第三章 収穫祭
丘陵の街ウエルネルタを後にした二人は、豊穣の国へ繋がる街道を目指して馬車を走らせていた。
幌馬車を操縦しているのは相変わらずフランマで、サクロヘニカは荷台で頬杖をつきながらゆったりと寛いでいる。
フランマの鳩羽色の翼を眺めつつ、サクロヘニカはさきほど街の外れまで見送りに来てくれたムッシュやエイミの姿を思い浮かべていた。
彼らは、サクロヘニカに新たな知見をもたらしてくれた。脆く短命な人間でありながら、二人はそれぞれ夢に向かって邁進していたのだ。
春の太陽のように輝き、冷えきってしまった世界に温もりを与えるかけがえのない存在であった。
今までサクロヘニカは、人間とはもっと単純で似たり寄ったりな生物だと思っていた。少なくとも最初に出会った人間たちは、凡そそんな感じだったのだ。
―それはこの世に生を受けたばかりで、ただ無知蒙昧に暮らしていた頃。
何の気なしに木々の合間を潜り抜けていけば、開けた土地に出たことがある。そこは、人間の集落であった。
突如として現れた巨大な角を持つ漆黒の神獣を前にした時、人間たちの反応は至って単純である。誰も彼も震え上がり、叫び声を上げながら散り散りになっていき一晩で一つの集落がもぬけの殻になった。
それ以来サクロヘニカは、人間と関わるのを避けていた。『魔法』という概念と出会い、張り裂けるような期待感を覚えたその時までは。
――馬車に揺られて四時間ほど。暇を持て余したサクロヘニカはおもむろに卵色の籠に手を伸ばし、『エイミ白パン』を手に取る。
エイミに読み書きを教えたのはただの気紛れであったが、満足して去ろうとするサクロヘニカを必死に呼び止めて「お礼をさせて欲しい」と差し出されたのがこのパンだった。
試しに受け取って食べてみれば思っていたより悪くない味で、つい他のパンは無いのか強請ってしまった。丘陵パンや香草パンも良かったが、やはりこれが一番気に入っている。
少し冷めたそれをちぎって、口の中に入れる。ふわふわとして柔らかい。このパンを口にしてから、食事も案外悪くないと考えを改めた。
「フランマ、あとどれ位で着くんだい?」
「午後には豊穣の国の領土へ着きます。それからさらに都へ向かうので、シュテルケ馬の体力でも到着は三日後になるでしょうね」
フランマは日の高さを見ながらそう言うと、やがて前方を指差した。
「ほら、プレリエ街道が見えてきましたよ」
「そうかい・・・・・・って凄い賑わいだね」
一面に広がるなだらかな平原の奥に、一際賑わっている場所が見える。先程までは時折すれ違う程度だった馬車が、そこでは列を成すように行進していた。どの馬車も目指すは東方、豊穣の国である。
「プレリエ街道は調和の国と豊穣の国を繋ぐ交易路なので、収穫祭の時期は大いに賑わいます。多少混んでいますが我慢してくださいね」
交易路ということは、列を成す人々のほとんどが商人たちなのだろうか。これ程の数の人間が遠方から集い、一つの街で品物を売り買いしているとは。
豊穣の都が一体どれほど賑やかなのか、未だ想像しがたい。
やがて街道に合流すると、嗅ぎ慣れない匂いや聞き慣れない音が辺りに飽和していた。なんとも言えない独特な香りに顔を顰めると、フランマが何らかの魔法を使ったようで一瞬にして幌馬車の周囲の空気が澄んだ。
「フランマ、今」
「箱庭に戻ってから教えますよ」
「・・・・・・」
それは一瞬の出来事でどのような魔法だったのか分からず、サクロヘニカは釈然としないまま馬車に揺られていた。
一時間ほど経った頃、未だに不服そうなサクロヘニカにフランマが声をかけた。
「ほら、ここから豊穣の国に入りますよ」
「本当かい!」
荷台から身を乗り出せば、爽やかな秋風がすぐ側を吹き抜けた。
・・・・・・一面に広がる、リーフグリーンとオレンジの大地。
柵で囲われた大規模な畑の傍らには赤茶色の小屋が立ち並び、大きな袋を抱えた人や農作具の手入れをする人の姿が見える。豊穣の国を縦断する大河から引かれた清澄な水が、水路を通って畑の間を流れていく。
