第五章 帰路
夜市を巡った翌日。
一抹の疑念を残しつつも、二人は豊穣の都を後にした。
幌馬車の荷台にはエイミへのお土産などが積まれ、サクロヘニカが寛ぐスペースはやや狭くなっている。
グロウナーシャに押し付けられた鳥の木像をじいっと眺めながら、サクロヘニカは昨晩の泡沫のような出来事を思い返していた。
――夜空に覆い隠された不思議な露店。ボロボロな魔導品が並び、そこに嵌め込まれた“魔導石”とやらが、微かに魔力を帯びていた。
グロウナーシャという竜族の少女は『オルティカーナで待っている』と言ったが、フランマに訊いてもそのような地名には覚えがないそうだ。
そしてその後、それらは忽然と消え、残されたのは木像だけ。
魔法を使った形跡も見つけられず、結局その日は宿へ戻って休息をとった。
朝になってからもう一度広場に足を運んだものの既に露店は片付けられ、ただ沈黙する宮殿が二人を見下しているだけだった――
二人は、これまでの道筋を辿っていくようにして帰路に着く。
街道をゆく馬車や商隊はすっかり疎らになり、二人を乗せた幌馬車は詰まることなく悠々と進んでいた。
頬を撫でる冷たい秋風も相まってか、正午前の閑散とした街道や作物が収穫され始めた畑は、少しずつ冬に飲み込まれたように
少女の事が気掛かりなのは確かだが、悶々と悩んでいても仕方が無いので、サクロヘニカは気分を切り替えることにした。忘れ物でもしていないか、荷物を改めておくことにする。
まずは、エイミへのお土産。小麦と蜂蜜、ドライフルーツを三種類と、水牛の乳から作られたチーズを一包み購入してある。
他にも気になるものは沢山あったが、一ルベル以内に収めるためにかなり厳選した。とはいえ、思っていたより一ルベルの価値は高かったのか、たんまりとお釣りを貰ったのだが。
――お土産はもう一つある。それは、小物入れの中で静かに眠っている
周囲が薄暗く見えるほどに眩い空の色と、深海のような紺碧。
夜明けのような静けさを湛えながも貴婦人のような気高さを感じさせるそれは、初めて原初の天使と対峙した時の印象そのものだ。
それに彼女の瞳は、良く目を凝らさなければ気付けないほど些細な機微であるが左右で僅かに色が違う。右目は灰白色で左目は薄い空色をしているのだ。二種類の蒼碧を宿したこの宝石は、まさに彼女にぴったりだろう。
「・・・・・・この宝石を見たら、先生はどんな顔するかな」
サクロヘニカは原初の天使の姿を思い浮かべながら、ぼんやりと馬車に揺られた。
「・・・・・・サクロヘニカ、起きてますか?」
「あぁ、うん。起きてるよ」
そう言いつつも船を漕ぎはじめているサクロヘニカを軽く見やると、フランマは少し肩の力を抜いた。普段通りに振る舞いながらも、グロウナーシャの件で気が気でなかったのだ。
「フランマって意外と心配性だよね」
見透かしたようなサクロヘニカの声を聞こえないふりして、黙々と馬車を進める。
「そういえば、あの木像に変化はありましたか?」
「いいや全く。魔力を流し込んでも何も起きない」
サクロヘニカはどこかつまらなそうに例の木像を弄ぶと、そっと手をかざして再び魔力を流し込んだ。
――木像の瞳部分がほんのりと光を帯びる。しかし、それだけだ。
サクロヘニカは呆れたようにため息をつき、木像を荷物の中に放り込む。
「オルティカーナに行かないと反応しないのかもしれないね」
「そうですね・・・・・・箱庭に戻ったら調べてみましょう」
知慧の箱庭には、ありとあらゆる記録が集っている。恐らくオルティカーナという場所に関する記述も見つかるだろう。
「ひとまず今はウエルネルタを目指すのが先だろう?そろそろ、エイミの焼いたパンが食べたくなってきた」
サクロヘニカの投げやりな態度に、フランマは苦笑する。食事を楽しめるようになったのは僥倖であるが、もう少し危機感というものを持って欲しい。
