについていたのだが、コーチである佐々木の熱心さを見ていると、辞めるなんてとても言い出せそうになかった。

「でも、熱心だったじゃん」

「やるからには勝ちたいからね」

 そうは言ったものの気恥ずかしくて、孝一は顔を見られないようにタオルで覆った。

「体育祭、夏休み明けすぐだよね?」

 孝一の言葉を無視して佐々木はそう言って、自らも水を飲んだ。変に恥ずかしがって損したと、孝一は少しだけ後悔した。

「そう。夏休み明けて一週間後」

「まったくなんでうちの学校はそんな中途半端な時期に体育祭なんかやるんだろ。もっと涼しい時にすればいいのに」

 口ではそう言ったが、表情がまったく変化しないせいで本気なのか冗談なのかは分からなかった。

「やだなあ、体育祭」

 これはたぶん、本音だった。そう思わせる声色をしていて、孝一は多少驚いた。

「嫌なんだ。体育祭なんか、活躍間違いなしなのに」

 練習に付き合ってもらってから知ったことだが、佐々木の足の速さは男子顔負けだった。そんな人が体育祭で日の目を浴びないわけがない。

 孝一の言葉に、佐々木は表情を変えずに答える。

「そう思われてるから嫌なんだよ。もし活躍できなかったらなんて思われるか」

 なるほど、と孝一は思った。孝一にはできない人間の気持ちしかわからないが、できる人間にもそういう悩みがあるらしい。

 征矢もそうなんだろうか。

 ふと思ってしまって、孝一の脳裏に征矢の顔が浮かぶ。最後に話した時の見下すような視線が頭にこびりついて離れてくれない。

 健太にあてられるような形で孝一は人生初の努力の日々を送っていたが、努力するたびに、征矢との関係が心残りになってしまっていた。征矢に相談できたらどんなに良いだろうと思ってしまって仕方ないのだ。

「ほんとに、今日で練習最後でいいの?」

 上目遣いで探るように言った佐々木に孝一は首肯する。

「うん。学校も始まるしね。もう十分練習したよ」

 半分本音で、半分嘘だった。十分練習したとは感じているが、まだまだ練習を続けるつもりでいたのだ。

 しかし、佐々木をこれ以上付き合わせることはできないと孝一は判断した。佐々木の家には退院した真里さんが戻ってきて、佐々木は念願だった自分の時間を取り戻した。だがその時間のほとんどは、孝一の練習に付き合うことで潰されてしまっていた。

 孝一はそれに後ろめたさを感じて、夏休みの途中からずっと、一人でもできると主張していたのだが、佐々木は頑として認めなかった。佐々木曰く、恩を返さないと気が済まないというのだ。

 しかし孝一からしてみれば恩なんかどこにもない。そもそも健太の世話だって酷い理由から始めたものだし、むしろそのおかげで前向きになれたのだ。感謝こそしても、恩義を感じられる筋合いはない。

 何度もそう主張したが、佐々木も何度でも突っぱねた。まったく学校で見せる愛嬌はどこから来ているのか本気で疑問に感じるほどの強情さだった。

 いつからか孝一は説得をあきらめたが、まさか二学期が始まってからも付き合わせるわけにはいかない。たった一週間ぐらい、とこのスポーツ少女は言うだろうが、二学期からの佐々木は部活にも復帰するのだ。その時間を邪魔したいとは、孝一にはとても思えなかった。

「本当に、感謝しかないよ。一か月間、ありがとう」

 孝一は心から感謝して頭を下げた。

 だが、佐々木からの返答がなかなか来ない。

 なにかまずいことでも言ったか、と孝一は思うと同時に、いつ頭を上げればいいのかわからずに困った。

 孝一が感謝を告げてから十秒ほど経ったあと、小さく、消え入るような声で佐々木がなにかを言った。だが孝一にはそれが聞き取れず、「え?」と顔を上げて聞き返した。

 すると、もう一度佐々木は小ぶりで整った唇をはっきり動かした。今度は聞き取れた。

「………みゆう」

 聞き取れたのに、なにを言ったのか孝一にはわからなかった。みゆう、とはいったいなんなんだろう。

「なに、それ」

 思わず孝一はそう返した。居心地が悪いわけでもない、かといって気分が良くなるわけでもない不思議な沈黙が二人の間で流れ出す。近くに木なんかどこにもないはずなのに、蝉の命を懸けたラブソングが孝一の耳に届く。太陽の光が色を濃くしていく。離れて立っているはずの二人の影が延びて、頭の頂点同士が重なり合う。

 沈黙は佐々木によって破られた。美しい声が孝一の鼓膜を刺激する。

「私の名前だよ。美しいに、にんべんに右で、美佑」

 美佑、と孝一は口の中で言葉を転がせる。なんと美しい響きだろうか、と本気で思った。

「嫌いじゃなかったの?」

 孝一の言葉に、佐々木は頷く。そして、ぽつりぽつりと、まるで葉が雫を落とすみたいに、ゆっくりと佐々木は言葉を紡ぐ。

「嫌い、だった。すごく」

 儚く美しい、この世のものとは思えないような声だった。だが声には確かな実感がこもっていて、それがまた言い表せないほど美しいと孝一は感じた。

佐々木は小さく美しい唇を尚も震わせる。一度洩らしてしまえば言葉が止まらなくなるのは、孝一と同じようだった。

「知ってる? にんべんに右で、なんて読むか」

 孝一は頭の中で漢字を思い浮かべる。そして、自分がその漢字の読みを知っていることに気づく。

 同時に、その意味が彼女を苦しめていたことにも、頑なに名前を呼ばせようとしなかった理由にも、気づく。

 途端に、目の前の少女がひどく小さくなっていくように孝一の目には映った。それがなんとも物悲しくて、他人事なのに脈が早くなる。

 孝一は頷いた。そして、確かめるようにゆっくりと言う。

「……たすける、だよね。佑ける」

佐々木は頷く。相変わらず、氷のように無表情だった。そしてその声も、いつものように色はなかった。

「その意味を知った時、びっくりした。いや、ショックに近かったかな。あと、悲しかった」

 そうだろう、と孝一は思った。

 誰を佑けるのか、そんなのは明白だった。もちろん、健太に他ならない。つまり佐々木が生まれた理由は、健太を「佑ける」ためだったのだ。

 なんて残酷なのだろう、と孝一は思わずにはいられない。美しいと思った名前が、今はひどく醜いもののように思えて仕方ない。

 それでも、佐々木のショックを理解することはできないから、孝一は同情するぐらいしかできなかった。もちろん、なにも言えなかった。それが情けなくて、胸が疼く。

佐々木は弱々しく、しかし明瞭に言葉を紡ぐ。健太の、不明瞭で大きな声とはまるで正反対だった。

「私は生まれたその時から、お兄ちゃんを助けることが決まってたんだって、その時知ったの。自分がお兄ちゃんのために生まれたんだって知った」

 もちろん、全部が全部その意味で、佐々木がこの世に生まれたわけじゃないだろう。だが、一ミリでもその意味があってしまえば、佐々木にとってはそれがすべてなのだ。それがわかるから、辛い。佐々木の重みが、そのまま孝一の胸にのしかかる。肺が潰れて、息が詰まる。

「それから、自分の名前が嫌いになった。それまで大好きな名前だったのに、呼ばれるだけで胸が苦しくなった。自分の宿命を思い出すようになった」

 佐々木の表情はいつも通り変わらない。だが、かすかに声が震えているのを、孝一は見逃さなかった。

「もっと言えば、家も嫌いだった。私はあんなに明るい家、好みじゃない。もっと落ち着いた空間が好きなの。あれは全部、お兄ちゃんのため。お兄ちゃんが明るい色を好きだから、私の家はあんなに明るいの」

 いつか健太が言っていたことを孝一は思い出す。明るいと落ち着くんだと、確かに彼は言っていた。

「わがままなんだろうけど、もっと私を見てほしかった。お父さんとお母さんに、構ってほしかった。二人ともいつもお兄ちゃんのことばかりで、私に構ってくれないから。でも別にそれはお兄ちゃんが悪いわけじゃない。私は優しいお兄ちゃんのことも好きだった。なのに、いざお兄ちゃんのことを任せられると、苦しくて仕方なかった。それで角田先生を頼ったの」

