第1話
『同じく浪人中の目黒ならさ、朝陽も触発されて上手くできるに違いないわ!』
だからって一度たりともプライベートで会話したことの無いような男子に妹の家庭教師頼むかよ、普通。
差し掛かる日差しに眉を潜めながら目の前の馴染みのないマンションを見上げる。
ここが月凪の妹の住んでいるマンション。
高校卒業後にいきなりこんなところで一人暮らしするなんて流石はお金持ちの娘って感じだ。スケールが違う。
確か月凪の妹は朝日向朝陽って言う名前だったか? 妹と言っても同年代で同じ高校に通っていたらしいが一度だって会ったことはない。
完全な初対面だ。
それを言えば月凪も同じくほぼ関わりのないただの知り合いに過ぎない。
テスト期間中に少しだけ勉強を教えていただけの浅い関係。
俺が浪人することをどこで聞いたのかも分からないし家庭教師のアルバイトを探していることも言いふらした覚えはないのだが、わざわざ家まで押しかけてきて頼んできた。
いくら知り合いとはいえ、そんなやつに家庭教師を頼むなんてやっぱり月凪は少し頭がおかしいと思う。
まあでも割高な給料に目が眩んでつい請け負う俺も同じく頭がおかしいのだろう。
肉体労働で体力を消費して勉強せずに眠るリスクを考えれば、当然復習も兼ねられる家庭教師の方が俺に合っているし仕方がない。
そんなことを考えながら俺はマンションに入った。
ここはオートロック式らしく、あまりこういうところに馴染みのないからか根拠もなく高級感を感じてしまう。
玄関まで進むと例のオートロック解錠用のテンキーが見えてきた。
「確か……部屋は三〇四号室だったか」
番号の入力中にふと思った。
——考えてみれば不思議なものだな。
朝日向朝陽。
同じ高校だって聞いたけど一度だって見たこともない話したこともないやつに在学中ではなくて卒業後に顔を合わせるなんて。
しかもその理由がお互いに浪人中だから、なんて少し面白い。
こんな不思議な出会い方があるのにどうして在学中は出会わなかったんだろうな。
入力を終えるとチャイムが鳴る。
そして——
「はーい」
と、ふわふわと羨ましいほどに気楽そうな声が聞こえた。
が直後——
「え、誰ですか……?」
ガクッ——と急降下したようにいきなり不信感に冷ややさな声質に変化してしまった。
別に好かれたいと常日頃思って生きているわけではないけど、そんなに第一印象悪く見られるのだろうか俺は?
「お姉さんから聞いたと思うんですけど今日挨拶しにきた家庭教師の目黒瑞樹ですが——」
「家庭教師……? なんで?」
俺は部屋番号を間違えたのかと確認してみたがやはり入力間違いはしていない。
間違いなく月凪が教えてくれた番号だ。違うのだとすればあいつが番号を間違えた可能性だけだが……まさか仮にも姉なのだからそんなミスはしないだろう。
「あの……朝日向朝陽さんですか?」
「はい、そうですが……どちら様ですか?」
残念ながらどうやらどちらも間違っていなかった。確かに月凪から教えてもらった部屋番号も実際に俺が呼び出した相手も朝日向朝陽。それなのにどういうわけか肝心の朝陽が。
ああ胃が痛い。
どういうことなんだ?
「君のお姉さん——えっと朝日向月凪さんから妹の家庭教師をやって欲しいってわざわざ頼まれて」
「でもボクそんなこと頼んでないですけど?」
「は?」
「だってボクここ最近お姉ちゃんとは一度も会話していないし」
「いや、そんなこと言われても俺は頼まれたんだけど」
「え、ボクに言われても……?」
「ちょっと待って。あいつに一回電話してみるから」
「え……今からですか?」
「まあせっかくここまで来たし」
「ま、待ってください。分かりましたとりあえず入れるようにするので来てもらっていいですか? あの電話はしないままで」
朝陽がそう言い終わると自動ドアが開いた。
——念入りに電話をするな、と注意されたのはなぜだ?
