第二章 世界に触れる時

 夏が過ぎ去り、実りの秋が始まる。

 豊かな実りは人々に安らぎを与え、暗澹たる傷跡を優しく癒していく。


 一方その頃、原初の天使はというと神獣であるサクロヘニカに人々の作法や規則、常識を教えることにやや苦戦していた。

 サクロヘニカは魔法以外に微塵も興味を示さない。そしてそれは人々や俗世への無関心となり、その視野を狭めてしまっている。

 原初の天使は考えた末、新たな一手を打つことに決めた。



「――秋が終わるまで、魔法に関する授業は休講だ」



 開口一番。突然の休暇宣言に、サクロヘニカは卒倒しそうになっていた。

「・・・・・・えっと、理由を聞いても?」

「君には休息が必要だと考えた」

 休息。それは身体や精神の脆い下位種族が必要とするものだったはず。

「心外だな。私は神獣だよ」

 目を細め苛立ちを露わにするサクロヘニカとは対照的に、原初の天使はいつも通り淡々としている。

「休息と言っても、ここに籠っているだけではつまらないだろう。フランマと共に、外の世界に触れてきなさい」

 原初の天使から見ると、サクロヘニカは聡明な研究者であり教えたことを直ぐに身につける秀才でもある。あっという間に自然な言葉遣いや仕草を覚えたことから、原初の天使は彼女を多様な文化に触れさせようと思い立ったのだろう。

「外の世界って・・・・・・」

 秀麗な顔を歪め、サクロヘニカは唸る。

 外に行ったって、荒地と海と人間の住処しかないだろう。自分が求める知識は全てこの箱庭にあるというのに、暗に出て行けと言われるのは誠に心外だ。

 反論しようとサクロヘニカが口を開くも、それは原初の天使の言葉によって阻止された。

「――私の教え子を辞めたいのなら、反論するといい」

 サクロヘニカは黙るしか無かった。





 サクロヘニカは原初の天使に下された休暇命令によって、フランマと共に豊穣の都・ベトヴェストレへ向かうこととなった。

 豊穣の国の秋は、各地で盛大な収穫祭が開かれる。フランマと共にそれを巡りつつ、原初の天使の遣いとしてその様子を記録することがサクロヘニカに課せられた。

 旅支度をしている間のサクロヘニカは、外では神獣の姿になってはいけないこと、問題を起こさないためにもフランマの言うことをしっかり聞くことなど幾度となく釘を刺された。


 ――そして、数日後の早朝。

 サクロヘニカとフランマは、見栄えしない景色の中を芦毛のシュテルケ馬の背に乗って進んでいた。

 揺れる木々や飛び立っていく小鳥には目もくれず、サクロヘニカは何度目かも分からないため息をつく。

「・・・・・・ねぇ、フランマ。先生はどうして私を追い出したと思う?」

「原初の天使様は、貴方の見識を広めたいのでしょうね」

 先導するフランマは振り向きもせず、鳩羽色の翼をすくめてみせた。フランマとしても、面倒事を押し付けられて内心穏やかでは無いのだろう。

 黙々と木々の間を進む。複雑な道を迷わず突き進むフランマに、サクロヘニカは眉をしかめた。

 知慧の箱庭は、大部分を森に覆い隠されている。

 森の中を縫うように複雑に絡み合った道にはなんの道標もなく、普通に入っても迷子になるか元の場所へ戻ってしまうのだという。

 フランマは白梟の使徒である。それは原初の天使に無類の信頼を寄せられている証であり、この森に仕掛けられた目眩しの魔法を掻い潜る術を原初の天使から教わっているという証だ。

「・・・・・・先生の授業は、出し惜しみばかりで嫌になるよ」

 再びため息をつきながら、サクロヘニカは果てしない曇天へ独りごちた。


 陰鬱な森を抜けて目眩しの魔法が途切れると、やがて木々の合間を縫うような道が見えてきた。

 人の手によって切り開かれた道はなだらかで、サクロヘニカ達を乗せた幻獣も先程より機嫌が良さそうだ。

「昼頃には近くの村に着くはずです。着いたら馬車に乗り換えて、休みつつ豊穣の国に向かいましょう」

 つまらなそうに手網を握るサクロヘニカを見かねて、フランマが穏やかな声色で告げる。サクロヘニカは応えることなくその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。