 そうしたら、きみが現れた。

 そう言って佐々木は笑った。夕日のせいで鮮明に見えないのが惜しく思えるほど、美しい笑顔だった。触れたらすぐに壊れてしまいそうで、それでいて温かい笑顔だった。

「きみが現れて、私の心はずいぶん楽になったの。きみといるのは心地よかった。きみはきみで悩んでいたけれど、その姿も私を支えてくれた。悩んでもいいんだって、思わせてくれた。障害者施設の事件の時もそう。あの時、ちょっとだけ、犯人の気持ちがわかるような気がした。それで、もしかしたら私は酷い人間なんじゃないかって悩んだ。でもその時も、そばに悩んでいるきみがいたから、焦らずに悩むことができた」

 噛み締めるように、心に浸透させるように、彼女は穏やかに、はっきりとした発音で言葉を放っている。孝一も、その一言一言を逃さないように聞いている。

「それであの日、お兄ちゃんの試合の日、私は偉そうにきみに説教していたけれど、実はあの時、私もいろんなことを考えてた。このまま私はお兄ちゃんの世話をしていけるのだろうか、とかね。長い人生、お父さんとお母さんが死んだあとに、使命を投げ出さないでいられるか自分でもわからなくて怯えてたの。そしたらお兄ちゃんが大活躍してくれた。それを見た時、ああ、頑張ってきてよかったって思えた。そう思った時に、私はきっと大丈夫だって直感したの。きっとお兄ちゃんとずっと生きていけるって思えた。そしたら、涙が止まんなくなっちゃった」

 孝一はあの試合の日、涙をこぼした佐々木の姿を思い出す。その涙に込められた思いを知って、思わず胸が熱くなるのを抑えられない。

彼女はふわりと笑う。天使の羽が生えてきたっておかしくない。そう思えるほど、美しく、非現実的な笑顔だった。佐々木の声は、どこか楽しげだ。

「それでようやく、自分の名前を誇れるようになったの。全部きみのおかげ。感謝するのは私の方だよ」

 だから、呼んで。

佐々木は照れくさそうにそう言った。

 孝一は頷く。同時に、これ以上ないほど名誉で、素晴らしい事のように思えた。そして、噛み締めるように、佐々木の名前を呼ぶ。

「美佑」

 美しい名前だ。口に出してからそう思った。

佐々木もそう思っているのだろうか、とびきりの笑顔になって、悪戯っぽく言う。

「もっと」

「美佑、美佑、美佑」

 何度も呼ぶ。脳裏に刻み込むように。まるでその名前を、佐々木に初めて与えるように。

「なあに」

 佐々木は嬉しそうに笑っている。孝一も思わず笑顔になる。

 まるで佐々木を祝福するように、傾いた太陽は輝きを存分に放っている。彼女の影が濃くなっていくにつれて、彼女自身はどんどん輝いている。まるで生まれ変わるように、彼女は新しかった。新鮮な命のみが持つ尊さを、佐々木は今湛えている。きっと佐々木は今、本当に生まれ変わっている。誰よりも美しい名前を持つ、誰よりも美しい少女として、誕生している。




 「だからぁ! これでいいだろって!」

 宇佐美は右手に持っている紙を揺らしながら、教壇の前でそう言った。別に誰かが騒いでいるわけでもないのに、宇佐美の声はやけに大きい。

 強いていえば宇佐美と話し合っていた一軍女子達の声はやけに耳に届いてきたが、それはどちらかというと甲高いだけだった。佐々木もその中にいるものの、別に騒いだりはしていなかった。

 孝一は教室の後ろの席でそれを眺めていた。今宇佐美達が決めているのは全員リレーの走順で、宇佐美が右手に持つくしゃくしゃの紙はそれを記したものだった。

 本来なら走順はクラス全員で決めるべきものなのだが、宇佐美達は勝手にそれを決めているようだった。

 しかし、それに文句を言うクラスメイトがいるとは思えない。なぜなら、話し合ったところで結局、声の大きい人間の意見が通るからだ。中学校なんてそんなものだと全員が理解しているから、誰もなにも言わないのだった。

 孝一もその一人で、宇佐美達が決めることにはなんの文句もなかったが、流石に体育祭の当日になって走順を変えるというのは頂けなかった。しかし別にそれを宇佐美に言おうとは思わない。今日のためにこれだけ準備してきたというのに、その当日になって宇佐美とモメている余裕は孝一にはなかった。

「征矢! アンカー任せたからなぁ!」

 宇佐美が声を張った。征矢、と聞くだけで孝一の胸はキュッと締め付けられる。心臓が一回りぐらい小さくなったような気持ちだった。

 だが、当の征矢はなにも気にしてなさそうに笑うだけで、なにも喋らなかった。これまで征矢は孝一の隣にいたのに、今は別のクラスメイト達の輪の中にいる。

 体育祭はすでに午前の種目を終えていて、今は昼休憩だった。午後に行われるのは、目玉種目であるクラス対抗の全員リレーだ。全員リレーは学年ごとに行われ、孝一達二年生の出番は一年生のあとで二番目だった。

 孝一の中学校の体育祭には正式な勝ち負けがない。そのため、生徒達の間では全員リレーに勝ったクラスがその年の優勝者だという風潮がある。だから、宇佐美が全員リレーに熱を上げるのはもっともな話で、宇佐美だけでなくクラス全体が全員リレーに対して気合を入れていた。

 宇佐美はしばらく一軍女子達と話し込んでいたが、結局宇佐美の書いた案通りの走順に決まったらしく、宇佐美はその紙をクラス全員に回して確認するように言った。

 孝一の元にも紙が回ってきて、それを眺めて自分の名前を探す。

 宇佐美の字は乱雑で読みづらかったが、なんとか順々に名前を追っていく。

 なるほど走順は宇佐美なりに考えたらしく、足の遅い人の後ろにはそれなりに足の速い人を持ってきていた。

 じゃあ俺の後ろは足の速い誰かだろうな、と孝一は考えながら、足の速いクラスメイトの顔をいくつか頭に浮かべた。

 しかし、孝一の後ろにあった名前はその誰でもなく、佐々木のものだった。

 孝一は驚いた。自分の後ろに佐々木の名前があったことだけでなく、孝一の走順自体が三十四番目と、四十人クラスの中では終盤に位置していたことがその原因だった。普通、足の遅い奴をこの順番にいれようとは思わない。

 もしかすると、佐々木がなにか宇佐美に助言したのではと孝一は思った。宇佐美は佐々木にぞっこんだから、頼まれたら断らないだろう。

そんなことを考えていると、校内に放送が入った。放送委員は滑舌の良い声で、一年生の全員リレーが始まることを知らせた。

 それを受けて、ぞろぞろと教室から人が抜けていく。たとえ他学年であっても、競技中は校庭で応援をするのがルールだった。

 孝一はその列の最後尾を歩いた。移動の時に最後尾になるのは常であったが、隣に征矢がいないのはやけに寂しかった。

 校庭にはパワーパイプテントがいくつも張られていて、その下に孝一達は無造作に座った。パワーパイプテントには昭和何十年度卒業生寄贈、とか、平成十何年卒業生寄贈、なんて書かれていて、いつか自分も寄贈するのかな、なんてことを孝一は思った。

 一年生のリレーは白熱したものであるらしく、応援の歓声が至るところで上がっていたが、孝一のクラスでは宇佐美が熱弁を振るっていて、そっちの方に注目が集まっていた。孝一は珍しく嫌がることなく、黙って耳を傾けていた。

「俺たちは勝てるメンツだぞ! 警戒するのは四組ぐらいだ。俺たちなら間違いなく勝てる! バトンパスは焦らなくていい。落とさないようにやってくれれば無理に助走をつけたりしなくていい! 最後まで全力で走ってくれればそれでいい!」

 まるで体育教師みたいな言い分が面白く、孝一は口元に笑みが浮かぶのを感じた。その時、視界の隅で征矢が口を緩めたのを見て、きっと同じ事を考えたんだと思うと、孝一はまたも心臓が締め付けられるような気持ちに陥った。

 今日こそは征矢に話しかけようと決意してから一週間が経つ。自らの決意の弱さにはそろそろ飽き飽きとしてきた頃だが、今日こそ話しかけられるかと言われればそれはまた別問題だった。

 第一まず、機会がない。 征矢の周りにはいつも人がいて、二人きりになるチャンスなんてなかった。

 わざわざ呼び出してその場面をクラスメイト達に見られるのも嫌だったから、征矢が一人になる時間を窺っているのだが、まずそんな時間はなく、孝一は機会を喪失し続けていた。

 この日もそれは同じで、テントの中で孝一は征矢に話しかける機会を探していたが、とうとう見つからないまま一年生のリレーが終わった。

 二年生の皆さん、準備をしてください、という放送が入った時には、どのクラスも校庭の中央で円陣を組んでいた。孝一のクラスもその例外ではなく、総勢四十人の輪を作っていた。声出しは例のごとく宇佐美の仕事だ。

「さあ、やってやろう! 優勝しよう! 絶対勝つぞ!」

 だから、優勝とかないんだって。

 おう、と野太さと甲高さを分け合ったような掛け声の中に居ながら、孝一はそう思って苦笑した。しかし、不思議といつもの不快さはなかった。

 孝一の走順は終盤だから、クラスごとの列のうしろの方で座っている。地面が砂利だらけで体育着が汚れるだろうと思ったが、別に気にしなかった。

 孝一のうしろには佐々木が座っている。だが、佐々木は孝一に話しかけてはこなかった。

 全クラスの一走の走者がスタートラインに立った。孝一のクラスのレーンは内から二番目だったが、一走のスタートの時のみ使われるレーンだから、あまり有利不利は関係なかった。

 スタートラインの内側には地蔵先生が空砲を構えて立っている。防音のヘッドフォンを身に着けたその姿はどこか滑稽だった。

 各クラスの走者がクラウチングスタートで構える。そしてぱあん、と空砲が鳴らされた。その瞬間、静かだった空気がざわめきだす。いきなり絶叫のような応援をしているお調子者も何人かいた。リレーを待つ時は原則として座っていなければならないが、そんなことを気にする人はあまりいなかった。大事な一走の順位を確認しようと、学年のほぼ全員が立ち上がっている。孝一もその一人だった。

 全員リレーは円周二百メートルの円を一人一周ずつしなければならない。今ちょうど、孝一のクラスの第一走者は半分ほど走って、二位でカーブを曲がっていた。二位といっても、ほとんど団子状態のレースになっていて、順位はいつ入れ替わってもおかしくない。

 終盤に向かっていくにつれ徐々に集団のスピードが落ちていく。だが、順位の入れ替わりは見られない。最後の大きいカーブを曲がり切ると、少しだけ全体のスピードが上がる。そしてごちゃごちゃの状態でバトンタッチが為され、二走がほとんどいっせいにスタートを切った。

 そこからは、大きな順位の入れ替わりもなく、一位、二位グループと三位、四位グループの二つに分かれるという展開になった。一位、二位グループは四組と二組だった。

 その状況が変わったのは、中盤を過ぎたあたり、二組の走者が宇佐美になった時だ。

 四組と僅差の一位でバトンを受けた宇佐美はスタートから一気に加速すると、簡単に二位以下を突き放した。今日一番の歓声が宇佐美に対して上がる。やたら綺麗なフォームを見る限り、練習してきたのだろう。

 結局、二位以下を大きく突き放して宇佐美はバトンを次の走者に渡した。クラスの中で労いの声が飛び交った。宇佐美は平気な顔をしていたが、肩を大きく上下に揺らして息をしていた。

 ここまでは完璧に宇佐美の作戦通りだった。あとはこの差をキープしたまま走り切るだけ。

 勝てる。

 という雰囲気がクラスの中で流れ出した。

 しかし、そう上手くはいかなかった。その後、孝一の出番まであと五人ほどと終盤に差し掛かった頃には、各クラスのエース達の追い上げで、レースはまたもや横並びの状態になった。他クラスの応援の声が大きくなっていくのに反比例するように、二組の声は小さくなっていく。

 宇佐美の作戦は崩れ去ってしまった。それに、二組には屈指の鈍足、孝一がまだ残っているのだ。

 これは勝てないかも、という雰囲気がクラスの列の中で充満しだす。その原因が自分だと気づいて、孝一はにわかに緊張しだした。

 雰囲気に負けてしまいそうになる。練習したことなど、なに一つできないのではという錯覚に陥る。

 心臓が嫌な高鳴りを見せ始めて、孝一はなんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返した。

 そんな時、孝一の背中がばしん、と響いた。鋭い痛みに孝一はデジャヴを覚える。征矢だ、と直感したが、外れた。

 振り向くと、そこにいたのは佐々木だった。

 緊張していないのだろうか、いつものポーカーフェイスだった。

「孝一くん、緊張しすぎ」

 歓声で声はかき消されがちだったが、ぎりぎり聞こえた。

 孝一は素直に首をすくめた。

「なんか、いつになく緊張してんだ、俺。今までこんなことなかったのに」

 すると、佐々木は当然じゃない、と呆れたように言った。そして出来の悪い生徒に教えるような口調になる。

「戦うんでしょ。初めて。そりゃ誰でも緊張するよ」

 言われて、胸がふっと軽くなったようだった。

 そうだ、俺は今日、戦うんだ。

 その思いが心の中に浸透すると、嫌な緊張はすうっと消えていく。代わりに、高揚が沸き起こる。

 初めての感覚に、孝一は多少戸惑った。心臓が浮いているみたいに、妙に軽い。

「ありがと、緊張解けたよ」

「そりゃ良かった」

 孝一は苦笑する。良かったと言う割に、顔も口調も全然良かったなんて思っていなさそうだったのだ。

 こうしている間にもバトンは着々と渡され、孝一の出番は近づいていく。

 孝一は落ち着いた心境でレースの行方を見守る。

 遂に孝一の前の走者にバトンが渡された。二組はなんとか僅差で一位を保っている。

 その時、佐々木がまたも背中を叩いてきた。孝一は思わず顔を歪めて振り向く。すると、佐々木は真剣そのものといった表情で、顔を孝一に近づけた。

 そして、言い聞かせるように呟き出した。相変わらずの明瞭な発音は、スッと孝一の中に入ってくる。

「爪先で走ること。腕をしっかりと振ること。呼吸を気にしないこと。足元を見ないで、前を見て走ること。コーナー出口でスピードを維持すること。コーナーはなるべくインを攻めること」

 全部、何度も言われてきたことだ。孝一は頷く。

「最後のアドバイスってことね。ありがとう」

 孝一はそう言いながら、ひどく落ち着いていた。プレッシャーはどこにもない。笑みさえ浮かんできそうだった。

 孝一の前の走者が半分の地点を通過した。それを見て、地蔵先生がレーンに入るように、と孝一に声をかける。

 それに応じようと歩き出した時、佐々木が孝一の肩を掴んだ。孝一は足を止めて振り向く。

「なに?」

 俯いている佐々木を見て、孝一はそう声をかけた。

 佐々木はふっと顔を上げて言う。

「それと」

「今日、征矢と仲直りすること」

 予想外の言葉に、孝一は面食らった。すると、佐々木は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。クラスの中ではお馴染みの笑顔だったが、孝一がそれを向けられるのは初めてのことだった。

 思わず心臓がざわめくのを抑えながら、孝一も笑みを返す。なにも言わない。ただ笑うだけ。

 孝一は一言も発しなかったが、佐々木は満足げに頷いている。そして、もう一つ言葉を付け加える。

「頑張って」

 孝一は頷く代わりに、左手で親指を立ててみせた。そして自信たっぷりに言う。こんなことを言うのは人生初だな、と思いながら。

「任せてよ」

 そして、地蔵先生にもう一度促されて、孝一はレーンに入った。

 これ以上なく落ち着いているのに、指先まで神経が詰まっているのがよくわかる。

 宇佐美が孝一に向かって声を上げる。

「抜かされたっていいからな! 全力で頑張れよ!」

 その声に、孝一の口元は思いがけず緩んだ。

 やっぱり、根明でいい奴だ。

 と思う。いつかもっと、仲良くなりたい。

 そしてとうとう、最後のカーブを前走者が曲がりきって、孝一に向かって一直線に走ってきた。他の組の走者もほとんど同じタイミングでこちらに向かってくる。

 孝一はタイミングを見計らって走り始める。隣も、その隣も同じことをしているのが横目に見える。そして、孝一はバトンを受け取って走り出した。

 歓声が聞こえてきたが、自分とは全く関係のないもののように思える。

 孝一はただ走ることだけに集中している。うしろから足音がいくつも聞こえてきたが、気にしない。

 腕を振る。爪先で走る。前を向く。

 一ヶ月間、習ってきた基本を頭で何度も反芻しながら走る。視界が絶え間なく揺れる。

 孝一は最初のカーブを曲がる。

 脳内には佐々木のアドバイスが蘇ってきている。

 ――右肩を中に入れるように走って。その方がカーブでインコースを攻められるから。

 何度も練習してきた動作。孝一は上手く肩を使って、カーブをインコースギリギリまで攻めた。だが、それと同時に二人に抜かされた。

 歓声が上がったのが聞こえたが、孝一は気にしない。むしろ、抜かされるのは想定内だった。

 いくら走る練習をしたとはいえ、元が壊滅的だったのだ。鈍足と比べるならともかく、終盤を任される足の速い走者に孝一のトップスピードはとても敵わない。

 孝一が勝負すべきなのは、トップスピードの維持力とコースの攻め方だ。

 孝一もそれをわかっている。だから、焦りはなかった。

 五十メートルを過ぎようかというところで、もう一人にも抜かされて孝一は最下位に転落した。二組のため息が聞こえてきそうだったが、孝一は集中を保っている。

 前の三人の背中はちゃんと捉えている。なんの問題もない。その時、先頭を走っていた走者がスピードを落とし始めた。もう既に五十メートルを過ぎている。ペースを落とす奴が出てくるのは想定内だった。