理由が分からないままとりあえず俺は朝陽の部屋に向かった。
部屋から出てきた朝陽は月凪そっくりの見た目をしていた。
顔つきはやはり妹と言っただけあって怖いくらい瓜二つの猫顔だ。ただどことなくこっちの方がまだ穏やかそうに見えるし、どことなくだらしない雰囲気もある。
髪は肩まで伸びており全体的にふんわりと浮遊感があり、前髪は長く片方が隠れている。寝起きか、なんてことは言わないでおいた。多分違う気がする。
「えっとお名前は?」
「目黒瑞樹です。先ほども言いましたが家庭教師の件で——」
俺は月凪から朝陽の家庭教師を頼まれたこと、今日挨拶のために向かうことになっていたこと、を手短に説明する。
その最中に朝陽は何か思い当たる節があったのか、耳を赤く染めて分かりやすく頭を抱えていた。
俺が言い終わるとさっきまでの張りつめた表情は崩れ、見るからに申し訳なさが滲み出たように眉をクニュっと歪ませ、バタバタと頭を何度か下げる。
「その、すいませんでしたうちの姉が」
「いや別に気にしていないから」
「えっと家庭教師はしなくていいです。本当にご迷惑をおかけしました」
「え、そうなの?」
「あのボクが浪人生なのは知ってますよね」
「ああうん聞いたけど」
「お姉ちゃんお節介だから心配過ぎて勝手に家庭教師付けようとしたんです。でもボクは一人でやりたいと言うか、別に困っていなくて」
「ええ……マジか」
「すいません」
そう言うと朝陽は深く頭を下げた。
せっかく馴染みのない場所まで来たと言うのにこんな仕打ちかよと文句の一つでも言えばよかったが俺は言わなかった。というよりも言えなかった。
正直、月凪の強気な態度を見ているからだろうが随分とギャップのある可愛げな仕草につい口が綻ぶのをなんとか堪えるので精一杯だった。
謎は残るばかりだが家庭教師の件が片付いてしまえば俺がここにいる理由は一つもない。
俺は帰ろうと背を向けた。
その時だった。
通路の奥から騒がしく駆けてくる人影が見えた——
「朝陽ぃ——!」
通路の奥から大きな声が響く。
朝陽はその声を聞いたのか戸惑ったように、
「お姉ちゃん……⁈ なんで」
お姉ちゃん。
そう言われたあの女子は不思議と朝陽そっくりの風貌をしている。
ただ同じ顔つきだが少し目つきが悪くきりっとした瞳だ。
あれは恐らく——
「月凪……? なんでここに?」
どういうわけか朝日向月凪が台風のごとく勢いを乗せて現れた。
「朝陽、既読無視すんなー!」
「げ! なんでここに来るのさー?」
月凪が全力疾走で駆けて、俺を抜き去るとあっという間に朝陽の上に被さってしまった。
朝陽に逃げる間も与えぬさながら捕食者のごとき運動神経に思わず恐怖心すらも植え付けられた気分だ。
「お姉ちゃん邪魔——!」
「ようやく城に入れたわこのアマテラス妹が!」
「な、なんで——」
「なんでここにいるのかってー? もともと私も行くつもりだったのよ」
「え、聞いてないが?」
俺は思わず口を開いたがすぐに後悔した。
ぎろりと月凪の視線が俺に集中してまるで“余計なことは言わないで”と脅迫されたような気がしたからだ。
挨拶に行って来て、としか言われていないぞ?
というか、そもそもどうなってんだよ!
などと罵詈雑言を交えて聞きたいことが沢山あったのだが俺は口を閉じる。
そのままだんまりとすることを決意して、二人の様子を見守るべきだと本能が察した。
「ちょっと何するのさ——ねえ、お姉ちゃん退けて!」
「あ、待ってまって! 朝陽待ってって——目黒ちょっと手貸して!」
目の前で女子二人がお互いに身体を押し付け合っているという光景のようにも見えるが、実際には肉食動物の捕食シーンなのだ。
変に行動を起こせば待ち構えているのは・死のみ。
とりあえず今は巻き込まれないことが最優先である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます