規則という名の迷宮

セクストゥス・クサリウス・フェリクス

第1話「安全の名の下に」

手術室の蛍光灯が、白く冷たい光を投げかけていた。消毒液の刺激臭と金属器具の触れ合う微かな音が空間を満たす。モニターから発せられる患者の生体信号は、緊張感の中で唯一の安心材料だった。


「血圧60。脈拍140。瞳孔左右差あり」


佐藤雄一は患者の瞳孔に光を当てながら、冷静さを装って言葉を紡いだ。しかし、彼の指先は微かに震えていた。額には細かな汗粒が浮かび、手術着の背中には冷や汗が滲んでいる。


「手を動かさないでください。もう少しです」


執刀医の言葉に、佐藤はただ頷いた。専門外の手術に立ち会うのは、救急科医としては日常茶飯事。しかし今日は何かが違った。患者の神経反応が通常とは異なり、体温も急激に上昇していた。


佐藤は「もう少しこの血管を縫合すれば…」と思ったとき、突如として警報音が鳴り響いた。心電図モニターの波形が乱れ、不規則な山々が乱舞している。


「VFだ!」


心室細動。心臓が規則的な収縮を失い、無秩序に震える致命的な状態。モニターの緑の波線は混沌としたギザギザに変わり、警報音が部屋中に響き渡る。


「除細動、準備!」


もう一人の医師が即座に反応した。佐藤の頭の中では、救命アルゴリズムがフラッシュカード​​のように次々と浮かんでは消えた。『心室細動…即時の除細動…CPR継続…エピネフリン投与…』。あのときと同じ状況だ。あのときも、こうして突然の不整脈から始まった。


「患者IDと体重の確認を」


看護師の声が遠くから聞こえてくる。佐藤の耳には、その言葉が極端にスローモーションで届いた。プロトコル通りだ。患者安全のための確認手順。しかし、その瞬間—。


「今それどころじゃない!200ジュール、充電!」


佐藤の声は自分のものとは思えないほど高く、鋭かった。心室細動では一秒一秒が生死を分ける。それは医学的にも明白だった。


手術室内に数秒の沈黙が広がった。周囲のスタッフの表情が凍りついたように見える。


「プロトコルでは確認後に...」


「今すぐだ!」


佐藤の背中を冷たい汗が伝った。その一言が、三年前と同じだった。まるで時間が巻き戻ったかのように。


除細動器のパドルが患者の胸に当てられる。放電のボタンが押され、患者の体が一瞬持ち上がる。そして—。


---


佐藤は飛び上がるように目を見開いた。


心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動している。シャツは汗で背中に張り付き、喉は乾ききっていた。数秒間、彼は自分がどこにいるのかさえ理解できなかった。


薄暗いオフィス。デスクの上に広げられた患者ファイル。窓の外はまだ闇に包まれている。


「夢か...」


佐藤はふらつく手で額の汗を拭った。しかし体の震えは止まらない。三年前の悪夢は、これほど鮮明に蘇ったことはなかった。


深呼吸をしながら、彼は少しずつ現実を取り戻した。東都医療センターの救急科部長室。日曜日の早朝五時。コンピューターの画面には作りかけの報告書が表示されている。36時間連続勤務の終盤、仮眠を取るはずが、またしても同じ悪夢に襲われた。


デスクの上には息子の写真。もう何日会っていないだろう。彼はじっと写真を見つめた後、深くため息をついた。


そのときだった。病院の静寂を破るかのように、遠くからサイレンの音が近づいてきた。佐藤は思わず身を硬くした。


「また来たのか...」


自分の声が掠れているのに気づき、彼は水を一口飲んだ。そして立ち上がり、白衣のポケットを確認する。聴診器、ペンライト、マーカー、スマートフォン。全て揃っている。意識的にショルダーを回し、首を軽くストレッチした。


「行くか」


まだ悪夢の残滓が彼の中に残っていたが、今はそれを脇に置く時だった。今日も命を救うために、彼はドアに向かった。


---


「男性、62歳、胸痛と呼吸困難! バイタル、血圧160/95、脈拍120、SpO2 88%!」


救急隊員の声が響き渡る中、田中麗子看護師は素早く対応した。彼女の視線がモニターに表示されたSpO2値に一瞬固定される。88%は明らかな低酸素状態だ。肺に問題があるか、あるいは心臓の問題が肺うっ血を引き起こしている可能性がある。