 孝一は二度目の大きいカーブに入ったが、問題なく乗り切った。前の三人のうち、二人はまだ加速している。だが、一人は完全にペースが落ちている。だが、孝一は焦って抜かそうとはしない。抜かすにはルール上走者の外を回らなくてはならない。今抜かして体力を使うのは得策ではない。これは、佐々木と何度も話し合ったことだった。

 ――二百メートルは短距離で最も技術が重要って言われてるの。孝一くんが勝つためにはぴったりな距離だよ。

 最初の練習で佐々木はそう言っていたのを孝一は思い出しながら走る。大丈夫、なにもかも作戦通りだ。

 前の二人は競い合ってずいぶん前に出ていたが、百二十メートル付近を過ぎたところで、二人の背中が大きく揺れているのが目に入る。疲れている証拠だ。

 今だ、と感じて、孝一は一気にスピードを上げた。上げた、というよりスピードを維持しているだけなのだが、他の走者が軒並みスピードを落としていたから、傍目からはスピードを上げたように見えたのだ。

 歓声、というよりざわめきのようなものがあちこちで湧き上がった。しかし、孝一はそれに耳を傾けず、ただ走ることに集中していた。姿勢を保ち、必死に足を回す。百五十メートルを過ぎようというところで、三位を抜かし、一気に上位の二人の背中に迫る。二人は明らかにスピードを落としている。対する孝一はトップスピード。男子の平均に少し及ばないかというトップスピードだったが、疲れ切った中学生に対抗するには十分な速さだ。

 どんどんと背中が大きくなっていく。比例して、歓声も大きくなっていく。宇佐美が叫ぶように応援する声が聞こえる。

 心臓が苦しくなってくるのを感じる。しかし、孝一はスピードを緩めない。

 これは俺の人生における初戦なのだ、と孝一は思う。

 健常者と公平に戦うと決意するまで、十四年もかかってしまった。

 今までの劣等感からの脱却に、十四年もかかってしまった。

 健太が、その小さな背中で後押ししてくれた。

 だからこそ、負けるわけにはいかない。

 俺も証明しないといけない。障害者でも勝てるということを。

 前を走る背中のうちの一つがスピードを落とし続けている。孝一は最後のカーブに入る。何度も練習してきたカーブだ。疲れ切った奴に負けるわけにはいかない。

 そして、ついに孝一はその背中を抜かし、二位に躍り出た。大歓声が孝一に降り注ぐが、孝一が気にしているのは前を走る背中だけだ。

 一位の走者は意地で走っているのだろう。最後の直線で、少しながらも加速している。

 対して、孝一のスピードは徐々に落ちている。長いトップスピードに、右足が悲鳴を上げているのがわかる。

 だが、孝一だって意地だ。絶対に勝たないといけない。クラスメイトのために、佐々木のために。

 孝一は落としていたスピードを無理やり上げた。今までにないぐらいのスピードで足が回っている。背中が近づいていく。バトンタッチまでおよそ二十メートル。佐々木の顔が見える。にわかに速度が上がる。呼応するように、歓声もどんどん大きくなる。

 走れ、走れ、走れ!

 自分の右半身に向かって孝一はそう叫ぶ。一位の背中が近づく。もう目と鼻の先だ。あと十五メートル。

 抜かせる―――

 孝一がそう確信したその瞬間、視界が急にひっくり返った。

 悲鳴が上がった。ああこれは自分に対してのものだと、孝一は倒れゆく中で呑気にそう思った。

 顔が地面に近づいている。勢いよく倒れ込んで、左膝が思い切り地面に擦れたのがわかる。顎を地面に打たれて、視界がぐらりと歪んだ。目に、一位がバトンを渡したのが映る。さっきまであんなに近かったのに、ずいぶんと遠くの世界の出来事のように見える。

 うしろから聞こえていた足音が、自分の前に向かっていく。離れていく。二人揃って走っているのが見える。

 なにが起きた。

 急に右足が回らなくなって、縺れたのだと思い出す。そしてその勢いのまま倒れたのだと思い至る。

 今までになかったスピードに、孝一の右足が追いつかなくなってしまったのだ。

 結局、右半身のせいかよ――

 孝一は悔しくて唇を噛んだ。砂利を噛んでしまって気持ち悪かった。

 やっぱりダメなんじゃないか。

 そんな諦めが孝一の身体の中に生まれ出したその時、鮮烈な声が孝一の耳に届いた。

「立って!」

 顔を上げると、佐々木がそう叫んだのがわかる。佐々木の目は、あの試合の健太が見せた目とそっくりだった。

 なに一つ、諦めていないあの目。

 そうだ。

 孝一は立ち上がる。擦れた左膝がじんじんと痛むのも気にせず、走る。

 まだ諦めちゃいけない。まだ、負けたわけじゃないんだ。

 走れ、走れ。

 自分を奮い立たせて、孝一は佐々木に近づいていく。佐々木は止まって孝一のことを待っている。

 そして、孝一は水色のバトンを佐々木に手渡して、その場に倒れ込んだ。

 その瞬間、周りに人が大勢やってきた。保健室の先生に、黒川先生に、地蔵の小堀先生だ。

「大丈夫か? 今、保健室に連れていくからな」

 そう言った黒川先生が差し伸べた手を、孝一は払った。

「大丈夫です。リレーが終わるまでは待っています」

 すると、保健室の先生は、とんでもない、とでも言うように顔を顰めた。

「ダメですよ。顎を打っていたじゃないですか。脳震盪が起こっていたらどうするんです」

「大丈夫です!」

 孝一はほとんど怒鳴るように言った。応援の歓声が、ひどく遠くに聞こえる。

 尚も食い下がる先生たちを無視して、孝一は立ち上がってリレーの行方を見守った。

 孝一のせいで、佐々木はずいぶん遅れてのスタートになった。

 しかし、佐々木はその差を猛然と詰めていく。あまりの速さに、歓声どころかどよめきが起こっている。孝一はその姿をまっすぐと見つめている。

「凄いな、美佑」

 安心したように、誇るようにそう呟いたあと、孝一の視界がぐらりと暗転した。

 あれ、なにも見えねえ。

 次の瞬間、自分の身体が倒れたのが、孝一にはわかった。




 目を覚ました時、孝一は見覚えのない天井のせいで、自分がどこにいるのかわからなかった。

 暖かな色の天井は佐々木の家のものに似ていたが、やけに痛い背中が、そこが佐々木の家ではないことを示していた。佐々木の家にこんなに硬いソファなどないことを孝一は知っている。

「ああ、やっと起きた」

 その声で、孝一は今自分がどこにいるのかを理解した。この声は、さっき駆け寄ってきた保健教諭のものだ。名前は確か、有原先生だった気がする。

 保健室の硬いベッドから身をがばっと起こすと、有原先生は怪訝な顔をした。先生が掛けている銀縁メガネは、佐藤先生のものに少し似ていた。

「まだ起きないで。あなた結局、あのあと倒れたのよ。覚えてる?」

 覚えてます、と返答してから、孝一は大人しくベッドに寝た。そして顔だけ上げて聞いた。

「リレーは結局どうなったんですか?」

 その言葉に、有原先生は呆れたようにため息をついた。

「知らないわ。あなたにかかりきりだったからね」

 そう言われて初めて、孝一は自分の膝にガーゼと大きな絆創膏が貼られているのに気づいた。先生は孝一にペットボトルの水を渡しながら続けた。

「でも、ちょうど閉会式が終わるところだったわよ。さっき、ここから校歌が聞こえたから」

 凛とした口調は、やはりどこか佐藤先生に似ていた。

 孝一はキャップを開けて、水を喉に流し込んだ。冷たい水が気持ちよかったが、リレーの結果が気になってしまって気が気でなかった。

 閉会式が終わったということは、今は各教室でホームルームが行われているはずだ。

「もう大丈夫なんで、教室戻ってもいいですか?」

 孝一はダメで元々で有原先生に尋ねてみたが、案の定有原先生は目を吊り上げた。

「ダメに決まってるでしょ。ついさっきまで倒れてたのよ、あなた。今は安静です。結果が気になるのはわかるけど、それはあとで黒川先生が教えてくれると思います」

 孝一は嫌だ、と言いたくなるのを堪えた。

 結果を聞く相手が黒川先生では嫌だった。

 できることならあの人から聞きたかった。

 無感情な声をいくらか弾ませて、優勝した、と微笑んで欲しかった。

 だが、そんなことを言えるはずもなく、仕方なく孝一は硬いベッドに身を任せ、クリーム色の天井を見つめていた。

 孝一は身体が揺らされているのを感じて目を覚ました。

「孝一くーん?」

 誰かが自分の名前を呼ぶのが聞こえる。

 いつの間に寝ていたのだろう、と自分自身で疑問に感じながら、孝一はゆっくりと瞼を開いた。

 明るい部屋の光に慣れると、有原先生がベッドの横にあるソファに腰を掛けながら、迷惑そうに眉をひそめているのが見えた。

「まったく、ほんとは起こさない方がいいのに。今時の中学生ってみんなこんなに頑固なの?」

 愚痴をこぼした先生に対して、すみません、と恐縮したような声が孝一の耳に届いた。それはよく知っている声で、孝一は思わず胸を躍らせた。

「大丈夫? 孝一くん」

 そう言ってベッドを覗き込んだ佐々木の顔は心配そうに青ざめていたが、本気で心配しているのか、学校用の大げさな表情を作っているのか、どちらとも取れて判断しかねた。

 孝一は無防備に覗き込まれることに恥ずかしさを覚えて、身体を起こした。一瞬先生が眉を寄せたが、言っても無駄と判断したのか、ため息だけついてそっぽを向いた。

「別に大丈夫だよ。大したことない」

 孝一は明るく言ったが、佐々木の顔は青ざめたままだ。そんなの信じないということだろう。

「あのなあ、信じないなら聞くなよ」

「信じてるよ、脳震盪で倒れたっていう先生の言葉をね。脳震盪を起こしておいて大丈夫なわけないじゃない」

 佐々木の口調は怒っているようですらあった。

「ほんとに、今は大丈夫なんだよ」

 孝一は弁明したが、佐々木は信じない、とでも言うように首を傾げた。

 孝一は諦めて話題を変えた。

「結局どうなったの、リレーは」

 すると佐々木は肩をすくめた。しかし口調は軽かった。

「二位だった。あのあと、みんな焦ってたのか、細かいミスがいくつも重なっちゃって。最後に征矢がまくったんだけど、二位止まり」

 それを聞くと孝一の胸に、正体不明の感情が湧き上がってきた。

 虚しさとも、悲しさとも違う、身をよじるような大きな感情。 

 それがなんなのか、孝一にはわからなかった。

 佐々木は言葉を継ごうと口を開こうとしていたが、やがてすぼめた。そして有原先生に向き合って言った。

「すみません。一瞬、外にいてもらってもいいですか? 孝一くんを動かすわけにはいきませんでしょうし」

 有原先生は目を丸めた。それもそうだろう。だってこの部屋は実質的に有原先生のものなのに、そこから出ていけと言われるなんて。

 だが、先生は渋面を作ってぶつぶつと文句を言いながらも、しぶしぶ了承して、保健室のドアに手をかけた。

「こんなところでいちゃつかないでよ!」

 捨て台詞のように、警告のように言い残して、有原先生は保健室の外へと出ていった。

 孝一は苦笑しながら、いい先生だね、と独り言のようにこぼした。

 佐々木は小さく頷いた。孝一はその表情を見たが、既に鉄仮面のような無表情に変わっている。孝一はその変わり身の早さにむしろ呆れた。

「きみのスイッチの切り替えはやっぱり見事だな。もう少し心配してくれてるかと思ったのに」

 癖で思わず「きみ」と呼んでしまったが、佐々木は気にしていなさそうだった。

 佐々木は無表情のまま答える。

「心配してたよ。リレーで一人しか抜かせなかったのも、心配で胸がいっぱいだったからだし」

 孝一は笑った。

「あれだけの差がついていたのに一人抜かしたなんて、なんの心配もせず走れたのと同義だよ。それに走っている時はまだ、俺が倒れたのなんか知らなかっただろ」

 佐々木は、ばれたか、とおどけた口調で小さく呟いた。

 孝一はそれを気にせずに話題を変えた。

「で、なんの話をしにきたの? わざわざ先生を追い出すなんて」

 佐々木は別に、と呟いた。

「話している時にうっかり障害の話題が出たら孝一くんが可憐想だなって思っただけだよ」

 孝一はそれを聞いて口元が緩むのを感じた。だとしたら、有原先生は不憫だ。まったく意味のないことで自分の居城を追い出されたのだから。

「悪いけど、有原先生は俺の障害を知ってるよ。保健教諭には教えなきゃいけない決まりなんだ」

 すると、佐々木は目を丸めたあとに軽くため息を吐いた。

「じゃあ、申し訳ないことをしちゃったかな。まあ、出ていってもらった意味がなかったなんて言わなくていいよね」

 有原先生がぶつぶつと文句を垂れる様子が目に浮かんで、孝一は口の両端が引き上がるのを感じながら頷く。

「文句言われるだろうから、言わないでいいんじゃない」

 そうだよね、なんて言いながら、佐々木孝一が起き上がって座っているベッドに腰を掛けた。急なことに孝一は少し驚いたが、なにも言わずに隣に座らせた。

 佐々木の視線が怪我をした左膝へと向かう。ガーゼの下が黄色く染まっている。それを見て佐々木は苦虫を噛み潰したような顔になる。

「うわ、それ痛そう」

「ああこれ」

 孝一は自らの左膝に視線を向ける。今まで気にしてすらいなかったのに、言われてみると痛むような気がするから、人間の身体とは不思議なものだと。

「いやあ、情けない転び方したよな」

 恥ずかしさと痛みを誤魔化すように、わざと明るい声で言った。そういえば、左肘も軽く擦れていて痛い。こちらには絆創膏が貼られていた。

「ううん、頑張ってたよ。ほんとに、あと少しだった」

 佐々木の言葉を受けて、孝一の脳裏に、最後の直線の場面が思い出される。

 あと少し――

 そう思って速度を上げようとした瞬間に、視界がぐるりと反転した。

 自分ではあまりわからないが、はたから見たら情けない姿だったに違いない。

 孝一の胸に、またも正体不明の感情が溢れてくる。名前が付けられない感情だから、処理が上手くできなくて自分の中でぐるぐると渦巻いて消えてくれない。

「いや、転ばなかったとしても、たぶん抜かせなかったよ。見てたかわからないけど、あの時、右足が間に合わなくなって足が絡まったんだ。要は、あれ以上のスピードは出せなかったんだよ。ごめん、俺のせいで負けたようなもんだ」

「まあ、孝一くんが転ばなかったら、確実に私たちは一位だっただろうね」

佐々木は遠慮のひとつもしないでそう言い切った。その目がいつものごとく宙に浮いているのを孝一は横目で見ていた。

「でも別に、みんな誰一人として孝一くんが悪いだなんて思ってない」

 そう聞いて、自分の口から乾いた笑いがこぼれ出るのを孝一は感じる。そして、嘲るような口調で、言葉が洩れる。

「そりゃ、みんな口ではそう言うよ。でも、目はみんな正直なんだぜ」

 孝一は自身に注がれてきた視線の数々を思い出す。諦念、侮蔑、同情、怒り、感情はさまざまであるけれど、根底にあるのはすべて、「お前のせいだ」という思いだ。今回だってきっと同じだ。俺のせいで負けたのだから。

 佐々木はなにも言わず宙を覗いている。まるでその中にだけ答えがあるとでもいうぐらい、一点のみを見つめている。

 孝一は畳み掛けるように口を開く。有原先生がいなくてよかった。今は溜まっている思いを全部吐き出してしまいたかった。

「戦いたいって偉そうに言ったけど、結局最下位だったし。努力もしたけど、身体が追いつかなかった。結局、不自由な人間じゃあ勝てないんだよ」

「完全な人間なんかいないって、前に話したよね?」

「ああ。でも、不自由な人間はいる」

 孝一は頑として言い切った。

 結局無駄だったんだ、と孝一は思った。

 健太のあれは奇跡のようなもので、大半の障害者はやはり、健常者には敵わないのだ。

 努力してから改めて、それを強く思い知った。

 諦めが孝一の中に広がる。決別したと思っていた、慣れ親しんだ感情が孝一のことを支配し始める。

 その時、佐々木が口を開くのが孝一の視界の端に映った。

「障害者が不自由だなんて、誰が決めるの?」

 またか、と孝一は辟易しそうになる。前にもこういう話をしたはずだ。

 あの時佐々木はなんて言っていたっけ、と孝一は記憶を辿る。

 確か、お兄ちゃんは自分が不自由だなんて思っていないとか、そんな話だったはずだ。

 あの時ははっとさせられた言葉だが、今思えば完全な詭弁だ。だって、障害を持っているという事実はそこに残っているのだから。

 劣等感がふつふつと湧き上がってくる。もうこんな感情に惑わされたくないのに、と思うことすら虚しかった。いなくなったはずの虚無が、孝一の全身を覆っていく。まるで嵐の前の空みたいに、とんでもない速さで心が曇っていく。

 するとその時、保健室のドアが勢いよく開かれて、部屋に大勢の人が入ってきた。みんな、孝一のクラスメイトだ。

 孝一が驚きのあまり言葉を失っていると、ドアの外で有原先生の絶叫が聞こえた。

「もう! なんでみんなこんなに頑固なのよ!」




 なにがどうなっているのか、孝一には理解できなかった。かろうじて理解できたことは、保健室はこんなふうに大勢がくる場所ではないということだ。

 人がひしめき合っていてスペースがどこにもなかった。ベッドに座っている孝一と佐々木をクラスメイトが囲んでいる。

 がやがやとうるさくて、とても保健室とは思えなかった。

 こういう時に助かるのは声の大きい奴だ。

「早瀬、お前大丈夫かよ!」

 ひときわ大きな宇佐美の声に孝一は頭痛すら覚えたが、周りが静かになり始めたのはありがたかった。

 宇佐美は孝一と佐々木のちょうど目の前に立っている。口では孝一を心配していたが、その目が隣の方を気にしているのはあからさまだった。

 宇佐美の滑稽な様子に、孝一はいくらか落ち着いてくる。

「うん。もう全然、なんともないんだ」

 宇佐美の目が孝一を見定めるように動く。じゅくじゅくと出てくる黄色い汁を押さえつけているガーゼを見て、宇佐美は顔を歪めた。

「すげえ痛そう。ド派手に転んでたもんな」

 やっぱりそう見えてたのか、と孝一は顔がほてるのを感じたが、なるべく気にしていないように見せようとおどけてみせた。

「天地がひっくり返ったかと思ったよ」

 控えめな笑い声が狭い保健室の中に広がった。宇佐美もにやりと笑う。

「でも、大丈夫そうで安心したぜ。倒れた時はすげえ焦ったんだから」

 言いながら宇佐美はくりくりとした目を大げさに広げたが、決して嘘ではないだろうということは孝一にもわかった。こいつはそんなに器用な嘘がつけるような人間ではない。

 孝一は素直な宇佐美の人間性に感心すると同時に、仄暗い罪悪感を覚えた。

 こんないい奴の目標を二度も潰してしまったなんて。

 ドッジボール大会で、体育祭で、絶対勝つぞ、と声を張った宇佐美を思い出して、孝一の胸はにわかに苦しくなる。

 だが、謝ろうとはならなかった。謝ってしまえば、こいつらは許してしまう。

 憐れみが混じった目で俺を見て、「しょうがねえよ」なんて言って許してしまう。

 そうやって同情されるのは孝一がもっとも嫌うことだった。

 だが、孝一の心情など宇佐美が知るはずもなく、きっと良かれと思ってのことだと思うが、宇佐美は大声で称えた。

「でも、マジで速かったな。びっくりしたよ。運動、全然できないのかと思ってたのに。良い意味で、予想を裏切られたって感じだ」

 なあ、と言って宇佐美が首を回すと、クラスメイト達は口々に声を上げた。

 ああ、とか、そうだよ、とか、びっくりしたぜ、なんて声が男女問わず口々に上がったが、孝一の胸は晴れなかった。みんなが気を遣っている気がしてならなかったのだ。

 孝一は曖昧に微笑んだが、そのまま俯いた。みんなの目が怖くて、見られそうになかった。そうしている間にも、宇佐美は大声を上げている。「静かに!」と未だ保健室には入れずにいる有原先生に怒られたぐらいだ。

 怒られてからそれなり声を小さくはしたが、それでも保健室の全員に聞こえるぐらいの声で宇佐美はなおもしゃべり続ける。そして感心したように息を洩らす。

「正直、佐々木さんから早瀬の走順について言われた時はほんとに大丈夫かよって思ったけど、まさか栗田にあそこまでくらいつくなんてなあ」

 どうやら孝一が鼻先まで迫った相手の名前は栗田というらしく、しかも反応によるとそれなりに足の速い奴だったらしい。

 だがどれだけ褒められたって、孝一は顔を上げることができなかった。それどころか、孝一の走順に意見したのは佐々木だったと聞いて、余計なことを、と思ったぐらいだった。

 あれだけ速い奴と走ることがなければ、最後に無茶など思いもしなかっただろうし、転ぶこともなかったはずだ。そう思うと虚しいような、やるせないような気持ちが沸き起こってきた。

 孝一は隣に座る少女を一瞥して睨んだが、睨まれている当人はそれに気づきそうにない。彼女は学校用の笑顔を作って、友達と話し込んでいた。

 切り替えが上手ですなあ、なんて嫌味が孝一の脳裏に浮かんだが、口に出すことはせずに、もう一度俯いた。保健室は地面までもクリーム色で、なにだか異様にそれが憎らしく思えた。

 同級生の声だけが保健室の中で虚しく響く。

 すごかったよ、とか、惜しかったよ、とか言われても、褒められている気はしなかった。

 無理に慰められている気がしてならなかった。それが余計に苦しかった。

 するとその時、佐々木が小声でなにかを呟いた。初めは友達に向けた言葉だろうと思ったのだが、明らかに声色が違った。だって、その声はあまりにも無感情だったのだ。

 思わず孝一は佐々木の横顔を覗いた。幾度となく見てきた横顔。だから、その目が注がれているのが友人たちではなく、宙であるということにはすぐに気づいた。

「顔、上げてみなよ」

 もう一度口を開いて佐々木はそう言った。明らかに、孝一に対しての言葉だった。

 嫌だ、と孝一は直感的に感じたが、簡単に無視はできなかった。その声音がやけに確信を持っているようだったからだ。その口調は、健太の試合の時、兄を信じ切っていた時のものとよく似ていた。

 結局、逆らう気力も起きず、孝一は恐る恐る顔を上げた。

 孝一の視界に、大勢のクラスメイトの顔が入ってくる。人が多いのは分かっていたが、いざ目にするとその多さに驚いた。しかし、なによりも孝一を驚かせたのは、クラスメイト達の目だった。

 彼らの目は、決して孝一を侮蔑してなどいなかった。同情などしていなかった。むしろ、目を輝かせて孝一のことを見ていた。

 なんで。

 孝一はそう声が洩れるのを堪えなくてはならなかった。

 なんで、そんな目をしていられるんだ。

 俺のせいで負けたのに。

 いつものように、「できない」俺を憐れまないのはなんでだ。

 孝一には理解できなかった。訳がわからず、目を泳がせるほかなかった。

 そして、思わず言葉が洩れるのを抑えられなかった。

「……俺のせいで負けたのに、なんで」

 言葉を溢してしまってからすぐにはっとなって焦ったが、幸い、騒がしい保健室の中の誰にも孝一の言葉は届かなかったようで、孝一はほっと胸をなでおろした。

 しかし、隣に座る少女だけは、その言葉を聞き逃さなかったらしい。

 佐々木は言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。

「孝一くんが、頑張ったからだよ」

 言われても、孝一にはぴんとこなかった。がんばる、という言葉と自分が上手く結びつかない。まるでどこか一つだけ見本と違った作りになってしまったプラモデルみたいに、しっくりこない。

 だが、クラスメイト達は違ったようだった。そうだよ、と口々に声を上げる。宇佐美も大きく頷いた。

「そうだよ。早瀬、すげえ頑張ってたじゃん。まさかお前、自分のこと責めてる?」

 純粋な疑問に思っているような宇佐美の言葉に、孝一は返答に詰まった。

 責めている、わけではない。正確に言えば、絶望している。

 しかし、そう言う訳にもいかず、孝一は黙った。

 すると、沈黙を肯定ととらえたのか、まじかよ、とさも意外そうに宇佐美は言った。そして彼は身を乗り出して語り始めた。近づいてきたのに声の声量はそのままで、孝一は座っているにも関わらず後ずさりしそうになった。

