想花の物語

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第一章 木漏れ日の庭


 明けぬ夜はない。例え、全てを失っても。


 瞬きもせず静かに生命を見下ろしていた幾多の星屑は、薄らと差し込んだ黎明の光によって一つ二つと鳴りを潜めていく。弱々しい光のものから消え去っていく様は、さながら淘汰される生命そのものである。

 遠く、地平の彼方から金霞が登り始めた。空には眩い色彩が貼り付けられ、彩雲の合間から降り注いだ光芒が大地を突き刺し始める。

 夜明けが訪れる。

 誰しもが待ち望んだ救済の陽光は、天界を飲み込んでいた暗澹の帳をいとも容易く焼き払った。

 まるでこの世の全ては、神の気紛れだと言わんばかりに。


 氷で覆われた世界に、新たな時代が訪れた。

 荒野と朽木ばかりの死した大地が、暖かな光によって再び目を覚ます。生命の鼓動が、密かに脈打つ。


 闇からの回帰を果たし蒼天へと君臨した太陽に、暗澹の夜に苦しんでいた者達は喝采の声を上げた。

 ――我らが最高神が戻ってきたのだ。

 ――闇の下僕から、主は我らを救って下さった。

 これまで多くの者が飢えと寒さを耐え忍び、細々と生命を繋いでいた。その苦労が、ようやく報われた。

 太陽の加護は、堅牢な腕で再び天界を抱いたのだ。


 その様子を見た天界の神々は、己が苦労の終焉を悟った。主神が不在の世界で、彼らは身を粉にして人々を救っていたのだ。


 歴史が変わり始める。文明が生まれ栄える。誰もがその予感をひしひしと感じていた。

 一一七年の時を経て太陽が舞い戻ったその日。天界における記録を司る偉大な天使は、新時代の幕開けを祝すべく『サルベール』という新たな暦を制定した。

 夜明けを告げる鳥が、蒼碧の空を駆けた。





 ――時は流れ、サルベール歴一二六年 二月一二日。


 緻密に張り巡らされた防衛魔法で守られていた知慧ちえの箱庭に、一匹の神獣が侵入した。

 防衛魔法の一部は見るも無惨な有様で、その尋常ではない力と技術を窺わせた。

 それは何人たりとも所在を知らぬ幻の地が、部外者の侵入を許した初めての出来事である。


 件の魔法を粉砕した招かれざる客は、神獣でありながら人の姿を模し、暗澹とした烏羽色からすばいろの外套を纏っていた。

 目深なフードの下でラヴェンダーの瞳を輝かせ、原初の天使と対峙した神獣は開口一番こう告げる。


「初めまして、知恵の化身。どうか、私に魔法を教えてくれないかな」


 それが原初の天使と、想花の神獣サクロヘニカ・サルベールの出会い。

 紛れもない魔法革命の幕開けであり、二人の運命の歯車が終幕に向けて回り始めた瞬間であった。



 ――想花の物語



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【天界 ー アリィツェルテ】

 物語の舞台となる、この世界とは違う時空にある世界。

 十二天神と呼ばれる十二柱の神々によって統治され、その安寧が守られている。

 多彩な種族や魔法という奇跡の力が存在し、幻想的な風景や文化を数多く生み出している。

 その全ての主として君臨する最高神は人々の信仰と隷属によって天界に加護を与え、この世界の行く末を見守っている。


【暗澹たる夜の時代】

 旧レンヌ暦五六六年から六八三年までの一一七年間を指す。

 天界から太陽が姿を消し、暗黒の夜と大寒波が世界を襲った。

 多くの文明や生命が淘汰されたものの、当時の十二天神であった大気の神と生命の神、そして調和の神の懸命な努力で一部の地域は辛うじて生き永らえ、現在まで姿を残している。

“導き手”と呼ばれる、精霊の力を借りて迷い人を導く者達が最も活躍した時代でもある。


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 一章 木漏れ日の庭





 ――旧レンヌ歴五六六年。天界は太陽を失い、暗闇に閉ざされた。

 寒波が押し寄せ、植物が枯れ、幾つもの文明が無慈悲にも氷に埋もれていく。長い長い暗澹の時代の始まりである。

 大気の権能けんのうで極寒を防ぐことのできた地域では氷に怯えることは無かったが、食料と光源をめぐって数多の諍いが起きた。

 生命の権能によって全ての動植物が死に絶えることは無かったが、最終的には約九三○万種の生物が絶滅した。

 調和の権能によって天界は奇跡的なバランスを保ち崩壊を間逃れたが、権能を酷使したことにより旧レンヌ歴六八二年 調和の神エデルヤーヌは死去した。

 それらは紛れもなく、天界にとって最も悲惨な歴史となった――





 季節は、初夏。穏やかな日差しが荒んだ大地を癒し、世界に活気が取り戻されつつあった。

 舞台は知慧の箱庭。とある書斎の一室で、原初の天使は暗澹たる夜の時代についてを事細かに記録していた。

 この箱庭において、これらの記録は後世まで未来永劫守られ続けることになる。


 ――知慧の箱庭の中心に聳える、知慧の大図書館。そこには古今東西ありとあらゆる知識と記録が集束されている。


 古代の植物学、天外の天文学、隠された史実、魔導書から禁書まで・・・・・・例外なく全てである。

 数々の機密事項を守るため、図書館にはごくひと握りの限られた者しか踏み入ることは出来ず、使用人の類も存在しない。

 ゆえに書斎では、誰にも邪魔されることなく文字を綴る音だけが時間と共に堆積していた。


 静寂の中で黙々と作業を進める原初の天使の手元で、ふいに何かが揺らめく。

 それはふわりふわりと宙を舞う、一匹のクラゲだ。

 彼女はラフィイル。原初の天使の眷属であり、良き隣人である。

 ラフィイルは原初の天使に休息を促すように、窓辺の方へ漂ってゆく。原初の天使は記録を記す手を止めると、それを追うように窓の外を見遣った。

 穏やかな風が、新緑の木の葉をざわつかせている。図書館の傍に根ざす大樹の葉が風に揺らめき、木漏れ日が部屋を厳かに照らしていた。

 部屋の床には小さな光の水溜まりが現れ、射し込んだ陽光に反射してちらちらとホコリが光っている。

 換気のために窓を開けようかと考えつつ、原初の天使は悠々とその様子を眺めていた。


 ――不意に、ひとつの足音が廊下から響いてきた。カツカツと迷いないそれが誰のものなのかは、明白である。

 ノックを二回。返事など待たず、勢いよく扉が開かれた。


 書斎を訪れたのは、烏羽色の髪をした秀麗な顔立ちの人物だった。紺色のオーバーコートを肩に掛け、白のチュニックをシワなく着こなしている。

 真っ直ぐこちらを見据えたラヴェンダーの瞳は無表情ながらも冷ややかで、彼女が怒っていることが窺える。

「・・・・・・やっぱりここに居たんだね。私に魔法を教える時間だというのに、また“記録”?大切な弟子との約束を反故にするのかい?」

 原初の天使は時計を軽く見やり、約束の時間から2分遅れていたことに気付く。

「・・・・・・約束を反故にするつもりはないよ、サクロヘニカ。すまなかったね、お詫びは――」

「魔法」

 サクロヘニカは間髪入れず答える。不思議な瞳孔が原初の天使を捉えた。

「今日こそ、あの防衛魔法の原理を教えてもらう」

 サクロヘニカの言うそれは、知慧の箱庭を守る強固な防衛魔法のことである。

 件の魔法は原初の天使が長い時をかけ幾重にも折り重ねた難解なもので、並大抵の魔法では破壊することは出来ない代物であった。

 なお、サクロヘニカは原理も知らずにあれを破壊したのだが。

「分かった。全てを伝えることは出来ないけれど、最善を尽くそう」

 暗澹たる夜について記された本を机の隅にまとめると、原初の天使は椅子から立ち上がった。すかさずサクロヘニカがその手を掴む。

「ほら早く!君の時間は貴重なんだ」

 ズイズイと引っ張られるも抵抗することなく、原初の天使はその後をついていく。


 ・・・・・・というのも、原初の天使は天界における全ての知識と記録を司る存在である。それ故に、多くの役目があった。

 箱庭の管理はもちろん、十二天神の統世会議では書記官を務め、絶えず世界各地から集まる記録を整頓しなければならない。

 知識や医療を世に普及させる他、自然の保護や幻獣の管理、生態系の状態を維持することも大切な仕事だ。

 サクロヘニカは最初それらを一蹴し、魔法についての研究に全霊を尽くすべきだと主張したが、フランマ――原初の天使の右腕である天使――に諭されて渋々その必要性を理解した。

 よって彼女にとって原初の天使の時間は“貴重”なものとなったのだ。


 そしてサクロヘニカ、もとい神獣とは、神とも人とも獣とも異なる存在である。

 価値観や倫理観、考え方や感性までもが似て非なるもので、社会性を持ち規範を守る俗世の人々と分かり合えた例は歴史的に見ても極めて少ない。

 獣の姿と神に匹敵する力を持ち、雄大な自然と共に生きる彼らは時に畏怖され、時に信仰されてきた。

 そんな中、サクロヘニカは彼らと違う道へと踏み込んだ。

 価値観も倫理観も違う者達の輪に飛び込み、知識を探求する。恐らく彼女にとって魔法とは、計り知れない価値を秘めた魅惑の果実のようなものなのだろう。

 強引に手を引かれながらも、原初の天使は彼女の価値観を測ろうと絶えず思考を続けるのであった。





 ――この日の授業を終え、原初の天使は再び仕事に戻ろうとしていた。

 サクロヘニカはというと防衛魔法の構造や原理を更に詳しく研究すると言い残し、一足先に引き揚げて行った。今頃研究室にこもっているだろう。

 その様子を空想しながら、原初の天使は窓の外を眺める。

 これまで随分と長く生きてきたが、弟子を取るのは初めての出来事だ。学生や研究者を指導することはあれど、こうして箱庭に迎え入れ付きっきりで魔法を教えるなど以前なら考えられなかった。

 彼女を迎え入れた理由は他にもあるものの、兎に角これが初の試みであることは変わらない。よって原初の天使は、彼女に清く正しい道を示す必要があった。神獣である、サクロヘニカに。


 ・・・・・・しかしながら、ここで物思いに耽った所でサクロヘニカが人の道理を理解してくれる訳では無い。


 気を取り直して仕事を再開し、半分ほどの記録が終わった頃。またもや廊下から足音が響いた。

 コツコツと控えめな足音が止むと、扉が4回ノックされる。

「入って構わないよ」

「失礼します、主」

 そっと扉が開かれ、訪問者の姿が晒される。

 そこに居たのは、群青色の瞳をした天使の青年。銀の刺繍が施された純白のケープを身に纏い、鳩羽色はとばいろの髪を緩く結んで右肩に流している。頭上に浮かぶ薄水色の天使の輪は、清廉さの証だ。

 手元のトレーにはガラス製の茶器といくつかのお菓子が乗せられられ、その周囲には甘美な誘惑が漂っている。

「ハーブティーをお持ちしました」

「ありがとう、フランマ」

 フランマは原初の天使の傍まで来ると、静かにお茶を注ぎ始めた。途端に部屋には、ベリーの華やかな香りが広がる。

「良い香りだね」

「調和の都で流行りのハーブティーで、セレスの息吹といいます。きっと美味しいですよ」

 さぁどうぞ、とフランマに差し出されたお茶をそっと口に運ぶ。

 口の中に広がる優しい甘みと、ベリーの後味。すっきりとした味わいで、頭が冴えそうだ。

 黙々と風味を楽しむ原初の天使の様子を観察しながら、フランマはもうひとつのカップにハーブティーを注ぐと原初の天使の傍に置かれたスツールに腰掛けた。そこはフランマの休憩所でもある。

「とても良い香りで、心が安らぎますね」

「私もそう思うよ。サクロヘニカも気に入るだろうか」

「・・・・・・さぁ、どうでしょう」

 そう答えて、フランマは眉根を下げながら笑った。





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白梟はくきょう使徒しと

 原初の天使に仕える特別な従者たちの総称。

 原初の天使に代わって記録を回収したり、他国との交渉や諍いの仲裁を行う。

 無垢を表す純白の衣を纏っており、どこからともなく現れ霧のように消える。

 知慧の箱庭は白梟の使徒かそれに準ずる者の案内、または原初の天使からの招待状が無ければ辿り着けないとされている。


【シュテルケ馬】

 主に白梟の使徒の移動手段として用いられる、馬によく似た希少種の幻獣。

 長い脚と逞しい体躯を持ち、優れた持久力のある頑丈な使役幻獣。

 落ち着いた気性と勇敢さを見せ、協調性があることから馬車にも使われる。

 体高は1.7mほどで、銀色の目が特徴的である。


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