第4話「迷路の分岐点」

「やはり、これは単なるサーバーの過負荷だけが原因ではありませんね」


システム部の中村は、暗い表情でコンピューターの画面を見つめていた。真夜中のシステム管理室には、彼と山本安全管理室長、そして佐藤医師の三人だけがいた。救急外来でのシステムダウンから三日が経ち、原因究明のための詳細調査が続いていた。


「どういうことですか?」山本が身を乗り出して尋ねた。


中村は画面を指さした。そこには複雑な図とデータが表示されていた。


「表面上の原因は確かにサーバーへの一時的な負荷集中です。しかし、その背景には複数の構造的問題があります」


彼はキーボードを操作し、別の画面を表示させた。「まず、私たちのシステムアーキテクチャをご覧ください」


画面には病院の情報システム全体の構成図が映し出された。複雑に入り組んだ線と箱が、まるで迷路のように広がっている。


「当院の電子カルテシステムは5年前に導入されました。しかし、その後の部門システムの追加は、個別最適化で進められてきました」


中村は図の各部分を指しながら説明を続けた。「救急部門、外来診療部門、検査部門、薬剤部門...それぞれ別々のベンダーのシステムが、最小限のインターフェースで繋がっています。言わば『寄せ集め』の状態です」


「なぜそうなったのですか?」佐藤が眉をひそめて尋ねた。


中村は深いため息をついた。「予算の問題です。統合システムは初期費用が高額なため、各部門が必要に応じて個別に調達する方針が取られました。その結果...」


「互換性や安定性が犠牲になった」


山本が静かに言葉を続けた。彼の表情には後悔の色が浮かんでいた。安全管理システムも、彼が主導して個別に導入したものの一つだった。


「それだけではありません」中村はさらに別の画面を開いた。「保守予算の削減により、サーバーの冗長化やバックアップシステムの強化も見送られてきました。メンテナンス費用は毎年減少し、昨年度は5年前の60%程度まで落ち込んでいます」


佐藤と山本は黙って画面を見つめた。数字は明らかに危機的状況を示していた。


「さらに問題なのは、これです」中村は最後の資料を表示した。「システムトラブル時の対応訓練や代替手順の整備にも十分な予算が割かれていません。トレーニング予算は機器導入費の2%未満です」


重い沈黙が部屋を支配した。三人とも、目の前の現実が単なる技術的な問題ではなく、病院全体の優先順位や意思決定に関わる深い問題であることを理解していた。


「中村さん、この調査結果をまとめていただけますか?」山本が沈黙を破った。「明日の改善プロジェクト会議で共有したいと思います」


「はい」中村はうなずいた。「ただ...」


「何か?」


「この問題の本質は、数字だけでは伝わらないかもしれません」中村の目には疲労と諦めが混じっていた。「私たちシステム部は3年前から警告を発してきましたが、常に『予算がない』『もう少し様子を見よう』と後回しにされてきました」


佐藤はその言葉に強い既視感を覚えた。医療現場でも同様のことが起きていた。問題が分かっていても、予算や人員の制約、あるいは変化への抵抗から、必要な対応が先送りされる状況。彼は中村の肩に手を置いた。


「今回こそ、声が届くようにしましょう」


---


翌日昼過ぎ、安全管理システム改善プロジェクトの会議が開かれていた。前回よりも参加者が増え、システム部からは中村の他に二名、医師からは川島外科部長も加わっていた。


「それでは、システムダウンの詳細調査結果について、中村さんから報告をお願いします」


山本の言葉で、中村がプロジェクターの前に立った。彼は昨夜の発見を簡潔にまとめ、資料と共に説明した。システムの構造的問題、予算削減の影響、トレーニング不足の実態。


「つまり」中村は結論づけた。「私たちが直面しているのは単なる技術的な問題ではなく、病院全体の優先順位設定や部門間連携の課題なのです」


会議室に沈黙が広がった。多くの参加者が、問題の根深さに改めて気づかされていた。


「この状況は由々しき事態だ」


意外な声が聞こえた。川島外科部長だった。通常は会議での発言が少ない彼が、珍しく積極的に意見を述べ始めた。


「手術室のシステムも同様の問題を抱えている。機器は最新だが、それらを繋ぐシステムは脆弱だ。私は3年前から改善を要求してきたが、予算がないの一点張りだった」


川島の言葉に、参加者たちは驚きの表情を見せた。彼がシステム改善を求めていたという事実は、多くの人にとって新しい情報だった。


「川島先生」山本が興味深そうに尋ねた。「具体的にどのような改善を求められていたのですか?」


川島は少し躊躇った後、静かに答えた。「手術情報の統合管理だ。患者情報、術前検査、術中モニタリング、使用機材、術後管理...これらが一元管理されていれば、ヒューマンエラーのリスクは大幅に減少する」


彼の言葉には熱意があった。「私は30年間外科医をしてきた。経験から言えることは、いかに熟練した医師でも、システムのサポートなしには限界があるということだ」


参加者たちは川島の発言に耳を傾けた。権威主義的と見られがちな彼だが、その言葉には現場の実情と長年の経験に基づく説得力があった。


「しかし」川島は続けた。「システムに頼りすぎることの危険性も知っている。2001年、私は日本で初めての遠隔手術支援システムを試験的に導入した施設で働いていた。当時は先端技術に心躍らせていた」


彼の表情が暗くなった。「しかし、通信遅延によって患者に重大な合併症が生じた。私はその時、システムを過信することの恐ろしさを学んだ」


会議室に静寂が広がった。川島が自らの失敗体験を語るのは極めて珍しいことだった。


「だからこそ」彼は強い口調で言った。「システムは医師の判断を支援するものであるべきであって、医師の判断を制限するものであってはならない。現在の安全管理システムは、後者になりつつある」


佐藤医師は川島の言葉に深く頷いた。彼自身、システムの制約と医師の判断のバランスに悩んできた一人だった。


山本は川島の発言を真剣に受け止め、応答した。「貴重なご意見をありがとうございます。まさに私たちが目指しているのは、医療者の判断を支援する、より実用的なシステム構築です」


議論はさらに活発になり、各部門からの具体的な問題点や改善案が次々と提示された。中でも印象的だったのは、鈴木薬剤師による提案だった。


「薬剤部でも同様の問題を抱えています。処方システムと電子カルテの連携不備で、重複処方や相互作用の見落としが起きやすい状況です」


鈴木は具体的な改善案を示すスライドを表示した。「これは私たちが提案する『重要度別アラート』システムです。生命に関わる重大な問題は赤、注意が必要なものは黄色、参考情報は青というように視覚的に区別します」


彼の提案は現実的かつ効果的に見えた。しかし、システム部の中村が難しい表情で応じた。


「素晴らしい提案ですが...実装には現行システムの大幅な改修が必要になります。概算で1500万円程度のコストがかかると予想されます」


鈴木の表情が曇った。「そんなに...」


「これこそが私たちの直面している最大の壁です」山本が議論を整理した。「優れた改善案があっても、実装には予算と時間が必要。しかし、現状のままでは患者安全が脅かされる」


佐藤が発言した。「段階的なアプローチはどうでしょうか。最も重要かつ実装コストの低い改善から着手し、成果を示しながら次のステップに進む」


山本はその提案に目を輝かせた。「具体的には?」


「まず、緊急時チェックリストの二段階化です」佐藤は説明した。「これはシステム改修のコストが比較的低く、効果が高い。次に、システムダウン時の代替手順の整備とトレーニング。これも追加コストは限定的です」


中村が補足した。「確かに、ユーザーインターフェースの変更は既存システム内でも対応可能な部分があります。全面改修に比べれば、コストは大幅に抑えられます」


議論は「理想的な改革」から「現実的に実行可能な改善」へと焦点が移っていった。参加者たちは、限られたリソースの中で最大の効果を得るための優先順位について熱心に話し合った。


会議の終わりに近づき、山本が今後の方針を確認した。「それでは、第一フェーズとして緊急時チェックリストの二段階化とシステムダウン時の代替手順整備を進めることとし、並行して中長期的な改善計画を策定する。これでよろしいでしょうか?」


全員が同意し、具体的な役割分担が決められた。佐藤と田中は臨床的視点からチェックリストの項目選定を、鈴木は薬剤安全の視点からの要件定義を、中村はシステム実装の検討を担当することになった。


会議が散会した後、佐藤と川島が廊下で向かい合った。


「佐藤先生」川島の声は普段より柔らかかった。「少し話があるのだが、時間があるか?」


「はい、もちろん」


二人は病院のカフェテリアに向かった。午後の陽光が窓から差し込み、テーブルに淡い光のパターンを作り出していた。


「実は」川島はコーヒーを前に言葉を選んだ。「あなたの三年前の事故について、私は病院の調査委員会のメンバーだった」


佐藤の表情が固まった。彼にとって三年前の医療事故は、今でも心の傷として残っている出来事だった。


「当時、私は委員会であなたの行動を強く批判した」川島は率直に認めた。「プロトコルを無視したことが事故につながったと考えていた」


佐藤は黙って聞いていた。川島は続けた。


「しかし今、考えが変わりつつある。システムの制約の中で、あなたは最善を尽くそうとしていたのかもしれない」


佐藤は驚きを隠せなかった。川島のような権威主義的な医師が、自分の考えを変えることは極めて珍しいことだった。


「なぜ...そう思われるようになったのですか?」


川島は窓の外を見つめた。「先週、私も似たような状況に直面した。手術中に予期せぬ出血があり、緊急対応が必要だった。しかし、必要な器具の準備には安全確認プロトコルで15分以上かかる状況だった」


彼の声には珍しい感情が混じっていた。「私は...プロトコルを省略した。患者の命を守るためには、そうするしかなかった」


佐藤は静かに頷いた。彼は川島の葛藤をよく理解していた。


「結果的には良かった」川島は続けた。「患者は一命を取り留めた。しかし、もし何か問題が起きていたら...」


言葉を続ける必要はなかった。二人の医師は、その「もし」の重みを十分に理解していた。


「川島先生」佐藤は静かに言った。「医療には常にリスクが伴います。私たちができるのは、そのリスクを最小化しながらも、目の前の患者に最善を尽くすことだけです」


川島はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「私には妻がいる。15年前にALSと診断され、今は完全に寝たきりの状態だ」


突然の個人的な告白に、佐藤は少し戸惑った。


「毎日、仕事の後に彼女のケアをする。医療者として、どれだけ頑張っても救えない命があることを、私は毎日実感している」


川島の目には深い疲労と、しかし同時に強い決意が宿っていた。「だからこそ、救える命のためには最大限の努力をしたい。そして、その努力を妨げるのではなく、支援するシステムが必要なのだ」


佐藤は心からの共感を覚えた。川島の厳格さや時に横柄と思える態度の裏には、このような個人的な経験と決意があったのだ。


「一緒に改善していきましょう」佐藤は真摯に言った。「現場の医療者の視点から、本当に役立つシステムを作るために」


川島は小さく頷いた。二人の医師の間に、新たな相互理解の橋が架かり始めていた。


---


薬剤部の片隅で、鈴木健太は古田部長と向き合っていた。会議での自分の提案が予算の壁に阻まれたことを報告し、落胆した表情を隠せずにいた。


「1500万円か...」古田は静かに言った。「確かに大きな金額だな」


「私の提案は現実的ではなかったんでしょうか」鈴木の声には落胆が混じっていた。


古田は優しく微笑んだ。「いや、素晴らしい提案だよ。ただ、予算というのは常に限られているものだ。どんな病院でも同じことを悩んでいる」


彼は棚から一冊のファイルを取り出した。「これは7年前、私が提案した同様のシステムの資料だ」


鈴木は驚いて資料を見た。そこには、彼が提案したものとよく似たアラートシステムの概要が記されていた。


「あなたも...」


「ああ」古田はうなずいた。「当時は技術的に難しく、コストも現在の2倍以上だった。だから実現しなかった」


鈴木は資料に見入った。「でも、なぜ今まで聞いたことがなかったんですか?」


古田はため息をついた。「組織の記憶は短いんだよ。提案が却下されると、それは忘れ去られる。次に同じ問題に直面したとき、また一から議論が始まる」


彼は鈴木の肩に手を置いた。「だからこそ、記録を残し、継続して訴え続けることが大切なんだ。今日の敗北が、明日の勝利の種になることもある」


鈴木は黙って頷いた。古田の言葉には、長年の経験から得た知恵が感じられた。


「それに」古田は続けた。「佐藤先生の提案した段階的アプローチは賢明だ。全てを一度に変えることはできなくても、着実に一歩ずつ進むことはできる」


鈴木の表情が少し明るくなった。「確かに、チェックリストの二段階化だけでも、現場のストレスはかなり軽減されますね」


「そうだ」古田は頷いた。「完璧を求めるのではなく、より良い状態を目指す。それが持続可能な改善の秘訣だ」


二人の会話は、薬剤部の忙しさで中断された。処方箋の山が届き、午後の調剤業務が始まる時間だった。


「さあ、戻ろう」古田は立ち上がった。「理想を追いかけながらも、目の前の仕事も確実にこなす。それも私たちの大切な役割だ」


鈴木は深呼吸し、仕事に戻った。会議での挫折感は残っていたが、同時に新たな決意も芽生えていた。


---


「これが最新の入院患者状況です」


田中麗子看護師は救急外来の引継ぎミーティングで報告していた。彼女の隣では、新人の森が緊張した面持ちでメモを取っている。森は最近、田中の助手として引継ぎミーティングに参加するようになっていた。


「4床目の交通事故の少年、太郎くんは今朝CTを再検査し、問題なく経過しています。明日には一般病棟への転棟が可能でしょう」


田中は次々と患者情報を簡潔に報告していった。彼女の記憶力と要点整理の能力は、病棟でも定評があった。夜勤への引継ぎが完了し、彼女と森はナースステーションに戻った。


「田中さん、素晴らしかったです」森は率直な感嘆の声を上げた。「あんなに多くの患者さんの情報を、全部頭に入れているなんて」


田中は微笑んだ。「長年の経験よ。あなたもすぐにできるようになるわ」


「それより、今日のプロジェクト会議はどうでしたか?」


田中は少し表情を曇らせた。「予想以上に困難があるわね。特に予算面で」


森が心配そうに尋ねた。「じゃあ、改善は難しいんですか?」


「いいえ、やり方を変えることになったの」田中は説明した。「一度に大きく変えるのではなく、小さな改善を積み重ねていく方針になったわ」


二人は更衣室に向かいながら会話を続けた。田中は会議の内容を簡潔に伝え、特に川島部長の予想外の協力的な態度について話した。


「川島先生が?」森は驚いた様子だった。「あの怖い外科部長が?」


田中は小さく笑った。「そう。意外だったわ。彼にも彼なりの考えがあるのね」


更衣室で制服から私服に着替えながら、田中はふと呟いた。「みんな、表面だけでは分からない一面を持っているのね」


「田中さんも?」森が好奇心に満ちた目で尋ねた。


田中は少し躊躇った後、静かに答えた。「そうね...私も三年前の事故の時、あの場にいたの」


「佐藤先生の...?」


「ええ」田中は鏡に映る自分の疲れた表情を見つめた。「あの時、私も判断に迷っていた。佐藤先生の指示に疑問を感じながらも、声を上げられなかった自分がいた」


森は黙って聞いていた。田中はめったに過去の話をすることはなかった。


「だから今回のプロジェクトは、私にとっても重要なの。同じ過ちを繰り返さないために」


田中は森に微笑みかけた。「さあ、帰りましょう。明日も早いわ」


二人が病院を出ると、夕暮れの空が広がっていた。オレンジ色に染まった雲が、静かに流れていく。


「田中さん」森が突然尋ねた。「看護師を続けてきて、良かったと思いますか?」


田中は少し驚いたが、すぐに答えた。「もちろんよ。大変なことも多いけれど、患者さんの回復を見ることができる喜びは何にも代えられないわ」


森は満足そうに頷いた。彼女の中にも看護師としての自信が少しずつ育っているようだった。


「それに」田中は付け加えた。「私たちには変える力があるの。少しずつでも、医療を良くしていく力が」


空はさらに深い色に変わり始めていた。二人の看護師の長い影が道に伸び、やがて街灯の明かりに溶けていった。


---


週末、佐藤雄一は珍しく息子の亮太とサッカーの試合を観に行っていた。小学校のグラウンドでは、子供たちが元気に走り回っている。


「パパ!見てた?今のシュート!」


試合後、汗だくになった亮太が駆け寄ってきた。佐藤は満面の笑みで息子を抱きしめた。


「見ていたよ。素晴らしいシュートだった」


「でも、入らなかったけど...」亮太は少し残念そうな表情を見せた。


「結果だけが全てじゃないよ」佐藤は優しく言った。「大切なのは、ベストを尽くしたかどうかだ」


二人は歩きながら、試合の話に花を咲かせた。久しぶりの父子の時間に、佐藤は心から満足していた。


「パパ、最近優しくなったね」突然、亮太が言った。


「え?」佐藤は驚いて足を止めた。「前は優しくなかったのか?」


亮太は首を振った。「優しかったけど、なんか...遠かった。いつも考え事してるみたいだった」


佐藤は息子の鋭い観察眼に驚いた。確かに彼は三年前の事故以来、常に過去の影に囚われ、現在を十分に生きていなかった。


「そうだったね」佐藤は正直に認めた。「パパは仕事のことで悩んでいたんだ。でも最近、少し前に進めるようになってきたんだよ」


「それって、僕たちともっと遊べるってこと?」亮太の目が期待に輝いた。


「そうだよ」佐藤は笑った。「もっと一緒に過ごす時間を作るよ」


二人が自宅マンションに到着すると、佐藤の元妻・美香が待っていた。彼女は別居中ながらも、亮太のために協力的な関係を維持していた。


「お疲れ様」美香が二人を迎えた。「試合はどうだった?」


亮太が興奮気味に試合の様子を報告している間、佐藤は美香に小声で話しかけた。


「ちょっといいかな」


二人はキッチンに移動した。佐藤はしばらく言葉を探してから切り出した。


「ありがとう。こうして亮太と過ごす時間をくれて」


美香は少し驚いた様子だったが、すぐに優しい表情になった。「亮太は喜んでいるわ。あなたと過ごす時間を楽しみにしてる」


佐藤は深呼吸した。「実は...病院で新しいプロジェクトが始まったんだ。医療安全システムの改善について」


美香は興味深そうに聞いていた。彼女自身、看護師として医療現場の課題をよく理解していた。


「三年前のあの事故以来、僕はただルールを守ることだけを考えてきた。でも今、少しずつバランスを取り戻しつつある。患者のためにも、自分自身のためにも」


佐藤の言葉には、久しぶりの前向きさが感じられた。美香は静かに頷いた。


「それは良かった。あなたらしさを取り戻しつつあるのね」


「あなたらしさ...」佐藤は言葉を反芻した。「そうかもしれない」


リビングからは亮太の元気な声が聞こえてきた。「パパ、ママ!早くごはん食べよう!」


「行こう」美香が言った。「あの子を待たせちゃいけないわ」


佐藤は頷いた。彼は今、迷路の中で新たな道を見つけ始めていた。完璧な解決策はないかもしれないが、より良い方向へ一歩ずつ進むことはできる。それは病院のプロジェクトについても、彼の個人的な人生についても同じだった。


