第2話「タカナシは、渋谷に行けと命じた」
二
「そうですよ、あなたです。といってももうあなたしか残っていませんけどね」
ちらっとでもスマホから目を離すのは、母親が産みたての赤ん坊を無視するのと同じことだ。
「あなたは向いてますよ。だって私の話を一時間も聴きながら、ずっとスマホを眺めていたほどですから」
タカナシは一瞬黙り込んだ。
僕の手元の映画はクライマックスに差しかかっていた。字幕の字面と主人公の外国人俳優の必死な形相に、タカナシの声は不愉快なほど甲高く耳に飛び込んでくる。
「仕事なんて興味ないですよ」
「ええ、あんな仕事は仕事のうちに入りませんよ。余興みたいなもんでしょ、本物のスマホ依存の人にとってみたら」
タカナシは咳払いをしたが、俳優は苦笑いを浮かべている。
「いいですか。くどいですがね、ポイントなのはスマホ歩きは犯罪ではないということです。飲酒運転して人を撥ねても過失致死で済む場合もありますね。要はスマホを見て歩いていただけで、ナニナニするつもりはなかった。それが今なら通じるということです」
大きく息を吸う音が聞こえてきた。また、言葉は続けられる。
「今はいわばキャンペーン中ですよ。今やらなきゃ損。そのうちスマホ歩きの禁止が条例化されたり、もっと重要な法律となるかもしれない。そうなったら遅い。それならスマホ歩きのせいにして異性の体に触れるなら触れる。物を盗るなら盗る。人を殺すなら殺しましょう。今だけですよ」
映画の主人公は敵のアジトへと侵入した。こいつは危ない目に遭う。少なくともこのまますんなり終わらない。が、あと五分もすれば実にすっきりと終わるだろう。
「随分、物騒な話じゃないですか」
「そりゃそうです。今話しているのはあなたのような人向きだ。普通の依存者には頼めないですよ」
「仕事を依頼される筋合いはない」
主人公は背後から鈍器で殴られていた。
「いいですか。ミステリーでよくある話ですが、AとBとCといった人が順番に殺される。これらの人たちに共通している関係者が容疑者と思われるが、そんな人はいない。無差別殺人かといった話」
タカナシは潜水でもしているかのように、再び大きく呼吸をした。
「犯人はBだけを殺すのが本当の狙いだった。AとCは捜査を攪乱させるためのカムフラージュということです。それと同じ理論でスマホ歩きは使える。自然体でやればいいんですよ。普段されているように心底夢中になる。そのついでにこちらの仕事を受けていただく」
黒幕はやっぱりあいつだった。あんな露骨な目配せをやらせたらダメだろう。
「女の人のお尻を触ろうが物を盗ろうが、捕まったら罪は罪じゃないですか。スマホ歩きが言い訳にはならないでしょう」
「あなたには動機がない。動機がない以上、スマホ歩きをしていた男なんて埋もれますよ」
主人公の友人が黒幕なんて、よくある話だ。どうせこのあと主人公の逆襲が始まる。
「ある女と男を殺してください。スマホ歩きをしながら」
「何を言ってるんです?」
「渋谷に行ってください。メールで時間と場所をお知らせします。質問はありますか。……聞かないんですね。ますます素晴らしい。すみません。今、私はあなたを試したんです。ええ、その無関心さ、素晴らしいですよ。そうやって殺ってしまってください」
おかしい。主人公は立ち上がらない。エンドロールも流れている。主人公の顔は途中まで見せていた爽やかな笑みもなく唇から血を垂らし、目を見開いていた。なんというお粗末な結末だ。ただ観ている人間を呆気にとらせたいだけじゃないか。
「ああ、お帰りですか。いいですね。謝礼はちゃんと払います。まずは渋谷へ。それから来週、二回目で会いましょう」
映画を立て続けに二本見ると、さすがに疲れる。
「いや、本当にあなたは素晴らしい。結局一度も私の顔を見なかった」
夜の湖面 みどり、よう @midoriyo
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