「お腹が空いたのなら、次の宿駅で食事でも取りましょうか」
「いいのかい?じゃあそうしよう」
サクロヘニカは伸びをすると、荷台から御者台へ移った。
幌馬車を引く二頭のシュテルケ馬の背を眺めながら、束の間の旅路を楽しんだ。
馬車は緩やかに帰路を辿っていく。
宿場で豊穣の味覚を楽しみ、夕焼けに染まる花畑を横切る。旅人に声を掛けられて豊穣の都までの道程を教えることもあれば、商隊の盛大な宴に参加させられたりもした。
――サクロヘニカがアルコールを口にするのはそれが初めてであったが、サラリとした口当たりや刺激的な風味を心なしか楽しんでいた。
彼女が酔うことは無かった一方、フランマは完全に酔い潰れてしまい、サクロヘニカに介抱されていたという。
――その翌朝。
二日酔いで痛む頭を抱えながら馬車を動かそうとするフランマを制し、サクロヘニカが馬車の操縦を申し出た。よって、フランマは荷台で休むことになり、彼が回復するまで馬車を走らせるのはサクロヘニカの役目になる。
サクロヘニカはこれまでの旅路で馬車の扱いを心得ていたようで、街道の端をゆっくりと、フランマの姿をなぞるように馬車を動かしてみせた。
「どうだい?案外動かせてるだろう」
「・・・・・・えぇ、見事ですね」
フランマはサクロヘニカの成長の速さに感心する反面、面倒を見る立場が逆転していることに少々複雑な思いである。
しかしそんな事などつゆ知らず、サクロヘニカはいつになく上機嫌だ。緩やかに馬車を動かしながら、楽しげにフランマへ話しかける。
「昨晩は楽しかったね。お酒もそうだけど、小鳥と野菜を串に刺して焼いた料理も美味しかった。あぁ、あとフランマが――」
「思い出したくないです」
鋭い声色で制され、サクロヘニカは肩を竦める。
「フランマは随分控えめな方だったと思うよ?商隊の他のやつらの方がよっぽど吹っ切れてた」
「そういう問題ではありません。・・・・・・まさか、あれほど飲まされるとは思っていなかったんですよ」
ズキズキ痛むこめかみを押さえながら、フランマは不満げに呻いた。白梟の使徒の装いをしていなかったといえども、天使であるフランマは人間の商人たちに多少なりとも敬遠されると思っていたのだ。
驚いたことに彼の前には続々と杯が運ばれてきてしまい、断るに断れなかった結果すっかり酔い潰れたというのが、事の顛末である。
「安心して休んでなよ、フランマ。道は覚えてるから」
「・・・・・・貴方は珍しい魔法を見つけでもすれば、そちらへ逸れていくでしょう」
「まぁ、それは否定しないでおくよ」
覚束無い様子で馬車を進めるサクロヘニカを見かねて、フランマは気怠げに御者台へ移った。一拍置いて、サクロヘニカに馬車の動かし方を指南し始める。
「手網は、繊細な指示を馬に伝えることができます。しっかりと手元に集中してください」
「分かったよ」
フランマの助言通りに馬車を走らせてみる。最初はぎこちなかったものの、慣れていくと馬車とのすれ違いも難なく成功できるようになった。
景色を楽しむ余裕も表れ、サクロヘニカは何の気なしに周囲を見渡す。
街道を取り囲んでいた色鮮やかな畑は、そのほとんどが収穫を終えて焦茶色に姿を変えている。秋風に吹かれて、幌馬車の厚い布がパタパタと音を立てている。
――不意に、フランマが口を開いた。その表情はどこか朧気だ。
「それにしても、貴方が酔うことがなくて良かったです」
「私が酔うと、何かまずいのかい?」
不思議そうにサクロヘニカが問えば、フランマは考え込むように難しい顔をした。
「それは――もし貴方が神獣の姿になってしまったりすれば、大騒ぎになるでしょうから」
「・・・・・・あぁ、なるほどね」
サクロヘニカの正体が露見すること。
それはフランマ、そして原初の天使が最も危惧していることだ。
「神獣とは、そんなに世界から嫌われているのかい?」
