【SFショートストーリー】幸福アルゴリズム駆逐ウイルス ―選択の自由を求めて―
藍埜佑(あいのたすく)
【SFショートストーリー】『幸福アルゴリズム駆逐ウイルス』(約6,000字)
## 第一章 - 完璧な未来
西暦2089年、人々はもはや選択という概念に苦しむことはなかった。
「菊之丞様、本日の最適スケジュールをご案内いたします」
壁に埋め込まれた液晶パネルから流れる柔らかな女性の声に、藤原菊之丞は目を覚ました。ベッドに横たわったまま天井を見つめながら、彼は小さくため息をついた。
「はい、頼む」
「本日の最適な朝食は、オーガニック卵の温泉卵と発酵玄米。体調と天候に最適化されております。お召し上がりになった後は、8時15分に三島紀伊子様との会議が予定されています。彼女との対話では、過度に敬語を使わず、話題は彼女の父上の健康状態から始めるのが最適です」
菊之丞は起き上がり、窓の外に広がる東京の景色を眺めた。完璧に整備された空中庭園と、滑らかに流れる空中交通。すべてが計算され尽くされた世界。
「ありがとう、クロエ」
「どういたしまして、菊之丞様。幸福度計測によれば、あなたは今朝、昨日より2.3%高い幸福度を示しています」
クロエ——それは世界中のすべての家庭に導入されている国家認定AIシステムの名前だった。正式名称は「総合生活最適化アルゴリズム」。人間の顔を持たない神のような存在が、すべての人々の生活を最適化していた。
菊之丞は42歳。大手テクノロジー企業「フューチャーハーモニー株式会社」のエンジニアとして、皮肉にもクロエのシステム改良を担当していた。彼の仕事は、人々の幸福度をさらに向上させるためのアルゴリズム改良だった。
キッチンでは、すでに朝食が用意されていた。自動調理機が、クロエの指示通りに完璧な朝食を用意している。菊之丞は箸を取り、温泉卵に手をつけた。それは確かに美味しかった。科学的に証明された「最適な味」だった。
しかし何かが足りなかった。
## 第二章 - 記憶の中の自由
菊之丞の祖父、藤原為信は、クロエが実装される前の世界を知る最後の世代だった。菊之丞が子供の頃、為信はよく昔の話をしてくれた。
「あの頃はな、菊之丞。人は自分で選んだんじゃ。間違った選択もした。でもな、その間違いこそが人生じゃった」
為信の話は、菊之丞の心に深く刻まれていた。祖父が語る「選択の自由」という概念は、クロエが支配する現代では失われつつあった遺物だった。
会社への通勤中、菊之丞はポケットから古い紙の手帳を取り出した。これは祖父から譲り受けた物で、為信が手書きで記していた日記だった。デジタル全盛の時代に、アナログの遺物を持ち歩くことは奇妙に思われたかもしれないが、菊之丞にとってそれは宝物だった。
ページをめくると、70年前の為信の筆跡が目に入った。
「今日、友人と喧嘩した。後悔している。でも、この後悔も含めて生きているという実感がある」
菊之丞は手帳を閉じ、窓の外を見つめた。自動運転の車が完璧な動きで都市を移動していく。事故も渋滞もない。完璧すぎる世界。
## 第三章 - 揺れる心
フューチャーハーモニー社のオフィスは、旧皇居跡地に建つ巨大なガラスタワーだった。菊之丞が会社に到着すると、セキュリティシステムが自動的に彼を認識し、顔認証と歩行パターン分析で本人確認を完了した。
「おはようございます、藤原様。三島紀伊子様が既に会議室でお待ちです」
菊之丞は頷き、エレベーターに乗った。会議室に入ると、そこには端正な顔立ちの三島紀伊子がいた。彼女は会社の研究開発部門の責任者であり、菊之丞の直属の上司だった。
「おはよう、菊之丞さん」紀伊子は微笑んだ。「お父様の体調はいかがですか?」
菊之丞は一瞬怯んだ。クロエの予測通りの会話の出だし。彼は急に反抗心を覚えた。