 少し前方を行くフランマの馬には、いくつか荷が積まれている。旅に必要なものだそうだが興味がなかったため、詳しくは見ていない。

 何だか全てがくだらなく感じてきた。

 豊穣の国を一目見たらさっさと帰ろう。

 そう心に決め、サクロヘニカは馬を進めた。



 いつしか雲は流れ去り、太陽が頂点を指す頃。二人はこじんまりとした山村へ到着した。

 植林によって蘇った森に囲まれた、ウツィナという農村である。

 村の周囲には果樹園が広がり、何処からか川のせせらぎが聞こえてくる。

 村の中央には小さな時計塔が建てられ、それを囲うように石畳の道が円状に敷かれている。道に沿うように木造の民家が並び、その傍らには水を運んだり薪を作ったりしている人の姿がある。

 サクロヘニカがこれほど近くで人の姿を見るのは久々だったが、相変わらず何を考えているのか分からなくて気味が悪いという印象だ。

 人間や獣人の村民たちが道端で談笑している横を通り抜け、村の端にある厩舎へ向かう。

 随分と人目を惹きそうな風貌の2人であったが、白梟の使徒が得意とする隠匿魔法によって村民たちに気取られることなく目的地に着くことができた。

 目的地に着く頃には、サクロヘニカの関心はフランマとその魔法だけに向けられていた。

「便利な魔法だね。私にも教えてくれないかな?」

「すみませんが、俺は貴方の先生じゃありませんので」

 サクロヘニカの探究心を適当にあしらいながら、フランマは馬に積まれていた荷を小綺麗な小型の幌馬車に積み直す。そして二頭を休ませるために水と野草のある場所へ繋ぐと、彼は馬の首元を優しく叩き、世話を始めた。

 適当にあしらわれたサクロヘニカはというと、幌馬車に寄り掛かりながらつまらなそうにその様子を眺めている。

 やがて小休憩を終えシュテルケ馬を幌馬車へ繋ぐと、フランマとサクロヘニカは村を発った。



 村を出て時間が経つにつれ、重なるようにして生い茂っていた深緑の木々はまばらになる。やがて道は緩やかにカーブし、川に沿うような形で伸びていった。

 幌馬車の荷台でぼんやりと外を眺めていたサクロヘニカは、光を反射した川の煌めきに目を細めた。器用に馬車を走らせるフランマの事を気にもとめず、先程の隠匿魔法の事ばかり考えている。

 長閑な風景の広がる緩やかな坂道を馬車の車輪の跡を辿るように進めば、舗装された道が見えてきた。フランマは馬車を止めて傍に建てられた看板を見ると、ようやく一息ついた。

「サクロヘニカ、今日はこの街で休みましょう」

「おや、着いたのかい?」

 微睡みの中にいたサクロヘニカが、フランマの後ろから乗り出すようにして前方を見渡す。


 正面に広がっていたのは、小高い丘の上に築かれた石造りの建物の数々。道沿いに隙間なく並ぶ建物の屋根は鮮やかなオレンジ色をしている。屋根を突き抜けるような煙突からは白煙が登り、香ばしい匂いがする。