「第2処置室に準備します」


田中はタブレットを片手に救急隊員に応じた。そして若い研修医に指示を出した。


「酸素15リットル用意して。マスクではなくリザーバー付きのを使って。それから12誘導心電図を急いで」


研修医が慌ただしく準備に向かう間、田中は受け入れ手続きのために電子カルテに向かった。画面をタップする指先が素早く動く。患者情報入力、アレルギー歴の確認欄、現病歴記載...。三年前の大きな医療事故以来、このような電子記録の完全性が「絶対のルール」となっていた。


受付プロセスを完了させようとしたとき、彼女のタブレットから甲高い警告音が鳴り響いた。「バイタル入力が15分経過」というエラーメッセージが画面で点滅している。


「またこれ...」


田中は小さく舌打ちした。患者はたった今到着したばかりなのに、システムは前回の患者のバイタル更新が遅れていると誤認識しているのだ。新安全管理システムの欠陥の一つ。彼女は慣れた手つきでエラーを消し、患者のいる処置室へと足を向けた。


廊下を歩きながら、彼女は自分の疲れた足取りを感じていた。昨夜からの勤務で、もう14時間が経過している。しかし救急外来の人手不足は慢性的で、休息は贅沢品だった。


田中が処置室に入ると、研修医が患者に酸素マスクを当て、心電図の電極を貼り付けているところだった。患者の顔は青白く、呼吸は浅く速い。典型的な急性呼吸不全の様子。


「どうですか?」田中は研修医に尋ねた。


「ST上昇が...」


研修医の言葉が尽きたところで、佐藤医師が処置室に入ってきた。彼の顔色は悪く、目の下には疲労の色濃い隈があった。しかしその視線は鋭く、瞬時に状況を把握しようとしていた。


「お疲れ様です、佐藤先生」と田中は声をかけた。


佐藤は小さくうなずき、すぐに患者の側に立った。「状況は?」


「山田さん、62歳。30分前から始まった胸痛と息切れ。糖尿病と高血圧の既往あり。心電図でST上昇の疑いがあります」


佐藤は患者の胸部に聴診器を当て、注意深く呼吸音を聞いた。「両側下肺野でラ音あり」


彼はモニターの心電図を一瞥すると、即座に判断を下した。「明らかなST上昇、STEMI(ST上昇型心筋梗塞)の可能性が高い。カテーテル室に連絡、緊急冠動脈造影の準備を。アスピリン、クロピドグレル投与。ヘパリン準備」


田中は素早く指示を理解し、オーダー入力を始めた。しかし画面が突然フリーズした。「システムが...」


佐藤は一瞬眉をひそめたが、すぐに切り替えた。「緊急時プロトコルに移行。紙のオーダー用紙を使おう」


彼はポケットから専用の緊急時オーダー用紙を取り出し、手早く記入し始めた。かつての佐藤なら、こんな余裕はなかっただろう。しかし今の彼は、どんな状況でも冷静にルールを守ることを自らに課していた。あの事故以来、彼は二度と同じ過ちを犯すまいと誓っていたのだから。


---


山本大介安全管理室長は、早朝のオフィスで一人データと向き合っていた。週末にもかかわらず出勤したのは、月曜の本部会議で使う資料をまとめるためだ。


彼の前には、病院内のインシデントレポート(ヒヤリ・ハット事例の報告書)の統計データが広がっている。グラフは明らかな改善傾向を示していた。報告件数は増加し、実際の医療ミスは減少している。彼が半年前に導入した新しい安全管理システムの成果だった。


山本はコーヒーを一口飲み、満足そうに頷いた。このデータは彼の手腕を証明するものだ。元製薬会社の管理職から転身してこの病院に来た時、周囲の視線は冷ややかだった。医療現場の経験がないことを理由に、彼の改革案に反対する声も多かった。


しかし数字は嘘をつかない。導入した電子カルテの安全確認機能、多段階チェックシステム、インシデントレポートの徹底—これらはすべて「見える化」できる成果を上げていた。


山本がノートパソコンに向かってプレゼン資料をまとめていると、スマートフォンが振動した。画面を見ると妻からだった。


会話を始めてすぐ、妻の声は疲れを隠せないものだった。「今日も早いのね」


「月曜の会議の準備があってね。君こそ夜勤明けなのに大丈夫?」


彼の妻・美香は市内の別の総合病院で看護師をしている。夫婦の会話は、自然と医療の話題に流れていった。


「昨日、患者さんが急変して...」美香の声には苛立ちが混じっていた。「新しい報告システムのせいで、処置が遅れたの」


山本の眉が寄った。「報告システム?どういうこと?」


「急変時チェックリストよ。患者さんの状態が悪化しているのに、まずシステムにアクセスして20項目以上のチェックをしなくちゃいけない。それが終わらないと、救急カートの薬剤が使えないの」


山本は黙って聞いていた。彼の病院にも似たようなシステムがあった。


「大介、あなたみたいな人が作ったシステムなのよ」美香の声がさらに苛立ちを帯びる。「現場の声を全然聞かずに、ただ安全性だけを考えて...」


「僕のシステムは違うよ」山本は反論した。「効率も考慮して...」


「本当に?」美香の言葉は鋭かった。「あなたは一度でも、そのシステムを使って患者を救おうとしたことがある?データだけ見て満足してるんじゃないの?」


その言葉は、山本の胸に刺さった。彼は口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。


電話を切った後、山本は長い間椅子に座ったまま動かなかった。妻の言葉が頭の中で反響していた。彼は本当に現場を理解していたのだろうか?数字やグラフでは見えない現実があるのではないか?


彼はノートパソコンの画面を見つめた。綺麗なグラフと数字の羅列。華やかなプレゼン資料。しかし、そこには人の痛みや焦り、緊張感は映し出されていなかった。


山本は立ち上がり、窓から病院の構内を見下ろした。早朝の静かな風景の中、救急車のライトが見えた。誰かの命が今、救われようとしている。彼の作ったルールの下で。


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「田中さん、12番の患者さんが痛み止めを希望されています」


森という若い看護師が田中に声をかけた。新人教育担当(プリセプター)として、田中は彼女の成長を見守る立場だった。


「電子カルテで指示を確認して」田中はデスクで報告書を書きながら応えた。


「システムが動作しなくて...『更新中』って表示されるんです」


田中はようやく画面から目を上げた。その瞬間、記憶がフラッシュバックした。3年前、あの事故の夜—彼女も同じようにシステムと格闘していた。そしてあの時は、焦って...。


「またシステム障害?」


彼女は立ち上がり、森に近づいた。「一緒に行きましょう」


二人が廊下を歩いていると、田中は森の緊張した横顔を見た。彼女は3ヶ月前に看護学校を卒業したばかりの新人だ。真面目で患者思いだが、まだ臨床経験が浅く、特に急な判断が必要な場面では戸惑うことが多い。


「森さん、覚えておいて」田中は優しく言った。「どんな状況でも医師の指示がないと薬は出せないの。それがプロトコルよ」


「でも患者さんが痛がっていて...」森の目には葛藤が浮かんでいた。


「そうね」田中は歩きながら答えた。「痛みを和らげたいのは当然。だからこそ、安全に治療するためのルールがあるの。間違った薬を渡したら取り返しがつかないでしょう?」


森は黙って頷いた。田中は続けた。「でも大丈夫。システム障害時の手順もちゃんとあるから。佐藤先生なら対応してくれるわ」


「佐藤先生って...」森が言いよどんだ。「噂で聞いたんですけど...」


田中は一瞬足を止めた。「噂?」


「3年前の...あの事故のことです」森の声は小さくなった。「本当ですか?」


田中は少し間を置いてから静かに応えた。「その通りよ。佐藤先生は処置の判断ミスで患者さんを亡くした。でも」


彼女は森の目をまっすぐ見つめた。「彼が一番、その重みを引きずっているの。だからこそ今、院内で一番ルールを守る人になった」


二人が処置室に到着する前に、田中は静かに付け加えた。「でも時々、彼の目を見てると思うの。ルールを守ることと、患者を救うことの間で、まだ葛藤してるんじゃないかって」


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鈴木健太薬剤師は薬剤部カウンターで、処方箋を見つめていた。昨夜からの当直で、彼の目は充血し、頭はぼんやりとしていた。それでも彼の判断力は鋭いままだった。


「このオーダー、明らかに過量だな...」


彼が見ていたのは外科の川島部長からの処方指示だった。患者の体重に対して投与量が多すぎる。しかも前日のオーダーと重複している。


通常なら迷わず疑義照会するところだが、川島部長は院内でも特に権威主義的な医師として知られていた。前回、処方ミスを指摘した際には「薬剤師風情が医師の判断に口を出すな」と言わんばかりの態度をとられた。


鈴木は眉をひそめた。カウンターの上には処方箋が山積みになっている。午前中だけで30件以上の調剤をこなさなければならない。人員削減で、休日の薬剤師は彼一人だけだった。


「おはよう、鈴木くん」


振り返ると、薬剤部長の古田が立っていた。60代半ばの古田は、40年のキャリアを持つベテラン薬剤師だ。ほとんど退職間近だったが、薬剤師不足のため週末も出勤していた。


「部長、おはようございます」鈴木は頭を下げた。「こんなに早くから...」


「君が一人で大変そうだから、少し手伝いに来たよ」古田の目元には優しい笑みが浮かんでいた。「何か問題?」


鈴木は処方箋を差し出した。「この処方なんですが...」


古田は一目見ると、眉をひそめた。「確かにおかしいね。川島先生に確認しないと」


「でも前回は...」鈴木は言いかけて、古田の目が優しく、しかし毅然と自分を見つめているのに気づいた。


「鈴木くん、安全のためには、誰が処方しても確認するのが我々の責務だよ」古田は静かに言った。「山本室長も、川島先生も、誰が何と言おうと、それは変わらない」


古田の言葉には重みがあった。彼こそ、三年前の事故で亡くなった患者に最初に疑問の薬剤を届けた薬剤師だった。それ以来、彼は若手薬剤師に「疑問に思ったら必ず確認を」と教え続けてきた。


鈴木は深呼吸し、電話に手を伸ばした。「川島先生に確認します」


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佐藤は処置室で、胸痛を訴える中年男性・山田を診察していた。すでに血液検査のオーダーを出し、12誘導心電図の結果も確認済みだ。心筋梗塞を強く疑う所見があった。


「山田さん、状態は安定していますが、心臓の血管が詰まっている可能性が高いです」佐藤は静かに説明した。「すぐに専門的な処置が必要です」


患者の顔からは血の気が引いていた。「死ぬんですか...?」


「そうならないよう、全力を尽くします」佐藤は山田の肩に手を置いた。「もう専門のチームに連絡していますから」


佐藤は心臓カテーテル室のスタッフと電話で詳細を確認していた。「はい、ST上昇型心筋梗塞の疑い。前壁中隔の広範囲にわたる...そうです、できるだけ早く...」


その時、処置室のドアが開き、田中看護師が新人看護師を連れて入ってきた。


「佐藤先生、12番の患者さんの痛み止めの件ですが...」


「電子カルテで指示したはずだが...」


「システムが更新中で表示されないんです」


佐藤は一瞬思案した後、はっきりとした声で指示を出した。「システム障害時用の紙オーダー用紙を使おう。必要事項を記載して、後で必ず電子カルテにも入力する。システムが復旧したら二重確認を忘れないように」


彼は新人看護師の森に視線を向けた。彼女の表情には不安と緊張が入り混じっていた。「緊急時や障害時でも、決められた代替手順を守ることが大切だよ。いいね?」


「はい」森の返事は小さかった。


佐藤は紙のオーダー用紙を取り出し、記入し始めた。「患者の痛みを和らげることも私たちの使命だ。だから正しい手順で、できるだけ早く対応しよう」


森の表情が少し明るくなった。佐藤はそれに気づき、続けた。「君は田中さんのプリセプティーだったね。良い指導者を持って幸運だよ」


「はい...」森の声が少し明るくなる。「田中さんは本当に素晴らしいです。私のミスにも丁寧に...」


「医療には、ミスがつきものだ」佐藤は記入を終え、用紙に署名した。「大切なのは、そこから学ぶこと」


その言葉に、自嘲の響きがあったことに、田中だけが気づいた。彼女は佐藤の横顔を見つめながら、三年前のあの事故の夜を思い出していた。彼女も同じ現場にいたのだ。


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昼近く、東都医療センターの廊下で、山本安全管理室長と村田病院長が話していた。


「月曜の会議資料はできたかね?」村田の声には期待が滲んでいた。


「はい」山本は資料の入ったタブレットを手に取った。「安全指標の数値は大幅に改善しています。ヒヤリ・ハット報告の提出率は23%向上、薬剤関連エラーは17%減少」


村田は満足げに頷いた。「素晴らしい。医療事故防止は我々の最優先事項だからね」


山本はその言葉に頷きながらも、今朝の妻との会話が頭をよぎった。彼は少し迷った後、口を開いた。


「ただ、一点気になることがあります」


「何かね?」


「現場からのフィードバックです」山本は言葉を選びながら続けた。「特に救急部やICUから、『手順が複雑で緊急時に時間がかかりすぎる』という声があります」


「ほう」村田の表情が変わった。「佐藤からか?」


山本は頷いた。二人とも佐藤雄一のことを念頭に置いていた。院内屈指の腕を持つ救急医でありながら、三年前の重大事故の当事者でもある彼は、常に複雑な存在だった。


「安全に妥協はできないよ」村田はきっぱりと言った。「あの事故を忘れたのかね?」


「いいえ」山本は静かに答えた。「しかし...安全と効率のバランスを考え直す時期かもしれません。例えば緊急時チェックリストは37項目もありますが、その全てが本当に必要でしょうか?」


山本はタブレットを操作し、チェックリストの画面を表示した。「『患者識別バンドのスキャン』『アレルギー履歴の確認』『薬剤間相互作用の確認』といった重要項目は残しつつ、『入力者ID再確認』『システム管理者承認』など、緊急性の低い項目は別プロセスに移せないでしょうか」


村田は眉をひそめた。「それは安全基準を下げるということではないのか?」


「いいえ」山本は首を振った。「むしろ、本当に重要な安全確認に集中できるようにするということです。現場の医療者が『面倒だから全部飛ばそう』と考えるよりは、本当に重要なポイントだけは必ず守ってもらう方が安全ではないでしょうか」


村田は腕を組み、しばらく考え込んだ。「現場の声を聞いたのは良いことだ。だが、安易な妥協はしないでくれたまえ」


「もちろんです」山本は頷いた。「安全と実用性の両立を目指します」


この会話の後、山本は救急外来に向かった。彼の頭の中では、妻の言葉が繰り返し響いていた。「あなたは一度でも、そのシステムを使って患者を救おうとしたことがある?」


実際に現場を見て、自分の目で確かめる必要があった。データだけでは見えない現実を知るために。


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救急外来は、土曜日の昼過ぎにもかかわらず、異様な忙しさだった。週末にインフルエンザ患者が急増し、加えて朝からの雨で路面が濡れ、交通事故も相次いでいたのだ。


佐藤は三時間連続で休憩なしで患者を診ていた。彼の白衣の袖は汗で濡れ、コーヒーの入った紙コップは冷めたまま放置されていた。


「佐藤先生、山田さんの心電図変化が...」看護師が彼に近づいてきた。


佐藤は即座に立ち上がった。山田は心臓カテーテル室への移動を待っていた心筋梗塞の患者だ。「状態は?」


「ST上昇がさらに顕著になり、不整脈も出現しています。胸痛も増強しているとのことです」


佐藤は足早に山田の処置室に向かった。「カテ室はまだ準備中か?」


「はい、前の患者の処置が長引いているそうです」


佐藤は眉をひそめた。想定よりも状況が悪化している。山田の処置室に入ると、患者は苦悶の表情で横たわっていた。モニターには明らかな心電図異常が表示されている。


「山田さん、今の状態はどうですか?」


「胸が...苦しい...」患者は言葉を絞り出すように答えた。顔は蒼白で、冷や汗が浮かんでいる。


佐藤は即座に判断した。「ニトログリセリン舌下、モルヒネ2mgを静注で。酸素流量上げて。それからヘパリンの追加投与」


看護師が薬剤準備に動き出したとき、彼のポケットのPHSが鳴った。「はい、佐藤です」


「佐藤先生!」水野医師の声が響いた。「救急入り口に重症患者が来ました!交通事故で、意識レベル低下!」


佐藤は一瞬躊躇した。目の前の山田も危険な状態だ。しかし新たな重症患者も対応が必要だ。


「今行く!」佐藤は応え、看護師に振り返った。「山田さんの状態に注意して。少しでも変化があったらすぐに呼んで。カテ室には私から再度連絡する」


彼は足早に救急入り口へ向かった。途中で水野医師と合流する。「状況は?」


「30代男性、対向車線にはみ出して正面衝突。シートベルト未着用で、ハンドルとフロントガラスに衝突した模様。意識レベルJCS100。瞳孔不同あり。バイタルは血圧80/50、脈拍130、SpO2 92%」


佐藤の頭の中で、トリアージ(緊急度判定)の基準が自動的に適用される。JCS100は痛み刺激に対して払いのけるような動きをする状態で、重度の意識障害。瞳孔不同は脳の圧迫を示唆する危険なサイン。低血圧と頻脈は出血性ショックの可能性を示している。


救急入り口に到着すると、救急隊員がストレッチャーを押して入ってきたところだった。


「交通事故!30代男性、意識レベルJCS100!頭部外傷疑い、血圧80台!」


佐藤は即座に指示を出した。「CT準備!気管挿管セット、輸血用クロスマッチ! 大量出血プロトコル発動!」


医療チームが一斉に動き出す。田中看護師がリーダーシップを取り、指示を出していく。


「ライン2本確保!輸液急速投与!血液型検査優先!大量輸血プロトコル準備!」


佐藤は患者の瞳孔を確認した。右側が拡大し、光に対する反応が鈍い。「瞳孔不同あり!脳ヘルニアの可能性!」


瞳孔不同は、脳内圧の上昇による脳ヘルニアを示唆する危険な徴候だ。しかし、まずは循環動態を安定させなければならない。


「バイタル安定したらすぐCT!結果次第でマンニトール使用を検討!」


マンニトールは脳浮腫を軽減する薬剤だ。しかしCTで出血の状況を確認せずに使用するのは危険。三年前、彼は似たような状況で、CTを待たずにマンニトールを投与する判断をした。その結果、止血していた硬膜下血腫が再出血を起こし、患者は救命できなかった。


「血圧60に低下!」


看護師の声に、佐藤の思考が現実に引き戻された。「大量輸血プロトコル発動!O型RBC準備!同時にFFP!」


そのとき、別の看護師が慌てた様子で駆け込んできた。「佐藤先生!山田さんが急変しています!」


佐藤の顔から血の気が引いた。山田は心筋梗塞の患者だ。「状態は?」


「モニター上VTの波形が!意識が...」


心室頻拍(VT)。危険な不整脈で、すぐに対応しなければ命に関わる。佐藤は一瞬、頭がクラっとするのを感じた。同時に二人の危機的状態の患者。三年前と同じような状況だった。


しかし今の佐藤は違った。「田中、こちらの患者を頼む!水野先生と一緒に対応して!」


「はい!」田中は即座に応じた。彼女は佐藤の意図を完全に理解していた。彼は山田のもとへ急がなければならない。


佐藤は走った。廊下を駆け抜け、息を切らしながら山田の処置室に飛び込む。モニターには細かく震える心室頻拍の波形が表示されている。山田の意識は朦朧としていた。


「除細動器準備!アミオダロン用意!」


佐藤の声は冷静さを失わなかった。直ちに胸部圧迫を始め、リズムを確認する。持続するVTだ。意識が残っているがショック状態の患者には、同期型の電気ショックが必要だ。


除細動器のパドルが準備される。佐藤は一瞬、デジャブに襲われた。悪夢の中のシーンと現実が重なる。


「チャージ完了しました」


彼は我に返った。「エネルギー値確認、100ジュール。同期モード確認」佐藤は一つ一つの手順を声に出して確認した。「全員離れて。ショック実施」


パドルからの電流が山田の体を一瞬持ち上げた。モニターの波形が一度フラットになり、そして再び鼓動が現れた。今度は正常な洞調律だ。


「洞調律に復帰!バイタル!」


「血圧110/70、脈拍90、SpO2 95%に回復!」


安堵の息をつく間もなく、佐藤のPHSが再び鳴った。「はい、佐藤です」


「佐藤先生、交通事故の患者、バイタル安定してCTに向かいます」水野医師の声だった。


「了解。僕もすぐ行く。山田さんはカテ室にすぐ移動させよう。状態は安定した」


佐藤は山田の肩に手を置いた。「大丈夫ですよ。これからカテーテル検査で詰まった血管を開きます」


「ありがとう...先生...」山田の声は弱々しかったが、その目には安堵の色が戻っていた。


佐藤はCT室に向かいながら、自分が今、冷静に判断できていることに驚いていた。三年前なら、パニックになっていただろう。しかし今は違う。彼はチームの力を信頼し、適切な判断ができていた。


---


CT室の前で、佐藤は交通事故患者の画像を確認していた。水野医師と放射線科医も一緒だ。


「明らかな硬膜外血腫」放射線科医が画像を指さした。「側頭部に6cmほどの血腫があります。中線偏位も始まっています」


佐藤は頷いた。「脳神経外科を呼んで。緊急手術の準備を」


「血腫の位置と現在のバイタルを考えると、マンニトール投与が適応です」と水野が言った。


佐藤は一瞬、過去のトラウマがよぎったが、すぐに払拭した。「そうだな。CTで出血部位を確認したので、今ならマンニトール投与は適切だ。標準的な用量で開始しよう」


水野が去った後、佐藤は少し立ち止まった。ちょうどその時、山本安全管理室長が廊下を歩いてきた。


「佐藤先生、お疲れ様です」


佐藤は少し驚いた。休日にもかかわらず山本が病院にいること自体珍しいが、さらに彼が救急エリアにいることはほとんどなかった。


「山本さん、どうしたんですか?」


「現場の様子を見に来たんです」山本の声には、いつもの堅さが少し緩んでいた。「今日は大変そうですね」


佐藤は正直に答えた。「そうですね。インフルエンザと事故が重なって...今も二人の重症患者が同時に来て」


「どちらも安定したんですか?」


「今のところは」佐藤は少し疲れた様子で答えた。


山本はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「実は...現場の声をもう少し聞きたいと思っているんです。システムの改善のために」


佐藤の目が見開かれた。山本はそれを見逃さなかった。


「私は医療現場の経験がなく...」山本の声には、これまで聞いたことのない謙虚さがあった。「現実と理想のバランスを探るのが難しいと感じています」


佐藤は少し戸惑いながらも、コーヒーの自販機に向かった。「少し時間がありますか?話しましょう」


二人はコーヒーを手に、小さな休憩スペースに座った。


「私は三年前、患者を失いました」佐藤は静かに話し始めた。「ルールを破ったことが原因で」


山本は静かに頷いた。「報告書は読みました」


「あれから私は、すべてのルールを守ることを自分に課しました」佐藤は続けた。「二度と同じ過ちを犯さないために」


「そのお気持ちはよく分かります」


「しかし」佐藤は少し声を落とした。「時々考えるんです。ルールに従っている間に失われる命もあるのではないかと」


山本は黙って聞いていた。


「例えば」佐藤はポケットから電子タブレットを取り出し、安全確認チェックリストの画面を表示した。「37項目ある確認事項のうち、本当に緊急時に必要なのはどれでしょう?」


彼は数項目を指差した。「『患者識別バンドの確認』『アレルギー歴の確認』『投与量の計算確認』—これらは命に関わる重要事項です。しかし『入力者ID再確認』『システム管理者承認』といった項目は、緊急時には後回しにできるのではないでしょうか」


山本は頷きながら、自分のタブレットを取り出した。「村田院長にも同じことを提案したところです。緊急時と通常時で確認項目を分ける...」


二人は意外な共通認識に、お互い少し驚いた表情を見せた。その時、佐藤のポケットから携帯電話の着信音が鳴った。画面には「妻」と表示されている。


「すみません」佐藤は電話に出た。「あぁ、今日も遅くなる...息子の誕生日会?」


佐藤の表情が曇った。「そうか...ごめん、伝えてくれ、必ず週末には...」


電話を切り、佐藤は深いため息をついた。山本の目には同僚としての思いやりが浮かんでいた。


「奥さんですか?」


佐藤は頷いた。「息子の誕生日...また約束を破ることになる」


山本は自分の結婚指輪を無意識に回した。「私も昨夜、妻と喧嘩しました。『あなたは現場を知らない』と言われて...」


佐藤は興味深そうに尋ねた。「奥さんは医療関係の方?」


「看護師です。別の病院ですが」山本は少し恥ずかしそうに答えた。


「そうでしたか」佐藤の表情が柔らかくなった。「では彼女の意見は貴重ですね。現場の声を一番身近で聞いているわけですから」


「そうなんです。今朝も彼女が教えてくれたんです。彼女の病院の安全管理システムが、逆に患者ケアを妨げている例を」


佐藤の目が光った。「具体的には?」


「急変時チェックリストが複雑すぎて、処置が遅れたそうです」


二人は話し込み始めた。佐藤は臨床現場での具体的な問題点を指摘し、山本はシステム設計の観点から改善案を提案した。


「安全は最優先です」佐藤は言った。「しかし、安全と効率のバランスが大切なんです」


「全くその通りです」山本は真剣な表情で頷いた。「私たちが目指すべきは、現場が自然に守れるルールづくり...」


会話は予想外に盛り上がった。二人は意外な共通点を見出していた。山本はメモを取りながら、「月曜日の会議で、これらの意見を踏まえた改善案を提示します」と約束した。


そのとき、救急コールのアラームが鳴り響いた。


「失礼します」佐藤は立ち上がった。「また続きを」


「ぜひ」山本も立ち上がった。「現場の声、もっと聞かせてください」


佐藤は足早に救急エリアに向かいながら、不思議な感覚に包まれていた。山本との会話は、彼が予想もしなかった展開だった。


そして何より、彼自身が変わりつつあることに気づいていた。三年間、ルールを厳格に守ることだけを自分に課してきた彼が、今日、初めて「バランス」という言葉を口にしたのだ。


---


夜が更けた東都医療センター。多くのスタッフが帰宅した後も、救急外来の灯りは消えていなかった。


佐藤は医局で、パソコンに向かって記録を入力していた。交通事故の患者は緊急手術を受け、脳外科医から「一命は取り留めた」との連絡があった。山田さんも無事にカテーテル治療を終え、ICUで安定した状態にあった。


「二人とも助かった」


佐藤は静かにつぶやいた。今日は特別な一日だった。危機的状況の中で、彼はかつてないほど冷静に判断できた。そして山本との予想外の対話。何かが変わり始めているような感覚があった。


彼はモニターに表示された安全確認チェックリストの最後の項目にチェックを入れた。そして椅子に深く腰掛け、目を閉じた。疲労が一気に押し寄せてきた。


ふと目を開けると、彼の机の隅に息子の写真が置かれていた。誕生日パーティーに行けなかった罪悪感が再び湧き上がる。しかし今日は、二人の命を救うことができた。その事実が、彼の心に小さな慰めをもたらした。


佐藤が立ち上がり、コートを手に取ったとき、田中看護師が医局のドアをノックした。


「お疲れ様です、佐藤先生」


「田中さんも、お疲れ様」佐藤は微笑んだ。「もう帰るのか?」


「はい。森も無事に一日を終えました。あの子、成長しています」


「君のおかげだな」


田中は少し迷った後、口を開いた。「佐藤先生、今日の山本室長との会話...何かあったんですか?」


佐藤は少し驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかな表情に戻った。「ああ、意外なことに...彼も変わろうとしているようだ」


「そうなんですか」田中の目が少し輝いた。「それは良いニュースですね」


「うん」佐藤は頷いた。「彼も、私も...皆、変わっていくのかもしれない」


二人は並んで医局を出た。廊下の窓からは、夜空に浮かぶ月が見えた。明日も同じような一日が始まる。しかし何かが少しずつ変わり始めている。


佐藤は心の中で誓った。安全を守りながらも、患者のために最善を尽くす道を探し続けよう。それがきっと、三年前に失った命への最大の償いになるはずだから。


病院の自動ドアが開き、冷たい夜気が二人を包み込んだ。明日はきっと、新しい一日になる。


(続く)

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