あの子を知ってる?

 深夜1時。人気のない公園の奥に、その公衆便所はあった。背の低い雑木林の隙間を縫って、ポツンと建っている。


「ここ、入るのヤダな」

「仕方ないだろ、ここしかないんだから」


 外壁はひび割れていて、汚れた白いタイルの隙間に、黒ずんだカビが広がっている。

 街灯は一本だけ。頼りない薄い光が、トイレの入口にだけ、かろうじて届いていた。

 そこから一歩でも奥に入れば、完全な闇だ。中には照明があるはずなのに、点いていない。壊れているのか、あるいは最初から存在しないのか。

 床は嫌な感じに濡れていて、足を踏み出すたびにぬるっとした音がする。壁の隅に溜まった水たまりは、どれも濁っていた。

 古い。使われていないわけじゃないのに、時間が止まったような最悪な空間。

 けれど、我慢できなかった。田舎のコンビニは遠い。家からも少し離れている。

 深夜の集まり、別の場所ですればよかったと今更後悔する。友人たちの怖がらせるような冷やかしも、今はどうでもよかった。


「ちょっと待ってて!」


 そう叫び、個室に駆け込む。

 狭いブース。ドアは妙に重く、軋む音を立ててゆっくり閉じる。内鍵をかけると、カチッという金属の音が、やけに大きく響いた。

 しゃがみ込むと、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。

 便器は和式。すり減ったタイルの床には泥の足跡が重なっている。

 外の音はほとんど聞こえない。やけに静かだった。静かすぎて、自分の呼吸音すら、やけに大きく感じられる。


 ふと、視線を感じた。

 そう感じた途端、急激に首の後ろの皮膚が粟立つ。

 本能的に「見られている」と思ってしまった、理由のない感覚。背後には何もないはずなのに、壁のタイルがじっとこちらを見ているようだった。

 不安になって顔を上げた。目の前──個室のドアと並んだ、くすんだ白い壁。

 そこに、細くて小さな黒い文字が、縦に一列並んでいた。


 ──「あの子を知ってる?」


 なんだこれ。誰かのいたずらか?

 けれど、その文字は妙に新しい。しっかりと黒々としたペンの跡が残っている。そして、明らかに「書いたばかり」だと分かるほど、ペンのインクがまだ乾いていない。何度も触ったように、跡が滲んでいる。

 気味が悪くて、思わず目をそらした。一度目を逸らせば、あの言葉が自分の目に焼き付いて、どこかへ行く気がしない。

 でも、なぜか気になって、もう一度その文字を見た。


 ──「あの子を知ってる?」


 ……いや、待て。文字の横に、何かが書き足されている。さっきはなかったはずの、顔の落書き。笑っている。なんだか、目が異様に大きい。

 一瞬、目の前がぼやけた。目をこすりたくなったが、手が動かない。

 その瞬間、冷たい風が一気に吹き抜けたような錯覚が走った。


「……え?」


 思わず声が漏れた。頭上で「コン」と音がした。

 天井から、何かが這うような音。カリカリと爪を立てるような、乾いた音。


「……誰かいるのか?」


 返事はない。トイレの中は静まり返っている。けれど、視線は強くなる。目の前の“顔”の落書きが、少し、にやけたように見えた。

 暑さか緊張か、気づけば、じっとりと汗がにじんでいた。一歩も動けないまま、ただその顔が自分を見つめているのを感じる。

 そして、


 ──「あの子を知ってる?」


 さっきとまったく同じ文字が、隣の壁にも現れていた。

 気づけば、三面すべての壁に同じ文と、同じ顔の落書き。

 顔が増えてる。

 笑ってる。全部、こっちを見てる。

 怖くなって立ち上がろうとしたとき、ドアの外からノックされた。

 コン。コン。


「もしもし、聞こえてる?」


 友達の声……に、似てる。でも、どこか違う。聞き覚えのない、古びたような声。舌の動きが重い。口がうまく回ってないような、ねっとりしたしゃべり方。


「……あの子を、知ってる?」


 声が、すぐそこにある。ドアの外じゃない。

 息が止まる。

 心臓が鼓動を速め、鼓動が耳に響く。

 その声は、まるで誰かが耳元で囁いているように、直接響いてきた。

 だが、何も見えない。ただ、真っ暗な空間の中で、どこからともなくその声が迫ってくる。声は、じわじわと、自分を包み込んでいく。

 なにか、足元に違和感を感じた。

 ドアの隙間から、目を凝らして見えたのは、床に張りつくように見える、異様に細い手首。

 それは、床にしっかりと吸い付いているような感じで、まるで本物の腕がそこに這い寄ってくるかのようだった。

 恐怖が、背中を冷たい手で握られるように走る。

 何かが動いている。あの細い手首が、確実に動いているのがわかる。

 足元から目をそらすことができず、ただじっと見ているしかない。

 その手首が、ほんのわずかに動き、指先が震えていた。

 その震えが、まるで何かを探しているかのように感じられる。

 その細い手が、ドアの下を滑って、こちらに向かって伸びてくる。

 冷や汗が一気に背中を伝った。

 自分がその手を見ていることで、何かがこちらに迫っていることを、ひしひしと感じる。


「ひっ」


 思わず声が漏れたが、本当に声が出たのかどうかもわからない。

 突然、頭上から大きな音がした。

 ドサッ。

 何かが、重い音を立てて落ちてきた。

 誰もいないはずの暗がりの中で、見覚えのある、あの顔の落書きが、浮き上がっていた。

 その顔が、ゆっくりとこちらに向かって動き始める。

 笑っている。その顔は、あの不気味な笑顔を浮かべたままだ。歪んだ笑みが、暗がりの中でギラリと光を放っている。

 そして、その顔が、どこからともなく伸びた手を、ゆっくりとこちらに伸ばしてきた。


「……知ってるよね?あの子のこと」


 その声が、さらに近づいてきた。

 足音もなく、あの顔の落書きが、無音で迫ってくる。

 体が動かない。どんなに逃げようとしても、足が動かない。

 目の前のその笑顔が、ますます歪んでいく。恐怖が、冷たい手となって、体をがんじがらめにする。

 息が詰まる。目の前の顔が近づくたびに、何かが自分の中で崩れ落ちていくような感覚があった。


「おーい、いつまで籠ってんだよ。大丈夫か?」


 友人の、声。確かに友人の声。本物の友人の声だ。

 ふっと身体のこわばりが緩む。その瞬間、目の前の暗闇から一気に飛び出すように、力を振り絞ってドアを開けた。

 足がしっかりと地面を感じ、なんとか部屋から出ることができた。

 だが、逃げ出す瞬間、自分の視線は扉に引き寄せられていた。その扉の表面に、大きく書かれていた文字が目に入った。


「お前は知ってる」


 その文字が、まるで生きているかのように、目の前でうねるように揺れたのを、確かに見た。

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