「別に誰も気にしてねえよ。そりゃ、優勝できなかったのは残念だけどさ。あれだけできるなんて、すげえよ」

「でも、俺のせいで負けた」

 孝一はそう言わずにはいられなかった。原因は自分だとこれ以上ないほど自覚しているのだから、いっそ責めてくれた方が気楽だった。しかし、宇佐美も、他のクラスメイトも、それをしようとはしない。

 それが苦しかった。かばわれているみたいで。

 不自由な身体を、むりやり肯定されているみたいで。

 ――障害者なんて、生きていたってしょうがない。

 いつかの言葉が思い出される。

 やはりあの言葉は真理なのかもしれない、と孝一は思う。

 障害者なんて、いくら頑張ったって無駄なんだ。

 諦めに似た思いが、じんわりと深く深く広がっていく。

 だが、そこに、はっとするような声が届いた。

「それを言うなら、俺のせいだ」

 親しみやすい、優しい声。いつか親友だった男の声。

 孝一は思わず顔を上げる。そこには、普段よりももっと穏やかな表情を浮かべた征矢が立っていた。孝一はずっと俯いていたから、征矢が来ていたことすら知らなかった。

「……いたのかよ」

 間抜けな声だったが、比較的乱暴な口調になった。親友に対してだけしていた、いつもの癖のようなものだった。だが、今の孝一は征矢と親友なわけではない。思えば、最後に言葉を交わしたのはあのレストランの時だった。

 孝一は動揺を隠しきれていなかったが、征矢自身はなんでもなさそうに、穏やかな表情を浮かべている。相変わらずの整った顔が、まっすぐに孝一を見つめていた。

「孝一の理論で言うなら、最後に抜かせなかった俺にだって責任がある。だから、負けたのは孝一のせいじゃない」

「違う」

 孝一は首を振りながら言った。そんなのは詭弁に過ぎない。

 だが、征矢は気にする素振りもなく、続ける。

「さらに言えば、もっとリードを残しておかなかった宇佐美のせいってことにもなる」

 急に名前を出されて、宇佐美はくりくりの目を泳がせながら、「え、俺?」と言っている。だが、すぐに神妙に頷いて、言った。

「確かに、征矢の言う通りだ。俺も悪い」

「それを言うなら、私もね」

 孝一の隣で、佐々木はそう付け加えた。すると、俺もだ、という声が自然的に湧いてきた。次々に、私も、とか、僕も、なんて声が孝一の頭に降ってきた。

「ほらな。誰のせいとかじゃないんだよ、孝一。お前が転んだって、他の奴らが取り返せばよかったのに、それができなかった。これは誰が悪いとかじゃないんだ」

 説教をするように征矢は言う。その口ぶりは、いつか孝一に電話をかけてきた角田先生のものにそっくりだった。

 だが、孝一には到底納得できる言葉ではなかった。噛みつくように、征矢に言葉を返す。

「そんなの、詭弁だ。俺が悪いのなんて、みんなわかってるだろ」

 頷くのを望むかのように、孝一はクラスメイトの顔を順々に眺めていく。だが、誰一人として頷くどころか、責めるような目をしてすらいない。

 孝一は歯噛みしそうになる。

 なんでみんな、そんな目をしていられるんだ。

「孝一」

 征矢は尚も孝一に声を投げる。その声音はどこまでも優しい。

「お前はいつも、そうやって自分のせいにするよな。この間のドッジボール大会の時も、必要以上に自分を責めてた。でもそれって」

 そこで一度、征矢は言葉を切った。その先を言うべきなのかどうか迷っているのか、中途半端に唇を噛んだ。そして、意を決するように口を開いたかと思うと、うしろを振り返って、クラスメイトに向かって言った。

「ごめん、ちょっとみんな、出て行ってくれるかな。孝一と二人で話したいんだ」

 急な提案に、誰一人として異を唱える者はいなかった。きっとここにいる全員が、俺と征矢が仲違いしたのを知っているからだ、と孝一は思った。

 宇佐美を先頭にして、征矢を除くクラスメイトは全員ぞろぞろと列をなして保健室から出て行った。「あら、終わったの?」と言う有原先生の声が聞こえたが、その場に残った二人とも、そんな声のことは気にしなかった。

 二人はしばらくなにも言わずにいた。これが保健室の本来あるべき姿であるはずなのに、急な静寂に孝一は違和感を感じずにはいられなかった。いつかは心地良かったはずの沈黙が今は気まずくて、自分たちの関係が変わってしまったことを孝一は思い知る。それがなんとも言えないほど悲しくて、孝一は誤魔化そうと体を何度かよじったが、気落ちした思いを振り払えるはずもなかった。

 沈黙を破ったのは征矢だった。

「さっきの続きだけどさ。覚えてる? なんの話か」

 バカにされちゃ困るな、と孝一は思ったが、素直に答える。

「覚えてるよ。俺が自分のことを責めてるって話だろ」

「必要以上にね」

 征矢はそう付け足したが、孝一は反応しなかった。

 そして、征矢はふうっと息を吸ってから、一気に吐くように言葉を発した。

「それって、凄くずるいことだと思うんだ」

 孝一は思わず自分の耳を疑い、征矢の顔を真正面から見た。だが、とても冗談を言っているようには見えない。

「ずるい? 俺が? 自分を責めることの、なにがずるいって言うんだよ」

 意図せず、少しだけ声が荒くなる。だが征矢は慌てる素振りも見せずに淡々と続ける。

「仕方ないってむりやり納得しているようにしか見えないんだよ。諦めているようにしか見えないんだ」

 この言葉には、孝一はなにも返せなかった。征矢の言葉には一定の真実性があった。

 しかし、十分な言葉ではない。孝一が納得するのにも、諦めるのにも、不自由な身体を持っているという理由があるのだ。別になんら不自然なことではない。

「でも、もしそれに正当な理由があるとしたら?」

 孝一は意地悪く、そういう言い方をした。だが、征矢は動じることなく言い切った。

「ないんだよ。そんなもの」

 あまりに強く言い切るので、孝一は驚いた。いったいどこに、そんな根拠があるのだろう。

 孝一の疑問に答えるように、征矢はさらに言葉を継いだ。

「俺も少し前まで、悩んでたんだ。自分がおかしな人間なんじゃないかって」

 孝一にはそれがどういう意味なのか判断できなかった。征矢がおかしかったことなど、今まで一度だってなかった。

「なに言ってるんだよ。お前がおかしい?」

 そのままの意味を込めて孝一は言う。なにを言っているのか全然わからない。

 すると征矢は笑った。ひどく寂しそうな、沈痛な笑みだった。それですら絵になるのは、もはや皮肉のようだと孝一は思う。

 数秒、沈黙が二人の間に訪れる。孝一は黙って、征矢の言葉を待つ。

 そして征矢は意を決したように口を開く。

「俺は、同性愛者なんだ」

 沈黙が、二人の間で流れ始める。

 なに言ってんだよ、と言おうとした孝一の口は中途半端に歪んで、閉じた。征矢の表情が、とても嘘を言っているようには思えなかったのだ。

 孝一の脳裏に、征矢の笑顔が浮かぶ。にかっ、と音が鳴りそうなほど眩しい笑顔。今目の前で悲痛な笑みを湛えている少年と、とても同一人物とは思えない笑顔。

 孝一は征矢の不可解だった行動を思い出す。

 時々見せる、あの遠い目のこと。

 決して彼女を作ろうとしなかったこと。

 それなのに、好きな人がいると言ったこと。

 そして、妙に印象に残っている、あのドッジボール大会の日の言葉を思い出す。

 ――なんというのかな、これは運命的に難しいことで、どうしようもないことなんだ。

 その時、孝一の頭の中で、かち、と音が鳴った。全てが繋がった音だった。

 あれは、好きな人が男だったからだ。だから、あんなことを言ったんだ。

 納得すると同時に、嘘だと言ってほしいという思いに駆られる。

 だってそれが事実だとしたら、俺はあいつになんて言った?