それがほんの一角ならば良かったが、驚いたことにその景色は先が見えないほど続いていた。ウエルネルタの白雲麦畑が霞んで見える。
何を育てているのかフランマに問えば、イモ類やカボチャ、その他根菜類から葉菜類まで多岐に渡るのだという。一つの区画でここまで多種多様な作物を育てられるのは、ここが豊穣の国だからこそだろうか。
「なるほど、これはエイミが興奮するわけだ」
「驚くのは早いですよ。ここはまだ僻地ですから」
「これで僻地なんだね・・・・・・」
サクロヘニカはフランマのいる御者台の隣へ座ると、心なしか楽しげなフランマの様子を横目に見ながら景色を堪能した。
途中宿駅で馬を休ませつつ、畑に取り巻かれた街道を進む。一部の区画では野菜の代わりに赤橙色の花が畑一面に植えらえており、突風が吹くと華やかな花弁が天へと舞い上がって街道に賑わいをもたらした。
夜は宿で休息をとり、先を急ぐように早朝から街道を進んだ。なお、その間にサクロヘニカはエイミ白パンを見事完食した。
――馬車に揺られて三日目。フランマによれば、道が混んでいても今日の夕方には都へ辿り着くだろうとのこと。
街道を行く馬車や商隊の数は次々と増え、次第に賑やかさが増していく。夕暮れが近付くにつれて空や大地が茜色に染まり始める。
そろそろ着くか、とサクロヘニカが独り言ちた頃、前を行く荷馬車越しに大きな影が見えた。
よく目を凝らせば、それは一つの巨大な街である。
大小様々な邸宅が泰然と立ち並び、街の中心部へ向かうほどそれらは多層な建築に変化していく。
赤朽葉色をしたテラコッタの壁。それを縁取るように、草花を模した白い模様が入っている。装飾品を入れる四角い箱のような建築群は、箱庭ともウエルネルタとも違う独特の風情を醸し出している。
そんな奇抜な街並みの中央に聳える、一際目を引く巨大な建物があった。
ベージュ色の壁にはいくつものアーチや塔があしらわれ、赤橙色の屋根は膨らんだようなドーム状をしている。壁には瀟洒な窓が整然と並び、それを縁取るアラベスク模様が刻まれていた。
沈みゆく夕日に照らされ、異様な空気を放っている。
「フランマ、あれは?」
「あれはヴェストレ宮殿。豊穣の神ベト・ヴェスティアが建てたもので、豊穣の都のランドマークです。宮殿の一角には知慧の書庫もありますよ」
ヴェストレ宮殿と呼ばれたそれは、まさに豊穣と繁栄の象徴を思わせた。街へ近づくにつれ迫力を増していく宮殿に、サクロヘニカは目を奪われた。
二人を乗せた馬車は、時折詰まりながらも市街へと辿り着く。大型馬車がゆうに二台は通るであろう大通りは人で溢れかえっていた。
目に染みる香料の香りと、どこからか聞こえる快活な笑い声。人々の喧騒が肌を震わせる。
「――サクロヘニカ、大丈夫ですか?」
茫然と街を眺めるサクロヘニカの意識は、フランマの声によってようやく引き戻された。
「疲れているようですし、ひとまずガルア通りにある宿へ向かいましょう。料理が美味しいと評判なんですよ」
「へぇ、それは楽しみだ」
街の雰囲気に飲まれそうになりながらそう返答すれば、フランマはサクロヘニカを気にかけつつも大通りから逸れた街の北東へ馬車を向かわせた。
辺りが薄暗くなった頃、馬車は目的の宿に到着した。
その外観はテラコッタの塀で囲まれただけの無愛想な様相であったが、中へ入ってみれば美しく植物が植えられた見目の良い中庭が二人を出迎えた。
庭を鑑賞しながら馬車を降りると、ふいに何者かに声を掛けられる。
「お待ちしておりました。フランマ様ですね」
声のした方を見れば、一人の女性が立っていた。
礼儀正しく両手を胸の下で重ね、柔和な笑みを浮かべている。その首元には、南瓜の形をした首飾りが下げられている。
「お出迎えありがとうございます。休息の前に食事を取りたいのですが、食事室はどちらでしょうか」
フランマが尋ねれば、女性は中庭の右側を示した。どうやら、もう既に食事が用意してあるらしい。
女性に礼を告げ、二人は食事室へと向かった。短い廊下を抜けて暖かな光が漏れ出る部屋に入ると、途端に食欲をそそる香りが鼻腔を抜けた。
部屋の中は相応な広さで、食事を楽しむ人々で賑わっている。アカシアの長テーブルに丸椅子が添えられ、机上には燭台や丸皿が並べられていた。
適当に空いていた席に座ると、すぐさま料理が運ばれてくる。
赤豆と鶏肉のスープに、野菜が詰められた薄手のパン。謎のペースト状のものから、緑色の揚げ物まで。机上に並んだそのどれもが、サクロヘニカにとって全く未知のものであった。サクロヘニカは困惑しながらフランマに目配せする。
「フランマ、私にはどれをどう食べたらいいのかさっぱり分からないんだけど・・・・・・」
「安心してください。俺と同じように食べれば大丈夫ですよ」
そう言うとフランマは木製のスプーンを手に取り、まずはスープを口に運んだ。サクロヘニカもそれに続く。
「・・・・・・うん?意外と悪くないね、これ」
口の中で赤豆のぷちぷちとした食感と鶏肉の旨みが合わさって、絶妙なバランスになっていく。次に具がたっぷり詰まったパンを口に運んでみると、シャキシャキとした葉野菜と肉厚なトマトの風味が口いっぱいに広まった。
表情には出さないようにしつつも、サクロヘニカは密かに感激していた。
「どうです、口に合いましたか?」
「うん。悪くないね」
素っ気なく返事しつつも、サクロヘニカは並べられた料理を次々と口に運んでいく。白いペースト状のそれはとろとろに煮込まれた野菜だったようで、濃厚で口当たりが良い。緑の揚げ物は豆を使ったものであり、非常に香り豊かだ。
フランマはスープを飲みながらその様子をじっと眺めていた。やがて器を置いて一息つくと、優しげな声色でサクロヘニカに微笑みかけた。
フランマにしては珍しい、柔らかい笑顔だ。
「――どの料理も美味しいですね、サクロヘニカ」
『美味しい』という単語を聞いたサクロヘニカは一瞬目を丸くすると、やがて納得したように呟いた。
「そうだね・・・・・・とても美味しいよ」
そう答えて食事を再開したサクロヘニカを、フランマはホッとしたように見守っていた。
その後も食事はつつがなく進んでゆき、全ての皿を空にすると二人は食事室を後にした。
木製の鍵を受け取り部屋へ入れば、入ってすぐのところに二つの寝台が並んでいた。サイドテーブルの上には籠が置かれ、夜食用なのか小麦のパンが二つ入っている。
部屋の右奥にはラタン製の椅子が置かれ、足元には赤い手織りのカーペットが敷かれている。こじんまりとした内装だ。
部屋に着くや否や、フランマは疲れていたのか軽く伸びをした。持参していた櫛で髪と羽毛を簡単に梳くと、「俺はもう眠りますね」とサクロヘニカに声を掛けてさっさとベッドに入っていった。三日間も馬車を走らせていたのだから無理もない。
サクロヘニカはフランマを起こさないよう、慎重にもう片方のベッドに横たわる。
神獣であるサクロヘニカとて、真新しいものに触れて美味しいものを食べると、満足感と共に眠気を感じた。
ふわりと欠伸をして、サクロヘニカはそっと目を閉じた。
翌朝、先に目覚めたのはサクロヘニカであった。
寝癖でぼさぼさになったフランマの髪と翼を眺めながら朝の支度をしていると、次いでフランマが目を覚ます。目を擦りながら起き上がりサクロヘニカを見つけると、幽霊を見たような驚きの眼差しを向けた。
「・・・・・・サクロヘニカ、もしかして一晩中部屋にいたんですか?」
「そんなに変かい?私だって眠くなることはあるさ。それに、一人で街を歩いても寂しいだけだからね」
「えっ」
今度こそフランマは目を剥いた。サクロヘニカといえば昼夜問わず研究や探索に没頭する疲れ知らずで、その上孤高の精神を持つサクロヘニカが建前だとしても『寂しい』と言ったのは初めてだ。
目に見えて動揺するフランマに、サクロヘニカは眉をひそめて不満を顕にした。