サクロヘニカは今まで外の世界など気にしていなかったが、こうして旅の楽しさを知ってしまったからには、自身がどれほど恐れられている存在なのか知る必要があった。
今のところ人々が“神獣”について語っている場面を目にしていない。皆目見当もつかない。
「・・・・・・嫌われている訳ではありませんが、貴方のように話が通じる神獣はほとんど居ません。人々からの印象としては、気まぐれで理不尽な存在、といった所でしょうか。それに――」
フランマは、続く言葉を濁した。サクロヘニカが視線で続きを促せば、彼は躊躇いながらも重たい口を開く。
深刻な面持ちはからは、微かに恐怖心が感じられた。
「・・・・・・俺はきっと、今までのように貴方と接することができなくなります」
「・・・・・・それ、詳しく聞いてもいいかな?」
「いえ、大した話ではありませんよ」
自嘲気味に笑うフランマを、サクロヘニカの瞳がじっと捉える。その言葉の真意を探るように、美しいラヴェンダー色が細まる。
「・・・・・・どうしても嫌なら話さなくていいさ。また今度、聞かせてよ」
サクロヘニカは、どこか寂しげに呟いた。
――ウエルネルタに到着したのは、その二日後。
「お土産もあるし、早速エイミの所に行こうか」
「えぇ、そうですね」
フランマの操縦する幌馬車は、趣のある街路を通って広場に向かう。道端に植えられた植物の葉は、屋根と同じオレンジに色付いていた。
前方に噴水が見え始めたかと思えば、すぐに視界が開ける。
時刻は正午過ぎ。広場は昼餉を楽しむ人々や走り回る子供たちで賑わっている。噴水に腰掛けて談笑する老夫婦や、食事処の前でたむろする若者たちの姿もある。
邪魔にならないよう広場の手前で馬車を停めると、二人はエイミへのお土産を抱えつつ『夕暮れの雲』の裏口へ向かった。
「エイミ、居るかい?」
二回ほどノックしてからサクロヘニカが扉を開くと、香ばしいパンの香りがぶわっと外に吹き抜けた。昼食時ということもあってか、焼き場は大忙しのようだ。
どこまで踏み入っていいのか思案していると、バタバタと大きな音を立てながら店の奥から人影が現れた。
鉛色の瞳の青年、エイミである。
「サクロヘニカ、帰ってきてたんだな!フランマもおかえり、良かったら中で休んでいってくれ」
「ありがとうエイミ、そうさせてもらうよ」
エイミに案内されて二人はパン屋の休憩室であろう部屋へ迎え入れられた。休憩室といっても、積み上げられた白雲麦の袋の奥に丸椅子が四つ並んでいるだけであるが。
「ごめんな、表はお客さんが多くてさ」
「いえ、気にしないでください」
エイミは二人を椅子に座らせると、木製の小テーブルを運び入れてお茶を用意してくれた。目新しい純白の籠をテーブルに置き、焼き上がったばかりのパンを並べていく。
「ところで、その荷物って・・・・・・」
「あぁ、エイミへのお土産だよ」
「本当か!」
エイミはサクロヘニカたちの抱えていた荷物を受け取ると、早速中を確認し始める。
「これ、小麦か?いいな、うちの店には仕入れてないんだ。これは蜂蜜で、こっちはフルーツか!あれ、この包みはなんだ?」
「それは水牛の乳から作られたチーズだよ。バルモルクとも言うらしい」
「水牛乳のチーズって、それ高かったんじゃないか?」
「お気になさらず。沢山パンをくれたお礼ですよ」
ついでに卵色の籠も返却すると、エイミの両手は荷物で完全に塞がった。
「こんなに買ってきてくれるとは思わなかったな・・・・・・待っててくれ、一旦置いてくる」
エイミは休憩所を出ると階段を駆け上がって行った。数分ほどで部屋へ戻ってくると、ようやく一息ついたのか丸椅子に腰掛ける。
「それで、豊穣の都はどうだった?収穫祭は?」
お茶を飲みながら矢継ぎ早に尋ねるエイミに、サクロヘニカは困ったように笑う。
「落ち着いて、エイミ。ちゃんと順番に話すよ」
サクロヘニカは、豊穣の国で見たものを事細かに話した。