 ――悩んだことなんかないだろ? 適当にやってりゃあ上手くいくんだもんな、羨ましい限りだよ。こっちは毎日死に物狂いだっていうのによ。

 勝手に完全な人間だと決めつけていた。本当は全く違ったのに。毎日死に物狂いで悩んでいたのは征矢の方だったのに。

 胸が痛む。激しく、痛む。

 征矢は続ける。いつも通りの穏やかな声が、今はやけに苦しく聞こえた。

「俺はずっと悩んでたんだ。同性愛者であることに。それがばれたら、みんなに嫌われるんじゃないかって。特に孝一に嫌われたら、この先、生きていけないんじゃないかって思ったぐらいだった」

 孝一の胸の痛みが大きくなっていく。ほとんど動悸みたいになっていく。

 同時に、まるきり俺と同じだ、と感じる。

 俺も征矢に同情されて、避けられるんじゃないかと怯えていた。

 征矢にしても同じだったのだ。

 同性愛者。

 たったそれだけで、俺が嫌うはずもないのに。

 むろん、征矢にとってそれが「それだけ」なんて言葉で表現できるものではないと、孝一は理解している。だが同時に、見くびられたものだなという思いが広がる。

 そんなことで親友のことを嫌いになるはずがない。

 でも、それは征矢だって同じだったはずだ。俺が障害を打ち明けたところで、関係は変化しなかったのではないか。

 自分の立場が変わって、ようやく孝一はそれを理解した。そして理解した途端、強い後悔に襲われる。

 もしかしてあの日、俺の秘密を聞きだしたら、征矢は自分の秘密も打ち明けようとしていたのではないか。

 きっとそうだという思いが溢れてくる。こいつは俺にだけ秘密を言わせるような人間ではない。

 だとしたら。

 俺こそ、親友を見くびっていたんじゃないか。

 どうせ誰もわかってくれないと駄々をこねていただけなのではないか。

 悲劇の主人公を気取っていただけなんじゃないか。

 そう自覚した瞬間、孝一は恥ずかしさにいたたまれなくなった。自分がどれだけちっぽけな人間か思い知らされる。

 征矢はまだ続ける。淡々と、しかし力強く、言葉を紡ぐ。

「それで、佐々木にいろいろと相談してたんだ。お前とも仲がいいらしいし、仲間うちの中で、一番信頼しているやつだったから」

 征矢の言葉を聞いて、いつか佐々木が言っていたことを孝一は思い出す。

 ――征矢は、完璧な人間なんかじゃない。

 やたら、ムキになって否定していた。それは知っていたからだ。征矢が自分自身のことで、思い悩んでいたことを、知っていたからだ。

 すると、征矢は急に照れくさそうに鼻を掻いて、そして笑った。今度はあの、にかっと音が出るのではと思うような、美しい笑顔だった。

「でも最近、ようやく克服できたんだ。自分はおかしな人間じゃないって、誤魔化しじゃなく、心から思うことができた。彼氏もできたんだ」

 照れくさそうに言う征矢を見て、良かった、と孝一は心から思った。

 そして、言葉が洩れるのを抑えきれなかった。

「凄い奴だよ。お前は。本当に、凄い奴だ」

 孝一は知っている。誰のせいでもないコンプレックスを克服する難しさを。だからこそ、征矢が一言、「克服した」で済ませたことが、どれだけの偉業であるか、よくわかった。

 すると、征矢は首を振った。そして孝一の目をまっすぐ見つめてから言う。

「凄くなんかない。俺は気づけただけなんだ。誰だって、どんな奴だって、結局は人間なんだって。同性愛者であろうと障害者であろうと、一人の人間なんだ。不自由なことなんて、なにもないんだ」

 そう言い切った征矢の言葉が、孝一を刺激した。正体不明の熱い思いが、溢れ出してくる。

 それと同時に、二つの声が孝一の頭の中で響く。一つは角田先生の、一つは佐々木の声だった。

 ――いったいこの世界の誰が、障害者は不自由だなんて決めつけているんだろうね。

 ――そんなの、誰が決めたの?

 瞬間、孝一の脳裏に、確信めいた思いがよぎる。鮮烈な思いが、全身を駆け巡る。

 俺だったんだ。

 孝一は心中でそう呟く。

 社会じゃない。世界じゃない。

 俺が、決めつけていたんだ。

 俺自身が、障害者は不自由だと、決めつけていたんだ。

 俺を不自由にしていたのは、俺だったんだ。

 ようやく、気づけた。

 急に、右半身に血が巡っていくのを感じる。

 自らを縛り付けていた鎖が、音を上げて崩れていく。

 心に常にぶら下がっていた重みが消えていく。

 そして同時に、胸に正体不明の、あの熱い思いが溢れてくる。

 不意に目が熱くなる。視界がぼやけてくる。

 その時、孝一は理解した。この熱い思いの正体を。

 俺は勝ちたかったんだ。

 どうしようもなく、勝ちたかったんだ。

 証明したかった。健太くんのように。

 障害者でも健常者に勝てるんだって、証明したかった。

 でもできなかった。

 ああ。

 悔しかったんだ、俺。

 理解した時には、孝一は大粒の涙を流して泣いていた。頬が、やけに熱い。

 悔しい、悔しい、悔しい。

 人生で初めての感情だった。ずっと、負けることに納得してきた人生だったから、今まで経験したことのない感情だった。

 胸が不規則に上気している。嗚咽のせいで息がつまって、呼吸がしづらい。

 輪郭があいまいになっていく視界の中で、孝一は思う。

 ああもう。

 どうしようもなく。

「……勝ちたかったなあ」

 言葉が、嗚咽と共に洩れてくる。

「勝とうぜ、来年。来年こそ、勝とう」

 征矢はそう言った。間違いなく、世界で一番優しい言葉だと孝一は思った。孝一は泣きながら何度も何度も頷く。

 そうだ、次こそ。

 熱く優しい思いがこぼれていくのを、孝一は止められなかった。だが、それも心地よかった。

 枯れるほど泣くと、乾いた孝一の目が、保健室の窓の外を捉えた。

 抜けるような青空から射す光が、グラウンドを照らしている。グラウンドの無数の砂利は光を浴びて、孝一を祝福するようにキラキラと光っている。

 今なら、言える。

 孝一は自分でそう確信する。

 そして、意を決して、自分を見つめているたった一人の親友の目を見つめ返す。

 孝一はゆっくりと口を開く。

「実は、俺さ」

 もう劣等感は、どこにもなくなっていた。




 皮膚が溶けてしまうような暑さだというのにも関わらず、体育祭の熱気は最高潮だった。なぜなら、この日一番の目玉である三年生による全員リレーの終盤だからだ。

 孝一はその中でまだ、出番を待っている。なんの因果か、走順は一年前と同じだった。孝一の後ろを走る走者も、そしてこの日のアンカーも、また同じだった。

 宇佐美が声を張って応援しているのが聞こえる。宇佐美もまた、今年も同じクラスになった。

 後ろの走者に対して、孝一は言葉をかける。

「真里さんと健太くんは来れたんだっけ」

 うしろを見やると、『今年もクラスメイトの彼女』は気恥ずかしそうに頷いた。今ではすっかり名前で呼ぶようになったが、今でも心では、佐々木と呼んでしまう。

佐々木は孝一から見て右側のパワーパイプテントを指さして言う。

「ほら、あそこに」

 孝一は佐々木の指を目で辿る。そこにはすっかり元気になった真里さんと、作業着姿の健太がいた。健太は今年から、市内の作業所で働いている。

 なんとなく、孝一は二人に笑みを送る。すると、二人は手を振って返してきた。

 全部、健太くんのおかげだよ。ありがとう。

 孝一は心中でそう呟く。だがもちろん、健太には届かない。彼はいつもの、人懐こいニコニコ顔を携えてこちらを見ていた。

 そしてやがて、孝一の走順が回ってくる。孝一は地蔵先生の催促を受けて、レーンに入る。

「頑張ってね」という声が、佐々木から送られる。

 確か去年も言われたな、なんて思いながら、孝一は親指を立てた。

 いや待てよ、去年と同じなら、今年も転ぶんじゃねえか。

 そう思うと、不安よりも面白さが勝った。それに、そうはならないと孝一は知っている。この一年、誰よりも練習してきたのだから。

 そして、孝一はバトンを受ける。

 順位は最下位だ。だが、前を走る全員、射程圏内に入っている。

 これ以上ないほど美しい晴天だった。入道様は太陽を見事に避けてブルーシートの上に陣取り、レースを見守っている。周辺の木々がそよぐ音が聞こえる。確かな夏の匂いが、走っている孝一の鼻を刺激する。身体がどんどんスピードに乗っていくのが自分で分かって、心地よい。

 美しい景色が自分に味方している。

 走りながら、孝一はそう信じてやまない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不完全な僕ら kanimaru。 @arumaterus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