「目が覚めたなら、その生まれたての雛みたいな毛並みを整えなよ。やけに外が賑やかだから、早く様子を見に行こう」
「生まれたての雛って・・・・・・俺の方が貴方より年上ですよ」
フランマの小言を無視し、サクロヘニカはサイドテーブルから小麦のパンを一つ掴みだして部屋を出た。
廊下で簡単な朝食をとりながらフランマを待つ。小麦のパンは白雲麦よりも雑味が少なく、食べやすい。
少し経ったころ、サクロヘニカと同じく小麦のパンを食べながら、身なりを整えたフランマが現れた。
その背中に羽織っているのは、これまで荷物の一部になっていた純白のケープだ。
「それで、収穫祭ってどんなものなんだい?」
サクロヘニカが問いかけると、フランマはパンを頬張りながら小さく唸った。
「・・・・・・収穫祭は都の南東にあるバザールで開かれます。かなりの人集りでしょうから、揉め事を起こさないように気を付けてくださいね」
遠回しに大人しくしていろと言われ、サクロヘニカはまた一つため息を零す。
「分かっているよ。私だって馬鹿じゃない。先生に迷惑をかける訳にもいかないしね」
「だといいですが」
「もう説教は要らないよ。行こう」
フランマがパンを食べ終えた頃を見計らって、サクロヘニカは宿の外へと歩き始める。フランマが付いてきていることを確認すると、そっと足を早めた。
宿を出た二人は徒歩でバザールへと向かった。喧騒が近付くにつれ、すれ違う人々の数も増えていく。
混然とした街並みを暫く歩いているうちに、二人は収穫祭が行われているという場所に到着した。
バザールから溢れ出る熱気に、思わずサクロヘニカは瞠目する。
「凄い人だ」
バザールの前に繋がるやや広幅に取られた街路は、大勢の観光客や商人で大いに賑わっていた。
その奥、バザールを覆うようにして建てられた回廊の天井部分には木製の梁が渡され、その上から赤やオレンジの帆布が掛けられている。
回廊の中では種々雑多な商店や工房が軒を連ね、時折曲がりながらも奥深くまで続いていた。
年に一度の収穫祭というだけあって人々の熱狂ぶりは凄まじく、どこもかしこもバカ騒ぎしている。
夥しい人の数を前にして、珍しくサクロヘニカは気後れしていた。
道端に佇むサクロヘニカ達を物珍しそうに眺める視線に、居心地が悪くなる。隠匿魔法を使わずにいるためか、やはり二人は周囲の目を惹いた。
「フランマ、ここに入るのかい?私は君と違って、あまりこういった文化に詳しくないんだけど」
「誰しも、初めからバザールの歩き方を知っている訳じゃありませんよ」
フランマは動じることなく答える。その瞳にはいつも通りの冷静さが見て取れる。
「不安なら、俺の後ろに着いていてください。白梟の使徒に手を出そうとする者はそうそう居ませんから」
フランマはそう言うと、サクロヘニカに背を向けてバザールへと歩みを進めた。純白のケープの下で鳩羽色の翼が揺れている。
置いていかれる訳にも行かず、サクロヘニカは渋々その後ろに着いて行った。
――人で溢れかえるバザールへ一歩踏み込めば、一瞬にして世界が変わったような感覚がした。
入ってすぐの店ではオレンジ色に輝く南瓜が山のように積まれており、そのすぐ横に並ぶリーフグリーンの葉野菜とのコントラストに目がチカチカと眩む。
向かいの工房では色とりどりのオイルランプが所狭しと飾られ、天井からは持ち運び用のランタンが疎らに吊り下げられている。
喧騒に負けじと足を進めるごとに、そこには新たな世界が広がっていく。
鮮やかな食器を売る店もあれば、土でできたお守りのようなものを売る店もある。新鮮な果物が木箱を埋めつくし、どこからかツンと鼻を刺す不思議な香りがする。壁一面に赤やオレンジの絨毯が吊るされた店では、店主と客が値段交渉をしている。
「まるで世界が一つの箱の中に押し込められたみたいだ」
「なんですか、それ」
「そのままの意味だよ、フランマ」
すっかり気を取り直したサクロヘニカはフランマの隣に並ぶと、好奇心に目を輝かせながらバザールを巡り始めた。
知らない人、知らない物、知らない文化。
知らない香りに、知らない音。
――ふと、サクロヘニカの目にあるものが留まった。かぎ針編みの小物入れにひっそりと入れられたそれは、赤やオレンジに彩られた回廊には似合わない、澄んだ空色と紺碧を宿した宝石だった。
「店主、これは?」
店の前の椅子に腰掛けていた壮年の女性に声を掛けると、その人物は「あらあら」と声を出しながら驚いたように立ち上がった。その視線はサクロヘニカの後ろ、フランマの方へ向けられている。
「白梟の使徒様とお連れの方がいらっしゃるなんて・・・・・・ああ、そうそう、この宝石ですね」
驚嘆して目を瞬かせながらも、女性はサクロヘニカの手元にある宝石に視線を移した。
「これは
慧靄石と呼ばれたそれは、帆布の隙間から入り込む秋陽に照らされて、主張するように青々と煌めいていた。
「とても希少な石で、
「へぇ、朝靄か・・・・・・」
思慮深さと繊細さ、そして謙虚さを感じる、二種類の蒼碧が混ざりあった宝石。
サクロヘニカの頭にはある一人の人物が浮かんだ。
「この宝石の値段は?」
「えぇ、こちらは五○○ルブルになります」
五○○ルブル。サクロヘニカにはどの程度の価値なのか分からないが、後ろにいたフランマが一瞬変な声を上げたので恐らくかなり高価なのだろう。
「もう少しまけてくれないかな?」
先程絨毯を値引きしていた者と同じセリフを使ってみる。
「そうですねぇ、これでもギリギリなんですが・・・・・・」
「じゃあ、大目に見て四○○ルブルはどうだい?」
サクロヘニカが強気に切り込む。かなりの差額に、店主は怪訝な顔をした。
「それは厳しいですねぇ。せめて四八○ルブルはないと」
「そうなのかい?さっき通りがかった店では、これと良く似た宝石が三○○ルブルだったよ」
「心苦しいですが、こちらの宝石の価値は他と比べられないほど高いものでしてね」
「じゃあ、四六○ブル。それでダメなら今回は諦めて別の店で探すよ」
じわじわとした探り合い。店主は難しそうな顔で考え込んでいる。
「・・・・・・原初の天使様への敬慕も込めて、四六○ルブルで手を打ちましょう。しかしこれ以上は決して譲りません」
店主はキッパリ言い切った。これ以上の値下げは望めそうにない。
ひそかにフランマへ目配せすると、彼は渋い顔で首を横に振った。予算オーバーのようだ。
「うーん、そうだね・・・・・・」
何か方法はないかと思案している時、店主の首から小さな瓶が吊り下げられているのが目に入った。
中に入れられている小粒の宝石はひどく荒削りで、一つの宝石だったものが粉々になった姿にも思えた。
「失礼だけど、その首元の小瓶は?」
「あぁ、これですか」
店主は指で小瓶を摘みあげると、ばつが悪そうに苦笑した。
――曰く、それは先祖代々受け継がれてきた宝石で、
暗澹たる夜の時代に採掘されたとても珍しい石で、魔力を流し込むと淡く発光することから貴重な光源として人々に大切にされてきた。
「ですが・・・・・・」と、店主は暗い顔をして目を伏せる。
ある時、その希少性ゆえに暗澹の最中で月煌石を巡る諍いが起きた。この月煌石は、その際に割れてしまったのだ。
先祖たちはそれを訓戒にするために、砕けた破片をかき集め瓶へ詰めたという。
「へぇ、そんなことが・・・・・・」
その話を聞いて、サクロヘニカにある妙案が浮かんだ。フランマに怒られる可能性も否めないが、他に方法は思いつかない。
「店主さん、もし良ければ私にその宝石を蘇らせてもらえないかな」
「・・・・・・はい?どう意味です?」
「もちろん、そのままの意味だ」
困惑の表情を浮かべる店主に、なるべく穏やかな声色を意識しながら説明する。
「私は原初の天使の弟子でね、魔法への造詣が深いんだ。もしかしたら砕ける前の姿を取り戻せるかもしれない」
魔法、と聞いた店主は目をぱちくりさせた。
「本当ですか?」
今のところフランマが止めようとする気配は無い。それを是と捉えて、サクロヘニカは店主に手を差し伸べる。
店主は戸惑いながらも首から小瓶を外すと、おずおずとサクロヘニカの掌に乗せた。
ここまでくれば勝利は目前だ。
蓋を開けた瓶を傾けて、宝石の破片を左手の上に取り出す。
――ふいに不敵な笑みを浮かべたサクロヘニカに、フランマが警戒を強める。
日頃表情の乏しいサクロヘニカが笑う時、それも特に魔法と関連している時は何が起こるか分からないのだ。
「・・・・・・先生が見たらきっと驚くね」
サクロヘニカは破片に右手をかざすと、力を込めるようにグッと指先を曲げた。
体を巡る魔力、空気を揺るがす魔力を掌握する。
ドクドクと波打つそれを手元に集中させる。
原理を理解さえすれば、魔法とは簡単なものだ。壊れたものを元に戻すには、失われた虚像を探り当てる必要がある。
ラヴェンダーの瞳が妖しく光る。空気が震え、辺りが暗くなったように感じる。
カチ・・・・・・
宝石が、音を立てて形を取り戻す。
カチ・・・・・・カチン
瞬く間に宝石は真の姿を取り戻した。
サクロヘニカの手の上には砕けた宝石の破片ではなく、煌々と光を帯びるライムイエローの月煌石が鎮座していた。
「はい、どうぞ。こんなに綺麗な宝石だったんだね」
サクロヘニカに月煌石を差し出され、店主はハッとしたようにそれを受け取る。
まじまじと宝石を眺めると、感嘆の息を漏らした。
「本当に、ありがとうございます。感謝してもしきれません。どうやら、本当に原初の天使様のお弟子さんだったようですね」
その目には微かに透明の雫が浮かんでいる。
「ここまでして下さったのですから、恩返しをしなければなりませんね。タダという訳には行きませんが、二○○ルブルまでならお値下げできます」
二○○ルブル。かなり値切れたのでは無いだろうか。
隣のフランマを見れば、一瞬複雑そうな表情をしたものの、ため息をつきながら眉根を下げて苦笑した。これは了承の合図だ。
「買わせてもらおう」
「はい、毎度ありがとうございます」
支払いはフランマに任せ、サクロヘニカは宝石を手に取った。
朝靄の中に現れる、貴婦人のような気高さを持つ慧靄石。それを目の高さに掲げて中を覗き込めば、深く澄んだ青がサクロヘニカを見つめ返した。
「サクロヘニカ、そろそろ行きましょうか」
フランマに促され、サクロヘニカはようやく宝石を小物入れに仕舞った。
有意義な買い物を終えて二人は店を後にする。しかし、数歩進んだ所で、サクロヘニカは思い出したかのように店主の方を振り返った。
「そういえば、名前を聞いても?」
そう問われた店主は、蘇った月煌石を優しく真綿に包みながら答えた。
「私はカルネーサと申します。またバザールへ来る機会がありましたら、ぜひここへお立ち寄りください」
「あぁ、そうさせてもらう。またね、カルネーサ」
カルネーサは胸で手を重ねながら頭を下げ、二人が人混みに紛れて見えなくなるまで見送った。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
【
大地の国でのみ採掘される、朝靄の中にしか現れない幻の宝石。
夜明けの静けさを彷彿とさせる蒼碧は知慧の象徴とされ、学者や研究者に愛されている。
モース硬度は8。非常に頑丈で、装飾品として身に付けることが出来る。
後に『
【
魔力を流し込むことで作動する、特殊なカラクリ。
魔法を扱うことが出来ない人間でも魔法の恩恵を受けることができる貴重な品で、天界において最も高価なものの一つ。
使用する際には魔力を消費するため、長時間使用すると魔力が底を尽き頭痛や眩暈を引き起こすという欠点がある。
製造方法が確立されておらず、魔法を扱うことのできる特別な職人達が一つ一つ時間を掛けて創り上げている。
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