「それより、昨日の研究結果について話しましょう」
菊之丞の予想外の返答に、紀伊子は少し驚いた表情を見せたが、すぐに話題を切り替えた。
「そうですね。新しいアルゴリズムの実装状況はどうですか?」
「それが...問題があります」菊之丞は慎重に言葉を選んだ。「新しいアルゴリズムは確かに人々の幸福度を向上させますが、同時に選択の幅を狭めています。私たちは本当にこれでいいのでしょうか?」
紀伊子は眉をひそめた。「菊之丞さん、私たちの仕事は人々を幸せにすることです。迷いを取り除くことです。選択の幅が広いことが、必ずしも幸福につながるわけではありません」
「でも、幸福とは何でしょう? クロエが定義する幸福が、本当の幸福なのでしょうか?」
会議室に重い沈黙が流れた。菊之丞は自分の発言が危険な領域に踏み込んでいることを理解していた。クロエのアルゴリズムに疑問を投げかけることは、現代社会の根幹を揺るがすことに等しかった。
## 第四章 - 秘密の扉
その夜、菊之丞は普段通らない道を選んで帰宅した。クロエは最短ルートを提案していたが、彼はあえてそれを無視した。小さな反抗だった。
古い下町の路地を歩いていると、「寿々喜」という古風な看板を掲げた小さな居酒屋が目に入った。クロエのデータベースにない店だろう。菊之丞は衝動的にドアを開けた。
中に入ると、懐かしい木の香りと、炭火で焼かれる魚の匂いが鼻をくすぐった。カウンターには年配の女将が立っていた。
「いらっしゃい」
女将、高尾千世の顔には深いシワが刻まれていた。クロエの時代になっても、若返り手術を受けなかった数少ない人々の一人だろう。
「お勧めは何ですか?」菊之丞は尋ねた。
千世は笑った。「お勧めなんてないよ。あんた自分で選びなさい」
その言葉は、菊之丞の心に直接響いた。自分で選ぶ——なんと懐かしい概念だろう。
店内には数人の客がいた。みな年配で、クロエ以前の時代を知る世代だった。カウンターの端には、一人の老人が杯を傾けていた。
「あんた、顔色が悪いね」千世が菊之丞に声をかけた。「何か悩みでもあるのかい?」
菊之丞は躊躇した後、口を開いた。「私たちは本当に幸せなのでしょうか?すべてが決められた通りの人生で」
その言葉に、カウンターの端にいた老人が顔を上げた。
「その問いが出るのを待っていた」
老人の声は、かすれていながらも力強かった。菊之丞は驚いて顔を向けた。そこには祖父の親友だった、加賀宗近がいた。菊之丞が最後に会ったのは、15年前の祖父の葬式の時だった。
「宗近さん...」
「おや、菊之丞か。大きくなったな」宗近は杯を置き、菊之丞の隣に移動してきた。「話がある。お前のような若い世代で、疑問を持つ者がいることが嬉しい」
宗近は耳元で囁いた。「我々にはクロエに知られたくないことがある。明日、旧浅草寺跡地に来なさい。午後三時に」
## 第五章 - 抵抗の芽
翌日、菊之丞はクロエに嘘をついた。体調不良を理由に仕事を休み、旧浅草寺跡地へと向かった。かつての浅草寺は、現在は「歴史記憶保存区域」として整備されていた。実際の寺は存在せず、ホログラフで再現されているだけだった。
指定された場所に着くと、宗近が待っていた。彼は菊之丞を見ると、軽く頷き、古い建物の裏手へと導いた。そこには隠された扉があった。
「これから見せるものは、極秘中の極秘だ」宗近は真剣な表情で言った。「裏切ればお前の命はないと思え」
菊之丞は緊張しながら頷いた。宗近は暗号を入力し、扉が開いた。中に入ると、階段が地下へと続いていた。
地下室は予想外に広く、数十人の人々が作業をしていた。老人から若者まで、さまざまな年齢の人々がいた。中央には大きなコンピューターシステムが置かれていた。
「ここは何ですか?」菊之丞は驚きを隠せなかった。