 街の周囲に広がる白雲麦しらくもむぎ畑ではたわわに実った白い麦が一面に広がり、まるでこの街が雲の上に浮かんでいるかのようだ。

 ――しかし、それらが霞むほど、サクロヘニカの興味はある一点に強く引き寄せられていた。

「フランマ、あの純白の建物は?」

「あぁ、あれはこの街の教会ですよ。原初の天使様が建てたもので、知慧の書庫とも呼ばれています」

 先生が建てたもの。どうりで、見覚えのある防衛魔法が使われている訳だ。

 周囲の建物のようなベージュの石壁とは違う、純白の壁。天へと伸びる細長いグレージュの屋根に煙突の類は見当たらず、代わりに端正な塔が設けられた美しい教会である。

「教会では何をするんだい?」

「本来なら祈りを捧げたり、説教を受けたりする場所ですが・・・・・・」

 そこまで言うと、フランマは口元に手を当てながら何やら考え込んだ。サクロヘニカがじっとその様子を観察していると、やがて口が開かれる。

「きっと、行ってみれば分かりますよ」

 フランマは群青色の目を細めて微笑んだ。


 丘陵の街ウエルネルタに到着した二人は、教会に向かう前に今日の宿となる建物を訪れた。街から奥まった場所にある、チョコレート色の屋根をした横長の屋敷である。

 馬小屋に幌馬車を預け、予め取っていた部屋へと荷物を運ぶ。

 ソファが一つとベッドが二つだけ無造作に置かれた部屋は、箱庭の整然とした部屋とは違った雰囲気で新鮮だ。

 フランマが持ってきた荷物は着替えや毛布などの他、包帯や消毒液などの衛生品が殆どだった。怪我をしても治癒魔法で癒せばいいのにとボヤくサクロヘニカに、彼は微笑で応えるのみであった。


 グレーの外套に身を包むと、二人は宿を出た。緩やかな坂道を上がり、建物の間に設けられたアーチの下をくぐり抜ける。

 道行く人々はみな穏やかな雰囲気を纏っており、どこからか風に乗って子供の笑い声が聞こえてくる。建物の中に埋め込まれるようにして構えられた店では手芸品の類が売られ、長方形の出窓では茶白の猫が欠伸をしていた。

 観察もほどほどにして目的の教会へと向かう。

 二十分ほど歩いた所で、難なくその教会へ到着した。

 純白の教会は、先程街の外から見た時よりもいくらか周りの風景に馴染んでいた。奥に細長い造形をしているようで、神聖ながらも謙虚な印象を受ける。

 教会の扉のそばを見ると、そこには二つの人影があった。

 顔を顰めながら古びた本を読む褐色髪の青年の隣で、白髪混じりの茶髪をした老齢な男性が優しげに微笑んでいる。

 ふと、こちらの視線に気づいたのか男性が顔を上げる。フランマとサクロヘニカを見た途端、驚いたように目を見張った。

「これはこれは、フランマじゃないかい。よく来たねぇ」

「お久しぶりですムッシュさん。今は旅の途中でして、ご挨拶だけでもしておこうかと」

 ムッシュと呼ばれた男性はくしゃりと皺を作りながら笑うと、おもむろに膝の上で畳んであった純白のケープ広げ、滑らかな動作で羽織りながら二人に向き直る。

「して、隣のお方は?」

「こちらはサクロヘニカ、原初の天使様の弟子です。サクロヘニカ、この方はムッシュ・コルニ。書庫の番人をしています」

「弟子じゃと!」

 フランマの紹介を遮る勢いで目を剥いたムッシュに、サクロヘニカは複雑な気分になっていた。驚きを隠せない彼ではなく、その肩にかけられた布をじっと見つめている。

「ムッシュって言ったっけ。君のそのケープ、もしかして」

「おお、これか。わしはこれでも、白梟の使徒なんじゃよ」

 白梟の使徒・・・・・・なれるのは天使だけだと思っていたが、この老人はどう見ても人間だ。

「人間でも白梟の使徒になれるのかい?」

 胡乱な目を向けながらサクロヘニカが問えば、代わりにフランマが応える。

「ムッシュさんは人間ですが、とても魔法に詳しいんです。これまで魔法の知識や文字の読み書きを人々へ普及するために様々な功績を挙げてきた方で、原初の天使様にも深く信頼されています」

 そう説明するフランマに、件の老人は口元を緩めて満足気にしている。しかしサクロヘニカは何だかそれが気に食わず、「へぇ」と冷たく返事をして顔を背けた。

 すると、不意にムッシュは思い出したかのように隣の青年を見やり、おお!と声を上げた。

「紹介するのを忘れておった。彼はエイミ、『夕暮れの雲』というパン屋の息子じゃ。ほれ、挨拶しなさい」

 事の成り行きを見守りながら読書を続けていた青年は、ムッシュに声をかけられると緩やかに顔を上げた。思慮深さを感じさせる鉛色の瞳をしている。

「ええと、初めまして。俺はエイミ、最近はムッシュじぃさんのところで読み書きを教えて貰ってるんだ」

「教会で読み書きを?」

 サクロヘニカが訝しげに尋ねると、エイミは気まずそうに目を逸らしながら頬をかいた。

「あぁ。豊穣の都でパン屋を開きたいんだが、文字が読めないと白雲麦や塩の発注もできないからな」

 サクロヘニカは首を傾げる。教会で読み書きを教えていることもそうだが、そもそも文字を読めない人間がいるとは知らなかったのだ。

 そっと彼に近付き、その手元を覗き込む。

 やけに古ぼけたその本には、魔法の仕組みを極限まで簡略化したものが記してあった。これを読んだところで魔法という学問を理解するのは不可能だろう。

 そういえば、ムッシュは魔法の知識を普及させるために功績を挙げたとか言っていた。もしかして、この街にいる人間たちは魔法のこともよく知らないんじゃなかろうか。

 考え込むサクロヘニカをよそに、フランマとムッシュが何気ない雑談を始める。

「暗澹たる夜が終わり人々の暮らしには光が灯りましたが、未だ識字率は低迷したままですね」

「そうじゃのう。暗闇の中じゃあ文字は意味をなさんかったからなぁ」

 ふむ、と思案しながらサクロヘニカも会話に加わる。

「でも暗澹たる夜の時代って、もう一二六年前の事だろう?それだけ時間があれば、文字を覚えるくらいどうってことないように思えるけど」

 その問いに、フランマは複雑そうな顔をした。

「暗澹たる夜は、人々から文字だけでなく平穏な暮らしや多彩な文化を奪ってしまいました。ここ百年あまり、人々は今までの暮らしを取り戻すことで手一杯でして。街で祭りが開かれたり人々が本を読もうとするようになったのは最近のことなんですよ」

 フランマ曰く、暗澹たる夜の時代に壊滅的な被害を受けた地域では今も問題が山積みで、とてもそんな余裕は無いのだという。そのような地域では知識はおろか、食糧の調達すら困難なのである。

「白梟の使徒の多くは、苦しい生活を強いられている人々に知識や医療を届けるために奔走しているんですよ」

 そうですよね、とフランマに視線を送られたムッシュは右目を閉じて器用にウインクをしてみせた。

「わしの仕事はこの教会に来る者たちに読み書きや魔法の知識を教え、傷の手当をしてやることなのだよ。それから、失陽の時代やその前の歴史も学ばせてやるんじゃ。先人の残した知恵とは、貴重なものじゃからのう」

 サクロヘニカは、珍しく興味深そうにその話を聞いていた。

 原初の天使が膨大な数の記録を休むことなく残しそれらの本を世界へ送り出していたのは、エイミのように知識を必要とする者達の手助けをするためだったのだと理解したのだ。

 その後、再びフランマと雑談を始めたムッシュの顔をまじまじと眺めながら、夕暮れ時になってその場が解散するまで、サクロヘニカは深く思案していた。



「サクロヘニカ、夜ご飯はどうしますか?」

「私はいらないよ。もう少し街を見て回りたい」

 そう言うとさっさと夜の街へ繰り出していったサクロヘニカの背中を見送って、フランマは深くため息を零した。

 ――近頃フランマは、サクロヘニカが食事に無頓着すぎることを懸念していた。

 サクロヘニカは神獣であるとはいえ全く食事の必要がないわけではなく、しかし気紛れに果物を齧ったり干し肉を口にしたりする程度の食事しかとっていないのだ。

 とはいえ、その食への無関心はフランマのせいでもあるのだが。

 ・・・・・・というのも、知慧の箱庭には使用人が居ない。かつては居たが、禁書を盗んで持ち出そうとする輩が現れてから原初の天使様は箱庭の戸を固く閉ざしてしまった。

 よって、料理などは自分でしなければならない。しかし原初の天使様は殆ど食事を必要とせず、かく言うフランマもあまり食事に頓着が無い。そして料理が下手である。

 そんな環境下では、最低限しか食事を必要とせず魔法にのめり込んでいる神獣が食に興味を持つはずなど、無いに等しい。

「・・・・・・豊穣の国ではとびきり美味しいものを食べさせよう」

 フランマはそう決心し、簡単な食事をとるために宿へと戻った。



 翌朝。宿に戻ってこないサクロヘニカを見かねて街を探し回ったフランマが見つけたものは、昨日出会ったばかりの青年と共にパンを頬張るサクロヘニカの姿だった。

 いくつかの店に囲まれた広場の隅で石造りのベンチにのんびりと座り、青年と楽しげに談笑している。広場の中央にある噴水の周囲には机や椅子が並べられ、のどかに朝食を楽しむ人々で賑わっている。

 ――あの食事に頓着が無く人間を見下していたサクロヘニカが、人間であるエイミと同じベンチに腰掛けて、パンを食べている。

 夢かと思い手の甲をつねってみたが、夢ではなかった。

 フランマは衝撃を飲み込み、冷静さを保ちながら声をかける。

「貴方、本当にサクロヘニカですか?」

「あぁ、おはようフランマ。もっと他に言うべきことがあるんじゃないかい?」

 やや口が滑ってしまったフランマに、サクロヘニカは心外そうに肩をすくめた。一方隣に居たエイミはそれを気にすることなく、「朝食がまだなら一緒に食べないか?」と明るくフランマを誘った。

 断る理由もないため、ぜひご一緒させて下さいと答えてサクロヘニカの隣に腰掛ける。

 ベンチに座ると、パンの良い香りが漂ってきた。噴水を挟んですぐ向かいにあるパン屋の看板には『夕暮れの雲』と記されている。

 エイミは、ちょっと待っててくれと言い残すと駆け足でパン屋へと入り、何やら籠を持って戻ってきた。籠からはほのかな湯気が見てとれる。

「ええと、フランマって呼んでいいのか?これ、良かったら食べてくれ。さっき焼きあがったんだ」

 エイミに差し出されたウィロー製の籠の中には、布にくるまれた数種類のパンが入っていた。

 手短に感謝を伝えながら、フランマはクリーム色をした小ぶりなパンを選び取る。手に取ってみるとまだほんのり暖かく、丸く編み込まれたような形をしたシンプルながらも可愛らしい見た目だ。

 試しに一口頬張ってみれば、芳醇な香りが口いっぱいに広がった。パンそのものの素朴な味ながら、深い風味を感じさせる。

 感心しながらサクロヘニカの方を見遣れば、中央に十字の切り込みが入った朽葉色のブールを口に運んでいた。切り込みの隙間からは黒イチジクのジャムがはみ出している。

「・・・・・・それで、一体どういう風の吹き回しですか?」

 フランマが疑わしげな視線をサクロヘニカに向けると、彼女はやれやれといった様子で深いため息をついた。

「どうもこうもない。ただ興味があったから、エイミに夜通し文字の読み書きを教えていただけだよ」

「・・・・・・はい?」

 あの利己的で他者に興味を持たないサクロヘニカからのまさかの発言に、フランマが信じられないといった様子でエイミを見つめると、彼は苦笑しながらそれを肯定した。

「実は昨日の夜、店を閉めようとしたらサクロヘニカが来て文字の読み書きを教えてやるって言ってくれたんだ。原初の天使様の弟子だって聞いたから凄い奴なんだろうと思って、折角だし教えて貰ってたんだよ」

 そう語るエイミの目元には、薄らと隈が見てとれた。どうやら徹夜で勉強していたようだ。

「サクロヘニカは凄いな。教え方も分かりやすいし、最後まで全然眠くなさそうだったし。もしかして人間じゃないのか?」

 不思議そうにしながら、エイミは黙々とパンを食べるサクロヘニカを眺めた。サクロヘニカはその視線を受けつつ最後の一口を口の中へ放り込むと、「まぁ、そうかもしれないね」と答えを濁した。

 そうかぁ、とエイミは特段気にする様子もなく、香草が挟まれたパンを選び取って口に運ぶ。広場にはサクサクとした小気味よい音が響いた。

「そういえば、二人は旅の途中だって言ってたよな。どこに行くんだ?」

「豊穣の都だよ。もうじき祭りが始まるらしいから」

 サクロヘニカの口から豊穣の都という単語が出た途端、エイミはわっと声を出して立ち上がった。鉛色の瞳からは興奮が見て取れる。

「ベトヴェストレに行くのか、あそこは何を食べても美味いし治安も良いからな。それに街も山のように大きいっていうし」

 まるで自分の事のように自慢げに語るエイミに気圧され、サクロヘニカは目を瞬いた。

「そんなに立派なところなのかい?てっきり、農地ばかり広がっている閑静な場所かと思っていたけれど」

「まさか!ベトヴェストレは天界で最も繁栄してる街の一つなんだ」

 エイミはパンを頬張りながら、右手で拳を作ってドンと胸に当てた。

「暗澹たる夜が明けても、どの国でも食糧難が続いていたんだ。けど、豊穣の国は真っ先に農地を蘇らせて食料を確保した。難民を次々と受け入れてあっという間に復興して、今やとんでもなく豊かな国になったんだ」

 一息にそう説明すると少し興奮が落ち着いたのか、エイミはベンチへ座り直した。かと思えば、手早くパンを食べ終えて再び勢い良く立ち上がった。

「収穫祭までにベトヴェストレに着きたいならもう街を出ないとだよな、ちょっと待っててくれ」

 エイミはパンの入っていた籠を持ち上げると、早足に店へと戻って行った。物静かそうだった彼にここまでの気迫があったことに、サクロヘニカは若干引き気味である。

 十五分ほど経った頃、店の中からエイミが出てきた。手に持っているのは先程とは違う、卵色をしたラタン製の丈夫な籠だ。

 エイミは迷わずベンチへ駆け寄ると、二人にその籠を差し出した。そこには先程フランマが食べていたクリーム色のパンがたっぷり詰め込まれている。

「これ、良かったら旅のお供に持って行ってくれ。お代はいらないからさ」

「ありがたいですが、そういう訳にはいきません。お代は払いますよ」

 フランマが腰に吊るしているポシェットから代金を取り出そうとすると、エイミはすかさずそれを片手で制した。そして、もう片方の手の人差し指を口に当てながらふわりとはにかむ。

「もし余裕があったらさ、豊穣の都でパン作りに使えそうな材料を探して来てくれないか?新しいパンを作りたくても、素材が足りないんだ。あ、あと珍しいチーズなんかもあると嬉しい。だからお代はいらない」

「・・・・・・なるほど。そういう事なら、任せてください」

 フランマが籠を受け取るとエイミは満足気な表情を浮かべた。

「そうだ。実はこのパン俺が考えた新作のパンでさ、『エイミ白パン』って名前なんだ」

 もし気に入ったなら、豊穣の国でも評判を広めておいてくれ!と屈託なく笑うエイミに、フランマとサクロヘニカは顔を見合せてふっと笑ったのだった。





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【丘陵パン】

 調和の国の東端に位置する丘陵の街、ウエルネルタの特産品である白雲麦を使った、小高い丘をイメージした朽葉色のパン。

 外側から中心へ緩やかに盛り上がるように焼き上げられた丸く平たいパンで、中央に十字の切り込みを入れ、そこにジャムや野菜を挟んで食べるのが一般的。

 やや渋い風味があるが、水分が少なく保存に向いている。


【エイミ白パン】

 ウエルネルタに店を構えるパン屋『夕暮れの雲』の新作。店主の息子であるエイミ・イデリンが考案した画期的な白雲麦パン。

 複雑な工程を挟むことで、焼き上げると朽葉色になり独特な風味を醸し出すという白雲麦の特性を無くし、クリーム色の柔らかなパンを編み出した。

 一口食べると麦の芳醇な香りが広がり、パン本来の深い風味を味わうことができる。


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