第十一章 朝日と足音
――――フランマは、不思議な夢を見ていた。
ぼんやりと浮かび上がっては消えていく、精霊たちの夢だ。
精霊とは、器を失った魂。死者である。
明滅する靄は、幻想の地へ誘うように舞い踊る。
(・・・・・・まだ死ぬ訳にはいきません)
意識を手繰り寄せる。少しずつ手指の感覚を取り戻していく。
ふいに、何かが指先に触れた気がした。
それを離さないように、そっと掴む。力が入らずに、指が震えている。
体の感覚を取り戻すにつれ、フランマの意識は浮上する。
やがて白い光が網膜を刺した。
フランマは、重い瞼を開いた。
――そこにあるのは、見知った天井。視界の左端から、まばゆい朝日が差し込んでいる。窓の外には白雪がチラついて見える。
それから体を包み込む柔らかな寝具の感触と、頭に巻かれた包帯の感覚。
部屋の調度品や見える風景から察するに、恐らくここは知慧の大図書館の一室。
傷を手当てされ、ベッドの上に寝かされているようだ。
起き上がろうと体に力を込める。しかしその瞬間体中に激痛が走り、ベッドに体を押し戻された。
・・・・・・そういえば左腹部を刺されていた。そこに手を添えれば、硬い包帯の感触がある。かなりの傷だったからか、原初の天使様は体に負担のかかる治癒魔法ではなく、自然治癒を促すことにしたのかもしれない。
小鳥のさえずりが静かな部屋に落ちる。箱庭の傍に根付く大樹の葉は、薄らと朝露を光らせている。
もう少し眠るべきだろうか、と思案していたその時。廊下の方から足音が響いてきた。
コツコツと規則正しく、しかし穏やかな歩みでこの部屋へ向かってくる。扉の前で立ち止まると、三回のノックの後に扉が開いた。
「――おはようございます、主」
「おはよう、フランマ。目覚めて良かったよ」
部屋を訪れたのは、原初の天使であった。蒼碧の美しい瞳がじっとフランマを見つめる。
彼女はゆっくりベッドの側まで歩み寄ると、そこに置かれていたスツールに腰掛けてフランマの腹部に視線を流した。無表情な瞳には、微かに心配の色が見て取れる。
「傷口は痛むかい?」
「いえ、安静にしていれば問題ありません」
「・・・・・・それなら良かった。大きな傷は魔法で治療したけれど、後は自然治癒の力に任せるつもりだよ。不自由な思いをさせてすまないね」
「ありがとうございます。これくらい、なんてことはありません」
フランマが眉根を下げて微笑めば、彼女は気難しげにすっと目を細めた。
「なんてことない、という状態では無かったよ。君は三日間も眠りこけていた。サクロヘニカは気が気でなかっただろうね」
「えっ・・・・・・」
三日間、と言われても実感が湧かない。眠っていたので当然であるが。
そういえば、気を失った後どのようにしてここまで運ばれてきたのだろう。子供たちは無事だろうか。
焦りの表情を浮かべたフランマから察したのか、原初の天使は大まかな事の顛末を語り始めた。
――フランマが気絶した後、サクロヘニカは自分には手の施しようがないことを悟り、転移魔法を使って子供たちもろとも知慧の箱庭に転移してきたという。
資格もなしに準禁忌魔法を使った事もそうだが、部外者である子供たちを箱庭に連れ込むなどとんでもない事である。とはいえ非常事態であったため、それらは特例として認められたそうだ。
その後、原初の天使が瀕死のフランマに治療を施し、錯乱する子供たちをなだめすかして騎士団に引き渡すことで、ようやく事態が収束した。サクロヘニカは「フランマが目覚めるまで研究室に籠る」と言い残して別館に閉じこもったとのことだ。
「・・・・・・大方、私に説教されるのが嫌だったんだろう」
「まぁ、サクロヘニカらしいですね」
恐らく転移魔法を使うことは彼女にとっての最善策だった。それを叱られてしまえば、数日間は拗ねるだろう。
拗ねるサクロヘニカを空想していると、ふいに原初の天使の表情に翳りが浮かんだ。その様子をそっと窺えば、彼女はとある事情を説明し始める。
「サクロヘニカの事で、話しておかなければならないことがある」
「何かあったのですか?」
「・・・・・・というのも、彼女が左肩に負った魔法は対象の魔力量に応じて効果が強まるものだったようでね。魔法は解除したけれど、後遺症として大きな傷跡が残ってしまったんだ。――触れると痛むようだから、気遣ってあげてほしい」
「後遺症・・・・・・ですか」
そういえば、サクロヘニカは左肩を気にしている様子だった。魔法の痕跡が気になるだけかと思っていたが、酷く痛んでいたのかもしれない。
表情を曇らせるフランマに、原初の天使は普段通りの冷静さを湛えた声をかける。
「とはいえ、そこまで深刻に捉える必要は無いよ。ひとまず本人は大して気にしていないようだからね」
むしろ――と原初の天使は言葉を続ける。
「その一件から知見を得たのか、黙々と研究に没頭しているようでね。危険な事を起こさなければいいのだけど」
「・・・・・・もしかすると、魔法だけでは解決できない問題を知って、新たな学問に目覚めたのかもしれませんよ?サクロヘニカの知識欲には目を見張るものがありますから」
魔法は万能な奇跡の力ではない。それを身をもって教えることが出来たのなら、僥倖だ。
しかしそう考えるフランマとは対照的に、原初の天使はどこか憂いありげに思案していた。
箱庭に降る白雪はいつの間にか雹に姿を変え、コツンと窓を叩く音が不規則に鳴り始めた。
雹と静寂の降る中。フランマは密かに原初の天使の様子を窺っていた。彼女には、報告しなければならないことがある。
「主、報告があります。ムッシュさんの死の真相について、お話しても宜しいでしょうか」
意を決して口を開けば、原初の天使は窓の外を一瞥してからフランマに視線を戻した。
「もちろん。君の記録は貴重なものだからね」
スツールに深く座り直した原初の天使の姿を確認すると、フランマは小さく深呼吸をした。これまでの経緯を頭の中で辿りながら、自らの『記録』を語り始める。
「――まず、ムッシュさんの遺体には皮膚の変色だけでなく、浮腫が出ていました。嘔吐と同時に目の充血も見られ、いずれも何らかの急性中毒の可能性が高いです」
当初、ムッシュの病は悪性腫瘍によるものに思えたが、それでも突然死するような容態ではなかった。しかし部屋から人が居なくなった途端に急死するというのは些か不自然である。
何者かの意図によって引き起こされた必然死であるようにも思えた。もしそうであるなら暗殺者は長期的に毒物を接種させていたが、意図的にあのタイミングで殺害したのかもしれない。
「恐らく、ムッシュさんは毒殺されました。犯人は孤児として教会で暮らしていた子供の一人だと思われます。実際ムッシュさんが急死する直前に医務室で姿を見ましたし、その子は野営地で俺を刺した後、そのような話を口にしていました」
あの赤毛の少女は、強盗に親を殺されたと嘯いてウエルネルタに潜入したのだろう。ムッシュを殺すために少量の毒を食事に混ぜこみ、慢性中毒を起こして殺害するつもりだった。
しかし何らかの理由で計画を前倒しし、致死量を接種させ殺害した。
「あのタイミングでムッシュさんを殺害したのは、襲撃者たちが間もなくウエルネルタを襲撃すると予め決めていたから。調和の祭典のためにエデルヤーヌ騎士団が街を離れた時を、襲撃の機会として狙っていたのでしょう」
エデルヤーヌ騎士団はウエルネルタにとって強力な盾だ。
しかし彼らさえ居なければ、ウエルネルタの警備は甘くなる。ムッシュを殺害すれば、街に残るのは非武装の住民と自警団のみ。彼らだけなら大した脅威にはならないと考えたのだろう。
襲撃者たちはウエルネルタを襲うタイミングを図っていた。期を逃せば、あの街に手を出すことはできないのだから。
・・・・・・逆に言えば、ウエルネルタは豊かな街でありながら国の僻地に存在し警備も手薄である。食糧、燃料、物資、子供――襲撃者たちの欲するものは全て揃っていた。
それがウエルネルタを狙った理由だろう。
フランマが一通りの見解を話し終えれば、原初の天使は感心したように頷いた。
「確かに、白梟の使徒たちの調査結果やエデルヤーヌ騎士団が得た情報と一致している。その見解で間違いないだろう」
そう言うと原初の天使はスツールから立ち上がり、コートの裾を整えた。そしてフランマを見遣ると、言葉を続ける。
「襲撃者たちは既に天戒審判所へ送致されている。裁判が始まる前に、君の証言も提出しておこう」
天戒審判所――と聞き、フランマは今更ながらある疑問を抱いた。部屋を出ようとする原初の天使の後ろへ、その問いを投げ掛ける。
「サクロヘニカが転移魔法を使った後、襲撃者たちはどうなっていたのですか?」
原初の天使はそれに答えるように、ドアノブに手をかけた状態で振り返った。