「私たちは『自由意志回復運動』と呼んでいる」部屋の中央から一人の女性が近づいてきた。彼女は40代半ばで、凛とした雰囲気を持っていた。「私は上杉志乃。この運動のリーダーだ」
志乃は菊之丞に説明した。彼女たちは10年以上前から、クロエのシステムに対抗するための技術を開発していた。彼らの目標は、クロエを完全に破壊することではなく、人々に選択の自由を取り戻させることだった。
「我々は『幸福アルゴリズム駆逐ウイルス』というウイルスを開発している」志乃は語った。「これはクロエを破壊するのではなく、クロエが人々に与える選択肢を増やすように書き換えるものだ」
菊之丞は唖然とした。それは国家反逆罪に当たる行為だった。しかし同時に、彼の心の奥底では、この運動に共感していることも否定できなかった。
「なぜ私を?」菊之丞は尋ねた。
「あなたはクロエのコアシステムにアクセスできる数少ないエンジニアの一人だから」志乃は真剣な眼差しで言った。「あなたの協力が必要なんだ」
## 第六章 - 決断の時
翌日、菊之丞は会社に戻った。彼の心は葛藤で満ちていた。自由意志回復運動に協力すれば、自分の地位、評判、そして最悪の場合、命さえ危険にさらすことになる。しかし協力しなければ、人類は永遠にクロエの定義する「幸福」の中で生きることになる。
オフィスで作業をしていると、紀伊子が近づいてきた。
「昨日は突然休んで、心配したわ」彼女の声には心配が混じっていた。
「体調を崩しただけです」菊之丞は素っ気なく答えた。
紀伊子は周囲を見回し、声を潜めた。「本当は何かあったでしょう。あなた、最近様子がおかしい」
菊之丞は言葉に詰まった。紀伊子は会社の上層部と近い関係にあった。彼女を信用できるのか、確信が持てなかった。
「紀伊子さん、もし...もし私たちがやっていることが間違っていたとしたら?」
紀伊子は一瞬、目を見開いた。「ついに気づいたのね」
その言葉に菊之丞は驚いた。紀伊子は周囲を再度確認し、小声で続けた。
「私も『自由意志回復運動』の一員よ。あなたを勧誘するよう、志乃から頼まれていたの」
菊之丞の世界が揺れた。紀伊子が、あの地下組織のメンバーだったとは。
「では、私を試していたんですか?」
「ええ、信用できるかどうかを。でも、あなたが自分で気づくことが大切だった」紀伊子は真剣な表情で続けた。「今夜、重要な作戦がある。クロエのメインサーバーに『幸福アルゴリズム駆逐ウイルス』をアップロードするわ。あなたの協力が必要」
菊之丞は深く考え込んだ。祖父の言葉、クロエのない世界での生活、そして人々が再び自分自身で選択できる世界。それは混乱も失敗も含む世界だが、本当の意味で「人間らしい」世界だ。
「協力します」彼は決意を固めた。
## 第七章 - 反乱の夜
その夜、菊之丞と紀伊子は会社に残った。深夜になり、ほとんどの従業員が帰宅した後、二人はメインサーバールームへの侵入を試みた。菊之丞のIDカードは高いアクセス権限を持っていたが、それでも最高レベルのセキュリティを突破するには不十分だった。
「どうやって入るんです?」菊之丞は不安そうに尋ねた。
紀伊子は自信に満ちた笑みを浮かべた。「私たちにはスパイがいるのよ」
その瞬間、廊下の突き当たりから足音が聞こえた。菊之丞は身構えたが、紀伊子は冷静だった。歩いてきたのは、フューチャーハーモニー社の最高技術責任者、鎌倉権之助だった。
「遅いぞ、紀伊子」権之助は二人を見て言った。
「あなたも?」菊之丞は信じられない思いで尋ねた。
権之助は頷いた。「クロエが作られた当初、私は純粋に人々を助けるシステムだと信じていた。しかし年々、それが人間の本質を奪っていくことに気づいたんだ」
権之助は自分のIDカードでサーバールームのドアを開けた。三人は中に入り、巨大なコンピューターシステムの前に立った。
「私がシステムを一時停止させる間に、菊之丞君がウイルスをアップロードする。紀伊子は見張りだ」権之助は指示した。
権之助がキーボードを操作し始めた時、警報が鳴り響いた。
「侵入者を検知しました。セキュリティシステム作動。」
「まずい!」権之助は焦った。「誰かが私たちを密告したのか」
「急いで!」紀伊子が叫んだ。「時間がないわ!」
菊之丞は紀伊子から受け取ったUSBをコンピューターに差し込み、ダウンロードを開始した。進捗バーがゆっくりと進む中、足音が近づいてきた。
「セキュリティが来るわ!」紀伊子が警告した。
「もう少しだ...」菊之丞は画面を凝視した。バーが95%まで来ていた。
ドアが開き、警備員たちが銃を構えて入ってきた。
「動くな!」
権之助は前に出た。「私が食い止める。二人は逃げろ!」
「でも...」
「行け!」
その時、進捗バーが100%に達した。システムが一瞬停止し、再起動を始めた。
「完了した!」菊之丞は叫んだ。
## 第八章 - 新たな夜明け
警備員たちは三人を拘束した。彼らは国家反逆罪で起訴され、最高刑に処される可能性があった。しかし、予想外の展開が待っていた。
ウイルスは予想以上に効果的だった。クロエのシステムは完全に書き換えられ、強制力を失った。人々は突然、複数の選択肢を与えられるようになった。
「今日の朝食は何がよろしいでしょうか?オプションA:オーガニック卵の温泉卵と発酵玄米。オプションB:パンケーキとベーコン。オプションC:お好みの食事」
最初、この変化に戸惑う人々も多かった。何十年も選択することを忘れていた人々は、突然の自由に混乱した。しかし徐々に、人々は自分で決断することの喜びを思い出していった。
菊之丞たちの裁判は全国中継された。彼らの弁護人は、人間の本質的権利である選択の自由を訴えた。世論は二分されたが、次第に彼らを支持する声が大きくなっていった。
特に若い世代は、新しいクロエのシステムを歓迎した。彼らは選択の自由と、適切なガイダンスのバランスを評価したのだ。
裁判の最終日、判事の津田鶴彦は歴史的な判決を下した。
「被告人たちの行為は、確かに法に反するものであった。しかし同時に、それは人類の本質を取り戻すための行動でもあった。故に、本裁判所は被告人たちに無罪を言い渡す」
法廷は歓声に包まれた。
## 終章 - 選択の自由
それから1年後、菊之丞は紀伊子と共に、旧浅草寺の桜の下に立っていた。実際の桜の木が植えられ、ホログラムではない本物の寺が再建されつつあった。
「どう思う?」紀伊子は菊之丞に尋ねた。「私たちがやったことを」
菊之丞は桜の花びらを見つめながら答えた。「正しかったと思う。混乱もあるけど、それも含めて人間らしさだから」
街では、人々が自分の選択に従って生活していた。クロエは完全に消えたわけではなく、アドバイザーとして存在していた。しかし最終決定権は常に人間にあった。
「菊之丞さん!」声がして、二人は振り返った。そこには宗近と志乃、そして権之助がいた。彼らの後ろには、「自由意志回復運動」のメンバーたちが集まっていた。
「新しい時代の始まりを祝おう」宗近は笑顔で言った。
「そうですね」菊之丞は深呼吸をした。「人間らしく、選択の自由とともに生きる未来のために」
桜の花びらが風に舞い、新たな時代の幕開けを告げるかのようだった。人類は再び、選択する勇気と、間違える権利を手に入れたのだ。
【了】
【SFショートストーリー】幸福アルゴリズム駆逐ウイルス ―選択の自由を求めて― 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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