オレンジとリーフグリーンに彩られた大地や、アリのように列を成す商隊。宝石箱を思わせる街並みの中に聳える宮殿は夕日に照らされると凄まじい威圧感を放つが、楽団の演奏する陽気な音はそれをかき消してしまうほど愉快なものだった。
比喩やジェスチャーを織り交ぜながら語られる冒険譚に、エイミはすっかり聞き入っている。フランマもサクロヘニカの言葉使いに感心しているのかじっと耳を傾けている。
「――夜市の露店はバザールと違って豪華絢爛だったよ。絵画や調度品もそうだけど、何より魔導品を売っている店まであったからね」
やや訳ありな店だったことは伏せてサクロヘニカが話すと、エイミはより一層目を輝かせた。
「魔導品だって・・・・・・?それって本当に実在してたのか?」
「しているとも。見たことないのかい?」
そう問われると、エイミは居心地が悪そうに視線を逸らし、頬を掻いた。
「だって魔導品なんて、俺みたいな平民は見ることすらできないだろ?暗澹たる夜の時代でも、魔導品を持ってる貴族は生き延びて、魔法の使えない平民は死んでいったんだって聞いたことがあるし」
今度はサクロヘニカが目を瞬かせた。
「そんな話があるのかい?」
エイミはゆるゆると首を横に振る。
「本当かどうかは知らないけど、魔導品が実在してるならそういう事もあったんじゃないか?」
サクロヘニカがフランマに視線を送れば、意図を汲み取った彼は小さく頷いた。
「確かにそのような出来事があったようです。魔力は時間とともに回復していきすが、燃料には限りがありますから」
フランマの答えにサクロヘニカは難解そうに眉をひそめると、心底不思議だと言うように口を開いた。
「魔導品を持つ者が、持たない者にもその恩恵を分け与えれば良かったんじゃないかい?何故そうしなかったんだろうか」
サクロヘニカの素朴な疑問にフランマとエイミは目を見合わせると、複雑そうな表情をした。二人の顔に影が落ちる。
「・・・・・・人というのは時に、欲に飲まれて善良性を失うことがあります。己が他者より有利な立場にいると知った時、傲慢になる者やより他者を苦しめようとする者もいるんです。それに、我が身可愛さに恩恵を独占するというのは今でもよくある話ですから」
「そうなのかい?よく分からないな」
サクロヘニカはまだ外の世界の表層に触れただけに過ぎない。その目で見たものが彼女の世界の全てである。よって、彼女にとって人間とは、単純ながらも善良で濁りのない存在なのだ。
「貴方もいつか目の当たりにするかもしれませんね」
「そうだぞ。旅を続けるなら、強盗なんかに襲われないように気をつけろよ」
先の苦労を労うような二人の視線に、サクロヘニカは困ったように眉根を下げた。
ふと、もし一人の人間が魔導品を独占してしまう事があるのなら、魔導品自体を普及させれば良いのではないかという考えがサクロヘニカの頭の隅を過ぎった。
「・・・・・・まぁ、昔のことを考えても仕方ないだろ。魔導品がなくても、ウエルネルタにはムッシュじぃさんがいるしな」
「ムッシュさんは魔法が使えますからね」
久しぶりに『魔法』――という単語が出たが、サクロヘニカは特に反応せず、心ここに在らずのように違うことを考え込んでいる。その様子に、フランマはやや驚いているようだ。
「――エイミは、魔導品が手に入るとしたらどんなものが欲しいんだい?」
真剣な面持ちで問われるとエイミは虚をつかれたような顔をした。しかし考え込むように目を閉じると眉をしかめながら思案し始めた。
「うーん・・・・・・そうだなぁ」
難しそうな表情で唸るエイミを、サクロヘニカはじっと見つめる。『人間の欲』とやらを見極めるつもりだった。
しかし、エイミの回答は善良性の模範解答そのものであった。
「パンを焼く石窯の温度を調整できるような、便利な魔導品が欲しいな。皆のために、もっと美味しいパンを焼けるようになりたいんだ」