「そういえば、話していなかったね。サクロヘニカが転移した後、間もなくエデルヤーヌ騎士団が現場へ到着して襲撃者たちは捕らえられたよ。その際、彼らは不可視の鎖で藁束のようにまとめられていたようだ」
「そうでしたか・・・・・・逃げられずに済んで良かったです」
もしサクロヘニカが転移魔法に集中し襲撃者たちを逃していれば大変なことになっていただろう。もしくは、フランマが気絶している間に彼らを攻撃したり、何らかのトラブルを起こしていた可能性もあった。
ひとまずは杞憂だったと安心するフランマに、原初の天使が独り言のように言葉を投げ掛ける。
「・・・・・・サクロヘニカは倫理観こそ無いが、並外れた知性や強靭な理性を持っている。私たちが禁じたことを忠実に守っている限り、彼女は脅威にはならないだろう」
そう言い残すと、原初の天使は部屋を出た。規則的な足音が遠ざかり、やがて入れ替わるようにラフィイルが様子を見に来てくれた。
いつものように――いや、いつもより嬉しそうに揺蕩うクラゲを見つめると、フランマは深く息を吐いた。群青色の瞳を覆い隠すように瞼が伏せられる。
「・・・・・・いざと言う時は、彼女を殺す約束でしたね」
そう零せば、困ったように揺れ動くラフィイルに「なんでもないですよ」と微笑みかけると、フランマは雑念を締め出すように目を閉じた。
窓を打つ雹の音は、次第に意識の奥底へ溶けるように沈んでいった。
フランマが目覚めて数刻後。サクロヘニカは原初の天使からその報せを受けるも、見舞いに行くでもなく研究室に篭もり続けていた。
その理由には「心配性のフランマなら、歩けるようになり次第向こうから来るだろう」という慢心と、「彼の回復次第ですぐに行動できるように」という事前準備も含まれている。
サクロヘニカは机の上で嵩張っている魔導書や歴史書を手で押しやり、特別製の羊皮紙を机上に広げた。ペンにインクを補充し、紙を引っ掻くようにして文字を書き連ねる。
魔導円環を描き、その内部に精密な魔法式を書き込んでいく。外部にはメモ書きのような簡易的な情報を記しつつ、誰もが解読できる分かり易い魔法式を意識する。
――しかし、途中で手がピタリと止まる。暫しの沈黙の末深くため息をつくと、サクロヘニカは頭を抱えた。
「・・・・・・やっぱり、これじゃあ限度がある」
眉間に皺を寄せ、苛立たしげに呟く。
今回の一件――ムッシュの死からウエルネルタの最期、そしてフランマを失いかけたことまで――から、サクロヘニカは以前にも増して魔法の研究に励んでいた。
魔法でできないことがあるのなら、それができる魔法を生み出せばいい。というどこまでも傲慢な魔法学者であるサクロヘニカらしい行動だ。
「・・・・・・フランマが動けるようになるまでに支度を終わらせないとね」
行き詰まってしまったそれを机の隅にある紙束の上に重ねると、新たな羊皮紙を取り出しサクロヘニカは研究を続けた。
――それから四日後。
研究室の扉を叩くノックの音で、サクロヘニカは目を覚ました。本と紙で埋もれた机から緩慢な動作で顔を上げ、扉の方に目を向ける。
「誰だい?」
「俺です」
「フランマか・・・・・・もう動けるようになったんだね。入っていいよ」
応えれば、ガチャリと音を立てて扉が開かれた。
群青色の瞳、鳩羽色の髪。いつも通りの髪型と服装をしている。もうすっかり回復しているようだ。
「先生は治癒魔法じゃなく自然治癒で治すとか言っていたけど、もう治ったのかい?」
「えぇ、俺は上位天使ですからこの程度の傷ならすぐに治ります。もっとも、ナイフで刺されたくらいでは死にません」
「よく言うね・・・・・・どう見ても死にかけだったと思うけど」
「本当ですよ。たとえ建築用の鈍器で頭を殴られようと、すぐには死にませんから」
「・・・・・・体験談じゃないよね?」
サクロヘニカの問いに沈黙で答えると、フランマは本と紙束が散乱した部屋を見渡した。開きっぱなしの魔導書や、魔法式がびっしりと書かれた羊皮紙も見て取れる。やがてサクロヘニカに目を留めると、彼は呆れたようにため息を吐いた。
「魔法以外に関心を持ったのかと思っていましたが、違っていたようですね」
腰に手を当てながらサクロヘニカを見据えると、フランマはふいに髪をつまむような仕草を見せた。不思議に思いサクロヘニカが自身の髪を梳いてみれば、寝ている間に着いたであろうホコリが取れた。
「・・・・・・ありがとう、気付かなかったよ。それと、私だって魔法以外にも関心はあるよ」
魅力を感じないだけで、という言葉は飲み込んでおく。それを察知していそうなフランマから目を逸らし、サクロヘニカは机の中心にまとめていた羊皮紙の束を浮遊魔法でフランマの眼前へと飛ばした。
「これは?」
「新しい魔法だよ」
フランマが紙束を受け取ったのを見届けると、サクロヘニカはつまらなそうに足を組んだ。彼が魔法式に目を通していくのを眺めながら淡々と説明を付け加える。
「他人の魔法の痕跡を追える魔法。隠匿魔法を察知できる魔法。嘘つきを炙り出せる魔法。離れた場所から意思の疎通を図れる魔法。あぁそれから――魔法を無効化する魔法を無効化する魔法も」
「・・・・・・本気で言ってます?」
フランマはつらつらと並べられる言葉に眉を顰めた。言葉の真偽を疑っているというより、ほんの数日で幾つもの魔法を編み出したことに苦言を呈すか悩んでいるようだった。
「無効化するって言っても、特定の魔法だけ解除するというより対象者ごと魔力で包み込んで無理やり破壊するというものだ。あくまで非常用・・・・・・まだ、まともに使える状態じゃない」
肩を竦めてみせれば、フランマは長い息を吐いてこめかみを抑えた。頭痛でもしているのだろうか。
項垂れるフランマを覗き込めば、彼は緩やかに顔を上げた。表情を見るに怒っている訳ではなさそうだ。
「貴方の魔法の才は分かっていますが・・・・・・どうか、使い方には気を付けてください。他の生命を害するものや、己の利益を追求するためだけの魔法を編み出してはいけません」
「・・・・・・まさか、そんな魔法使わないよ」
魔法で他者を害するなとは、箱庭に来る前から言われてきた。
人の社会で人と共に生きる限り、その必要性はともかく、『俗世の法と規範』によって己を律するべきなのだという。だから幸か不幸か、サクロヘニカはまだ人を殺したことは無いし殺人の為の魔法も編み出してはいない。
というか、もしそんなことをしたら箱庭を追い出されるのは間違いない。
――まぁ、だからといって禁忌に手を出さないと言う訳では無いが。
一先ず空気を入れ替えようと、サクロヘニカは机上に残していた一枚の羊皮紙を手に取った。そこに記されているは、完成していながらも不完全な魔法式である。
ふわりと紙を浮遊させ、それをフランマの手元へ滑り込ませた。
「この魔法は?」
「あぁ、実は新しい防衛魔法を考えたんだけど・・・・・・少し行き詰っていてね」
頭の中で、例の魔法式を思い浮かべる。
「非常に強力な防衛魔法でね。範囲は小さいが、いかなる魔法も武器も、熱も水も通さない。一人か二人程度なら、どんな災厄からでも生き延びられるだろう。魔法式も単純化したから発動はさほど難しくない」
フランマが魔法式を流し読んでいくのを確認しつつ、サクロヘニカは話を続ける。
「魔力消費は少し多いかもしれないけど、充分時間を稼げる程度だ。魔法式を改良すればウエルネルタくらいの街は守れるし・・・・・・魔導品に落とし込むことも出来る」
『魔導品』という言葉を聞くと、フランマは驚いたように顔を上げた。魔導品とは魔法が使えない者が求める品であって、サクロヘニカには不必要なものだからだ。
サクロヘニカは目尻を下げてひとつ呼吸を零した。
「――もしそのような魔導品があれば、エイミやシーチカも生き延びられただろう。魔法が使えなくとも街を守れるならば、ムッシュのような存在がいなくとも人々は略奪に怯えずに済む」
しかし、まだこの魔法は完成していない。人々や街を守るための魔法ならば、強固さだけが特筆していても意味を成さない。
サクロヘニカは窓辺に視線を向ける。冬の曇り空が朧気に映し出された窓枠の手前には、青紫色の鉱石が転がっていた。その隣には、いつかの夜市で受け取った鳥の木像が佇んでいる。
サクロヘニカの視線を追ったフランマは鉱石を目に留めると、その深い青紫色をじっと見つめた。
「仮に魔法鉱石を用いて護身用の魔導品を作ったとして・・・・・・まず、とんでもなく燃費が悪くなる。魔法を使えない人間が使用することを想定すると、使っているうちに魔力が底をついて気絶してしまうだろうね。それに魔法鉱石は高価で貴族にしか手が届かない。有事の際に使う人が居なければ、この魔法はゴミも同然だ」
原初の天使から借りた魔法鉱石で何度か実験してみたが、魔法式を簡略化し強固にするほど使用者の魔力消費量が増えてしまった。実際に強盗なんかに襲われたと想定するなら、一晩は持ち堪えてくれないと何の意味もない。
人間の持っている魔力量はある程度計り知れている。それを考慮するならば、今のままではとても個人を守るための魔導品にはならない。それこそ、街の人々が一晩中交代で番をしなければならないレベルだ。
その時ふと、フランマの視線が揺らいだ。何かに思い至ったのか、困惑した面持ちでサクロヘニカに向き直る。
「サクロヘニカ、もしかして――」
「多分、君の予想通りだよ」
人々に魔法を普及させるため。魔導品によって人命を救うため。エイミのような被害者を出さないため。
――魔法を人々の日常に。誰もが平等に奇跡を得られるように。
「オルティカーナに行こうと思う。そこでグロウナーシャに会って話をする。彼女の持つ魔導石があれば、きっと世界に魔法を普及させることができる。私は、天界での人々の暮らしを塗り替えようと思うんだ」
サクロヘニカは椅子から立ち上がり、フランマの方へ歩み寄る。
「君も一緒に来てくれるかい?導いてくれる者が必要でね」
目を細め、手を差し出す。フランマの瞳を真っ直ぐに見つめる。
彼は一瞬考え込むように視線を伏せたが、やがてサクロヘニカを見据えると眉根を下げながら頬笑んだ。
「良いでしょう。できる範囲で俺も手伝います」
握手を交わすと、サクロヘニカはふっと表情を緩める。
「それじゃあ、早速行こうか。持ち物はどうする?」
「え、ちょっと待ってください。今から行くつもりですか?」
目を瞬かせるフランマに、サクロヘニカは首を傾げる。
「用事でもあったかい?いつなら都合が合うんだい?」
「・・・・・・休んでいた分の仕事もありますし、外出する間の仕事も先に終わらせなければいけません。一ヶ月は待ってください」
一ヶ月。悠久の時を生きる神獣にとって決して待てない時間では無いが、サクロヘニカは誠に不満そうであった。
「どうしてもかい?」
「どうしてもです。本来ならば、管理人である俺が箱庭を離れることもあまり良くないことなんですよ」
だから我慢してください、と言われてしまえば文句は言えない。フランマは一ヶ月後の旅立ちを約束すると、研究室を後にした。
「一ヶ月か・・・・・・」
フランマの背中を見送ると、サクロヘニカは魔法式の記された紙束に視線を流した。それらはほぼ休息も取らずに編み出した魔法ばかりで、まだ粗が目立っている。
そのうちの一枚を手に取り、内容をざっと確認する。
「もっと改善できそうだね」
魔法とはどこまで突き詰めても終わりの見えない学問だ。あまりに果てのない未知の領域・・・・・・この世に魔法学者が少ないのも頷ける。
この学問を成し遂げるには、何より時間が必要だ。短命種には到底無理だろう。とはいえ長命種の方も、さらに魔法の高みを目指そうと考える者は少ない。まぁ、魔法を編み出すなんてそうそうできるものじゃないから仕方ないのだが。
「・・・・・・私の他にも魔法学を学ぶ者が大勢いれば、もっと効率よく研究できるのだろうか」
ひやりとした冬の空気が漂う研究室で、サクロヘニカはなんの気もなしに独り言ちた。
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【特別製の羊皮紙/ペリメル】
山羊に似た幻獣の皮を用いて作られた、特殊な羊皮紙。
優れた耐久性を持ち、厳重に保管している限り劣化することは無い。『不滅の記録』とも呼ばれる。
記録や研究成果の他、魔導式の保存などに用いられる。
非常に高価であり、一般的に用いられる紙の数百倍の値がつく。
【大地の国/ディアメンベルク】
天界において豊穣の国に次ぐ広大な領土を持ち、多様な民族が暮らす歴史ある国。
巨大な鉱脈が複数が存在し、鉱物資源が豊富。質の良い鉱石が各国で人気を博し、貿易で富を築いている。
一方では治安面にやや難があり、帝都ディアマルクや各主要都市から離れた僻地では山賊や人攫いが多く見られる。
また、土地や資源を巡った他国との諍いが度々発生しており、有事の際には黒岩軍と呼ばれる屈強な軍隊が敵を制圧している。
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