---


月曜日の朝、山本大介は村田病院長のオフィスで報告をしていた。彼は先週のプロジェクト会議の結果と、特にシステムの構造的問題についての調査結果を詳細に説明した。


「なぜこのような問題が今まで放置されてきたのですか?」村田の声には苛立ちが混じっていた。


山本は率直に答えた。「優先順位の問題です。医療機器や診療環境の整備が優先され、情報システムやトレーニングは後回しにされてきました」


「あなたも安全管理室長として、その状況を改善すべき立場だったのでは?」


山本は一瞬言葉につまったが、すぐに正直に応じた。「はい。私自身も数字とルールに囚われすぎていました。現場の実態を十分に理解せず、表面的な改善に満足していた面があります」


彼は深く頭を下げた。「そのことについては、心からお詫びします」


村田は長い間黙っていたが、やがて穏やかな口調に変わった。「謝罪を求めているわけではない。重要なのは、今後どう改善していくかだ」


「はい」山本は真剣な表情で答えた。「短期的には緊急時チェックリストの二段階化とシステムダウン時の代替手順整備を進め、中長期的には情報システムの段階的な改修計画を策定します」


村田は大きく頷いた。「いいだろう。段階的なアプローチに賛成だ。全てを一度に変えることはできないが、着実に進めることは可能だ」


彼は窓の外を見やった。「私も病院長になってから、現場の感覚を失いつつあった。数字だけを見て判断する癖がついていた」


山本は黙って聞いていた。


「だが、医療は数字だけでは測れない」村田は続けた。「患者の命と健康、そして医療者の使命感と専門性。これらを支えるシステムであるべきだ」


「全くその通りです」


「予算については」村田は再び山本に向き直った。「今年度の予備費から500万円を緊急対応費として割り当てる。また、来年度予算ではシステム改修費として2000万円を計上する方向で検討する」


山本の目が驚きで見開かれた。「ありがとうございます!」


「ただし」村田は冷静に付け加えた。「成果を示してほしい。患者安全の向上と医療者の負担軽減、両方が数値で確認できるようにしてほしい」


「必ず結果をお見せします」山本は確信を持って答えた。


会議を終え、山本が病院長室を出ると、廊下で佐藤医師と鉢合わせた。


「山本さん、どうでしたか?」


「予想以上に良かったです」山本は嬉しそうに報告した。「緊急対応費として500万円、さらに来年度予算にも前向きな返答を得ました」


佐藤の表情も明るくなった。「素晴らしい!これで第一フェーズをしっかり進められますね」


二人は廊下を歩きながら、これからの計画について話し合った。山本がエレベーターに乗る前、佐藤が一言付け加えた。


「山本さん、このプロジェクトが始まって良かったです。単にシステムが変わるだけでなく、私たち自身も変わりつつあるような気がします」


山本は深く頷いた。「私もそう感じています。これからも長い道のりですが、一緒に進んでいきましょう」


エレベーターのドアが閉まり、佐藤は救急外来へと足を向けた。彼の足取りには、久しぶりの軽やかさがあった。


病院の廊下の窓からは、澄んだ青空が見えていた。雲一つない、清々しい一日の始まり。佐藤は深く息を吸い込んだ。今日もまた、命と向き合う一日が始まる。しかし今は、以前よりも少し明るい希望を胸に抱えていた。


迷路の中で新たな分岐点に立った彼らは、少しずつではあるが、確かな一歩を踏み出し始めていた。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る