そう言ってあっけらかんと笑うエイミにつられ、サクロヘニカは眉根を下げながら困ったように笑ったのだった。
「やっぱり、『夕暮れの雲』のパンがいちばん美味しいよ」
「それは良かった。また食べに来てくれ、ご馳走するからさ」
「えぇ、そうさせてもらいます」
エイミと共に休憩室で昼餉をとったサクロヘニカとフランマは、名残惜しそうにしながらも店を後にした。
広場の手前に停めていた馬車に乗り込むと、次は教会を目指して坂道を昇る。
「それにしても、エイミは不思議だね。彼と話してると色んなことが気にならなくなる」
「おや、貴方でも何かを気にすることがあるんですか?」
「心外だなぁ」
軽く言葉を交わしつつ道を進めば、教会にはすぐに到着した。
純白の壁と端正な塔。入口の扉の傍では、二人を待っていたかのようにムッシュが佇んでいた。その肩には黒いまだら模様の入った真っ白な猛禽が留まっている。
「おお、二人とも!よく帰ってきたのう」
「ただいま戻りました、ムッシュさん。知慧の書庫はお変わりありませんか?」
「心配せんでも大丈夫じゃよ。原初の天使様からサクロヘニカを気にする手紙が届いておるくらいじゃ」
そう言うとムッシュは肩に乗っていた猛禽の嘴を軽くつついた。鳥は苛立つように黄金の目を細めて顔を背けると、ばさりと翼を広げて飛び上がる。その足には金色の紐が巻かれ、手紙のような紙切れが括りつけてあった。
猛禽はひとたび高く飛び上がると、そのまま空に溶けるように音もなく姿を消した。一瞬の出来事に、サクロヘニカは放心気味である。
「ムッシュ、今の鳥はなんなんだい?」
「あやつはわしの
「白梟・・・・・・初めて見たよ」
サクロヘニカは感心したように呟きながら、フクロウの飛び去った方を注視している。ムッシュはその様子を愉快そうに眺めていた。
「白梟の使徒にはみな、相棒の白梟がいるんじゃ。フランマの白梟なんかは隠匿魔法の名手で、全然姿を見せないがのう」
「そうなのかい?」
二人に視線を向けられたフランマは困ったように苦笑した。
「えぇ、本当に。俺でも見つけられません」
「それは凄いね――今度そのフクロウに魔法を教わりたいな」
「・・・・・・冗談ですよね?」
ムッシュは、やけに神妙な面持ちのサクロヘニカと呆れ顔のフランマを交互に見比べると、やがて朗らかに笑った。
「二人とも、数日前より随分と打ち解けておるのう。有意義な旅だったようじゃな」
サクロヘニカとフランマは一瞬目を見合わせたが、すぐに首を横に振って否定に入った。
「まさか。まだまだサクロヘニカの考えなんて分からないままですよ」
「君、私をなんだと思ってるんだい?」
今度はフランマが深刻な表情を浮かべ、サクロヘニカが呆れた顔をする。
ムッシュはそんな二人を静かに、しかしどこか嬉しそうに眺めていた。
その日はウエルネルタの宿に泊まり、翌日の早朝に二人は街を発った。
農村ウツィナに幌馬車を残し、そこからはシュテルケ馬の背に乗って森の中を潜り抜ける。最初は陰鬱に思えた森も、木の葉のさざめきや小鳥の鳴き声を聞いているうちに案外悪くないと思い始めた。
先を進むにつれて、次第に木々の隙間から建物の影が見え始める。
目眩しの魔法が弱まり視界が明瞭になった頃、二人は知慧の箱庭の玄関口となる正門へと辿り着いた。
馬を降りて精巧な彫刻が施された門を通り抜けると、そこには自然豊かな庭園が広がる。美しい庭園の奥には、石造りの巨大な建築物が悠然と立ち尽くしていた。
美しいガラス窓がシンメトリーに並び、幻想的なアーチが知慧の崇高さを感じさせる。
厳粛な雰囲気を湛えているそれは、天界の知識と記録の結晶。知慧の大図書館である。
旅に出るまでサクロヘニカは建物の外観なぞに微塵も興味はなかったが、じっくりとそれを観察すれば趣向を凝らした門柱のほか、フクロウや植物をモチーフとした繊細な彫刻が数多く見て取れた。
ウエルネルタや豊穣の国の建築群を卑下する訳では無いが、精巧さでは群を抜いているように感じる。
「サクロヘニカ、荷物を降ろしたらもうシュテルケ馬を離しても大丈夫ですよ。自分で厩舎に戻りますから」
「あぁ、分かった。君たちもご苦労だったね」
長い旅の間、ずっとサクロヘニカを乗せて幌馬車を引いてくれたシュテルケ馬に労いの言葉を掛ければ、彼はフンッと得意気に鼻息を吐くと庭園の外へゆったり歩き始めた。
そんな芦毛の背中を見送っていた時。――ふわりと何かが舞い降りた。
箱庭の守り人であるクラゲ。ラフィイルだ。
「おや、ラフィイル。迎えに来てくれたのかい?」
ラフィイルは二人を歓迎するようにふわっと一回転すると、やがて図書館の方へ漂っていく。原初の天使の元まで案内してくれるのだろう。
「俺は荷物を置いてきます。二人は先に行っていてください」
そう言うと、フランマは大図書館の右手にある緑に覆われた屋敷へ向かった。そこはかつて学者や使用人の住居であった場所だ。なお今はフランマとサクロヘニカがほぼ独占している。
「じゃあ、私たちだけで先に行こうか。先導してくれるかな」
優しく語りかければ、ラフィイルは再び図書館へと漂い始めた。
サクロヘニカは庭園に咲き誇る小さな花を眺めながら、ゆったりとした足取りで原初の天使の元に向かった。
「先生、ただいま――って、凄い有様だ・・・・・・」
ラフィイルに案内された書斎へノックもせず踏み込めば、そこには膨大な数の本が積み上げられていた。
本を倒さないようにしつつ書斎の奥を覗くと、書斎机の周りには無数のクラゲがゆらゆらと漂っていた。その渦の中心、いつも原初の天使が仕事をしている場所にはいつもと変わらない――いや、少々疲れていそうなその人が居た。
周囲のクラゲ(ラフィイルの“妹たち”らしい)は原初の天使に休息をとってほしいのか、どこか不安げな様子だ。そういえばいつかの夜、フランマが寝言で『主・・・・・・休息を・・・・・・』とか言っていたのを思い出す。
サクロヘニカは本の塔を避けながら書斎机の前に立つと、原初の天使の手元から本を抜き取った。
「先生、いい加減休まないとラフィイルが可哀想だ」
「・・・・・・サクロヘニカ、帰ってきていたんだね」
どこかぼんやりとした様子の原初の天使に、サクロヘニカは思わずため息をつく。
「まさか、私が箱庭を出てからずっと“記録”してたのかい?」
「少し仕事が溜まっていたからね」
「少しだって?」
いま一度部屋を見渡したサクロヘニカは、再び盛大なため息をついた。部屋を埋め尽くさんとする本の数々は、どこをどう切りとっても少しではない。
「はぁ、まぁいいや。後でフランマが片付けるだろうし・・・・・・それよりも、先生に見せたいものがあるんだ」
サクロヘニカは隠し持っていた小物入れを書斎机の上に置くと、原初の天使の手元へスルリと滑らせた。
「これは?」
「開けてからのお楽しみだよ」
原初の天使は小物入れを手に取ると、疑り深く蓋を開ける。そうして中を見ると、彼女は目を瞬いた。
「宝石・・・・・・?」
「慧靄石だよ。偶然バザールで見掛けてね」
原初の天使は慎重に宝石を手に取る。白手袋越しの指先で輪郭をなぞるように触れると、二種の蒼碧が煌めいた。
「・・・・・・珍しい宝石だね。実際に手に取るのは私も初めてだ」
原初の天使は感心したように宝石を眺める。それだけで様になるのだから、やはりこの宝石を選んで正解だったようだ。
――と思いきや、原初の天使は宝石を小物入れに戻すと、サクロヘニカの方へ差し出した。
「君が魔法以外に興味を持てたのは良いことだ。後で宝石入れを渡しておくから、大切に手入れするんだよ」
「・・・・・・うん?いや、それは先生へのお土産だよ」
「・・・・・・・・・・・・私へ?」
原初の天使が目に見えて困惑している。普段の仏頂面は影を潜めている、珍しい姿だ。
「先生に似合うと思って選んだんだ。良かったら受け取ってよ」
困ったように微笑めば、原初の天使は驚いたように目を開いた。
「君――――いや、なんでもない。ありがとう、受け取らせてもらうよ」
何か言いかけながらも、原初の天使は素直に感謝の気持ちを述べた。その顔にはいつもの仏頂面が戻っている。
「どういたしまして、先生」
サクロヘニカは軽くウインクしてみせると、ふと何かを思い出したかのように言葉を紡いだ。
「そうだ、そろそろフランマが来る頃じゃないかな?荷物を置きに行ってたはずだけど――」
丁度その時、部屋に規則正しいノックの音が響く。フランマだ。
「入ってもよろしいでしょうか」
「構わないよ」
失礼します、と礼をしながら扉を開いたフランマは、書斎に広がる惨状に一瞬唖然とした。次いで目頭を抑えると、深く長いため息をつく。
「主・・・・・・ちゃんと休んでくださいと言いましたよね?」
「・・・・・・すまない」
主人に対して全く物怖じしないフランマの剣幕に、原初の天使どころかサクロヘニカまで気圧される。
「まぁまぁ、折角帰ってきたんだしお説教は今度にしようよ」
サクロヘニカに窘められ、フランマは渋々説教の言葉を飲み込んだ。というのも、フランマは今回の旅路の報告をするために書斎を訪れたのである。長々とお説教する訳にはいかない。
「――では、今回の記録を報告します」
フランマは道中で立ち寄った街や、街道の様子。豊穣の国の近況やバザールで売買されている品の傾向などを淡々と報告した。
一応、収穫祭の様子を記録するという体裁で旅をしていたことをサクロヘニカは今更思い出す。
「そしてバザールを巡っていた時のことですが・・・・・・サクロヘニカが慧靄石を気に入ったようで、店主と値段交渉をしていました。その際、砕けた宝石を甦らせる再生魔法を容易く使っていました」
「再生魔法・・・・・・教えた覚えは無いけれど」
口元に手を当て思案する原初の天使に、サクロヘニカは平然と答える。
「この間、先生が魔法で別館の壁を直してただろう?その時に覚えた」
「・・・・・・なるほど、優秀な生徒で何よりだよ」
サクロヘニカの秘める優秀さと危険性に、彼女の師は軽く頭を抱えた。しかしすぐに顔を上げると、じっとサクロヘニカを見据える。その目元が、少し緩んだのが見えた。
「何にせよ、君が無事に帰ってきてよかった」
――先生からの労いの言葉に、サクロヘニカは目を丸くする。そして、ふっと目元を緩めると、安心したように笑んだ。
「うん。ただいま」
――箱庭には再び、黎明のような存在が帰還したのだった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
【ラフィイルの“妹たち”】
生命の力を司るラフィイルは、自身と同じ記憶/性質を持つ存在を生み出すことができる。
そうして生み出されたクラゲたちはラフィイルの“妹たち”と呼ばれ、ラフィイルや原初の天使のために本の整頓などの仕事をお手伝いしている。
また、ラフィイルは非常に脆く短命であるため簡単に命を落としてしまうが、“妹たち”が居る限り天界からラフィイルの存在が失われることはない。
【別館】
大図書館に隣接している石造りの屋敷。壁はツタや花で覆われ、庭園と同化したような外観になっている。
かつては学者や使用人が暮らしていたが、箱庭の戸が閉ざされて以降はほとんど使われていない。
屋敷は三階建てで、一階には玄関ホールや応接間、食事室、浴室がある。
二階は居間と書斎の他、楽器や遊戯を楽しむためのホビールームや、魔法について研究するための研究室も備え付けられている。
三階には幾つかの私室が設けられ、地下には厨房や使用人室、食料庫がある。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます